磯崎神社から国道419号線を藤岡小原方面に進み、飯野地内の信号で右折、100㍍程直進した左側に飯野 秋葉神社の社頭に着きます
磯崎神社からだと、車の場合は移動時間5分程、距離にして1.5㎞ほどの飯野町坂口に鎮座します
鳥居の先には農村舞台があり、舞台の先に社殿が見えます
石段右に大正7年(1918)に寄進された秋葉神社社標が立てられています
「十二等級 秋葉神社 旧指定村社
鎮座地 西加茂郡藤岡町大字飯野字坂口887番地
祭神 迦具土命、大名持命、少彦名命
由緒
社伝に、享保6年(1721)遠州秋葉山より勧請し、火防の神として氏子の崇敬あつく、また豪者 義民飯野八兵衛深く信仰するとあります
明治6年(1873)、無挌社として据置公許となる
同44年(1911)、字仲ノ下、無挌社御嶽神社を本社に合祀した
大正10年(1921)、村社に列挌
同11年10月24日供進指定社となった 藤岡町観光協会」
この由緒に追記できそうな情報は以下
愛知県神社庁 「氏子域藤岡飯野町、例祭日10月第3日曜日3」
西加茂郡誌に飯野 秋葉神社は記載されていたが創建は未詳とされていました
深見 農村舞台同様の造りで、入母屋平入で、屋根は瓦葺で入母屋屋根に裳階が付く舞台
舞台は明治28年(1895)に建立され、現在までに幾度か補修されていますが、全体としてはしっかりとした構造を保っています
一本の長い梁が瓦葺の屋根を支えています
例祭時には飯野棒の手保存会による見当流棒の手、献馬、神輿、祇園山車、餅投げなどの奉納が行われ、この広い境内も人で溢れるのだろう
左に手水舎、社務所があり、中央に祭文殿、本殿域で、右側に境内社が纏められています
正面の神門は透塀と一体となり、側面と後方は築地塀が本殿域を囲んでいます
その構造は詳しくは分からないが、本殿前の陶製と思われる小さな狛犬がこちらを見つめている
棟持柱も良く見える神明造りで一間向拝が付く大きな本殿で、6本の鰹木と外削ぎの千木が付く
豪者 飯野八兵衛が崇敬したとされる迦具土命、大名持命(大国主)、少彦名命の三柱を祀る
その右に石の社が祀られていますが社名は分からなかった
ここから左の社地西外れに飯野八兵衛碑が立てられています
右手の解説の内容は以下
「義人追慕
飯野八兵衛は、享保11年(1728)三州飯野村で生まれた
母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った
重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わった
その頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だった
けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した
彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1.241人の中より305人を引き連れ、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった
江戸に於ける彼の活動は凄まじかった
恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げ、その上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた
かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた
最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた
この時27才、まさに巨星落ちるの感があった
犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である
飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである」
当時は地方の実情を伝えるためには、死を覚悟しなければならない時代でした
そう思うと、今は容易にSNSなどで声を伝えることができる
時代は変わり、地方の声を伝えに向かわせた代表は、志を忘れ私利私欲に走る
愚策や愚行に対して庶民が声を上げ続ける事は必要な事だ
磯崎神社からだと、車の場合は移動時間5分程、距離にして1.5㎞ほどの飯野町坂口に鎮座します

鳥居の先には農村舞台があり、舞台の先に社殿が見えます

石段右に大正7年(1918)に寄進された秋葉神社社標が立てられています

「十二等級 秋葉神社 旧指定村社
鎮座地 西加茂郡藤岡町大字飯野字坂口887番地
祭神 迦具土命、大名持命、少彦名命
由緒
社伝に、享保6年(1721)遠州秋葉山より勧請し、火防の神として氏子の崇敬あつく、また豪者 義民飯野八兵衛深く信仰するとあります
明治6年(1873)、無挌社として据置公許となる
同44年(1911)、字仲ノ下、無挌社御嶽神社を本社に合祀した
大正10年(1921)、村社に列挌
同11年10月24日供進指定社となった 藤岡町観光協会」
この由緒に追記できそうな情報は以下
愛知県神社庁 「氏子域藤岡飯野町、例祭日10月第3日曜日3」
西加茂郡誌に飯野 秋葉神社は記載されていたが創建は未詳とされていました

深見 農村舞台同様の造りで、入母屋平入で、屋根は瓦葺で入母屋屋根に裳階が付く舞台


舞台は明治28年(1895)に建立され、現在までに幾度か補修されていますが、全体としてはしっかりとした構造を保っています
一本の長い梁が瓦葺の屋根を支えています


例祭時には飯野棒の手保存会による見当流棒の手、献馬、神輿、祇園山車、餅投げなどの奉納が行われ、この広い境内も人で溢れるのだろう

左に手水舎、社務所があり、中央に祭文殿、本殿域で、右側に境内社が纏められています





正面の神門は透塀と一体となり、側面と後方は築地塀が本殿域を囲んでいます



その構造は詳しくは分からないが、本殿前の陶製と思われる小さな狛犬がこちらを見つめている

棟持柱も良く見える神明造りで一間向拝が付く大きな本殿で、6本の鰹木と外削ぎの千木が付く
豪者 飯野八兵衛が崇敬したとされる迦具土命、大名持命(大国主)、少彦名命の三柱を祀る


その右に石の社が祀られていますが社名は分からなかった



ここから左の社地西外れに飯野八兵衛碑が立てられています

右手の解説の内容は以下
「義人追慕
飯野八兵衛は、享保11年(1728)三州飯野村で生まれた
母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った
重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わった
その頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だった
けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した
彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1.241人の中より305人を引き連れ、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった
江戸に於ける彼の活動は凄まじかった
恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げ、その上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた
かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた
最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた
この時27才、まさに巨星落ちるの感があった
犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である
飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである」
当時は地方の実情を伝えるためには、死を覚悟しなければならない時代でした
そう思うと、今は容易にSNSなどで声を伝えることができる
時代は変わり、地方の声を伝えに向かわせた代表は、志を忘れ私利私欲に走る
愚策や愚行に対して庶民が声を上げ続ける事は必要な事だ
飯野 秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土神
境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社
所在地 / 豊田市藤岡飯野町坂口887
磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を、移動時間約4分程
参拝日 / 2024/04/06
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