前回掲載した臼杵石仏§1 ホキ石仏第2群から第1群からの続きになります。
今回は山王石仏から古園石仏となります。
ホキ石仏第1群から山王山石仏までは100㍍の緩やかな上り坂。
前方を見上げると木々の間から山王山石仏の覆屋は見える距離、時間にして2~3分程の距離です。
上は観光マップ、3.4に向けて山道は左に大きく弧を描き、曲がり切った山の斜面に山王山石仏の覆屋があります。
山王山石仏覆屋。
手前右に山の頂に続く石段が伸びています、これは日吉社へ続いています。
山王山石仏覆屋全景。
覆屋は山の斜面の巨岩に彫られた摩崖仏全体を包み込む様に建てられている。
臼杵石仏の中にあって唯一石段を上って拝む場所、歩道から摩崖仏は仰ぎ見る視線になる。
覆屋内は中央に大きな釈迦如来坐像、脇尊として小さな如来坐像が彫られている。
平安後期にかけて造形されたものとされます。
二体の脇尊は隠れ地蔵とも呼ばれるそうです、理由は定かではないけれど、覆屋に続く急な石段の下から見上げる摩崖仏に二体の像の姿は拝めない、そんなとこから来ているのかもしれない。
中央の釈迦如来坐像。
向かって左の阿弥陀如来坐像。
向かって右の薬師如来坐像。
三像は何れもやや幼い表情で、薄っすらと紅が引かれ、僅かに笑みを浮かべている様にも見えてくる。
見え方は捉える者の心情で変ってくるものかもしれない。
彫り込まれた岩肌に残る鑿跡には、情熱とか薄ぺらな言葉では形容しがたいものを感じる。
山王山石仏から先に向かうと日吉神社の明神鳥居が現れます。
ここから手前の臼杵石仏公園、その先の満月寺など深田の里が良く見える。
左に視線を向けるとその先にホキ石仏第2群の覆屋の全容が一望。
鳥居から山の頂に向け苔むした長い石段が続き、その先に日吉神社が鎮座します。
こちらは後程参拝する事にして山王山石仏に向かおう。
鳥居から山王山石仏の覆屋は直ぐ先です。
覆屋手前に臼杵古園石仏の石標があり、その後方から岩盤が覆屋に向け露出している。
石標と古園石仏保存修理工事概要。
この古園石仏はもともと仏像下半分に岩がなかった事もあり、地下水が常に浸みだす湿潤な状態だったと云う。
これに依る苔の繁殖が風化を速めた要因の一つとされる。
1991年から1993年の3ヵ年で摩崖仏の保存修理が施され、龕部全体に樹脂を浸透させ石質硬化が図られ、苔の除去、地下水排水、割落した仏像片の復位などが行われた。
並行して1992年から2年がかりで覆殿が建設され、現在の姿に至っている。
修復が施される前の古園石仏の姿。
崩れ落ちた頭部が置かれている姿は痛々しいものがある。
観光センター前の祠に安置されていた石仏の頭部、この姿を現しているのだろう。
石標を過ぎると最初に見えるのが国宝の金剛力士像。
右の像は増高が257㌢、左の象は249㌢と大きなもので、右の像は金剛力士と識別できる。
左にあると云う金剛力士像は、自分の目には識別できず姿が分からなかった。
右側の金剛力士像。(阿形)
見あげる姿は左手に金剛杵を握りしめ、腕を大きく挙げ怒りに満ち溢れた表情だ。
その怒りは今の時代を生きる者に対し向けられているのかもしれない。
金剛力士像。(吽形)
解説に依ればこの二体の金剛力士像は、古園石仏と同時期に彫刻されたもので、参道の山門の仁王として作られたものではないかとされる。
思いをもって彫られた像も復元保存工事が施されたとはいえ、自然の力を抑え込むことは出来ないようです。
覆屋に入ります。
古園石仏解説。
臼杵石仏の象徴と云える大日如来坐像と左右其々6体の石仏が彫られている。
覆屋右から奥にかけての眺め。
一際大きな大日如来坐像。
置かれていた像頭は復位に依りあるべき姿を取り戻した。
大日如来。
薄目を開けこちらを見つめる無表情な顔から窺えないが、なにか言いたげにも見える。
覆屋左から右にかけての眺め。
欠損が多い摩崖仏、長い年月で失ったものは大きいが良くぞここまで。
覆屋には書置きですが限定御朱印など無人販売されていた。
摩崖仏が見つめる前で愚かな行為はないだろうが、巷で見かける無人販売、消えて行ってしまうのだろうか。
臼杵石仏§2 山王石仏から古園石仏