北側には住宅地が広がり、ナビに任せて走っていくと入り組んだ道へ導き辿り着けなかった。
西寒多神社を訪れる際は、寒多川沿いに走れば袋小路に迷い込む事はないかもしれない。
創建は応神天皇の御代、この地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。
橋の先に鳥居の姿が見えている。
萬年橋
文久2年(1862)当時、延岡藩領であった寒田村の庄屋らの発起により架けられた橋長22㍍の石造橋で、綺麗な曲線を持つこの橋は昭和55年(1980)に大分県の有形文化財に指定されている。
寒多川の川面に写り込んだ萬年橋の姿は趣があって美しいものがあった。
萬年橋の上から西寒多神社の境内の眺め。
橋から続く石畳の先に鳥居、左に神楽殿、一段上がって社殿が建っている。
参道右の手水舎、すぐ後ろを寒多川が流れ、対岸は田畑が続く。
龍口から注がれる清水は手水鉢を潤していた。
石の明神鳥居。
社務所は鳥居左に建っている。
扁額は「西寒多神社」
「にしかんた」と読むとばかり思っていたが、下の略記を見て「ささむた」と読む事を始めて知る。
祭神
明治4年(1871)国幣中社に列格、豊後国一ノ宮、現在別表神社。
観音堂。
手水舎を過ぎてた右側に鎮座し、堂内には十一面観世音菩薩が安置されています。
昭和41年、火災により御堂と共に像は焼失するも、翌年には氏子により復興されたもので「西寒多観音」として崇敬されている。
鬼の歯形石。
その昔、霊山には恐ろしい鬼が住み、鬼は麓に降りてきては村人に悪さばかりしていた。
ある時、天照大神を祀る巫女の親子が本宮山にやってきて毎日お祭りをしていました。
霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音で、鬼たちは親子を喰おうとしました。
母親は、霊山から本宮山まで一晩で橋が架けられたら食べられましょうと約束をした。
約束を受けた鬼たちは一晩で完成させかけたため、慌てた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴き真似をしたという。
すると鬼たちは朝が来たと思い、残念がって歯で石を噛み投げ、霊山から姿を消したという。
この石はその名残とされます。
働き者で素直な鬼たち、この地方にはこうした鬼に纏わる昔話は他にも伝わっています。
後方に見えているのは合併社。
合併社。
御星社・保食社・龍王社・貴船社・歳神社・愛宕社・高尾社・金刀比羅社・天満社・竹内社・九一郎社の十一社を合併した社、右手は日露役記念碑。
参道左の神楽殿。
一段上の社地に拝殿が建ち、狛犬の左右に廻廊がある。
空を見上げ遠吠えするようなフォルムの狛犬(1930)、いい姿をしている。
拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つもの、黄金色の十六八重菊が輝くが過度な装飾のない落ち着いた佇まいをしている。
額は「鎮国一宮」
拝殿内から本殿方向を眺める、額は西寒田神社。
神紋は「西」文字紋。
拝殿内の木彫りの狛犬は、肉付きが良く、尾と髪に拘っている。
拝殿斜景。
幣殿から本殿方向の眺め。
本殿の棟には6本の鰹木と外削ぎの乗せ千木、ここまで長い千木は初めて見るもの。
廻廊。
手前が東廻廊で奥が西廻廊、10/16の境内の楓は緑から赤へ微妙に紅葉が始まったばかり。
拝殿から左に鎮座する正霊殿。
拝殿右の神庫。
明治19年(1886)に改築された、入母屋校倉造りで市の有形文化財に指定されています。
先人の知恵と技術は明治になっても取り入れられている。
神庫右の天神社と大分社。
大分社の祭神は豊門別命、大分の地名の元となった古代豪族大分の君を祀る。
二社の創建など詳細は不明。
この辺りから鬱蒼とした山に向けて奥宮参拝道が始まります。
上
厳島神社の後方、旧神宮入口から続く参道の両脇に祀られているのが繰生社。
御祭神は繰生青海とその妻をお祀りします。
この南側には伊勢社、遥拝所がありますが手振れが酷く写真は掲載できません。
下
繰生社から先に進むと旧神宮入口に至ります。
ここから左手の境内に戻ります。
その奥には藤棚が広がっています、西寒多神社は藤の花でも知られ、市の名木に指定されているそうで、毎年5月のふじ祭りは花を見に訪れる人で賑わうようです。
神社解説に依れば、このふじは地区民が社殿に供える御酒の酒造所を建てる時に植えたものと伝えられているという。
太い幹からは大きく枝を張り、満開の時期はさぞかし見ごたえがあるだろう。
この藤や観音堂もそうですが、この神社と氏子の結びつきは強いもの…と願いたい。
豊後一ノ宮 西寒多神社