これまで猿投山周辺の神社を巡って来ましたが、今回から籠川以東の矢作川方面の神社を巡ります。
訪れたのは10月22日、少しは紅葉が始まっているものと期待したものの、まだ山々は青々としていました。
四郷八柱神社の鎮座地はマーカーの位置になります。
四郷は江戸時代、名古屋と飯田方面を結ぶ飯田街道(中馬街道)や矢作川の水運など物流の要衝で、古くから城も築かれた地域。
神社は四郷町東畑地区の県道58号線南側に鎮座します。
西参道全景。
境内へ続く参道は県道沿い、社地西側、同南側の三か所あります。
ナビが西参道へ誘導したため、車は参道脇に駐車させて頂きました。
西参道は石の明神鳥居があり、境内手水舎脇に繋がっています。
社地南側に正参道がありますが、境内へは石段を登る必要があるので、石段を避けたい向きにはこちらか、県道沿いから訪れるといいかもしれません。
西参道鳥居扁額は「八柱神社」
西参道の「四郷八柱神社と棒の手」
「以前は八王子神社と称して、籠川左岸の宮下河原にあった。
その辺りの籠川はたびたび氾濫をおこしていたため、明暦5年(1656)に神社は一旦四郷村予茂田の八幡神社に仮に移されていたが、天保4年(1833)になって現在地に移った。
御神体が天忍穂耳命を始め、八柱であることから、明治7年に名称が八柱神社となった。
慶長5年(1600)に、尾張岩崎村の城主が伊保村の城主に移った際、岩崎村を発祥地とする棒の手が、伊保村に伝わり四郷村へと伝わった。
毎年八柱神社の祭礼には、盛大に奉納されている。」
自分はここから社地沿いに正参道へ向かいました。
後から紹介しますが、県道58号線の四郷町東畑交差点を平戸橋方向に進むと右側に北参道があり、車で境内に入れるようです。
社地南側の正参道全景、こんもりとした杜の入口に明神鳥居を構え、石段が境内に続きます。
鳥居から石段の眺め。鳥居右に八柱神社の社標がある。
石段を上りあがると広い境内が広がります。
当日は祭礼を控えていたのか、正面に資材が置かれていました。
境内左の手水舎と社殿全景。
手水鉢。
写真から昭和の元号は読めます、年度が飛んでしまい分からなかった。
手水舎脇の四郷「棒の手之碑」と社務所。
豊田市内では猿投地区や足助地区、藤岡地区にも伝わり、県の無形民俗文化財に登録されている地区もあります。
棒の手は、戦国時代に農民が自衛のために身に付けた武術が起源とされ迫力ある演武が特徴。
四郷地区では5自治区に3流派が伝わっており、保存会員により毎年10月に神社に奉納されます。
鬼板には八柱の文字が入り、蟇股には波と左巴紋が彫られています。
「明暦5年(1656)に四郷村予茂田の八幡神社に移された」とありましたが、この八幡神社の所在が掴めませんでした。
付近の八幡神社としては、伊保町宮本に八幡神社があり、創建も応安2年(1369)となっていたので、年代的にはおかしくはないが少し西に離れており、四郷八柱神社は創建どころか、予茂田の八幡神社も分からなかった。
因みに御神徳は五穀豊穣、無病息災、家内安全、商売繁盛、縁結び、厄除け。
本殿は三つの大きな扉が付く神明造で、5本の鰹木と内削ぎの千木が付くものです。
左側に5社祀られていますが社名は不明です。
毎年10月に棒の手が奉納されるとあるので、祭礼用の資材が置かれていました。
左の碑文は以下。
惜しみても余りある痛恨の極みである。
この碑はこれらの霊に対し衷心より感謝の誠を捧げ、永遠に鎮まり賜えと祈念するために建立されたものである。
稲刈りも終え、空はすっかり秋の様相です。
右手に写り込んでいる鳥居が県道から直接出入りできる北参道です。
鳥居は平成5年に寄進された白い鳥居、舗装も新しく新たに造られた参道なんだろうか。
こちらの神社の歴史は良く分かりませんが、こうした八柱神社の多くは、神仏分離・廃仏毀釈以前は八王子と呼ばれ、社地には古い社標も残されている場合もあります。
自分で見た限り、当社でそうしたものは見かけなかった。
今年は猿投山一帯の八柱神社を巡っていますが、まだまだありそうです。