『教王護国寺(東寺) §2 』(京都市南区九条町)

東寺§1からの引き続きとなる今回は広い境内を持つ東寺の西側を巡っていきます。

東寺西側には南から塔頭の潅頂院や小子房、弘法大師空海真言密教の根本道場東寺を形作り高野山を求め旅立つまで過ごしたとされる御影堂が鎮座しています。
 上が今回訪れるところで、一般公開されていない潅頂院や小子房以外は拝観が可能でした。
潅頂院東門から壁沿いに北上していきました。

上は小子房の勅使門。
 この先にある小子房は天皇を迎える特別な建物で、現在の建物は、弘法大師空海の1,100年の年忌に合わせ昭和9年(1934)に再建されたもの。
混沌とした南北朝時代建武3年(1336)、北朝足利尊氏(源尊氏)が光厳上皇を奉じ都に入った際、戦が治まる間の半年間を上皇が小子房を御所とし、尊氏は食堂に居住したと云う。

勅使門は檜皮葺の唐門で、皇族方が利用する時のみ開く門らしく、門の扉には大きな菊花紋の透かし彫りが施され、その周りの菱格子の内側にも細かな透彫りが施されており、意匠はそれにとどまらず扉の柱にもおよびます。
 昭和に入ってからのものですが、この細密な仕事は目を見張るものがあります。

更に北へ進むと本坊の二つの門。

本坊の北側の四脚門が毘沙門堂入口の門。
 左の入母屋の屋根が毘沙門堂で御影堂と共に入場は無料。
ここから更に北の門に進みます。

東寺の境内の西にあって最も北の門が大師堂(御影(みえ)堂)への入口になります。

東寺を形作った弘法大師空海は自らの余命を悟り、約10年過ごした平安京を後に、帰国前に唐から投げた三鈷杵に導かれる様に高野山に旅立っていきます。
 ここは空海がそのあいだ身を置いた場所。

大日堂。
 門をくぐった右側に建ち、東寺のなかでは一番新しいお堂。
もとは、江戸時代の頃、御影堂の礼拝所として建てられたようです。
その後、桓武天皇嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、大日如来を本尊としたことから大日堂となったと云い、現在は先祖供養などの回向所となっています。
現在の建物は平成12年(2000)に大改修が行われている。

大師堂(御影堂・不動堂)を前堂から望む。
 空海は、ここを拠点にして講堂の立体曼荼羅を構想し、東寺の造営工事の指揮をとったとされ、空海住房だった事からこの名が来ているとされます。
一棟の入母屋檜皮葺の建物に見えますが、後堂と前堂、その間に中門で形作られています。
 南北朝時代の康暦元年(1379)に火災で後堂を焼失し、天授6年(1380)に後堂を再建、元中7年(1390)に前堂・中門が増築されこの姿になったとされます。

司馬遼太郎は、暮れから正月にかけて京都で過ごすのが習慣だったそうです。
 彼を訪ねた人と待ち合わせる場所はこの御影堂がお気に入りだったようです。

寺紋は東寺雲。
 前堂内には天福元年(1233)に仏師康勝法眼斎戒沐浴して、一刀三礼し「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えつつ彫刻した大師像と南側の不動堂には大師の念持仏の秘仏不動明王が安置され、毎月21日(弘法大師命日)は多くの参拝者で賑わう。
全国津々浦々の弘法堂でも、縁日が催され、弘法大師を慕う参拝者が訪れ、空海は今も庶民から広く崇敬されている。

前堂の鬼や妻飾りには輪宝紋が輝いている。

 鐘楼
大師堂前堂西の鐘楼。
 「梵鐘」は室町時代(1348)に足利尊氏が寄進したもの。

毎朝開門の時を告げていたが、傷みが酷くなり、オリジナルは宝物館で収蔵し、現在はレプリカが吊られています。
 梵鐘の間には蓮の花の上に仏や金剛界胎蔵界を表す梵字が刻まれているが、凡人には読み取れない。
梵鐘の下は、空海高野山に導いたと云われる三鈷杵が全周に施されています。
 
