『日吉神社』名東区上社2

「萬松山 観音寺」を後に一路北に向かい、東山通りを越え日吉神社に向かいます。

上は昭和43年(左)と右がほぼ現在の上社。
 日吉神社は赤のマーカーになります、明治、大正の地図の方が周辺の変貌ぶりはよく分かるかもしれないが、この当時でさえ山が切り開かれ急速に宅地化が進む周辺の様子が見られ昔の面影が残る。

地下鉄東山線の高架沿いに日吉神社の鎮座する上社駅方向を眺める。
 下の流れは植田川、地下鉄はこの辺りは上を通る。

名東区上社2に鎮座する日吉神社社地。
 写真は南東側角から社地東側と南側の眺め、正参道は左に進みます。

日吉神社東参道の鳥居。
 寄進されたのが最近なのだろう、緑の杜を背景に白い姿が浮き立っている。

 明神鳥居の笠木上部に三角形の屋根が付く鳥居、山王鳥居と呼ばれ、仏教の胎臓界・金剛界神道の合一を表し山王信仰の象徴とされる。
この山王鳥居は社地西側の西参道にも立っています。

 京から見て表鬼門にあたる比叡山の東山麗に鎮座する日吉大社、これから紅葉が深まっていくと綺麗な神社ですが、こちらが朱の山王鳥居で知られます。
日吉神社周辺には往古、藤森と下社の二つの城がありました、それらの鬼門、裏鬼門除けとして建てられた?そんな気にすらなってくる。

南側の正参道社頭。
 上社のなだらかな丘陵地、宅地開発で住宅地となった現在でも緑濃い社叢を残している。

社頭から参道。
 左に由緒、右に社標が立てられ、石の明神鳥居から社殿へは石畳の敷かれた参道を進む。

由緒
「当神社の創建年代は詳かではない。
 祭神は大山咋神大己貴神、元官幣大社日吉神社の分霊を勧請して土地開拓守護神とした。
元禄7年(1694)上社村覚に「氏神山王権現森村より西北に当り云く」とあり既に鎮座していた。
 明治44年(1911)当村八郎に鎮座の元官幣中社貴船神社の分霊である罔象女神を本社に合祀。
昭和40年氏子の奉賛により社殿改造を行い社頭の面目を一新。
 古来よりこの地域の氏神と尊崇され「日吉山王さん」と親しまれ、農工商の恵みの神として神徳あらたか。 上社鎮護 日吉神社

名東区史跡散策路の概説は以下。
 「江戸時代は山王権現と呼ばれた。区画整理により周りの環境が変わった中で、境内はかつての丘陵地の姿を残しています」

古くから上社の変貌を見続けて来たこの地の氏神様。

往古から上社の丘の頂に鎮座する日吉山王さん。
 石の明神鳥居は昭和38年(1963)に寄進されたもの。
常夜灯の立ち並ぶ石畳の先にはニノ鳥居を構えている。

ニノ鳥居は朱の両部鳥居。
 いつ見ても優雅な姿だ、鳥居額束はあるが神額は架けられていなかった。

ニノ鳥居前を守護する狛犬
 鳥居の先の石段を上ると社殿が見えてくる。

西参道から見る社殿全景。
 南側一面に石垣が積まれ、さながら城か館のような佇まい。

東参道から見る社殿全景。

 境内は石畳が敷かれ、中央の石段以外にスロープが用意され足が不自由な方でも家族と共に参拝が出来る。

石段を上った左に手水舎があるが・・・お休みだ。

拝殿全景。
 切妻瓦葺の平入拝殿で派手な意匠はなく、木の温もり漂う落ち着いた佇まいのもの。

Wikiによると
「1813年(文化10年) - 刀比羅社を勧請。
1865年(慶応1年) - 御嶽社を勧請。
1865年(明治1年) - 神仏判然令で日吉社と改称。
1878年明治11年) - 大山祇社が境内に移された。
1909年(明治42年) - 下の森(愛知県愛知郡猪高村大字上社字八郎84)にあった貴船明神(現存の貴船神社とは異なり、現存しない)の罔象女神が合祀される。
1965年(昭和40年) - 日吉神社と改称。」

