下大坪稲荷神社から東の籠川を上流に向け5分程走り、豊田市猿投町畑中地内の建速神社に向かいます。
赤枠で示したところが鎮座地で、社地の少し南側で広沢川が籠川に合流します。
二つの川に挟まれた畑中集落の南外れに建速神社が鎮座します。
広沢川沿いに続く車幅一杯の狭い道を奥に進めば猿投神社の境外末社広沢天神に至ります。
もっとも、建速神社に至る道も十分狭く、道を譲る、幅寄せ、それら苦手な人は踏み込まない方が賢明。
畑中集落の交差点の左に社頭があり、写真右手に天王森公民館があります。
社頭全景。
社頭左に常夜灯が一基、右手に平成6年(1994)寄進の「天王森 建速神社」の社標があります。
拝殿は瓦葺の四方吹き抜けの妻入りで、拝殿のすぐ奥に本殿域が迫ります。
拝殿から本殿域の眺め。
建速神社の由緒は西加茂郡誌の畑中で社名の建速神社や津島社として調べて見ましたが、記載されておらず詳細は不明でした。
外観から年月を経た印象はなく、規模の小さな新しい神社と捉えられるかもしれません。
しかし、その認識もすぐにあらためることになるでしょう。
社頭左の常夜灯の竿には江戸時代末期の文化3年(1806)寄進と刻まれています。
これが創建時期とは言えませんが、何世代に渡って守り継がれてきた畑中集落の守り神です。
拝殿左の「猿投下切 棒の手 鎌田流顕彰碑」
碑文は以下。
碑文は以下。
最盛期猿投神社棒の手奉納は十三合宿百八十六ヶ村 明治初期の太政官布告により禁止
明治六年林光治郎近田政吉外数名が猿投神社から通行手形を拝領
三河鎌田流宗家四代目深田佐平汎昌氏から心技習得
明治九年九月目録伝授 猿投下切 鎌田流棒の手発足なり
明治十二年十归奉納再開 今日に至る
令和三年十月吉日
明治六年林光治郎近田政吉外数名が猿投神社から通行手形を拝領
三河鎌田流宗家四代目深田佐平汎昌氏から心技習得
明治九年九月目録伝授 猿投下切 鎌田流棒の手発足なり
明治十二年十归奉納再開 今日に至る
令和三年十月吉日
境内の苔むした手水鉢。
境内の建速神社由緒。
猿投町の4つの嶋(地家・神郷・洞・下切) のうち、下切の嶋の神社として祭られています。
嶋は現在の大字に相当し、猿投神社の大祭には献馬を奉納する単位でもある。
創建年代は定かではなく、素佐男命を祭神として います。
この神社の祭りは天王祭と呼ばれており、山車の上で演奏される祭りの太鼓ばやしは独特の音を響かせます。
7月に行われる「天王祭り」の祭事は、津島の天王祭の流れをくみ、「猿投打ち囃子太鼓保存会」による奉納打ち囃子が披露されるそうです。
公民館の前の広い空き地は、棒の手や祭りの際に使われる広場なんだろう。
一対の常夜灯と狛犬が安置され、本殿域を囲む白塀は神門へ繋がっている。
訪れた時は境内のいろはもみじの緑がとても鮮やかな時期でした。
この稲の穂が下がり始めるころ、普段は静かな建速神社に祭りが奉納され、住民が集い賑わうのだろう。
建速神社は籠川を鎮め、稲の生育を見守るように鎮座しています。
建速神社
創建 / 不明
祭神 / 建速須佐之男命
境内社 / 不明社
所在地 / 豊田市猿投町畑中9
車アクセス / 下大坪稲荷神社から東に向かい籠川右岸を上流へ、猿投グリーンロードをくぐり建速神社まで移動時間約5分
参拝日 / 2024/06/07
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この神社の祭りは天王祭と呼ばれており、山車の上で演奏される祭りの太鼓ばやしは独特の音を響かせます。
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一対の常夜灯と狛犬が安置され、本殿域を囲む白塀は神門へ繋がっている。
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建速神社
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祭神 / 建速須佐之男命
境内社 / 不明社
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