『富貴寺』大分県豊後高田市

豊後高田市田染蕗に鎮座する富貴寺。
山号を蓮華山と称し、本尊は阿弥陀如来を祀る天台宗の寺院。

 

宇佐神宮から富貴寺までは車で東に30分程走り、国東半島の中央の両子山の山稜西側に鎮座地します。
両子山周辺には六郷満山と呼ばれ、古くから神仏習合の形態を持つ寺院が鎮座し仏教文化が栄え、宇佐神宮と関りの深い土地柄でもある。

富貴寺全景。
門前を横切る道路は県道655号線で県道を挟んで向かいに駐車場が用意されています。
県道からの眺めは、石垣が幾重にも積まれた上に伽藍が建てられ、さながら砦の様でもある。

県道沿いの周辺マップと富貴寺に伝わる大榧(かや)の木の言い伝えの解説。

その昔ここには巨大な榧の木が聳えており、仁聞菩薩様がこの地に霊場を開こうとして、この榧の木で大堂を建て、仏像を刻むため、木びきがこの樹を伐採する事になった。
ところが伐っても〃次の朝には元通りの姿に戻って困っていたと云う。
木びきが困っていると、ヘクソカズラがやってきて「木から出るおがくずをその日のうちに焼いてしまえば倒せる」と教えてくれ、木びきはそれにしたがうと榧の木を伐採する事が出来た。
仁聞菩薩様はこの樹から仏像を刻まれ、大堂は竹田の番匠に命じて建てさせました。
これが国宝富貴寺であり、今でも信者に親しまれている。

富貴寺は平安時代宇佐神宮宮司の氏寺として開かれた寺院で、言い伝えの榧で築かれた大堂は国宝に指定されています。
この大堂は平等院鳳凰堂、尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、九州に現存する木造建築物では最古のものとされます。

言い伝えに出てくるヘクソカズラの正体はよく分からないが、身近なところで庭に生える山芋似の葉をして、刈ると臭いし実も臭い雑草のへクソカズラが思い浮かぶがそれではなさそうだ。

門前の覆屋に年代は不明ですが一部欠損した仁王像が安置されています。

門前から仁王門の眺め。
年季を感じさせる古い石段は真っすぐに上へ伸びています。
参道脇には十王が刻まれた石殿や石幢と呼ばれる火袋のない石灯籠が立っており、他にも笠塔婆などが見られます。

踊り場のない一直線に続く石段と仁王門、訪れた時には折しもコスモスが咲き彩りを与えていた。

参道脇に二つの案内板。
天台宗 蓮華山 富貴寺
宇佐六郷満山霊場4番札所
養老2年(718)仁聞菩薩開基
平安時代宇佐神宮宮司家の祈願所であった。
蕗浦阿弥陀寺(現富貴寺大堂)の別当として、宇佐宮司家の保護のもと九つの坊を持ち、平安末、鎌倉初期にかけ權勢を誇ったが、武士の台頭や戦国時代の混乱などで衰退していった。
江戸に入り、徐々に復興され、除災招福、五穀豊穣を祈願する祈願所として法灯を護持している。

本堂
本尊 阿弥陀如来(県指定無有形文化財)、不動明王
富貴寺大堂(国宝 不弥陀堂)
本尊 阿弥陀如来(国指定無有形文化財)。
限りない光(智彗)と限りない命をもって人々を救い続ける西方極楽浄土の仏さま。
憤怒の顔はどんな悪人も仏道に導く心の決意の表れとされ、仏法の障害となるものは怒りをもって屈服させるが、仏道に入ったものには常に守護をして見守る仏さま。

毎月縁日
毎月15日、阿弥陀如来縁日。
 午前11時 阿弥陀護摩供 富貴寺本堂。
 午後15時先祖回向 阿弥陀堂
毎月28日、不動明王縁日。
 午前11時 不動護摩供 富貴寺本堂。」

富貴寺仁王門。
入母屋瓦葺の素木で棟を支える4本の柱と前に2本、後ろに4本の柱を持ち、左右の間に仁王像が安置されている。
前の二本の柱は長い飛貫で繋がり、そこに「安養閣」の大きな額が掛けられています。
建立年代は不明ですが、周囲の景観に溶け込んだ落ち着いた佇まいの門。

