神奈川県一之宮巡り §1『円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮』

2023年1月17・18日、今年最初の一之宮巡りとして神奈川県鎌倉方面まで出かけてきました。
大河も終わったし、春節前なら比較的空いているかな?
そんな目論見でお国の支援を利用し訪れました。
今回は相模国一之宮二社の巡拝。
混むイメージしかない鎌倉です、目的地を詰め込まず時間に余裕を持ったスケジュール。
なので新幹線も空いた列車を待って乗る、ノープランでの移動。


名古屋を7時台の新幹線で発ち、新横浜から在来線で最初の目的地円覚寺の最寄り駅北鎌倉駅到着が10:00頃。
駅前で見かけたマンホール、波を背景に山ユリと銀杏がデザインされているが、左下はなんだろう鳥か?

円覚寺は駅を降りたすぐ左に総門が見えます。


総門前の円覚寺解説。
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋から無学祖元禅師を招き、国家の鎮護と禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を敵味方の区別なく平等に弔うため創建された寺院。
時宗は18歳で執権につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依したとされます。

円覚寺の寺名の由来は、建立の際に大乗経典の「円覚経」が出土したことから来ているとされ、山号の瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まったという逸話から来ているようです。
それを裏付けるかの様に境内の山肌にポッカリと開いた穴があり、白鹿洞と名付けられています。
ここから白鹿達が出て来たんだねと感じさせる。


総門全景。
左に「北条時宗公御廟所」の石標と右に「臨済宗大本山 円覚寺」の寺号標。
鎮座地は六国見山の南西の麓に位置し、山名から分かるように六つの國(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を見渡せるという。
なのでこの総門と山門、弁天堂などは石段を昇る必要がありますが、主な伽藍へは平坦な参道が続いています。

…鎌倉の寺社は石段が多かった、かみさんの某国製モニターによれば二日間で40階上ったと出ていた。


山門前の石段を上れば山門だ。
こうして見る門は天明5年(1785)に再建され、扁額の円覚興聖禅寺の文字は伏見上皇の勅筆によるものとされます。
門は桁行(棟側)三間(柱間)、梁行(妻側)二間の入母屋二層で、柱だけの吹き抜け。
正面の軒に唐破風が施されている。


仏殿。
本尊の宝冠釈迦如来を祀る建物。
現在の姿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、昭和39年(1964)に再建されたもの。


堂内の宝冠釈迦如来と天井画。
再建後に描かれた白龍図の天井画で、倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。


意外に参拝客は少なかったが、すれ違う時に耳に入ってくる言葉は大国の言語が多かった。
写真は仏殿付近で咲き始めた梅。

円覚寺

開山 / 無学祖元
開基 / 北条時宗
創建 / 弘安5年(1282)
山号 / 瑞鹿山
宗旨・宗派 / 臨済宗円覚寺派
本尊 / 宝冠釈迦如来
所在地 / 
神奈川県鎌倉市山ノ内409

円覚寺を後に徒歩で県道21号線を南東に向かい建長寺に向かう。
円覚寺から約20分程で建長寺に到着。
時間は12時頃、建長寺脇の天心庵で昼食を摂る。



建長寺発祥とされる建長汁と塩むすびのセット(990円)。
もれなく鎌倉野菜たっぷりのデドックスウオーターが出され鎌倉らしい。
店内から建長寺門前が一望でき、混み具合が一目瞭然。
観光バスが着くと一時的に列ができますが、風のように過ぎ去り滞在時間は短いようです。

店内から併設された座禅堂を見ることができる。

天心庵
所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内7


建長寺総門前。
さて行ってみようか。
建長寺の始まりは建長5年(1253)に遡り、先の円覚寺の創建より四半世紀前の鎌倉幕府5代執権北条時頼
により建立された臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩

当初は多宝塔のある伽藍だったとされ、正応6年(1293)の鎌倉大地震で大半が倒壊、炎上。
正和4年(1315)、応永23年(1416)等火災に見舞われ創建当初の建物は残っておらず都度再建された、しかし関東大震災でも被災し、その後修復された姿が健在のもの。
創建当初のもので残るものは建長7年(1255)に鋳造された国宝の梵鐘が唯一残る。
写真の総門に掲げられた「巨福山」の額、「巨」に点が書かれている、何気に読めてしまうところが怖い。

山門。
造りや外観は円覚寺山門と同様のもので「建長興国禅寺」の扁額が掛かる。
現在の門は安永4年(1775)のもの。

伽藍配置も円覚寺に通じるもので、山門の先には写真の仏殿が配置されています。
正保4年(1647)に芝の増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋をこちらに移築したもの。
内部に本尊の地蔵菩薩が安置されている。


