波多神社(松本市波田)

阿禮神社から北の梓川方向に向かい、泡の湯を目指す。
 ここまで来ると宿の到着時間も見えてきます、チェックインにはまだ早く、時間調整で松本市波田の波多神社に参拝する事にした。

国道158号線から南に一本入ると収穫時期を迎えた稲田が広がる。
 田んぼから波多神社・旧西光寺山門のある小高い山を眺める。

国道から細い道を分け入り、赤い山門のある波多神社駐車場に辿り着く。
 駐車場は右手にあります。

駐車場付近にあった上波田地区の歴史。

室町時代、小笠原氏が波多山城と西光寺内城を構築、城下にあたる上波田地区は街割りがなされ、旧野麦街道沿いに城下町が広がっていた。
 江戸時代になると上波田村は若澤寺を中心として栄えた。
当時、この寺は水沢地籍にあって「信濃日光」と称され、景観や寺観の壮大さは近在に留まらず全国からも参拝者が訪れた。
 明治4年(1871)、若澤寺は松本藩の廃仏毀釈により取り壊され、建物も周辺の寺に移され、現在は石垣などを残すのみ。
波田地区にある国重要文化財「田村堂」・県宝「仁王尊」も若澤寺の遺物で上波田地区を語る上で若澤寺は切り離せない存在。
 江戸時代に繁栄したこの地区では、若澤寺への参拝の通行の他、飛騨に通じる「野麦街道(現国道158号)が整備され、町の中心は国道沿いにへと移り、旧野麦街道沿いの集落として上波田地区には古い街並みが残されている。」

往時の信濃日光は廃仏毀釈に翻弄された地区なのかもしれない。
 今は静かで長閑な山間集落の印象でしかない。


駐車場から望む波多神社。

「波多神社。
所在地 長野県松本市波田字上波田青木原
 由緒
康治2年(1143)、紀州牟婁郡有馬より熊野大権現二柱の神「家津御子大神」と「事解男大神」を勧請合祀。時代は平安末の鳥羽院政期に相当する。
 「尊卑文脈」によれば、清和源氏 源 頼清嫡孫に村上判官代 源 為国の弟 源 盛国は、号を畠判官代と名乗り筑摩群畠郷の領主で、青木原に初めて熊野権現を勧請したとされる。
波多神社境内南側のコナラの大木は樹齢800年を越え、特別天然記念物として松本市文化財に指定。
 「地元文書」には波多神社に熊野権現四柱の神を勧請し、六柱の祭神を祀ったのは室町時代の永正17年(1520)庚辰弥生廿八日辰剋。
祭主は小笠原氏の四天王 櫛置紀伊守政盛。
 神主は36世森井仙大夫 藤原利久。
願主は畑里中。
 大工は木曽宮越 川原地 藤内。
この時現社殿が建築され、その後修復を受けて来た。

御祭神(六柱)
家津御子大神、伊弉諾大神、速玉男大神、熊野牟須美大神、事解男大神、天照皇大神
境内摂社(末社)
北側社 : 神明社、八王子社、山の神、天神社
南側社 : 水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神」 

創建は定かではないようですが、奈良時代初期の神亀5年(725)に勧請されたとも云われます。

波多神社社頭全景。
 正面に社殿、右に社務所、鳥居をくぐった右に手水舎が主な伽藍。
社殿は見上げるばかりの杉の樹が包み込んでいる。

波多神社鳥居扁額。
 判官代は畠、神社は波多、所在地は波田、繋がりがありそうだ。
境内右側に手水舎。

拝殿は木造切妻の平入で正面の1間に唐破風向拝が施され、外壁は板張り。
 拝殿右に渡廊が接続し社務所に繋がり、左に末社が祀られている。

年代不明の狛犬

拝殿左の鳥居には「末社」の額が架けられている。
 由緒に依れば南側には水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神の四社となっているのだが…

ここから本殿域を一周。
 本殿は流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
本殿域は砦の石積みの様に石が積まれその上に瑞垣が取り囲む。
 雪深い場所だろうが特別に雪囲いらしき養生はされていない、この杜か雪囲いの役割をしているのだろうか。


本殿後方の杜の中に小さな覆屋があり、中の石標に「摩利支天」と刻まれていた。

北側に小さな鞘殿があり、石の明神鳥居と常夜灯を構えている。
 由緒では神明社、八王子社、山の神、天神社が祀られているはず。
足元のガサガサが気になりこれ以上は進まなかった。

何気に立ち寄った波多神社、長い歴史を持った波田地区の氏神様だ。

波多神社
創建 / 752年(神亀5年)
祭神 / 家津御子大神、伊弉諾大神、速玉男大神、熊野牟須美大神、事解男大神、天照皇大神
境内社 / 神明社、八王子社、山の神、天神社、水神社、大黒社、諏訪社、戸隠明神
所在地 /  長野県松本市波田4751
阿禮神社から車アクセス / アルプスグリーン道路経由県道25号で​移動時間約40分
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