『揚輝荘北園・豊彦稲荷社』名古屋市千種区

週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、4/7日曜日の予報は外れ、暑いくらいの好天となった ならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました


千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔 日本らしい春の光景が広がっていました ここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに


揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘 大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました 南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れます この北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました


園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました 正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室


伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています


松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭


鳥居から本殿の眺め


財力を示すかのような個人所有の神社


鞘殿全景


豊彦稲荷社由緒 「祭神 宇迦御魂神 御神体 白狐 祭日 初午祭(4月上旬) 由緒 京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されました それを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀 その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました 大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました 現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています 御神徳 五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など 現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」 伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです


後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所) 信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうか また、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 


稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています


鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め


豊彦稲荷社 創建 / 寛延2年(1749) 祭神 / 白狐


白雲橋と三賞亭(有形文化財) 稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋 両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている 大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという


入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです 橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません

天井に描かれている女性の横顔 携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます

白雲橋と豊彦稲荷社 庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません 揚輝荘北園 訪問日 / 2024/04/07 所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21 公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から​北へ10分以内


それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか

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