左右の間の石造仁王像。
制作年代は不明ですが、一つの石から刻み込み形作られている。

仁王門をくぐった境内の富貴寺伽藍配置と境内の石造物の配置図。
境内は仁王門正面に国宝の大堂、右側に修復中の本堂、大堂左に白山社、大堂後方の奥の院「薬師岩屋」が主な伽藍。
国東塔や石仏などが大堂を取巻く様に安置され、実に多くの石造物が見られます。
こうした岩は阿蘇の巨大噴火がもたらした加工しやすい岩が容易に入手できたこともあるのだろう。
一帯には露出した岩盤に彫られた摩崖仏が多く、大分の旅行では臼杵石仏群や鍋山の摩崖仏を見て廻ったが石造物マニアにとって宝庫なのかもしれない。

国宝の大堂。
近畿地方以外に現存する平安建築の一つで、現存する木造建築物では九州最古のものとされ、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつだとされます。
大堂内は国宝の本尊阿弥陀如来はじめ、四面に描かれた壁画は日本四壁画の一つに数えられ、極楽浄土の世界を表したと云われる阿弥陀浄土変相図が拝観出来る。
照明が落とされた薄暗い堂内の撮影は禁止、それもそうだろう壁画は脱色、剥離が著しく復元修理を待つまでは外界から閉ざされている。

瓦葺の方型の大堂は過去に文和2年(1353)に改修を受けたそうで、直近では昭和23年~25年(1948~50)に大修理が行われたようです。
この大堂の瓦は行基瓦と呼ばれ、平瓦の上に先を狭めた半切りの瓦が並べられたもので、仁王門の瓦と比較すると違いが分かります。
綺麗な瓦は昭和40年(1965)に改修されたそうです。

蓮華山 富貴寺 国宝阿弥陀如来、大堂壁画、阿弥陀如来坐像解説。
現在は富貴寺と書きますが、往古は富貴ではなく蕗の薹の蕗の字を使い蕗寺、蕗浦阿弥陀寺と称した様です。
阿弥陀堂は建築様式や壁画の描法から約900年前の平安時代末に創建されたとされるそうです。
本尊の阿弥陀如来も同時期のものと推測されるそうです。
堂内の四本の柱に描かれた胎蔵曼荼羅や壁画の劣化が酷い要因には、先の大戦で受けた空襲の影響が大きい様です。
苦しみに満ちた現実世界から薄暗い堂内に一歩踏み入れれば、麗しき別世界が広がる。

上は栞の堂内写真を引用。
撮影用にライトアップされていますが、実際は相当暗く、脱色・剥離の進む壁画は読み取れない。
復元の元になる絵が残されていればいいのだろうが・・・

同じく本尊の阿弥陀如来坐像。

上も栞から引用した本堂安置の阿弥陀三尊像。
左が去勢菩薩、阿弥陀如来坐像、観世音菩薩。

大堂から一歩外に出れば「愚か者と罵倒しながら同じ道を歩み、土産を買うのが公務だと宣う輩、嘘はついていないという大嘘つき、一度も姿を見せない国民の代表」明るいが泥沼の様に深くて暗い愚か者が徘徊する現世に戻る。

そこには国東塔と呼ばれる経典を納めた宝塔がある。
こうした国東塔は時を経て墓標化し、この国東塔も墓標として慶長8年(1603)に建てられたものという。

奪衣婆・十王像。
大堂左の斜面に建てられており地獄において亡者の審判を行う十尊はじめ去勢菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来大日如来虚空蔵菩薩、奪衣婆の石像群が安置されている。

大堂後方を奥の院方向に進む、そこもまた大小の石塔や石仏が見られます。

奥の院 薬師岩屋に続く石段。
こちらの石段も角が取れ年月の流れを感じさせるもの。

石段途中から行基瓦の大堂を見下ろす。

奥の院 薬師堂。
山肌に露出した岩肌を削り堂を作ったもので、三つ巴の紋が入った紫の紋幕が吊るされている。

堂内には三体の石仏が安置されており、内二体は薬師如来
元々は一体で文化年間(1804~1818)に安置していた像が盗まれ、仏師に依頼し新たな薬師如来像を安置していた、一年ほどして盗まれた薬師如来像が人知れず戻されており、それ以来二体の薬如来像が祀られていると云う。
残りの一体は風化が進んで像容は判別できないほどだった。

