中村区中村本町 『石神社』

まだまた暑かった9月19日、笈瀬村米野、牧野、下中村周辺の神社巡りもここ石神社で一旦終わりとなります。

石神社社頭から東の名駅ビル群の眺め。
前回の下中八幡宮から東へ5分程、住宅地の中の二本の御神木の聳える場所が石神社になります。

上は明治31年の地図とほぼ現在の地図の比較、赤枠が石神社の鎮座地で、左下の下中八幡宮とは僅か5分程の距離にあります。
明治東島地図から見ると、鎮座地は柳街道から分かれて下中集落に繋がる道筋の入口側に位置しています。

社頭には提灯櫓、明神鳥居を構え、社殿と社務所が主な建物。
境内の二本の御神木のうち、大きな松の樹が印象に残ります。

社頭の解説と石神社社標。
解説の内容は以下です。
「石神社
 倉稲魂命
昔より子供の熱病神、通称石仏で村内の崇敬高き神社で、創祀300年位前と言われ。
 当時より子供の熱病(オコリ病)の折祈願するとその平癒は速であることが有名である。」

因みに愛知県神社庁には記載されておらず詳細は不明でした。
国立国会図書館デジタルライブラリーから「中村区の歴史(名古屋区史シリーズ5)」に目を通すと以下の記述があったので掲載します。

1983年に出版された同史の石神社解説。
「中村本町3丁目44番地。
 祭神倉稲魂。
当社は八幡社の末社である。
 むかし農夫が大八車で名古屋から帰る途中、路傍の石仏をバランスをとるため乗せてここまで来たところ、動けなくなり捨てていった。
それを祀ったという。
 「愛知郡村邑全図」によると現在地の東方、惣兵衛川西の杁の北側にあったことがわかる。
そこは郷の入口でもあり、地割の伝承も伝えられている。
よって「オシャグシ」と推測される。
 「オコリ」(熱病)の神とされており、現在地に祀られるまでに2.3ケ所場所を変えている。」

とあった。
オコリ(瘧)病とはなんぞや、ググってみると腹痛、高熱をともなう病気とある。
三日熱とするサイトもあればマラリアに似た熱病と書くものもある。
親の立場からすると子どもの成長期に高熱が続くのは不安でしかない、医療の発達していない当時になんとかしてやりたい、その思いの拠り所が石神社なのだろう。
我が家の息子達の幼少期もそうした時期があり、熱が出るのはイベント前日の夜と決まっていた。
夜間診療所やキャンセルの電話に追われた時期はありました、そこまで御利益のある石神社の存在を知っていたらひょっとして祈願に訪れていたかもしれない。

上は寛政期(1789-1801)に編纂された愛知郡村邑全図の下中村の石仏である。
現在の八幡宮の位置から見ると少し北側に位置していたようで、何度か遷座しているとあるので当時はこの辺りに祀られていたのだろう。
文中に八幡社の末社とありますが、ここでいう八幡社とは恐らくすぐ西側の下中八幡宮を言っているのではないだろうか。
今昔マップの年代別地図には神社を示す記載は見られなかったが、中村区の歴史・愛知郡村邑全図・解説から創祀300年は間違いないのだろう。
捨てられたとされる石仏については、どの記述にも見られず、その後が気になるところでもあります。

石神社社標。
戦前の昭和16年に立てられたもので、寄進年を確認した唯一のもの。

境内右寄進年未確認の手水鉢。

切妻平入の拝殿に長く延びる向拝が付く。

拝殿前の狛犬
年代は未確認ですが、社標の寄進年より後のものと思われます。

向拝から御神木の眺め。
社頭から下中集落に向かうこの道筋も以前は松並木が続いていたのかもしれない。
大きな松は害虫の影響から数が減っているとも聞きます、古い街道から松並木が消えてしまう日も訪れるのかもしれない。

拝殿から脇障子が付く流造?の本殿の眺め。

境内右から社殿の眺め。

本殿後方から社頭の眺め。
壁の先の本殿域には石仏の姿は見られなかった。
往古は田んぼの広がるこの辺り、祭神からして五穀豊穣の守護として祀られたのが始まりだったのかな。
捨てられていた石仏を村人が祀り、子の熱病を案じ祈願し平癒した事から認知されたのだろう。
医療が発達した現在とはいえ、家族が病に伏せれば誰しも医療技術以外の何かに救いを求める衝動があるのは事実だろう。

石神社
創建 / 不明
祭神 / 倉稲魂命
境内社 / ・・・
参拝日 / 2024/09/19
所在地 / 名古屋市中村区中村本町3
下中八幡宮から徒歩 / ​​​​下中八幡宮から東へ5分程​​​
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