名古屋市中区錦 『泥江縣神社』

名古屋市中区錦1「泥江(ひじえ)縣神社」、個人的にとても思い出深い神社。
 若い頃、先輩や同僚と「料亭でたらふく飲み食いしてみよう」なる暴挙を催した。
相場も知らない若造がバブルに浮かれ常軌を逸していた時期ならでは事。
案の定、帰りの電車賃も使い果たし、ひたすら歩いて家路を目指した事がある。
今思えば笑い話でしかないけれど、家に着いた頃の朝陽が綺麗だったことを覚えている。

その時こちら泥江(ひじえ)縣神社の社頭で若造4人が座り込み、休憩させて頂いたのは間違いない。
当時と何か変わったのかと自分に問うと・・・よく覚えていない、ただ堀川を越え東を向いて歩いた道路左の神社だった。
以後、馬車馬のように働き(働かされ)、二度と訪れる余裕はなかったが、そんな時代も卒業し、こうして訪れる機会が得られたことは当時が懐かしくもあり、再訪できたことがありがたくも思える。

本題に戻らないといけない。

由緒
祭神 三女神、応神天皇神功皇后
当社は尾張本国帳に従三位泥江(ひじえ)縣天神とあり。
清和天皇 貞観元年(859)豊前の國(大分県)の宇佐八幡宮から勧請された。
当時の境内は八丁(1丁=約109㍍)四方あり、応永26年(1419)修繕、遷宮
社殿は古社寺保護建築物に指定されている。
 
徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く、広井の八幡と称し親しまれ、大祭には豪華な神輿をはじめ、氏子、各町の笠鉾車が出て白山神社への神輿渡御武者行列などあり、名古屋の名物だった。
昭和20年3月19日の戦災で焼失するも復興されるも、昭和41年不審火により再度焼失した。
二度の火災でも御神体は焼失を免れ、社殿は再興され現在に至る。

また、市教育委員会解説に境内縮小の経緯について触れられていた。
「慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少。例祭日は神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという、七代藩主・宗春の頃には、境内に芝居小屋も作られた」とあった。

上は尾張名所図会巻之二に廣井八幡宮として現在の泥江縣神社の挿絵が記されていた。

由緒にある様に当時の伽藍の大きさと本殿左の相殿を始はじめ、多くの境内社が祀られていた事が挿絵からも見て取れ、記述にも「末社神明社、熊野社、熱田社、洲原社、三狐神社、浅間社、兒御前社、恵比須社、その他に小祠が多し」とある。
以前掲載した白山神社(中区丸の内1)は応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。

また、由緒に記されていた神輿渡御武者行列の様子も描かれ、ここにはその山車も享保9年(1724)焼失した事も記されていた。

創建は貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請されたのが起り。
祭神は三女神(田心姫神湍津姫神市杵島姫神)、応神天皇神功皇后
応永26年(1419)修繕、遷宮
検地、町割、戦後の道路整備等で境内規模を縮小。
昭和20年戦災で焼失再建。
昭和41年不審火で焼失再建。

まず社頭は桜通りと錦通りの間にある袋町通り。
ビルの谷間に挟まれ、南を向いて鎮座している。
石鳥居と右に社標が立ち、参道の直ぐ先に赤い拝殿が見えています。

鳥居をくぐった境内の眺め。
ビルの森の中にイチョウの樹をはじめ緑豊かなリアルな杜が残されています。

参道右の手水舎。

長い髭を持つ龍口。
水を自在に操る事から手水鉢に龍はつきもの。
想像上のもので角は鹿、耳は牛、頭はラクダ、目はうさぎ、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、腹は蛟、項は蛇
をモチーフにデザインされるそうで、天井に描かれる龍もそうした意匠で描かれているという。
それぞれ個性があり、滑稽なものや、この龍の様に凛々しいものもあり面白い。

ただ、最近こうした物を1gramの価値として捉え、持ち去る輩がいると聞く。
神社で龍を眺めていると疑われるやもしれない。

参道左の石、謂れはよく分からなかった。

拝殿正面全景。
連子窓の緑に朱と白、境内のイチョウの黄色と鮮やか。

拝殿前の狛犬は昭和24年(1949)、戦災で焼失後に寄進されたもの。

神紋は橘。

拝殿額は八幡宮
八のモチーフは八幡神の使いとされる鳩がモチーフになっているのは良く知られています。

拝殿から本殿方向の眺め。

拝殿左から流造の本殿の眺め。

本殿左の錦稲荷社。

こちらは稲荷神の使い、巻物と球を咥えた狐。
錦稲荷社の詳細は分からなかった。

錦稲荷社の左に御神木の大きな公孫樹が聳え、その前に小さな祠が祀られています。
座布団の上に、恰も大きな口を開けた鰐のような岩が祀られています。
持ち上げていいものか、撫でるものなのか詳細は分からないが、水や御神酒はかけてはいけない作法のようで、賽銭を供えいつものお願いをして拝んでみた。

拝殿右の境内社
間口の狭い社頭から見ると社殿域は狭い印象を持ちますが、拝殿右に広がりを持ち、二つの鳥居と二つの相殿と中央に蛭子社が鎮座します。
ビルの谷間の緑のオアシスのようだ。

参道右の手水鉢、年代は不明。
左後方には昇竜見返り之楠と呼ばれる大楠が聳えている。

境内社
右の相殿は左から五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社。
中央の流造の社が蛭子社。
左の相殿には菅原天神社、秋葉社、住吉社が祀られています。

鳥居から先の蛭子社。

蛭子社の前にあるつんぼ蛭子の話。
参拝者はこの社に詣でる前に社殿後方に廻り、社殿の腰板を小石か拳を持ってトン〃と叩いて音を立ててから正面に廻り願い事を述べる。
こちらの神さまはつんぼでなので参拝者の願い事がよく聞き取れない事から、こちらから神さまに気付いてもらい拝む風習が生まれたと云う。
戦後教育の中で何事も理詰めの思想を尊重する傾向にあるが、空想性に結びついた情と云うものが、人に潤いを与える上に重要な心的要素と捉えると、この話は貴いもの。

現在は吊るされている小槌で版木をトン〃と叩いた後に願言葉を唱えると願い事が成就する。
このご利益にあやかるため県内、県外からも参拝に訪れる。

黒い魚梆を見れば塗装も剥がれ多くの願いを叶えて来たことが伺われます。

蛭子社の黒ずんだ小さな狛犬は大正10年(1921)に寄進されたもの。
戦災以降二度の火災を見てきたはずだ。

泥江(ひじえ)縣神社
創建 / 貞観元年(859)
祭神 / 三女神、応神天皇神功皇后
境内社 / 錦稲荷社、五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社、蛭子社、菅原天神社、秋葉社、住吉社。
所在地 / 名古屋市中区錦1-7-29
参拝日 / 2022/12/08
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