以前掲載した八幡社から西へ5分程。
庄内川堤防の一部を切り取り小さな堂が建てられています。
そこが今回の目的地「子安地蔵尊堂」です。
上は周辺の寺社、赤いマークが子安地蔵尊堂。
ここから北は庄内川が流れ、堤防沿いに県道106号線が伸びています。
子安地蔵尊堂全景。
庄内川の堤防法面の一部を堂の敷地として与えられています。
左右、後方をコンクリート擁壁で囲まれ、敷地自体が堤防の一部となっています。
左に子安地蔵尊の石標があり、その奥に比較的新しい切妻瓦葺の堂が建っている。
境内は綺麗に清掃され、お地蔵様が安置される堂内も良く手入れされている。
後方左の堤防上の建物は中島黒體龍王大神社。
堂内には一体のお地蔵様が安置され、背後に由緒が掲げられている。
堂内に子安地蔵尊移転新築の沿革が掲げられていた。
「平成27年度枇杷島橋上流左岸の堤防拡張工事により、昭和28年8月8日に改築された地蔵堂の移転が余儀なくされ、南へ約19㍍の当位置(西区枇杷島2丁目2411番の河川占用許可地)に地蔵堂を新たに建立する。
平成28年3月27日、「清音寺」住職により新地蔵堂の落成法要と町内会記念行事として新築を祝う。」
これによれば現在地の北側に鎮座していたと伝え、現在堤防上に鎮座する中島黒體龍王大神社の東付近に祀られていたようで、堤防上から住民により近い堤防下に移されたようだ。
上は忘れもしない平成12年(2000)9月11~12日の東海豪雨の時の当地の写真、そこに子安地蔵尊と堤沿いの神社を表してみた、黄色は既に訪れたもので赤が子安地蔵尊。
堤防沿いに続く県道106号線は水没しその水面は越水寸前まで迫っている。
沿革にあった左岸の堤防拡張工事はこの事象が決定的となったと云ってもいい。
尾張枇杷島子安地蔵大菩薩由緒は以下のようだ。
「寛永年間(1624~1644)、尾張徳川藩の重臣の夢枕に地蔵菩薩が現れ、地蔵菩薩を建立するようお告げがあり、祀られたのが始まり。
この地に鎮座し参百有余年を経て、この間数々の不思議な瑞祥が起った事から人々から敬われた。
特に子供に関する願い事は何でも成就して頂け「安産・母乳・子供の夜泣き、よだれ・寝小便」等に関する願いに霊験あらたか。
昭和20年(1945)3月25日当地一帯は空襲に見舞われ、一帯は焦土と化したが地蔵尊とその堂だけは無傷で残り、周辺の町民から吉兆として喜ばれた。昭和28年8月8日改築」
終戦迫る絶望と不安の最中、この地蔵は住民の地元復興に向けた希望になっただろう。
お地蔵さんの表情は実に優しい表情でにこやかな笑みを浮かべたもの。
悩みがあれば一人で考え込まず、雑念を払って手を合わせると出口も見えてくるものだ。
出口を開けれるのは水晶玉ではない、自分の行動しだい。
子安地蔵尊。
由緒からすればこのお地蔵様は寛永年間(1624~1644)に奉納されたもの。
左手にそっと抱きかかえる子の姿がある、親として育児に悩んだ時期は経験している。
当時は苦痛だったが振り返って見れば僅かな期間だった、子育ても長く苦しいようだが巣立って見れば短くもあり、それを上回る喜びも与えてくれる。育児に悩んだらそっと抱いてやろう。
夜泣が止まず夜中に町内を車でひと回りした事もある、当時このお地蔵さんを知っていれば相談にきていたかもしれない。
子育て以外にも地元に住む人々の多様な悩みを4世紀に渡り聞き入れて来たお地蔵様です。
子安地蔵尊堂と庄内川法面。
庄内川堤防南側の法面の小さな堂の中から住民を見守り、庄内川の氾濫を鎮める様に佇むお地蔵様だ。
子安地蔵尊
建立 / 寛永年間(1624~1644)
安置仏 / 子安地蔵菩薩
所在地 / 名古屋市西区枇杷島2-24-15
八幡神社より徒歩 / 美濃路沿いに西に向かい徒歩5分
参拝日 / 2022/07/27
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