仏殿前の香炉に施された龍?の飾り。

仏殿内。
中央に本尊の地蔵菩薩と格子天井には鳳凰らしき絵が一面に描かれ、壁面や梁など緻密な透彫りが施され内部は見所が多い、しかし剥離や脱色が目立ち修復が必要な時期に来ている。

法堂。
文化11年(1814)に再建された入母屋二重屋根の関東最大の法堂。
法堂内部は本尊の千手観音と建長寺創建750年を記念し天井に描かれた雲竜図が見応えがある。
また球を握る龍の指を見比べると、こちらは5本指、円覚寺の龍は3本と違いがある。
因みに焼失前の首里城の龍は4本、元々五本指の龍は中国皇帝のみ用いる事を許されたものらしいが、日本に伝来する過程で変容していったようです。
円覚寺の天井画も素晴らしいが個人的にはこちらの雲竜図がお気に入り。

総門から主な伽藍のある境内は石段もなく内心喜んだが、境内最奥部にあり、明治23年(1890)静岡県の奥山方広寺から勧請され、多くの天狗に守られる建長寺鎮守の半僧坊までの石段はきつかった。

ここまで上れば南に相模湾鎌倉市街地、西方向は運が良ければ富士山も拝めると云う。
写真は半僧坊から建長寺の眺め。

建長寺
開山 / 蘭渓道隆
開基 / 北条時頼
創建 / 建長5年(1253)
山号 / 巨福山
宗旨・宗派 / 臨済宗建長寺派
本尊 / 地蔵菩薩
所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内8
 
左の山を越えれば次の目的地「鶴岡八幡宮」だ、総門から県道21号線を南下し徒歩で10分程とグーグル先生は云うものの、上り疲れた足の事までは考慮してくれない。
鶴岡八幡宮の今宮を参拝し、鶴岡八幡宮の太鼓橋まで30分を要する事になる。

鶴岡八幡宮今宮。
建長寺から県道沿いの緩やかな下り坂を進むと、鶴岡八幡宮の駐車場が見えてきます。
そこから左の細い路地に進み、突き当りを左に進むと今宮が鎮座しています。
位置的には鶴岡八幡宮本殿の裏山にある神域の大臣山西側になるだろうか。
時間は14:15。

鶴岡八幡宮の境外末社の今宮は、承久の乱(1221)で鎌倉幕府に敗れ、隠岐に流されその後亡くなった後鳥羽、土御門、順徳の各上皇を祀る。
建立には宝治元年(1247)国中に広がった飢饉や疫病が上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために神社を建立したという。
社殿は一間社流造で近年建替えられたようで全てが新しいものだった。
鶴岡八幡宮境外の山の影で、参拝者もなくひっそり鎮座する佇まいは物寂しさがある。

鶴岡八幡宮 今宮
創建 / 宝治元年(1247)
祭神 / 後鳥羽上皇土御門上皇順徳上皇
所在地 / 神奈川県鎌倉市18

では本日の宿に向かおう、その前に恐らく人で溢れる鶴岡八幡宮の様子見に。

鶴岡八幡宮三ノ鳥居へは14:40着。
この時間にしてこれ以上カメラを下に向けると、写り込んだ人を修正するのは大変だ。
参拝予定は明日でしたが、参拝と御朱印を頂き、明朝改めて出直す事にした。

太鼓橋右の源氏池に浮かぶ中の島に鎮座する旗上弁財天社。
ここはまだそれほど参拝客も多くはなく、御朱印を頂くまでの間こちらを参拝。


現在の社殿は八幡宮御創建800年(昭和55年)に、古図をもとに復元されたもの。
寿永元年(1182)、頼朝は若宮大路を造営、その際に琵琶小路に祀られていた弁財天を遷したのが現在の
旗上弁財天社の始まりのようです。
境内には頼朝の旗上げにちなみ、白地に二引きの奉納幟がはためいています。

社殿後方に回り込むと、赤い玉垣に囲われた一画に政子石が安置されています。
頼朝が政子の安産を祈願したとされる陰陽石で、子宝、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるという。

