淨專寺
縁あって名古屋市港区本宮町を訪れました
今回はその際に立ち寄った松林山 淨專寺と近くで見かけた髭題目を取り上げます
地下鉄東海通りから中川運河に架かる東海橋を渡り西に向かいます。
写真は東海橋から下流の名古屋港シートレインランドの観覧車、手前にいろは橋の眺め。
写真は市バス東海通りバス停付近の史跡散策路「港区 区中央部の寺社巡り」の案内板。
東海通り沿線には知られた社寺が多く鎮座しているようです。
淨專寺と髭題目へはこの案内板の先の左にある細い路地を南に進みます
東海通りから南に入った路地の眺め。
対面通行の幅員の狭いこの道に大きな車で立ち入ると取り回しに苦労すると思います。
写真左の建物が淨專寺の本堂、路駐の出来る場所ではないので、手前のお寺の駐車場に駐車するといいのでは。
淨專寺本堂全景。
公式ウェブサイトによると、この寺院は京都にある真宗本廟(東本願寺)を本山とする真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来とありました。
その歴史は、「寛政12年(1800)に津金文左衛門が熱田奉行となり、広大な新田を開拓、甚目寺村新居屋の西光寺より一子を招請して、岩倉村の大地より淨專寺を寺地移転し当地域の村立の寺院として創建された」とあります。
寺号標は「真宗大谷派 松林山 淨專寺」
側面に文字が刻まれているようです。
寺号標に刻まれている内容は以下の通りです。 「この地はもと領主徳川公の命により、1800年に津金文左衛門氏奉行となり開拓せられ、甚目寺村新居屋の西光寺より一子を招請し、当地域村立の寺院として創建せられたり、人皆本願念仏の信心に培れ念仏の声今に絶ゆることなき有縁の地なり」と記されています。この寺には、開拓の功労者である津金文左衛門氏の肖像画と分骨が納められています。
津金文左衛門は別名で、本名は津金文左衛門胤臣。
生没年は享保12年(1727)~享和元年(1802)とされています。
尾張藩士・津金胤忠の子として生まれた彼は、津金氏が甲斐武田の家臣であったことから、武田家滅亡後は尾張へ移住し、尾張藩に仕えました。胤臣は津金氏の7代目でした。
彼は文武に優れており、18世紀後半に幕藩体制が揺らぎ、各藩が財政面で苦境に立たされる中、尾張藩も度重なる風水害や飢饉によって財政赤字が累積していました。
津金文左衛門は、藩財政の建て直しを図るために新田開発を進め、寛政9年(1797)に飛島新田(飛島村)の干拓、享和元年(1801)に熱田前新田の開発を完成させました。
津金文左衛門胤臣は熱田前新田の開拓の功労者として知られ、彼は瀬戸陶磁器の発展にも貢献した功労者としても知られています。
津金文左衛門の死は記録では病死とされています、しかし昭和27年(1952)、戦災都市復興計画に基づき平和公園に墓地移転の際、大光寺(中区門前町)で彼の棺が発掘され、遺体の状況から割腹死とする説もあったようです。
遺体は、同年に飛島村で火葬され、村内の長昌院で改葬法要を行い荼毘に付され、平和公園内の平和堂の西にある大光院墓地に墓碑が建てられました。
津金文左衛門胤臣がこの地に残した業績を称えるため、所縁の地である港北公園内や飛島村には、彼を称える碑や銅像が建てられています。
境内の鐘楼
伽藍全体が比較的新しく、修復を受け間もないのかもしれません。
淨專寺
創建 / 寛政12年(1800)
宗派 / 真宗大谷派
寺号 / 松林山 淨專寺
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 名古屋市港区本宮町1-22
公共交通機関アクセス /
・市バス「東海橋」停から南に徒歩5分
・地下鉄名港線「東海通」から西に徒歩20分
淨專寺前の通りから南の眺め。
すぐ先の右手にあるブロック塀の中に髭題目が建てられています。
正面全景。
三方をブロック塀で囲まれ、その中に写真の髭題目が立っています。
右側面に「此中巳有如来全身」と経分が刻まれています。
肝心の後方に回り込めず確認していませんが、恐らくこの塔が立てられた年代が刻まれているものと思います。
題目塔は中村区ではよく見かけますが、港区で見かけた記憶はありません。
もっとも港区自体あまり歩いたことがないのですが。
こうした塔は古い街並みや街道を歩いていると目にします、建てられた年代も様々です。
この塔があることから、この狭い道筋は新田開発時の古い道筋なんでしょう。
本宮町の髭題目
所在地 / 名古屋市港区本宮町1
参拝日 / 2024/05/09
関連記事 / 「豊幡町 髭題目塔」名古屋市中村区豊幡町