「鵜森神社」​三重県四日市市浜田町

「鵜森神社」は近鉄四日市駅から南に徒歩5分程の鵜の森公園内に鎮座する神社。


近鉄の高架と下を走る「四日市あすなろう鉄道
 四日市から二駅先の日永から八王寺線と内部線の二手に別れ、西日野、内部までを結ぶ。
762 ㎜のナローゲージ(狭いレール幅)の特殊狭軌鉄道で、車体の鮮やかな緑が印象的な可愛い車両が走る。
 写真は262F型、毎時3本程しか運行されていないようで、踏切が降りるのはある意味運がいい。

この踏切から先の突き当りが鵜森神社。

鵜森神社社頭。
 神明鳥居から先のこんもりとした社叢は嘗ての浜田城跡、神社はその中に鎮座します。
敷地周辺は緑豊かな鵜の森公園として整備され憩いの場になっている。

社頭前には複数の常夜灯と狛犬

鳥居をくぐった左の冠木門と浜田城址の碑、16間四方白星兜鉢についての解説。

 「田原藤太秀郷(藤原秀郷)所縁のあるものとして奉納されたと云われ、現在は鵜森神社で社宝として保存されている。
鉢は16枚の鉄板を矧ぎ合わせ半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板を被せた形跡が残る。
 かつての保管箱には「松平相模守 栗田右衛門尉寄進 万治二年一月吉日」と銘があり、袱紗の端には「因幡国住人淵源三郎」という縫文字もあったと云われ、鎌倉時代の特色が強く表されている作品。

 浜田城は室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美作守忠秀が築いたもの。
後に藤綱、元網らが当地を領したが、安土桃山時代天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城」

鳥居の右が社号標、その奥が社務所

鳥居から真っすぐ続く参道左側に手水舎。

参道沿いに鵜の森公園解説や四日市の名所案内がズラリと掲げられている。

こちらはムカデ退治の伝説や浜田城滅亡の経緯など概説が掲示されていた。

藤原秀郷(田原藤太、俵藤太)は三上山で巨大ムカデを退治した平安時代中期の武将。
 後の室町時代に俵藤太絵巻としてその時の様子が描かれている。

大ムカデを退治した秀郷はその褒美に兜を賜ったと伝わると云います。

 それがこの神社の社宝としてに保管されている十六間四方白星兜鉢とされ、国の重要文化財に指定されている。

神社由緒によると鵜森神社の鎮座地は浜田城の旧跡で、文明年代(1400年代)より浜田城主の田原家が代々崇敬した社。

 元は、江田川、江田町等の旧地名に由来し江田神社とも、神社周辺が海鵜の生息地で鵜森大明神とも称し、それが社号となったと伝わる。
地名の「鵜の森」に「の」が入ったのは、昭和の新町名制度に伴い読みやすくするため挿入されたらしい。
 城跡は、1927年(昭和2)に市によって買収され、鵜の森公園に整備され、1964年(昭和31)浜田城跡として市の指定記念物に指定されました。

境内は現在鳥居が立つ東側を除き、ほぼ全周を壕と土塁で囲まれ伽藍が配置され、昭和後期から平成にかけ稲荷社や社務所等配置を変えられているようです。

境内右の田原稲荷大明神と左に鵜森神社拝殿・本殿。

境内左に二棟の倉庫と左側に鵜森神社資料館。

参道左側には皇大神宮遥拝所。

鵜森神社拝殿・本殿。

 切妻瓦葺で軒唐破風が付くもので、現在の社殿は1990年(平成2)に再建されたもので。左三つ巴が神紋。
祭神 / 天照大御神、建速素佐之男命、菅原道真
旧鵜森大明神 / 田原藤太秀郷(タワラノトウダヒデサト)
創建 / 不明(慶長以降~万治以前鵜森大明神として始まる)
旧御霊社 / 初代浜田城主忠秀以下四代の霊。1837年(天保8)別社として創建、1909年(明治42)合祀。

軒の瓦には神紋の左三つ巴が入る。

 鵜森神社扁額、鈴は鈴紐が外されていた。


 拝殿左の由緒と吊灯籠。

 拝殿から本殿方向の眺め。
左に「八十万」と書かれた提灯が吊るされています、これは田原家の紋所で先代赤堀上野介の軍容は常に八十万騎の勢いがある事を世間に知らしめるために用いたとされている。

境内右側の田原稲荷大明神
 鳥居左脇から鵜の森公園西側につながっている。

田原稲荷大明神拝殿・本殿。
 浜田家の鬼門除けの鎮守と言い伝えられ、田原家と深い関係があることから、1995年(平成7)に田原稲荷大明神に改称されたそうだ。

過去境内にあった稲荷社、菅原社、御霊社の中では最も古いとされる。
 祭神 / 猿田彦命保食神、大宮能賣命

田原稲荷大明神扁額、こちらも鈴はあるが鈴紐は外されていた。

 田原稲荷大明神の右側の庖丁塚。役割を終えた包丁の供養塔。

 境内左側の土塁の名残、浜田城の遺構は少なく、こうした土塁が残るのみ。

鳥居に戻り左側の冠木門方向に進むと二つの石碑がある。

 上が鵜森神苑の石碑。
下が浜田城址の碑。

鵜の森公園から冠木門の眺め。
 門自体は城や神社と所縁はなく、105年に渡って栄えた城を後世に継承するため有志により建てられたもの。
浜田城は、室町時代の1470年(文明2)、赤堀城主田原孫太郎景信の三男、田原美作守忠秀によって築かれ、紀伊守藤綱・遠江守元綱・与右衛門重綱まで四代の居城。
 本家の赤堀家を含め赤堀三家の祖先は、田原藤太秀郷であるとされ、田原孫太郎景信が応永年間(1394~1428)上野国赤堀庄から伊勢国栗原の地に移り、ここに築城して地名を赤堀と改めたと伝わる。
その後、長子盛宗を羽津に、次子秀宗を本家赤堀に、三子忠秀を浜田に配し、赤堀三家がこの地を支配するようになりました。
 初代城主美作守忠秀は、現在の鵜の森に築城しそれまで浜田城の西方を南北に通っていた東海道を城の東側に移し交通の便を図りました。
また、市場の整備も行うなど殖産振興にも努めた結果、16世紀半ばには市場も整い、毎月4日、14日、24日に定期的に市が開かれるまでに栄え、以来これが「四日市」と称され、地名の起源ともなったという四日市繁栄の開拓者とされる。
 1575年(天正3)織田信長の武将瀧川一益の浜田城を攻めで105年にわたる浜田城は幕を閉じ、浜田家は滅亡の道を辿ったが、この地の礎を築いた浜田氏は今も地元から慕われている。

田原稲荷大明神から西に進んだ先の鵜の森公園から浜田城址の眺め。
 市内にあって緑豊かな樹々が生い茂り住民の憩いの場になっている。

鵜森神社
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神、建速素佐之男命、菅原道真、田原藤太秀郷、初代浜田城主忠秀以下四代の霊
田原稲荷大明神
創建 / 不明
祭神 / 猿田彦命保食神、大宮能賣命
浜田城址
築城 / 1470年(文明2)
城主 / 田原美作守忠秀
訪問日 / 2022/06/10
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