とあったが・・・ここは由緒書きを尊重した方がよさそうだ。

拝殿前の狛犬も明神鳥居と同時期の昭和38年(1963)に寄進されたもの。

拝殿。
 光り輝く鈴、鈴紐は下ろされていなかった。

拝殿幕の神紋、こちらも日吉大社と同じ二葉葵のようだ。
 境内のお願い…ではなく、左の滲んでしまった解説、徳川家家紋として知られるけれど、意外に実際の二葉葵は見ることが少ない。
写真が入ると「あぁあれかぁ」となるのだが。

拝殿から幣殿本殿方向の眺め。

拝殿左の「奥の院 御嶽山ゆかりの霊場」の解説。
御嶽信仰の歴史は平安時代に起った民間信仰山岳信仰が結びついたもので江戸時代に広く庶民に浸透していった。
 かって日吉神社奥の院」の頂からは鬼門、丑寅の方向に霊峰御嶽を望むことが出来た。
言い伝えでは氏子中による御嶽信仰の始まりは日吉神社創建当時、江戸時代初期の事。
 「伊勢に七度、熊野に三度、日吉御嶽百度詣り」という言葉が残ると云う。
中略
奥の院までの石段は48段、四苦八苦で階段を登ると頂には氏子中を守り続ける「霊神碑」と「神石」が坐す。
 「神石」は御嶽山頂の御嶽神社から拝受されたもので、先人達が担いでこの地にもたらしたもので「勇者の碑」とも呼ばれる。
神石は「足の碑」、「勤勉の碑」と呼ばれ崇められ、石に触れ記念する事で御嶽明神と信仰を守り続けた先人からの加護があると信じられている。
 並んで坐する「霊神碑」は「神石」を持ち帰った先人達のもの。
日吉神社社格は高く、社郷の鎮守社で、祭神大己貴神、命がけで氏子中の安寧を願った先人達の魂に溢れた霊験あらたかな神社である。」

 奥の院へはこの解説板の左にある赤い鳥居から上っていきます。

その前に写真の境内社を参拝。
  玉垣に囲われ、一面石畳が敷かれた一画。

 左から金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社御嶽神社の4社が整然と祀られている。
Wiki情報の1813年(文化10年)に勧請された「刀比羅社」がこの金刀比羅宮にあたるのだろう。
 御嶽神社の勧請は1865年(慶応1年)、大山祇神社遷座1878年(明治11年)でいいのだろう。
報國殿の建立は定かにはならない、境内社後方に石標が立てられていたがそこに何か書かれているのかも知れない。
 因みに手前の燈籠は昭和42年(1967)の寄進。

奥の院へ続く朱塗りの鳥居。
 四苦八苦の石段が始まる。

奉納鳥居の手前に大正3年(1914)の石標が立っていた。
 四苦八苦の石段には手摺も設置されている。
石段を上りたくない向きには、右からも奥の院に続く参道が用意されている。

奥の院境内。
 斜面の頂にあり、ここから北側は高層住宅と樹々が覆い眺望は遮られているが、宅地化前は北側に御嶽山が望めただろう。

鍬神社。
 小さな切妻の覆屋の中には社と金属と木製の鍬の先端が安置されていた。

鍬神社右に不動明王
 年代は不明ですが頭部から上は欠け落ちていた。

鍬神社左の「神石」
 往古の先人達が人力で持ち帰った御嶽の岩。
こちらに触れると知恵と勇気、健脚の神徳に授かれるという。

左は「刀利天宮」で右側に霊神碑が立ち並ぶ。

右川の境内にも山丸三の紋が刻まれた複数の霊神碑が立てられている。

奥の院から南の眺め。
 南の遠景は…地下鉄と高速の高架が横切り眺望は望めないが、眼下に日吉神社の伽藍が良く見下ろせる。

奥の院参道から見る本殿域。
 銅葺屋根の流造で外削ぎの乗せ千木に3本の鰹木が施されている。
本殿前で陶器製だろうか、小さな狛犬が守護しているが姿を見せてはくれなかった。

日吉神社
創建 / 不明
祭神 / 大己貴神罔象女神大山咋神
境内社 / 金刀比羅宮、報國殿、大山祇神社御嶽神社、鍬神社、刀利天宮
祭礼 / 7月天王祭本祭、10月15日秋の大祭
所在地 / 名古屋市名東区上社2丁目45-1
参拝日 / 2022/09/08
公共交通機関アクセス / ​地下鉄東山線上社駅から徒歩5分
観音寺から徒歩ルート / ​​北へ徒歩10分​​
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