梵鐘のオリジナルを収蔵する宝物館は、年二回公開されており、食堂の火災で被災し、修復を受けて蘇った千手観音菩薩や兜跋毘沙門天など収蔵され、訪れた11/24は秋期特別公開(9/20~11/25)期間中だった事を後になって知りました。
 立体曼荼羅に塔の初層拝観に喜んでいたが…また「おこしやす」という事です。

大黒堂
 前堂の西側にある中門をくぐった右にあり、向かって右側には不動明王が祀られ、安産祈願に御利益があるとされます。
左には三面大黒天が祀られています。

厨子の中に安置されている三面大黒天は、弘法大師の作と伝わり、台地の神「大黒天」、四天王の北方の神「毘沙門天」、インドでは河の神とされる「弁財天」の三体が合体したものが三面大黒天で、3神のご利益を一度に授かることができるとされます。
 堂に手向けられる生花は三面大国お花講という講により、月々300円でその運営に充てられているようです。

大黒堂左の入母屋瓦葺の建物、詳細は分からなかった。
 左側の小さな看板は犬の散歩、捨犬を禁じる案内板だった。

諏訪大社では「犬の小便の結果・・・」の案内板を見かけた、目の前には通行禁止となった鉄製の橋が架かっていた、犬の小便は物を破壊する威力がある。
 コロナでペット需要が盛り上がったようですが、癒しを求めあらゆる生きものが売買されてきました。
犬なら訓練も必要、損害保険や医療費など金はかかるし、行動も制限され、時に悪さもする、やがては気持ちも冷める。
 別れの時まで看取れる責任が持てなければ、生きものをアクセサリーの様に飼ってはいけない。
やがては空にインコが飛び交い、水面に鰐が泳ぎ、在来種が消えていく事になる。
 桂川で起きている事は人がもたらした結果です。どんな生きものでも最後まで看取ってほしい。
また話が脱線した、もとに戻ろう。

上は御影堂の前堂と呼ばれ、入母屋檜皮葺で周囲の縁には高欄が施された落ち着いた佇まいの建物です。
 空海の念持仏だった不動明王はこちらに安置されているという。
この中では不動明王の御宝前で護摩を焚く法要が執り行われ、燃え盛る炎は、恰も不動明王の光背のようでもあるという。
 秘仏不動明王は法要を行う僧侶ですら目の当たりに拝んだことはないそうです。

御影堂後堂の正面。
 生前の空海は毎朝6時、一の膳、二の膳とお茶の食事を召し上がったとされ、いまも生見供として受け継がれている。
 これは高野山でも同様で、御廟で待つ空海に1日2回、食事を届ける儀式が行われています。
東寺の御詠歌には「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」とあるという。

高野山遥拝所。
 空海が築いた高野山、今なら車で数時間で訪れられるが、自らの足で行くしかなかったころは片道でも3日は要しただろう、遠く離れた聖地。
その奥の院にある廟を京から遥拝できるのがこの場所。

遥拝所解説。
 31歳で唐に渡り、恵果の教えの全てと曼荼羅はじめ多くの資料を持ち帰り、東寺や高野山を開き、広く教えを説いた空海は62歳で世を去りますが、各地を修行で訪れた事から空海に纏わる逸話は各地に残ります。
 空海が生まれた四国の四国遍路や各地の遍路は空海の生きざまを辿るものなんだろう。

天降石。
 遥拝所左の石の瑞垣で囲われた一画の中にある石。
この石を撫で、その手で身体の患部を撫でると完治すると云う。
 古くからこの地にあった石だと伝わり、江戸時代には護法石、五宝石、不動石などと呼ばれていたらしい。
現在では天降石や撫石と呼ばれ、今も御利益を求め訪れる方は多いと云う。
 因みに、物忘れが多くなった頭を撫でていた自分、その後に続いた海外からの観光客も同じように頭を撫でていたのには少し苦笑い。変な手本をみせてしまったか。

毘沙門堂
御影堂の南側にある入母屋銅板葺の建物で、空海が唐から持ち帰った兜跋毘沙門天像は、羅城門に安置されていたが天元元年(978)羅城門は倒壊し、長らく東寺の食堂に祀られていたものを新たに安置する目的で、文政5年(1882)に建てられたものが毘沙門堂だとされます。
 現在の姿は平成6年(1994)に補修を受けたもの。
妻側の正面には三つの額が掲げられており、中央に兜跋毘沙門天王の額が掛けられており、右が愛染明王、一番左に不動明王の額が掛かる。
 堂内は中央に兜跋毘沙門天像のレプリカと不動明王愛染明王像が祀られている。
オリジナルは宝物館に収蔵されており、日本最古の七福神巡りといわれる「都七福神」の毘沙門天になっていると云う。