境内左の白山社。
石の明神鳥居、貫や島木、笠木の両端の跳ね上がりが強調されたもの。
額には「大権現」とあり、柱に寄進者の名が刻まれていたが元号は分からなかった。

由緒によれば以下。
当初は六所権現であったが、現在は白山社と呼ばれ「蕗村の宗廟であり村唯一の古社である、勧請は定かではなく、白山妙理大権現、相殿の神5座と合わせ六所大明神と呼ぶ」とある。
当時は御神体板6枚、御神体木像6体、脇に妙見菩薩があったとされ、村を挙げて奉射祭もあったとされる。
造立は寛文6年(1667)。
宝暦9年(1760)に消失。
現社殿は宝暦11年(1762)のもの。
同時に消失した拝殿は文政2年(1819)に再建された。
拝殿には当時描かれた天井絵が残り、古くから富貴寺の鎮主として崇敬されたが、明治の神仏分離以降村社として今に至った。
現在は御神体の白山妙理権現は富貴寺でお祀りしている。
……。
六所権現とは
六郷満山寺院の鎮主として古来より祀られてきたが、明治の神仏分離令の際に他の名前の神社に変ったものが多い。
祭神は宇佐神宮比売神神功皇后と隼別皇子、小葉枝皇子、雄鳥皇子の宇佐若宮の四神を祀るとされるが、実際は定かではなかったようです。
六所権現の名は安貞2年(1228)の六郷満山の目録にも見られ、中世から六郷満山寺院の鎮主として崇敬されていた。

社殿全景。
入母屋瓦葺の拝殿と切妻瓦葺の鞘殿のみで、狛犬などは置かれていない。

由緒に書かれていた拝殿の天井画。
この地方の植物や人物だろうか? 格子天井の一面毎に描かれているが写りが悪く識別は出来なかった。
文政2年(1819)に描かれた天井画、色も脱色が進みこのまま朽ちるにまかさせるにはもったいない。
復元修理の工事明細を見た事はないが…庶民の僅かな賽銭如きでは

鞘殿。
僅かばかりの賽銭で参拝させてもらう。

境内の外れに何かの記念碑があったが建ち寄らなかったため詳細は不明。

本堂前の山門。
参拝当日は本堂の改修工事中で堂の姿は見られなかった。
以下は参道脇の改修工事案内板から抜粋。
「現本堂は江戸時代中期の正徳5年(1715)の建立とされ、国東半島の六郷満山寺院の特徴である庫裏と本堂が一体となったものとしては最古のものとして古式の六郷満山寺院の形式を今に残すもの。
経年劣化が進み約3年計画で解体調査、復元作業が進められている。
併せて、過去一度も修復されてこなかった江戸時代のものとされる本堂の本尊不動三尊、掛け軸なども修復の手が施される。」
本堂右に仮本堂でありそちらで参拝は出来ます。

境内一番右に仮本堂。
正面に阿弥陀如来、右に真赤な火炎を背にした不動明王の姿がある。
左の厨子阿弥陀三尊の姿を拝める。

参拝もひと段落、そろそろ富貴寺を後にしよう。
帰り際大堂の鬼瓦を一枚。
そこには現世の呆れる輩にお怒りなのか彫の深い鬼の形相がある、その下にはまっとうに現世を生きる民衆をやさしい顔で救いを差し伸べる弥勒菩薩の姿がある。

このお寺、猫を飼われているようで、一匹や二匹ではなさそうだ。
とても人懐っこく、呼べば「触ってよ」とばかりにすり寄ってくる。
この子は石造ではなくお昼寝の真っ最中、幸せそうによく寝入っているものだ。
仁王門から石段までは黒猫が先導してお見送りしてくれた。
山間の長閑なこの地、華やかに見え実は深くて暗い闇のある都会と比べるとある意味極楽の様な場所だ。

富貴寺
山号 / 蓮華山
開基 / 養老2年(718)仁聞菩薩
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 大分県豊後高田市田染蕗2395
参拝日 / 2022/10/28
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