多治見の街で見かけた小さな社

この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪ね、新酒のワインを味わって来た。
 歩いて多治見駅に向かう帰り道、街角に祀られた幾つかの祠を見かけました。
何れも住宅地の中の狭い範囲に、個人宅の敷地の一角で大切に祀られていました、それら個人で祀りお世話しているものか、町内なのか、どなたを祀っているものか詳細は分かりませんが、今回は多治見の町並に佇む祠を幾つか掲載します。

多治見市小田町2、本土神社の北側を東西に延びる通り。
 多治見修道院のある東を眺める。 
この右側の酒屋の片隅に小さな神社がありました。

敷地の一画に四方をフェンスで囲み社地が与えられ、中には社と幟立、常夜灯がある。
 社標はなく一見すると社名は分からない。
境内に入れられた砂は綺麗に均され、まめに人の手が入っている事を窺わせます。

社は東向きに祀られ、通りの東方向を見護るようにも見える。

境内全景。
 創建時期等は分からないが、常夜灯の寄進年までは読み取れませんが、竿に秋葉神社の銘が刻まれていた。
家々が寄り添うように立ち並ぶ通りの守り神だろう。

幟立の側面に明治35年(1902)の寄進年が刻まれていた。
 古くからこの通りの火伏の神として受け継がれ、これからもこの一画を護り続ける事だろう。
秋葉神社

所在地 / 多治見市小田町2 

ここから西に向かい小田町1の交差点北角にも社が二つ祀られていました。

小田町1の不明社、前方に見えている杜は本土神社の杜。
 立派な石を積み上げた基壇の上に祀られた二つの社。
左の松は御神木だろうか。

こちらの二社は南側を向き祀られ、南北の通りの守護しているのかな。

社名札がなく、二社の詳細は分かりません。
 地元の守り神、その地に住む人が分かっていればいいものかもしれない。
基壇にしても社にしても朽ち果てた様子は皆無、今もこの町には必要な存在なのが分かる。

小田町1の不明社
所在地 / 多治見市小田町1

この交差点から左に折れて三叉路まで進みます。

多治見簡易裁判所の東側の三叉路の左角、ここにも写真の社が祀られていました。
 先程の社同様の基壇が作られ、その上に一社祀られています。
個人宅でお世話しているものか否かは定かではありません。

本土神社の前を横切る通りに接し、社は南を向いて祀られています。

社に対し立派な注連縄、頭を東に、尾は西に向いて飾られ、午後の陽ざしを受け紙垂は白く輝いていた。
 社名や由緒は分かりませんが、この社がある事で住民同士のコミュニケーションを図る一翼を担う存在なのかも知れない。

こうした社は嘗ての我が町にも祀られていました。
 時の移り変わりと共に古くからある家が忽然と更地になり、切り刻まれた土地に斬新な家が増えるにつれ、そうした姿も消えていった。
小田町のひとつの区画に、これらの社が今も残るのは、下街道が通る古い街というだけでは無いような気がしてならない。
 
不明社
所在地 / 多治見市小田町1

ここから西に進み本土神社の社頭を過ぎ、JR中央線の高架手前で左に進み線路沿いを多治見駅に向かいます。

多治見市上野町1。

 JRの線路沿いに一つの社と祠が祀られていました。

左の祠。
 中には「馬頭観世音」と彫られた石碑が安置されています。
この碑の年代は分かりませんが、ここから少し南の土岐川沿いには旧下街道が伸びており、対岸の小路町に続いており、鉄道が整備される以前から、人や荷の動きは活発だったと思われ、こうした馬頭碑も祀られていったものと思います。

右手の社はGマップでは稲荷堂とありましたが定かな所は分かりませんでした。
 ストリートビューの画像(2021)を見る限り、現在の社はその後に建替えられているようで、以前は赤い玉垣と赤い(錆か?)鎖が社を囲んでおり、稲荷の様な、違うような。

ここでは不明社としておきます。

馬頭観世音石碑と不明社
所在地 / 多治見市上野町1

今回、多治見市内を歩く機会がありましたが、市内の町角にはこうした祠が多数見られるようで、暖かい日を見て巡るのも楽しそうだ。
 それにしても師走の声を聴いた途端のこの寒さ、次第に出不精になってくる。
多治見修道院から多治見駅 / ​​徒歩ルート​ 

参拝日 / 2022/11/03
関連記事 / ​

owari-nagoya55.hatenablog.com