圓頓寺山門前の髭題目

10月19日、名古屋タワーズに出向く機会があり、混みあう地下鉄に乗るのを見送り、歩いて円頓寺商店街に向かいました。

目的もなく歩いて来ましたが、円頓寺本町商店街に来るとついつい立ち飲み屋に立ち寄ってしまう。
無意識のうちにここを目的にしているのだろうか。
平日午後の商店街は行き交う人も少なく、お酒の神さまも先客ふたりと寂しい限り。
こちらで一杯ひっかけ、商店街を堀川方向の最寄りバス停まで歩いて行きました。

写真は円頓寺商店街の中ほどに鎮座する圓頓寺
円頓寺商店街は、この圓頓寺山門前の門前町が始まりです。
過去に何度かイベントで訪れていますが、今回はこの山門前の題目塔を取り上げます。

山門右の寺号標。

日蓮宗 長久山 圓頓寺山門全景。
承応3年(1654)に、普敬院日言上人によって開創されたお寺。
開創当初の寺号は普敬院と称しましたが、明暦2年(1656)に圓頓寺に改名されています。
当初は、中橋の西の浅間神社あたりに鎮座していました。
しかし享保9年の大火(1724)で伽藍を焼失、翌年に今の場所に再興されました。
太平洋戦争で山門を残して灰燼に帰したが再建され、平成16年(2004)に現在のコンクリート造りの伽藍に生まれ変わった。

山門横の解説は以下の内容です。
「長久山 圓頓寺
日蓮宗 承応3年(1654)
 普敬院日言上人により創建。
当初は普敬院と称したが圓頓寺に改められた。
 本堂脇の堂には、子供の守護神にと藩祖義直公の側室より寄進された鬼子母神像を安置している。
名古屋城天守閣棟木の余材で刻んだこの像は、毎月18日に公開される。」

鬼子母神の由来についてHPでは以下のように記載しています。
「奉安されている鬼子母神様は「子安の鬼子母神様」。
 子安とは「子育て安産」のこと。
現在は、子供は生まれて育つのが当たり前と思われがちです。
 しかし江戸時代は違います。
当山が尾張徳川家より鬼子母神様御尊像を拝受いたしました江戸時代初期は、徳川御三家筆頭の尾張家であっても母子共に健康に出産できるとは限らない時代だったのです。
 無事出産を感謝して贈られた御尊像です。
当山第2世 玄収院日道上人は加持祈祷に優れ、尾張初代藩主、義直公の側室のご信奉あって、安産祈願・子育て祈願。
 後に尾張徳川家2代 光友公を出産し、名古屋城築城時の棟木の余材で作られた鬼子母神像を寄進されたと伝わります。」

上は国立国会図書館デジタルライブラリー「尾張年中行事絵抄(文政13年)」に、鬼子母神参詣で賑わう円頓寺山門前の様子が描かれており、左手の丸部分に石の燈籠と宝塔の姿が描かれています。

これは当時描かれたものと同一の常夜灯。
寄進年は「文化十年癸酉九月吉日」と刻まれており、外観から今から211年前に造られたものには見えません。
当時は堀川も整備され、火災により拡幅された四間道は多くの蔵が立ち並び人で賑わっていたはずです。
後の空襲で焼かれても、古い町並みや屋根神さまが残った背景にはこの四間道の存在もあるのでしょう。

常夜灯の先に立つ題目塔。
光明点書法で書かれた独特の文字は日蓮の書体を模したものとされ、髭題目とも呼ばれています。
名駅の西で見かけますがこのあたりで、この塔を見かけた記憶はありません。
全周が撮れず申し訳ないですが、後方には「文化十年癸酉十一月」と刻まれていました。

空襲により伽藍を焼失しながらも、塔の中央に走る大きな罅や黒ずみは空襲により傷ついたものなんだろうか?
何度も訪れながら、改めてその存在に気付かされました。

長久山 圓頓寺 題目塔
所在地 / ​名古屋市西区那古野1-11-7
訪問日 / 2024/10/19
関連記事(髭題目)

「題目塔」名古屋市中村区塩池町