かみさんと合流しニノ鳥居脇のホテルに向かおう。

ホテルメトロポリタン鎌倉。
ニノ鳥居の脇にありここを拠点に観光するならいいロケーション。
建物や客室は新しく綺麗でサービスもそれなりに良く不満はない。
ここからは個人の感想。
朝な夕なの眺望が望める訳でもないので、朝食プラン付きで東向きの安価な部屋をチョイスした。
ビジネスホテルと捉えると価格設定が高い。
朝食は一階のcafe&meal無地で朝食となる。
建長汁の付く和食をかみさん、おやじは洋食を選択したが、和食に付く鯵の干物は脂が抜け、パサパサで全く美味しくはなかった。
野菜はフレッシュで良かった、パンの種類は少なかった。
口コミは信用しないが、総じて鯵の干物とジャコは好評だった。
ジャコはどこまでも普通、兎に角、干物は焼き方と提供までの時間に問題あるのか残念だった。
まるで残業で午前様となり、作り置きされた干物を焼きなおした時の味わいで、海が近い鎌倉ながらガッカリした。素泊まりで普通に外食の方がいいかもしれない。

宿で足を休め、小町通で晩御飯の前に頼朝を祀る白旗神社と頼朝の墓、法華堂跡を訪れてきました。
宿からだと鶴岡八幡社の東隣に位置し約20分程の場所に鎮座します。
写真は白旗神社と頼朝の墓の入口。

石段の先が頼朝の墓で、石段左に源 頼朝公を祀る白旗神社
創建は明治5年(1872)で勝運の神様として親しまれている。
ここまでの道すがら、頼朝を慕う地元の方の思いが伝わる掲示物を多く見ることが出来た。

石段を上った先の源 頼朝公の石塔がある。
戦乱の時代を走り抜け鎌倉幕府を築いた頼朝がここに鎮まり、この塔は後の島津藩主だった島津重豪により整備されたものと云う。
ここからすぐ東に頼朝の持仏堂だった法華堂跡があり、法華堂に頼朝が葬られ、頼朝の墓所として信仰されていたとある。
堂は後に廃絶しましたが、現在は礎石跡などが保存されており、この一帯がその跡とされるそうです。
すぐ近くなので法華堂跡に向かいます。

法華堂跡へは石段の前から右に少し歩けば写真の燈籠が立つ石段の前に至ります。
そこから上ると視界が開け右側に「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)と記された石標が立っていた。
源頼朝墓は先の解説ここにあった法華堂と分かるけれど義時墓?
あれぇ伊豆ではなかったの?


法華堂(頼朝の墳墓堂)跡。
頼朝没後幕府創始者の墳墓堂として後の武将から信仰を集め、鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続するも、17世紀初頭までには堂舎はなくなり、石造の墓塔が立てられていたと云う。
現在の墓域は安永8年(1779)島津藩島津重豪により整備されたものとされる。
あれ?義時の墓所はどこ?
よもやこの先の二つの石段の先か?

石段左洞窟。
ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府御家人三浦氏が供養されている。
宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人がここ源頼朝法華堂に籠り自害したとされ、ここで供養が行われていたと云う。
義時の墓所は?

石段の先は写真の様な三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元島津忠久の墓が並んでいました。
あれぇ、義時の墓見逃したか。

法華堂跡に戻ると案内板があり、そこには北条義時法華堂と書かれ以下のように解説されていた。
吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂は、延慶3年(1310)の焼失以降どの資料からもその名が見られなくなっていました。
平成17年(2005)に発掘調査が行われ堂跡が確認された事で、この場所に北条義時法華堂が建立されていた事が明らかとなりました」とある。
法華堂は二つあったのかい?
時間ばかりが過ぎよく分からなくなってきた。
小町通のソーセージ屋の閉店も迫っている、ここで諦めて戻る事にする。

史跡法華堂跡
所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5

どうにか閉店間際の腸詰屋小町に滑り込み、ソーセージと地ビールでモヤモヤを消し去る。
この通りのお店は意外に閉店が早く18:00にはシャッターが下ろされる。
美味しいビールとソーセージで軽く一杯。
腸詰屋鎌倉小町
所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下1-4-20
さて次は小町通りを南下し丸七商店街の焼き鳥屋でフィニッシュ。

アーケードのある丸七商店街は寿司屋、立ち飲み屋などディープな雰囲気があり面白い。
立ち寄ったのは「立呑焼鳥 天昇」ここで焼き鳥を食べながら酒を飲み仕上げ。
カウンターだけの立ち飲み屋で価格もリーズナブルで焼き鳥も美味しかった。
仕事帰りの常連客で賑わっていた。

立呑焼鳥 天昇
所在地 / 神奈川県鎌倉市小町1-3-4

あとは地元の銭湯であればいいのだが、ない。

神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺建長寺鶴岡八幡宮)
鎌倉初日移動ルート / ​こちら
参拝日 / 2023/01/17