西区栄生の「不明社」

以前掲載した「平安山正信寺・津島神社

そこから国道22号線を西に少し歩き「上更東」交差点を左に進みます。

一つ目の交差点を過ぎた右側に民家と工場があります。
 歩道沿いに玉垣があり、民家と工場の僅かな空間に小さな覆屋が建てられています。

西区栄生1の不明社。
 覆屋が少し奥に建つので通りからだとこの玉垣が目印となる。

この神社、不明社としたけれど、どなたかに聞ければ分かったのかもしれないが、炎天下に外を徘徊するのは自分だけ。

 現地や自宅でも色々調べて見たが結局社名や沿革など分からなかった。

境内左の皇紀2600年記念碑(1938年(昭和13)健之)
 神武天皇の即位(紀元前660とされる)から2600年にあたる1940年(昭和15)、当時は長引く日中戦争と資源確保のため、翌年の太平洋戦争に突き進もうとしていた時期。
そうした戦時下で国民は資源不足の統制下におかれ、全てにおいて軍事が最優先されていた。
 「贅沢は敵、欲しがりません勝つまでは」等のスローガンのもと、根底にあったであろう国民の閉塞感を一時的に開放し、戦争に対する国威発揚を図るために各地で行われた国家規模の式典。
軍事輸送最優先もこの時ばかりは、国民の移動自粛が解かれ、明治神宮橿原神宮伊勢神宮など皇室に関係する神社や各地の式典への観光が許されたとされる。
 皇紀2600年記念碑もその一環で各地に建てられ、この碑もその一つ。

この神社の創建はいつ頃か、左下が1932年(昭和7)頃の鎮座地。
 地図だけでを見れば周辺に民家は少なく、それ以前は田畑が広がっている。
そして昭和13年と刻まれた皇紀2600年記念碑から大正末期から昭和初期に祀られたものかもしれない。
 西区は屋根神様が多く、住宅事情から地上に祀られた社もある、こちらは周辺の移り変わりの過程からみると屋根神様ではないのかも知れない。

覆屋としたものの、これは覆屋ではないようで、拝所又は祭礼時の御供を置くための神饌所の様にも見えます。
 境内入口の扉に神紋はないものかと見渡して見るも、特に社名に繋がるものはなかった。

本殿は銅板葺の流造のようで擬宝珠の付いた高欄が付き、両脇の脇障子に繋がっている。
 木鼻や蟇股に飾りが施され、小さいながら手の込んだ本殿です。
供えられた榊は鮮やかな緑をしており、手間がかかる事が多いけれど、地域または個人で大切に護られているのがよく分かる。
 記念碑(1938年(昭和13)が健之された時期からでも約100年、約2世代に渡って継がれて来た神様。

賽銭を投入、どなたか分からないが「万事平穏」で拝んでみる。
 その生立ちは分からなかったが、通りすがりの参拝者にはそれでいいのかも知れない。

不明社
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / 名古屋市西区栄生1-16-2
最寄りの神社 / 


そこからの徒歩ルート / ​国道22号線を西に徒歩5分程
公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅から徒歩20分程