今は面影のない江川沿いに佇む「隅田神社」

五条橋の袂に佇む屋根神様から江川線沿いに少々北上し西区幅下方面へ。

途中慶栄寺北側を歩いていると、12月に入ったと云うのに淡いピンクの桜が咲き誇っていた。
 彩りが寂しくなっていくこの時期、この色合いは妙に嬉しくなる。

県道200号線を渡り那古野から幅下へ、右手の大通りは江川線。
 高速の高架が架けられて以降、以前目にしていた周囲の光景と今の光景の違いに馴染んでいない。
横を走る江川線は、名の通り嘗て庄内川から導いた庄内用水を分流した江川が流れていたことから来ている。
 この辺りは菓子問屋の店舗が連なり、昭和の頃には相当賑わいを見せ「新道・明道町の菓子問屋」とも云われていたそうです。
今は往事の賑わいこそないものの、そうした店舗が残り、菓子問屋街の名残を感じさせます。
 写真は神社社頭(左側)方向の眺め。

現在の江川はほゞ川の面影はなく、名からその存在を知るのみです。
 名古屋城下は清須越で開けていきますが、当時は堀川沿いの四間道を境に西が幅下で東を幅上と分けられ、当時の幅下の西端は江川まで、それより西は湿潤な土地を利用した水田が広がっていた。
上は1898年(明治31)頃の幅下界隈、右がほゞ現在の幅下。
 当時ですら、西に稲田の広がる端っこの名残を感じさせます、江川はそうした田畑を潤す役割もあったはずです。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)は江川線沿いの菓子卸市場と包装用品の店舗に挟まれ、僅かな間口の奥に鎮座します。

 この僅かな間口と建物と同化した鳥居の存在は歩道を歩いていても見落としてしまいそうだ。

鳥居左の由緒書き。
 「隅田神社
祭神
 須佐之男大神、伽具土大神。
摂社は隅田開運稲荷神社、柳龍神社。
 創祀は元禄初年(1688)とされ、大祭は10月1~2日。
創祀当時、この地域は江川(現在の江川線)の東に沿った農村でした。
 元禄の初め熱病の流行と村内で起きた火事をきっかけに、熱病防止と安全祈願のために祭神二柱を祀る。
文政8年(1825)、畑地が開かれ町屋が形成されますが、低湿地で、大雨の時に池のようになる場所だった。
 そうした環境もあり人家は西北の隅に追いやられました、隅田の由来はそこから来ているとされる。
戦後、新道の菓子問屋街はこの辺りまで拡大し、昭和40年代までは特に賑わった。
駄菓子を入れた缶を積み重ね、大風呂敷で包んで背負って運ぶ「カンカン部隊」は有名だった。
 一つの神社を一町内の氏子だけでお祀りしている事、菓子問屋街の中の神社という点が特徴。」

社頭から石畳の参道の眺め、正面には東側の道路が見通せる。
 社殿は参道左側にあるようです。

参道から鳥居を見上げるればすぐ上を高架が横切り、左右は建物に挟まれ見上げる空がとても小さい。

参道右側の常夜塔。
 珍しい形をしており、火袋は三つ巴の紋が入れられ、一見すると太鼓のようにも見える。
笠にあたる部分はなく、宝珠にあたる部分に鶏が乗る。
 名古屋ではあまり見かけない諫鼓(かんこ)型と呼ばれる石灯籠。

諫鼓とは昔の中国で、君主に対して物申す時に民衆が打つために設けられた太鼓を指し、鶏は鶏の鳴き声によって君主に善政を促し、人々を警醒する想像上の鶏だとか。
 「諫鼓鶏」は、善政を願い諫鼓を鳴らす必要がない世の中で、太鼓の上に止まる鶏も逃げない善政に満ちた世であれ。
というような意味が込められているそうですよ、とてもタイムリーなことがこの灯篭に込められている。
岸田さん、太鼓の音は聞こえないかい?

参道を進むと右側に阿形のみの小型の狛犬がいる。
 左側が社殿のようで覆屋の下に社の姿が見られます。

参道右で独り境内を守護する小さな狛犬
 赤い首輪を付けてもらい可愛い姿をしている、良く見れば右側が欠落し痛々しい姿だ。

この狛犬の向かいが覆い屋。
 奥行きがなく全景も撮れないほど限られたスペースに、巧みに三社を覆う覆屋が立てられています。

その社の前を守護する一対の狛犬(1934)

覆屋の下に祀られている三社。
 中央の社が須佐之男大神、伽具土大神の二社相殿、左右に棟持柱が見えるので神明造か。
右は狛狐の姿がある事から隅田開運稲荷神社と思われます。
 そして左の社が柳龍神社と思われます。
三社ともに檜皮葺屋根で、隅田開運稲荷神社と柳龍神社は流造。

 社頭の解説にあったように流行病と火災をきっかけに、元禄初年(1688)に須佐之男大神、伽具土大神をお祀りした。
家屋が連なり、湿潤な土地柄から生まれたであろう禍を、二度と経験したくない気持ちから生まれた神社なんだろう。
 そして江川を前にして水を鎮める意味合いから柳龍神社が、商いや農業を生業とする人々が稲荷神を祀っていったのだろう、これら三社が同時期に祀られたものなのかは定かではない。

参道を通り抜け東の通りから眺める隅田神社。
 鳥居こそないが、左の社標には「須佐之男神社、伽具土神社」とある。
玉垣と二本の御神木が聳え、こちらから眺めれば神社としての佇まいが感じられる。

 幅下学区(西区)の紹介の中に、幅下町が菓子問屋街として賑わった当時の事が紹介されていた。
一部抜粋。
 「藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。
江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。
 この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。
文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始め、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。
 この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。
通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。
 現在は社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。」

嘗ての活気のある問屋街を取り戻す事は、通りを見つめる狛犬も願っているに違いない。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)
 創建 / 元禄初年(1688)
祭神 / 須佐之男大神、伽具土大神
 境内社 / 隅田開運稲荷神社、柳龍神
所在地 / 名古屋市西区幅下2-19
 参拝日 / 2022/12/08
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 多賀宮から徒歩 / ​五条橋の屋根神様から北へ徒歩10分程