伏見稲荷御旅所を後に、次の目的地東寺に向かう。
門右に「史蹟 教王護国寺境内」の石標。
あれぇ、東寺ではないの?となりますが、東寺の正式な呼称を教王護国寺といいます。
真言宗の総本山で、平安遷都とともに都の南玄関、羅城門(南区唐橋羅城門町に碑が残る)の東に建立されたのが東寺で、唯一残る平安京の遺構です。
空海は密教の教えを、21体の仏像で立体曼荼羅(胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅)として視覚に表し、講堂に安置しました。
空海の東寺と対峙する形で羅城門を挟み、守敏に西寺(南区唐橋西寺公園に遺構)の建立を下賜しましたが、空海の東寺の隆盛ぶりに比べると西寺の荒廃は寂しいものがあります。
二つの大きな伽藍と五重塔が聳え立つ姿は壮観そのものだった事でしょう。
東寺へは空海の思い描いた立体曼荼羅と特別拝観の五重塔初層を拝観する目的で訪れました。
慶賀門をくぐり境内に入る、左に視線を移すと手前の宝蔵と奥に五重塔が聳えています。
東寺を訪れた時期は11/24、この時期は紅葉のピークは過ぎ、銀杏の黄葉がピークを迎えていた。
宝蔵。
校倉造の瓦葺寄棟造で現在はこの一棟のみですが、創建当時は南北一棟存在し、宝物や経巻が収蔵されていた。
長保2年(1000)と大治元年(1126)に消失し、建久9年(1198)に再建されたとされたが、解体修理の際にそれらを覆し、東寺創建時期とされる延暦15年(796)に近い年代に建立された根拠となるモノが見つかったようです。
堀の先でひっそり佇んでいるので目立たないが、高床式の校倉造は正倉院や宝蔵などが示す様に、素材の特性を知り尽くした日本の誇れる技術。
瓢箪池から望む五重塔。
紅葉の時期の東寺はライトアップされ一層美しいようですが、日中以上の長い列ができるらしい。
東寺の拝観時間は8:00から、少し早めに訪れればそれほど混雑していなかった。
行列が苦手な自分には向かない状況の様です。
当時の伽藍は南に金堂、講堂、食堂が南北に配置され、配置そのものが仏法僧を表していると云う。
しかしここが東寺の核心といっても過言ではなく、内部には21体の仏像が安置され、空海が伝えたかった密教の世界観を、曼荼羅や文字ではなく仏像により立体的に再現されています。
上は東寺栞から抜粋。
東寺の建立は弘仁14年(823)から始まり、承和6年(839)に16年の歳月を経て完成したとされます。
建立当初は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡り、ふたつの伽藍をつないでいたという。
それも、文明18年(1486)に金堂、南大門などを焼失。
その後の再興は桃山時代(1573~1603)に金堂が、南大門は江戸時代に入るまで再建を待たなければならなかったとされます。
しかし、この講堂だけは焼失後僅か5年後に再建されたと云い、東寺にとって如何に重要な存在だったのかが窺われます。
金堂。
延暦15年(796)東寺の創建で最初に建造がはじめられたのが金堂で、国営の東寺として荘厳な姿を求められたとされ、そうした事もあり、伽藍の中で唯一、二層の様に見えますが、内部は一層で一階の屋根は裳階、中央の切り上げは東大寺大仏殿の意匠にも通じ、意図した荘厳さが伝わってきます。
金堂内部には本尊の薬師如来坐像を中央に、右に日光菩薩、左に月光菩薩を配している。
特に薬壺を持たない薬師如来坐像、七体の化仏を配した光背や、台座に施された十二神将など緻密な意匠が見所、東寺拝観に点眼鏡は外せない。
いずれも桃山時代の金堂再建時のもの。
五重塔。
空海が講堂の次に着手したのが五重塔とされる。
しかし、造営から30年を経過し費用も人手も不足、そこで天長3年(826)に朝廷に東寺の塔を作る支援を求め完成にこぎ付けたのがこの塔。
