北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓。

白旗神社(大蔵白旗神社)と頼朝墓を後に、山裾沿いを東に向かうと左手に北条義時法華堂跡に続く石段が現れます。

石段両脇に常夜灯が立てられ、石段の先が北条義時法華堂跡がある。

安政5年(1859)に寄進された毛利家の一文字三星の紋が刻まれた常夜灯。

石段を上り切ると視界が開け、右側に源頼朝墓で見かけたものと同じ「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と記された石標が立っている。
「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。
堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」
吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定地されるようです。
遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)を白い線で表しています。
頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えます。
正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。
鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。
解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。

「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。
堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」
吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定地されるようです。

遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)を白い線で表しています。
頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えます。
正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。
鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。

解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。

宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人が頼朝の法華堂に籠り自害したとされ、ここで三浦一族の供養が行われていたと云う。
訪れる方は今も絶えることはないようです。
「近世に造営された3つの墓所

訪れる方は今も絶えることはないようです。

「近世に造営された3つの墓所
左 毛利季光の墓
毛利季光(生年不明~1247没)、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。
朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。
朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。
中央 大江広元の墓
大江広元(生年不明~1225)、鎌倉幕府の政所初代別当を務め幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した。
公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。
公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。
広元の墓の左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。
この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。
この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。
右 島津忠久の墓
島津忠久(生年不明~1227没)、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物。
忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。
忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。
島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営」
毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。
毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。





鎌倉幕府を支えた三氏の墓はこうして残りますが、石標に書かれていた義時の墓は見かけない。

霊屋としての法華堂は消失を繰り返し荒廃していったようですが、堂の再建はともかく、義時の供養塔のひとつが立てられなかったのだろうか。
頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中で、頼朝亡き後、執権政治を確立した北条家は権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。
北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓
所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5
頼朝法華堂碑から徒歩ルート / 東に1分程
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