毘沙門天は北方の守護神、仏教を守護する神で、毘沙門天を崇敬すれば十種の福が得られ、学業成就や安産の御利益が得られることから、あの菅原道真小野道風も崇敬したと云われています。
 空海が生涯をかけて築き上げた真言密教の教え、真言宗の開祖に留まらず、満濃池の修築工事や綜芸種智院の設立など常に庶民に目を向けた功績を残してきた。
 どこぞのポンコツ首相や居眠りばかりして、覚めれば私利私欲しか考えない国民の代表?に少しは見習えといいたい。

東寺の北側の北大門をくぐり、北大門の先の蓮池に架かる石橋。
 親柱には延宝3年(1675)と刻まれている、いまだに現役の橋。
石橋を渡り観智院方向へ、その先から真っすぐ北に延びる石畳は櫛笥小路、平安時代当時の姿を留める唯一の小路で、この前方に北総門が望めます。

北大門、北総門ともに鎌倉時代に建てられたもの、北大門は人の映り込みが多く掲載できず、北総門はバスの時間から見送りました。
 時間に余裕があれば見ておきたいところです。

静かだった境内も10時を過ぎるとツアー客も増え、写真は撮り辛くなる。

蓮池でくつろぐ彼らだけは気の済むまで撮らせてくれる。逃げもしない。
 この亀は何処の子だったのかなぁ?、うちの近所にいる噛み付き亀よりは可愛げがあっていい。

橋の右手に小さな堂、開運大元帥明王堂。
 明王の中でも風貌が一番恐ろしい姿をし、全身に蛇が纏わりつき、複数の手には武器を持ち、表情は怒りまくっている姿しかイメージできないけれど、ご利益は必勝祈願、国土防衛、疫病退散と個人よりは国家の安泰を司る明王様の様です。

その北側に建つ建物が観智院。

観智院門前の全景。
 鎌倉時代、延文4年(1359)頃に真言宗勧学院として杲宝により創建されたもの。
東寺に十五あった別院の中でも厚遇された存在で、江戸時代の徳川家康からも、東寺のみならず真言宗すべての勧学院とする黒印状が送られたと云う。
 本尊は杲宝の弟子、賢宝により五大虚空蔵菩薩を安置したと云う。
学業成就の御神徳があるようで、お守りを求め訪れる方は多かった。
 拝観料300円で拝観できますが、写真は庭園のみに限られており、武蔵の画いた襖絵などは当然NG。

拝観はしませんでしたが、門の先に祀られていた静観堂をお参りして東寺を後にすることにしました。

慶賀門から東寺を後にして大宮通りのバス停に向かう。
 普通に立っているこの門も鎌倉時代初期に再建されたもの。

大宮通りから南の眺め、塔手前に見えている門は東大門。
 不開門と呼ばれ、南北朝時代足利尊氏が東寺に陣を置き、新田義貞と戦火を交え、戦場は都から東寺の近くに及び、足利軍は東大門の扉を閉ざし危機を脱したとされます。
それ以降、東大門は不開門と呼ばれ、門には当時の戦乱の傷痕が残っているそうです。
 普段の生活の中に歴史が普通に存在しているのが京都です、そこを訪れるなら早朝に限る。
東寺のライトアップではこの通りを越え、南大門まで拝観の列が出来たようです。
 これから紅葉の東福寺に向かいましたが、写真はなかなか撮れなかった。

教王護国寺(東寺)
創建 / 延暦15年(796)
開基 / 桓武天皇
宗派 / 真言宗(総本山)
山号 / 八幡山
院号 / 祕密傳法院
本尊 / 薬師如来
所在地 / ​京都市南区九条町1番地
参拝日 / 2022/11/24
関連記事 /  『教王護国寺(東寺) §1 』(京都市南区九条町)​
伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / ​東寺通りを西に徒歩5分程