塔は過去に4度焼失、その都度再建され、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光が再建しもので、高さ54.8㍍の日本最高の塔とされる。
塔の傍らに五重塔の側面構造図と初層の平面図。
初層の特別拝観は平面図の東側から内部を見ることが出来た。
上は拝観時に頂ける解説。
こちらの方が分かりやすいか、この技術は現代のスカイツリーに応用されるなど、昔から木と接し代々受け継がれて来た日本人の誇る知恵の一つ。
(画像は東寺HPより)
初層内部。
中央心柱の大日如来を四尊の如来、八尊の菩薩が脇を囲み、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁に真言八祖像が描かれています。
胎蔵界曼荼羅(右)と金剛界曼荼羅(左)(画像は東寺HPより)
空海は其々もとになる経典の違う二つの曼荼羅を持ち帰り、一つのものとして独自の教えを説き、生きとし生けるものの平安を願ったのだろう。
この空間にも空海の思い描いた世界観が視覚化されている。
有料になりますが、これらの保全に貢献できると思えば安い物です、点眼鏡片手にじっくり拝観したいところです。
この時期は瓢箪池から望む五重塔が一番印象的なんだろう、結局ここに戻ってきた。
唐破風屋根の拝所に掲げられた額には「八嶋社」とある。
八嶋社。
祭神は東寺の地主神とも、大己貴神とも云われるようです。
八嶋社の由来は我国を大八洲瑞穂国という所から起った社号で、それ故にこの社は東寺以前から鎮座していたとされる。
弘法大師空海はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門建立成就、方位安全、法道繁栄を祈願し地主神と崇めたと伝わる。
長い歴史を誇る東寺、それより更に創建は古いという。
本殿は銅板葺流造で、年代は分からないが痛みのない外観から近年再建されているようだ。
本殿前の狛犬。
滑らかな曲線を描く小さな狛犬、恐らく木造だろうか。
小粒な体つきてありながら、立派な尾や角を持っている、「体の大きさで決めるなよ」とでも言いたげだ。
空海にして祈願をしたと云う地主神八嶋社、参拝しておくべき所です。
周囲の紅葉に引けを取らぬ鮮やかな朱色の社殿です。
八嶋社
創建 / 不明
祭神 / 不明
南大門。
現在の南大門は明治元年(1868)に焼失。
明治28年(1895)、豊臣秀頼により建てられた三十三間堂西大門の八脚門を移築したものらしい。
南大門の右の東寺鎮守八幡宮。
入母屋銅板葺の拝殿と流造の本殿を持ち、東寺創建時の王城鎮護を願って祀られた社と云われる。
本殿には僧の姿をした僧形八幡神と二尊の女神が祀られ、それらは空海自ら彫ったものされ、わが国最古の神像だと云われ、他に武内宿禰も祀られているそうです。
現在の伽藍は明治元年(1868)に焼失後、平成4年(1992)に新たに再建されたもの。
社殿周辺の解説。
八幡宮社頭の前に立つ 灌頂院東門。
鎌倉時代後期のもので寛永11年(1634)に再建された切妻瓦葺の四脚門。
灌頂院北側にも似た形状の北門があります。
ここから南大門の門前に出て見る。
南大門門前から金堂の眺め。
門脇の教王護国寺解説。南大門の門前は東西に堀があり、水辺を求めて訪れるアオサギ?が群れ、南大門は止まり木になっていた。
東寺は一辺約300㍍のほゞ正方形の広い境内と伽藍を誇っています。
一度で済ませたいところですが、まだ御影堂もあり、二回に分けて掲載する事にします。
今回は赤枠部分、次回は灌頂院東門から御影堂方向に向かいます。
教王護国寺(東寺)
創建 / 延暦15年(796)
開基 / 桓武天皇
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伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / 東寺通りを西に徒歩5分程