前回掲載した「湯の街通り界隈」の高札から阿多野川を渡り交差点を直進します。
直進とは云うものの微妙な上り坂が続きます。
交差点の前方に杉の杜が見つかれば目的地の森 水無八幡神社です。
後はあの巨木の杜を目指せば辿り着けるはずです。
緑豊かな下呂とは云っても旅館や民家が立ち並ぶ市街にあって貴重な存在かも知れない。
歩いて行くと決めた今夜の宿、ここはその道程の途中に鎮座する神社、参拝しないのも失礼だ。
杜を目指して進むと社殿の建つ境内に至ります。
社頭はその下の松原通りに接しており、そこには石の明神鳥居を構え、その先の石段から社殿に続く。
前の通りを左進めばチャップリン像に続きます。
社頭全景。
右手に「水無八幡神社」社標と左に「下呂 田の神祭国重要無形民俗文化財指定」の石標。
その後方の常夜灯脇に一対の狛犬が石段入口を守護する。
石段前の狛犬(年齢不明)。
なかなかバランスの良い姿をしている。
鳥居扁額「水無八幡神社」
杉の巨木の社叢は県の天然記念物に指定されていると云う。
上
鳥居脇の森八幡神社文化財解説。
「木造神像
国指定重要文化財 昭和15年10月21日指定
本神社の収蔵庫には10体の木造神像が保管されています。
神像は像高30~60㌢で平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠により彫られました。
神像は風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重なもの。
踊り子と呼ばれる4人の若者が色鮮やかな花笠をかぶり舞を披露することから、「花笠祭」とも云われる。」
花笠祭と呼ばれる由縁が見て取れ、近隣の各組から選出された踊り子は、下呂温泉合掌村の池で禊を行った後、踊りながら森 水無八幡神社までやってくるそうだ。
下呂市街、散策していても以外に木陰が少なく涼を求めるには絶好。
しかし外壁にあたる幹の一部と、地上5㍍程から出て高さ12㍍程にのびた一の枝は青々と茂り生き永らえていた。
枝とはいえ直径50㌢をこす太さであった。
現在、大杉の立っていた跡に二世の若木が植えられている」
左側に嘗ての大杉の姿が添えられている、巨木が多い境内にあって杜の主らしい風格が漂う存在だったようだ。
傍らに「天然記念物下呂之大杉跡」の石柱が立てられています。
話は脱線しますが、二度の大火に見舞われたこの杜は概ね杉が主となっています。
青々とした緑の杜は枯れ葉と違い燃え難いイメージがありますが、樹脂を多く含む針葉樹は生木でも燃えやすいのでキャンプの際は要注意です。
逆に燃え難いとされるのがイチョウ、寺社の境内で見る機会が多いのもそうした性質と食べられ事から植えられることが多いようです。
収蔵庫。
境内左にあり、この中に社頭の解説にあった重要文化財の10体の木造神像や棟札が保管されている。
森 水無神社拝殿全景。
境内の伽藍は正面の拝殿、幣殿、本殿の他、本殿右に稲荷社、その右に入母屋校倉造の社が主な伽藍。
水無神社と云うとここから高山方面に車で小一時間程の飛騨國一之宮のイメージがあるが、下呂で水無神社に出会うとは。
飛騨國一之宮の水無神社から勧請されたものと思われますが、境内で由緒を見かけなかっ事からさだかではない。
斐太後風土記に森水無神社について記述があったので一部を引用させてもらいます。
・益田郡下呂郷森町八幡宮の古昔は道祖神の社だった、後世湯之島村の山の上の稲荷社の鎮座する当地に遷し祀った。
・往古は松森水無八幡宮とも呼ばれ、境内1反6畝歩の境内除地、境外田畑3反7畝14歩の境外除地を有した
・祭禮は毎年正月14日で是を田神祭と云う。
・下呂郷、湯之島、森村、小川、少ヶ野、門原の五村の氏神。
・別当は森村の禅寺泰心寺で、森村に移り住み昔大名だったとされる田口玄蕃掾が古くから神事を司っていた。
それ以外としては以下が分かった。
1907年(明治40)、神饌幣帛料の供進指定を受ける。
1909年(同42)近隣の11社を合併合祀した。
創建に繋がる明確な記述は見つけられなかった。
社標は水無八幡神社、解説は森八幡神社、Gマップでは森水無神社、どうしたものか、取り敢えずここでは森(町の)水無八幡神社としておこう。
幣殿の奥に輝く鏡、その奥に本殿の姿が見えるが細かなところまでは分からなかった。
参拝を済ませ社殿側面に回り込んで見よう。
祭神 / 須佐之男命、猿田彦、応神天皇、御食津神、倉稲魂命、事解男命、早玉男命、大山祇神、火産霊神、大己貴命、埴山姫命、興津彦命の12柱。
小さな狐が複数安置されている。
※夢夢疑う勿れ
左は金比羅様の願い石だけに、これは金比羅神社か?
この後方にも樹齢を重ねた杉の巨木が聳えている。
この社の右に大きなシャッターを供えた蔵?がある、神輿を納める堂だろうか?
森の水無八幡神社、大きな杉の杜に包まれた境内は散策する者に心地いい日陰を提供してくれる。
森 水無八幡神社