円覚寺。
大河も終わったし、春節前なら比較的空いているのでは、そんな目論見で鎌倉の寺社を訪れた。
円覚寺へは駅から徒歩2~3分の静かな鎌倉の町に総門を構えています。
南は相模湾に面し、三方を山に囲まれた鎌倉は、その山々いくつもの谷筋があり、「谷戸」と呼ばれ、こうした谷に人々は生活を営んでいました、そうした立地が防衛的に有利とされ、頼朝はここに鎌倉幕府を置いたされます。
総門。
左右に「臨済宗大本山円覚寺」の寺標と「北条時宗公御廟所」の石標が建ち、石段の先に総門が聳えています。
総門から境内の眺め。
総門をくぐった境内は、左が拝観受付、右が駐車場になっており、正面には再び石段が現れ、目の前の山門に続く。
瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まってきたという逸話からつけられたといわれます。
参道左の柏槇の古木は市の天然記念物という。
倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。
選仏場。
仏殿の左に建つ茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟を持つ建物で、名が示す様に仏を選び出す場所という意味を持つ修行僧の坐禅道場のこと。
創建当初の建物は、建武2年()の境内絵図によれば、山門と仏殿の間の左側に裳階付きの大建築として描かれていると言う。
しかし永禄6年の大火で焼失、現在の建物は元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進しそれを所蔵する場所と禅堂を兼ねて建立されたもの。
中央が南北朝時代のものとされる薬師如来像。
右は大慈大悲観世音菩薩像。
左は解説には記されていなかったが不動明王座像の三体が安置されていた。
仏殿から先に進み方丈方向へ向かうと、正面に見えるのが勅使門。
天保10年(1839)に建立された唐破風門で梁の蟇股や木鼻には手の込んだ彫が施されています。
扉には見事な龍の透彫りが施されています。
上が方丈側から門を見て右側、下が左側のもので、下に波濤、上に雲が描かれ中央に躍動感あふれる龍が施されています。
大方丈。
この方丈前の庭園にも仏殿前で見かけた柏槇の古木が聳え、市の天然記念物に指定を受けています。
訪れた当日は、膨らみ始めていた梅の蕾が一部花開き、春の訪れを告げていました。
方丈の裏には心字池を中心とした庭園がありますが、この時期は彩りには寂しいものがあります。
方丈から少し先に進んだ左にある舎利殿。
山門の額には「萬年山」とある。
舎利殿には、「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。
源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものとされ、鎌倉にあった太平寺の仏殿を移築したもの。
この先に入母屋杮葺きで裳階の付く国宝舎利殿がある。
無学祖元禅師をお祀りした開山堂と共に円覚寺随一の幽邃の地とされ、特別拝観期間以外は修行の場故に拝観が規制されている。
佛日庵 円覚寺開基廟。
開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である鎌倉幕府8代執権・北條時宗、その子で鎌倉幕府の9代執権・貞時、孫の鎌倉幕府の14代執権・高時が祀られている。
時宗は、この場所に庵を結び、禅の修行に没頭し精神鍛錬に励んだと伝えられる。
境内左に千手観音菩薩を本尊とする本堂があり、こぢんまりとした美しい庭園があります。
この時期の庭園には、白い綿のような花を付けた樹や、椿、水仙など枯れた冬景色に僅かばかりの彩りを与えてくれていた。
堂内の聖観世音菩薩像。
円覚寺塔頭寺院の一つで、山門から右に向かった円覚寺境内に鎮座する寺院。
門から境内の眺め、山門の額には「如意」とある。
開基は応安3年(1370)頃に上杉憲顕より開創されたと云われ、無礙妙謙の死後に無礙妙謙の塔所として開創されたとされ、本尊は宝冠釈迦如来を祀るそうです。
山門と仏殿の間から右に進んだところに弁天堂の社頭があり、上に向かって石段が続きます。
この石段の先に国宝の洪鐘があります。
江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂で、北条貞時が洪鐘とあわせてここに弁天堂を建立し、当山の鎮守としたとされます。
関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5㌢)で、円覚寺の開基である北条貞時が、正安3年(1301)に国家安泰を祈願して寄進されたものとされる。
山門左に鎮座する円覚寺塔頭寺院の一つで本尊は矢柄地蔵を祀り、創建時期は定かではないようです。
臨済宗大本山円覚寺
所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内409
参拝日 / 2023/01/17
関連記事 / 神奈川県一之宮巡り §1『円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮』