専修寺 名古屋別院 (西区那古野1)

名古屋市西区那古野1

 淺間神社社地の北側を左に折れ、二筋目を右に進んだ左に鎮座する「専修寺名古屋別院」
上はこれまで巡ってきた近隣の社寺、赤で示したのが専修寺

落ち着いた佇まいの薬医門とそれに連なる塀を構え、右手に「真宗高田派愛知別院」の寺標(1936)が立つ。

薬井門正面から本堂の眺め、左には鐘楼がある。

門の右手の解説。
真宗高田派 専修寺名古屋別院
明暦3年(1657)当地に建立。
 当初信行院と称したが、宝暦4年(1754)専修寺愛知別院と改めた。
荘厳な威容を誇っていた本堂は戦災で焼失、山門・鐘楼は創建当時のものを今に残している。
 大晦日の除夜の鐘は近隣の人々によってつかれ、その昔は界隈に響きわたる。」
山門と鐘楼に比べ本堂が新しく感じるのも戦災後に再建されたからか。

 尾張名所図会に往時の高田本坊の姿が描かれていた。

描かれた当時と現在の山門、鐘楼の位置に違いはあるものの、規模の大きな伽藍だったのが偲ばれる。
 この辺りは清州越し後に整った地域、後に東区の徳川園建立(1695)の替地として充てられたされ、解説からすると僅かな期間で伽藍は移されているようです。


真宗高田派本山の別院解説によれば
「替地町西側に在り。
 境内516坪75、 徳川時代年貢1反77、三重県一身田町専修寺別院なり。
元臨光山信行院と号し、皆戸町に在り。
 正保4年(1647)専称院義起玄怒(元禄5年5月没)の創建なり。
明暦3年(1657)今の地に移す」
 と紹介されています。

専修寺HPでは以下の様にも記されていた。
「神社誌、府誌では元正万寺町、東本願寺順正寺と号した。
 明暦3年に此の地に移り、臨光山信行院と号した。
享保9年(1724)火災に依り一時は無住となる。
 後の元文年中(1736~1741)に再興、歓喜心院宮円猷上人の許可を得て、高田本坊と称した。
万延(1860~1861)の頃、専忠義宜は在職17年の長きに亘り本坊興隆に尽くし、明治初年に書院、庫裡を建立し、下野高田山の一光三尊仏の出開帳を行い未曾有の参詣であった。
 本尊阿弥陀如来立像は恵心僧都作と伝えられる。
その後、昭和20年(1945)1月、戦災により山門、鐘楼堂、土藏、水屋を残し焼失。

昭和27年(1952)10月、本堂、庫裡が再建された」と記されている。

専修寺の落ち着いた佇まいの薬井門は、円頓寺商店街に続くこの筋の顔と云ってもいいだろう。

 木鼻など人目を引く彫飾りはないが、妻壁には巧みな彫りが施されていた。

本堂全景。
 境内は正面の本殿と左に寺務所、庫裡。

境内左に手水舎と鐘楼。

シルエットになってしまったが、入母屋瓦葺の鐘楼。

門に対してこちらは各所に彫飾りが施されている。
 梵鐘は戦時中に供出され、現在見るものは昭和36年(1961)に再鋳されたもの。
毎年周辺住民によりつかれる除夜の鐘が名古屋の玄関口に鳴り響くという。

本堂は瓦葺の切妻、軒先に向拝が付くシンプルな外観。

向拝の木鼻の象と軒先で躍動感のある唐獅子が跳ねている。

専修寺 名古屋別院
宗派 / 真宗高田派
山号 / 高田山
創建 / 正保4年(1647)
開山 / 専称院義起玄怒
本尊 / 阿弥陀如来立像
所在地 / 名古屋市西区那古野1-20-5
公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」降車北に10分程
関連記事 / 

淺間神社から徒歩ルート / ​移動時間徒歩5分