城屋敷神明社から南に向かい、新大正橋の袂に鎮座する集慶山 凌雲寺までは徒歩2分ほど。
所在地は中村区稲葉地本通3丁目になります。

やがて右側に凌雲寺の寺号標が現れるので、この道を真っすぐ進めば凌雲寺です。
正面の森の向こうには庄内川の流れが迫っています。
この日の区切りは庄内川の堤まで、凌雲寺を参拝し帰途に着きます。

突き当りには小さな堂と解説板があります。


その内容は以下内容です。
「凌雲寺
集慶山と号し、臨済宗妙心寺派
永正年中(1504~21)稲葉地城主津田信光(織田信長の伯父に当たる人)の創建で、南溟紹化和尚を開祖とする。
織田信長が幼少のころ、この寺で手習いをしたと伝えられる。
墓地の宝篋印塔には「前豊州大守泰翁玄凌禅定門天文五年丙申十月廿八日」(一五三六)とあり、信光のものであることが知られる。 名古屋市教育委員会」

左手に石碑がありますが、アップを撮り忘れ、全文読み取れません。
最近こうした忘れが多くなってきた…悲しいが老いというものだ。

山門から境内の眺め。
手入れの行き届いた庭に重厚感のある山門、趣のある寺だと思います。
幼少期の信長は、清州から庄内川を越えて、この門をくぐり手習いに訪れていた。


境内右手の鐘楼。
冷たい質感のコンクリート造りに比べ、整った伽藍は全て木造、見た目に温もりと趣があり、この寺の歴史が伝わってくる。

梵鐘。
南無観世音菩薩と刻まれており、鋳造年月までは見ていません。

山門左の放生池と池の中ほどの亀島に祀られている辨弁才天社。
この放生池の生い立ちは、天文4年(1535)の庄内川の大洪水の際に残ったもので、自然が牙をむいた時の怖さを今も伝えるものです。

綺麗に手入れされた庭園に祀られている弁才天社。

左から本堂、庫裏、方丈の眺め。
現在の伽藍は、明治24年(1891)の10月28日に起きた濃尾地震(M8級)で倒壊しましたが、明治31年(1898)、再建されたもので、庫裏は平成元年(1989)に法隆寺に出入りする棟梁の手で建築されたもの。

本堂は寄棟瓦葺で、木の色合いと白壁の対比が美しい落ち着いた外観の建物です。

本堂前の手水鉢。

凌雲寺は稲葉地村にあり、集慶山という京都の妙心寺に属す。
永正3年(1506)に津田豊後守によって創建され、僧南溟を開祖とする。
天文5年(1536)10月28日、豊後守は前豊州大守泰翁玄凌禅定門として葬られ、摘男玄蕃はじめ子孫歴代の墓がある。
織田信長公幼き頃、この寺で叔父(信光)に読み書きを習う、本堂前庭に草紙を枝に掛けた掛け松という松があったが、近年枯れたようである。
塔頭・末寺も9坊あり、境内に釈迦堂・弁財天社有り」
と記されていました。

山号額。
明治に再建された際の額だろうか。

放生池の畔に立つ仏像。

その視線は亀島に注がれているようです。

苔庭に安置されている石仏は、像容も良く分からず、いつ頃のものかもわからなかった。

この石仏から鐘楼、山門の眺め。
訪れたのが11月8日、境内に紅葉の訪れるのはもう少し先のようでした。

山門から南の正参道の眺め。
正面の石段を登ると太閤通で、右には庄内川に架かる新大正橋も目の前です。

碑文を見忘れた山門前の石碑は、創建間もない頃の永禄3年(1560)のものでした。

正参道から地蔵堂、山門の眺め。

太閤通りから見た境内。
この高低差、庄内川の氾濫から街を護っているのが延々と続く庄内堤防だ。
帰りは、ここから少し東に向かった稲葉地バス停から、暖房の効いたバスに揺られて帰る事にします。
集慶山 凌雲寺
宗派 / 臨済宗妙心寺派
創建 / 永正3年(1506)
開山 / 南溟紹化
開基 / 津田豊後守
本尊 / 観世音菩薩
訪問日 / 2024/11/08
所在地 / 名古屋市中村区稲葉地本通3-18 南西に向かい、県道68号線新大正橋方向へ25分ほど
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