名古屋市中村区太閤『須佐之男社・迦具土社』

8月2日、旅行の申し込みのため近鉄名古屋駅を訪れ、要件をすましたあと名駅南側の神社を参拝してきました。
中村区太閤3「須佐之男社・迦具土社」
名駅の南を東西に延びる太閤通り、通りを西に向かい笈瀬通交差点を左折、三本目の通りの角に神社は鎮座します。移動時間は15分はかからないと思います。

写真のカッパの像が見つかれば、そこが神社になります。
河童と神社は直接の繋がりはなく、関わりは嘗てこの辺りを流れて笈瀬川にあります。

嘗ての当地は当地は伊勢神宮神領で、この地には「御伊勢川」と呼ばれた川が流れていました。
この名が後の笈瀬村や現在の笈瀬通りの名に繋がっています。

上は尾張名所図解の挿絵にある笈瀬川。
笈瀬川には子供好きの河童伝説が伝わっており、宝暦6(1756)年7月3日、曙の景色を見ようとして押切田面を歩いていると、小児が一人あとを付けてきた。
これが「河童」であり、強い力で老士の肩に力をかけて引き倒そうとした。
老子は勇強な男でこれを捕え、睨みつけると河童は笈瀬川へ飛び込んで逃げていったという。
その様子が当時の挿絵に描かれています。


その笈瀬川も都市化に伴い、暗渠になり河童の痕跡は微塵もありません。
笈瀬本通り付近を歩いていると河童のモニュメントが見られますが、なぜ河童なのか、これまで気にも留めずスルーしてきたがこの伝承を伝える目的で置かれています。

上は台座に埋め込まれている河童の由来。
「その昔、川でおぼれていた子供を河童が助けたという。
以来「人助けのかっぱ」と親しまれ、この河童に肖り、笈瀬本通り商店街は家計を助ける「河童商店街」となったとという」
名古屋の玄関口でありながら、駅の西辺りは遊郭や下町風情も残り、東側の町並みとは対照的ですが、リニアの工事に伴いそうした風情も薄れていくのでしょう。

人助けのかっぱ像の裏側に須佐之男社・迦具土社の本殿が鎮座しています。

駅近くの市街地に玉垣で囲われた社地と街中の歩道の真中に御神木の楠木が聳えています。
根は歩道のタイルを押し上げるほどで、市街地故に通行の妨げになるとして伐採されがちだが、地元から御神木として大切に護られている。
境内は西から入り、鳥居と社殿は南向きに鎮座します。
歩道側の入口には社標はありません。

石造の神明鳥居から本殿の眺め。
鳥居の寄進年は昭和13年(1938)7月健之とあった。
太平洋戦争開戦が昭和16年、名古屋への初空襲が昭和17年、名古屋大空襲は昭和19年、標的となる施設が多かったこの地域にあって、鳥居は戦災を免れたようだ。​

境内の手水鉢、年代は未確認。

本殿全景。
手前に一対の狛犬、本殿域に繋がる石段の両脇に社標がある。

石段上り口で守護する狛犬昭和13年7月に寄進されたもの。

二つの社標、左が加具土社で右は須佐之男社。

6本の鰹木と外削ぎの千木が載る本殿は、社標から迦具土神須佐之男命を祀る二社相殿。
神社の由緒は定かにはならず、創建時期も定かではありませんが、この地域に鎮座する椿神明社、牧野神明社、稲穂社、厳島神社とともに、牧野5社のひとつに数えられています。

明治の地図には鳥居の記はなく、創建時期の推測が付かないけれど、笈瀬の集落の除災として創建されたものでしょう。
戦禍から護られたのもこの二柱によるものなんだろう。

下町の風情が残る神社南からビル群が林立する名古屋駅東側の眺め。
大きな影の出来ないこの辺り、小さな影を探しながらの神社巡り、何社巡れるだろう。

須佐之男社・迦具土
創建 / 不明
祭神 / 迦具土神須佐之男
所在地 / 名古屋市中村区太閤3-6-10
名古屋駅から徒歩 / 近鉄名古屋駅から太閤通りを​笈瀬通交差点左折徒歩15分
参拝日 / 2024/08/02
過去記事 / 
椿神明社(名古屋市中村区則武)