弁財天から西に10分ほどの中村公園に向かいます。
今回は中村区中村町木下屋敷に鎮座する妙行寺を訪れます。
ウォーキングイベントで何度か訪れたことはありますが、じっくりと写真に収める機会がなく今回改めて訪れる事にしました。

中村公園周辺は地名にも現れるように木下藤吉郎の出生地で、後に戦国時代を治めた豊臣秀吉の所縁の地です。
この兜は秀吉の愛用したもので、兜の後ろから後光のようにも見える放射状に立てられた29本の刀のようなものは、捻あやめ(馬藺)の葉を模したもので、しょうぶのゲン担ぎからデザインに用いられたようです。
なんとも秀吉らしい派手なデザインだこと。

清正公通を西に進むと写真の開運清正公大霊祇の幟の立つ妙行寺山門が現れます。

妙行寺山門正面全景。
この日は生憎と清正公通が工事中で、伽藍全景は収められなかった。

山門右の「清正公誕生地」と刻まれた題目。

山門から境内。
下は山門脇の「妙行寺御案内」の内容です。
「通稱 清正公さま
沿革 永仁二年(一二九四)日像吉薩により真言宗より日蓮宗に改宗
天文時代 (1535)、中興 日勢上人、正悦山妙行寺と改稱再建
慶長十五年(一六一〇)清正公名古屋城築城の砌、普請小屋を貰いうけて御先祖・御両親の菩提を弔う為、堂宇を比処誕生の地に建立す。
清正公堂安置の御尊像は肥後本妙寺第三世日遥上人の作なり
HPからの抜粋は以下。
「日蓮宗正悦山妙行寺といい、昔は此の地より二丁程(約220㍍)東方にあり、正起山本行寺という真言宗の大伽藍なり。
永人二年日蓮宗の僧日像菩薩京都弘通の為御通行の折、受法し、日蓮宗に改宗す。
後に堂宇は悉く焼失、天文年間 日勢上人正悦山妙行寺と改め再建し、今の山号寺号となる。
清正公堂に安置する御肖像は、肥後本妙寺第三世日遥上人の作で、上人の父は朝鮮慶尚道河東の人で、姓は余、名は寿禧、字は天甲という。
上人は十二才の時清正公に虜われ、日本に連れ帰られ、清正公の御仁徳を慕い、本国に帰らず日本に留り、出家して日蓮宗総本山身延久遠寺に修行し、後に清正公が建立する熊本本妙寺の第三世住職となり、高麗遙師と呼ばれた。
慶長十六年六月清正公御逝去の後、日遙上人は清正公の御尊像二体を彫刻し、その一体を本妙寺に安置、他の一体を清正公誕生の地妙行寺に寄贈したものが清正公堂に安置する尊像です。

右手は洗心堂で手水と「あらい浄行菩薩」が安置されています。



正面が清正公堂で、右手の寄棟の建物が本堂になります。
清正公堂の左の門をくぐった先に「清正公誕生之地」の碑と加藤肥後候旧里碑が建てられています。


洗心殿。切妻瓦葺の手水舎で、内部にあらい浄行菩薩が安置されています。

諸々の願いを成就 水子の供養 お釈迦さまのおつかわしになった佛さまの中のお一人で、水徳をそなえた尊い佛さまです。
人の世の迷いは限りなく多く、この迷いをなくす為に出現された佛さまです。
人は自分の心の中の佛心を、水をかけ、あらい清めて、無病息災・諸願成就・水子供養と、明るく前進させましょう。正悦山 」

長烏帽子形兜には「南妙法蓮華経」と刻まれ、清正公が法華経に帰依していたことが伺われます。
清正公の旗印は蛇の目ですが、それ以外では桔梗の紋を用いていたようです。
後に肥後守となり、難攻不落の熊本城や城下の整備に貢献した名将です。

向拝の付けられた入母屋妻入りの清正公堂。

「清正は幼名を虎之助といい、永禄5年(1562)この地に生まれたといわれる。
天正(1573~)のはじめ秀吉に仕え、数々の武功をたてた。
とくに賤ヶ岳の七本槍は有名である。
のちに肥後国(熊本県) 54万石の領主となった。
慶長15年(1610)名古屋城築城の時、自分の誕生地に城の余材をもって妙行寺を再建したと伝えられる。
寺内には、秦鼎(はた かなえ)の撰文 「清正旧里之碑」がある。」

堂前の狛犬、阿形は松の影に潜んでいました。
寄進年は未確認ですが、素朴な姿の狛犬です。

向拝と大棟の眺め。
シックな外観に、金色の桔梗の紋の入った飾り金具が上品なアクセントになっています。

堂の扉には蛇の目と桔梗紋が輝く。

上は天保3年(1832)に編纂された尾張名所図会、その挿絵に当時の妙行寺が描かれていました。
伽藍配置そのものは現在と大きく変わっていないようです。
挿絵の右上は秀吉が産湯を浴びた井戸のある「常泉寺」が描かれ、現在と大きく変わっていないことがわかります。
左手には豊国神社・・・、豊国神社の印象が強いこのあたりですが、ここに神社や大鳥居が築かれるのは明治に入ってからのことで、当時はまだ野原です。

本堂。
優雅に流れる屋根の寄棟造。

棟瓦には正悦山の山号が入る。

本堂の山号額。
「本行寺」と号した真言宗寺院の頃は、現在地から約220mほど東にあったとされ、現在の中村小学校辺りに鎮座したようです。
ここに至るまで清正公通を歩いて来ましたが、それらしい看板など見かけなかった。

清正公堂左の庭園。
この古い道標の奥に清正公誕生之地の碑が建てられています。

手前の清正公誕生之地碑と加藤肥後候旧里碑。

明治3年(1869)、妙行寺が清正公生誕地として確実視されたことからここに移された。
長年の風雨にさらされ、一部は剥脱しており、全文が読み取れる状態ではありません。
主君として使えた秀吉は天文6年(1537)に隣の常泉寺で産湯を浴び、永禄5年(1562)ここで加藤清正が生まれた。
この僅かな距離に、歴史に名を留めた武将が生まれたのは単なる偶然なのだろうか。

妙行寺
宗派 / 日蓮宗
山号 / 正悦山
創建 / 不明
本尊 / 法華三法
所在地 / 名古屋市中村区中村町木下屋敷22
弁財天から妙行寺徒歩移動 / 中村公園方向へ10分
訪問日 / 2024/11/08
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