櫻山八幡宮へ導く象徴的な存在、この大鳥居からはじまり、ニノ鳥居、三ノ鳥居の三つを構えていますが、海外の観光客にとって鳥居は絶好の記念撮影スポットなのか、どこも人で溢れています。
参道中ほどの交差点の角に立つ桜山八幡宮の大きな社標。
ニノ鳥居。
参道脇の由緒内容は以下。
「桜山八幡宮
祭神 八幡大神、熱田大神、香椎大神
仁徳天皇の御代(377年頃)、両面宿儺(りょうめんすくな)誅伐征のため難波根子武振熊命が応神天皇を祀って奉告祭を斎行された斎場といわれる。
清和天皇の御代、この地を八幡宮の神域と定められたと伝えられている。
大永年間、石清水八幡宮より神霊勧請し産土神として祀られた。
元和9年、領主金森重頼公 社殿を造営し神領を寄進し高山府の総鎮守社とし祭事を統括、北半分の地を氏子と定められた。
天領となってから代官・郡代の崇敬厚く奉行祭が行われた。
明治以降、郷社、縣社、戦後別表社に加えられ郷土の守護神、特に文化神として広く崇敬されている。
試楽祭 10月7日
例大祭 例祭 10月9日、神幸祭 10月10日」
岐阜県神社庁の当社解説は以下。
「創建は遠く仁徳天皇即位(377)の御代にさかのぼると伝えられる。
当時飛騨山中に両面宿儺という蛮勇豪猛の凶賊がおり、天皇の命に叛き猛威を振るい人民を脅かしていた。
この両面宿儺討伐に、難波根子武振熊命が朝廷より征討将軍に任命された。
武振熊命は官軍を率いて飛騨国に入り、先帝(御父君)応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝祈願せられたのが桜山の神域であったといわれている。
その後、聖武天皇の御世と清和天皇の御世に諸国に八幡宮が祀られたとき、飛騨ではこの神域を八幡宮境内と定め御社殿は整えられたといわれる。
室町時代の大永年間、京都の石清水八幡宮を勧請し更に郷人の敬神思想は高められたが、その後戦乱の時代が続き一時荒廃していた。
元和9年(1623)高山の領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに応神天皇の御神体として奉安し社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定め、神事を管理高山府の総鎮守府とした。
飛騨が天領となってからも、地域住民をはじめ代々の郡代の篤い崇敬を集めて興隆の一途を辿った。
明治4年(1871)郷社に指定。
同8年に高山の大火にあい、惜しくも秋葉社を除いてほとんど類焼した。
同33年に社殿を復興。
昭和7年に県社に指定、同26年に式年大祭再興。
昭和43年屋台会館完成。
同51年総檜造りの本殿並びに拝殿・神門・瑞垣の御造営し、別表神社に加列。
同55年社務所参集殿を改築。
同56年5月飛騨国中300余社の神社を招請して式年大祭を再興し今日に至る。
当桜山八幡宮は、氏子崇敬者の信仰にささえられ、当神社の例祭は「秋の高山祭」として全国からの参拝者で賑う」
と書かれていました。
日本書紀では一つの体に二つの顔を持ち、それぞれに手足がある朝廷に背く怪物扱いの両面宿儺。
しかし、この地方では両面宿儺の印象は異なります。
位山に潜む鬼を退治する英雄伝説や、丹生川町には両面宿儺が開山した千光寺(高山市丹生川町下保1553)があり、そこには円空作とされる両面宿儺像が祀られるなど、豪族として讃えられている側面もあります。
伝説では宿儺の生誕の地は、千光寺から更に小八賀川上流にある飛騨大鍾乳洞の手前の両面宿儺洞とされ、鍾乳洞へ向かう麓の善久寺にも宿儺像が安置されています。
表参道ニノ鳥居から三ノ鳥居の眺め。
境内マップでは一ノ鳥居となっています。
手前左に高山祭屋台会館と正面に三ノ鳥居(ニノ鳥居)。
往古は数百本の桜が境内を彩ったとも言われます。
手水舎。
明治十一年に寄進されたもので、大岩を刻んで作られた手水鉢には寒澄清徹と彫られています。
扉には金色の八重山桜の紋が輝いています。
拝殿正面全景。
入母屋銅葺で千鳥破風と大きな唐破風向拝付く堂々たるもので、主祭神は応神天皇、相殿神に熱田大神、香椎大神を祀ります。
旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社に掲げられています。
境内左の照前神社と天満神社
照前神社(左)
祭神は浪速根子武振熊命。
社殿は平成二年に新築造営。
天満神社(右)
祭神 菅原道真公
例祭日 七月二十五日
使い込んだ筆の供養をすると書道が上達するといわれます。
稲荷神社。
明治以前は庚神堂として境内に祀られていたもの。
例祭日 三月二ノ午日(これに近い日曜日)
例祭日は団子撒きで賑うようです。
ウオーキングイベントの途中に立ち寄ったため境内全域は回っていませんが、境内にはまだ琴平神社、秋葉神社や高山祭屋台会館もあり見所は多いと思います。
桜山八幡宮
創建 / 仁徳天皇の御代(377年)
祭神 / 御祭神:主祭神 応神天皇
祭礼 / 10月9日・10日(秋の高山祭)