京都市中京区寺町通『下御霊神社』

京都市中京区寺町通丸太町に鎮座する下御霊神社
京都御苑の南東角、寺町通丸太町通が交わる交差点の南東に位置し、西国三十三所十九番札所革堂行願寺の一筋北に鎮座します。
京都御苑の周囲ではインバウンド客が多いが、社頭に面した寺町通はそれほど目にしなかった。

下御霊(しもごりょう)神社社頭。
京都御所の南東に位置する神社で、1100年以上前の平安時代から続く歴史のある神社です。
西向きの社頭の左に「府社 下御霊神社」の社号標と正面に朱塗りの明神鳥居と違和感を覚える神門を構えています。

上の由緒から抜粋。
下御霊神社
 平安初期の貞親五年(八六三)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)、伊予親王藤原吉子藤原広嗣、橘通势、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)に奉祀したのが始まりである。

いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。
 
 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。

古来より、京都御所産土神として崇敬され、享保年間(1716-1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。

 本殿は、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。
境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。京都市

神社栞の由緒概略は以下。
「本殿祭神は、何れも国家の為に御尽くしになった方々ですが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨去せられたのであります。
 平安時代の人々は、疫病が流行し災害が起こるのは貴人の怨霊が原因だと考え、慰和する事により御加護を得る「御霊会」が各所で行われるようになりました。

文献上最古の御霊会は貞観5年(863年) 5月20日神泉苑にて行われたもので、その時に祀られた御霊六座に二座加わった八座が当社の御祭神であります。
 かくして疫病退散、都民擁護、朝廷御守護の 神社として崇敬されてきました。

御祭神 本殿八座
 ・吉備聖霊(以下御霊の和魂)
 ・崇道天皇 桓武天皇皇太弟早良親王
 ・伊豫親王 桓武天皇皇子
 ・藤原大夫人 伊豫親王藤原吉子
 ・藤大夫 藤原廣嗣命
 ・橘大夫 橘逸勢
 ・文大夫 文屋宮田麻呂命
 ・火雷天神(上記御霊の荒魂)
相殿一座
 ・天中柱皇 霊元天皇
主な祭礼
 5月1日 神幸祭
 5月第三か第四日曜日 還幸祭 神幸列(鳳輦列・神輿列)巡幸
 8月17日・18日 例祭 宮中御神楽・東遊奉奏」
 
下御霊神社平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊をお慰めして御霊として、当時からお祀りし、疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。

社頭の常夜灯は天保15年(1845)の寄進。

下御霊神社狛犬
嘉永7年(1854)に寄進されたもので、大きな口を開けて笑う阿形の姿と冷めた表情の吽形の姿が面白い。

違和感を覚えたのは、京都御所の旧建礼門を移設したことによるのだろう。
沢瀉に水が神紋の様です。
門の先には寛政10年(1798)に造営された拝殿とその先の拝所が一望できる。

神門左の手水舎。

手水鉢に注がれる清水は、明和7年(1770)京の町を見舞った干ばつの際に、お告げに従い掘りあてた「感応水」、当時の井戸は既に存在しませんが、同じ水脈から湧き出る地下水は、今も空容器をもって採水にくるほど名水のようです。
京都酒蔵館別邸の中庭に湧き出ていたのと同じ軟水です。

境内から眺める拝殿。
この時期の境内にはサルスベリの白い花が彩りを添えてくれている。

 本殿・幣殿・拝所・南北廊・拝殿
現社殿は、天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。
 本殿は天明八年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。
本殿の前に切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。
 また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。
本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社特有のもので、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である。
 また、拝所の前方に独立して建つ拝殿は、寛政十年に造営されたものである。
昭和五十八年六月一日 指定 京都市

拝殿西側の境内五社相殿。
手前から
日吉社 / 祭神日吉大神 / 文化4年(1807)。
愛宕社 / 祭神愛宕大神 / 愛宕山に坐す火伏神。
大将軍社 / 祭神大将軍八神。
高知穂社 / 祭神高知穂神。 
斎部社 / 祭神斎部神 / 社家の先祖神。

五社相殿の右が大国主命事代主命社。
神大国主命、事代主命 / 文化4年(1807)。

天満宮社。
西参道から入った左に鎮座し祭神は北野大神を祀る。

社地西側から拝殿の眺め。
入母屋妻入りの拝殿は寛政10年(1798)に造営されたもの。

唐破風造の拝所。
寛政5年(1793)の造営で、その先の幣殿には左右から廻廊が接続しています。
解説にあったように現社殿は天明8年の大火で焼失後、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所仮殿から移設されたもの。

拝所の両脇を守護する狛犬(寄進年未確認)

幣殿両脇には写真の随神像が安置されています。

拝所脇の本殿・八咫鏡霊元天皇の解説。

幣殿から本殿方向の眺め。
額は「御霊社」手前には勇猛な容姿の黄金色の狛犬が守護する。
拝所から左にも境内社が祀られていたようですが、見落としていたようです。

拝殿から神門方向の寺町通の眺め。

拝殿左の境内全景。
右手が神楽所、宗像社と鎮座、赤い鳥居の稲荷社、その左が猿田彦社。

稲荷社(右)、と猿田彦社(左)。

稲荷社本殿。
祭神は稲荷大神

その左の猿田彦社。
拝所の額は右から江戸時代前期の儒学者山崎闇斎を祀る垂加社、猿田彦大神、柿本大神の額。
随分境内社を参拝し忘れていたようで、後日HPを拝見したところ、下の境内図があったので訪れた際には参考にされると漏れはないと思います。

下御霊神社
創建 / 貞親5年(863)
祭神 / 崇道天皇、伊豫親王、藤原大夫人、藤大夫、橘大夫、文大夫、吉備聖霊(前記御霊の和魂)、火雷天神(荒魂)
境内社 / 日吉社愛宕社、大将軍社、高知穂社、斎部社、大国主命事代主命社、天満宮社等
所在地 / 京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
参拝日 / 2024/08/06
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