白川郷其の5
天龍宮から北に徒歩5分ほど先にある神田家に向かう。
上が神田家までのルート。
天龍宮から明善寺に戻って北進するも良し、直進し小さな沢に出会ったら沢沿いを下って行くも良し、小さな集落なので遠回りしても僅かなもの。
合掌集落と田んぼ、稲穂はお辞儀をする時期を迎えていた。
間もなく収穫の時期を迎える。
神田家入口の眺め。
白川郷地内の集落は見学可能な施設には案内板や行き先表示が整備され、メジャーな施設を巡る分には迷う事はない。
裏を返せばそうした表示や屋号が無ければ無断で立ち入りれないと思っていた方が賢明。
見学施設とプライベートエリアの境界が保たれないのだろう、立ち入り禁止看板が目に付く。
看板は田んぼのあぜ道まで置かれていたりする。
神田家全景。
四層構造の合掌造りで一階は居住空間、中二階には寝室、2~3階は御蚕様の作業場、4階は物置スペースとして使われていた。
神田家は白川郷で名主や関守を歴任した和田家から文政年間(1818~1829)に和田家次男の佐治衛門が分家した事に始まる。
白川八幡神社の神田だったこの場所に屋敷を構えたことから、神田を苗字として吉右衛門を代々襲名したと云う。
この建物は江戸時代後期に石川県の宮大工により、10年の歳月をかけて建てられた木造家屋で、当時の人の英知を結集して建てられたもので、後にこの地を訪れたドイツ人建築家ブルーメ・タウトに云わせると「合理的、論理的で独特の構造」と高く評価したという。
築後200年とは思えない誇るべき建造物。
神田家玄関の左に鎮座する小さな鞘殿「龍神さま」
神田家受付の方にお聞きしたところ、神田家建築時にこの地にあった龍神さまをここに移設したという。
なので200年前からこの辺りに祀られていた事になる。
入母屋銅板葺の妻入の鞘殿。
床は束で高く上げられ積雪を考慮しているようだ。
扉は開け放ち風を取り込み、日々開け閉めされているのだろう。
中には流造の社が祀られ扉も開けられていた。
そこには光り輝く鏡と天照皇大神の御札が見て取れる。
神田家解説では龍神さまとお聞きしたが・・・
神田家玄関先から眺める龍神さま、一説には白蛇が祀られていると云う。
右手に小さな池があり、それとなく龍神さまらしい佇まいがある。
池と云っても止水の濁った水ではなく、常に水が流れ込み澄んだ水を湛えている。
集落には森がもたらす恵みの水が流れ、澄んだ流れには鱒や鯉が放たれ暑いときには涼を与え、田を潤している。
神田家入口の案内板。
入館料400円で最上階まで見学できる。
囲炉裏端。
合掌家屋の中心的空間「おえ」
やさしい色合いでゆらゆら燃える炎。
毎日がキャンプ気分か。
焔硝土。
江戸時代、この地では一階床下を利用して、人尿や蚕糞、野草などを配合し、微生物のはたらきを利用し火薬の原料となる焔硝(硝石)がつくられていた。
全ての材料は自給でき、今でいえば廃棄物をリサイクルし貴重な現金収入を得ていた。
建物もそうだが、廃棄物を利用し、エコな生活スタイルを実践してきたのが合掌集落かもしれない。
陸の孤島ともいえる山深い集落だからこそ、生活する上の知恵が醸成されるのかも知れない。
明治時代から昭和40年まで実際に使われていた☎。
物を大切に使い込んでいくのもエコのひとつ。
話は脱線して。
15年以上使い込んだ斜めドラム式洗濯機の水位センサーが寿命を迎え、水位が分からなくなったようだ。
センサーを代えれば復活するのだが・・・部品が手に入らない。
部品一つ如きで一式代えなければならない、部品に互換性を持たせることは出来ないのかね。
火見窓。
中二階から囲炉裏を確認するための覗き窓。
年中、囲炉裏の火を絶やせないので、火に弱い茅葺屋根の集落を守る意味からも必要な窓なんだろう。
上は二階、下は三階から外の眺め。
主に養蚕の作業場となるスペース。
こちらの床も黒光りして暗い室内に外光を取り込んでいる。
最上階。
暗さにも慣れて来たぞ、窓は遂に一つとなった。
煙抜きの窓から眺める外の景色は結構下にある。
暗さに慣れてくると、普段の生活で昼間の様に明るい照明は過度に明るすぎるのかと感じてくる。
こうした小さな照明で事足りる部屋もある様に思える。
神田家を後に北に向かう、写真のムクゲが咲き誇る合掌家屋は白川村消防団 中部分団第四班後方の合掌家屋。
ここから更に北に向かいます。
龍神さまと神田家
龍神様
創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神
神田家
建築年度 / 文政年間(1818~1829)
所在地 / 岐阜県大野郡白川村萩町796