清須市西枇杷島町:小場塚弁財天(辨財天神社)

前回の助七神明社からの続きになる今回は、本来のコースの立ち寄りスポットになっている「小場塚弁財天」になります。
助七神明社からは​、新川沿いに上流に向かい、新川大橋を渡った右側の宮前公園に小場塚弁財天が鎮座します。

大正時代の地図でみると、鎮座地はかつて小場塚新田として開けた場所で、小場塚集落の北側に位置しており、集落から少し南の美濃路沿いに土器野新田の集落がある。
小場塚の町名を冠していますが、所在地は西枇杷島町宮前になります。

社頭全景。
橋を渡った右側に細い道が小場塚弁財天へ続いています。
コースの立ち寄りポイントでもあり、小さな境内は多くの参拝者が訪れています。

社頭は石の明神鳥居を構え、右手に大正4年寄進の「辨財天神社」社標があります。

境内左の手水舎。
後方の石標には「遷座記念」と刻まれており、現在の小場塚はかつての農地から鉄道の敷設により大きく変わっているので、それに伴い遷座されたのでしょう。
玉垣の先は宮前公園です。
境内の建物は鳥居とこの手水舎、参道の先の狛犬と本殿のシンプルなものです。

境内左に瓢箪型の弁天池があり、おねがいと書かれた看板を見ると「拝殿内土足禁止」と書かれていました。
以前は鳥居の先に拝殿もあったようです。

本殿を守護する狛犬、いつものようにひと回りすれば不審人物に思われかねない、ここはやめておこう。
という事で、阿形のみで台座も見ていません。

本殿正面全景。
軒唐破風の付く流造のようです。

境内左から本殿の眺め。
祭神の弁財天は七福神の一神で、琵琶を持った女神、芸事の神、財福、縁結びの神として信仰されています。
こちらの辨財天神社の歴史は古く、治承3年(279)尾張に流された藤原師長尾張井戸田の横江氏の娘との伝承にちなんで建てられ、弁天様の持つ琵琶とつながりがあり、宮前公園の由緒を読むとなんとなくつながってきます。

参考までに愛知県神社庁清州に登録の有無を調べましたが、登録神社28社には登録されていませんでした。

「小場塚弁財天(市寸島社)
一 由緒
創建の時期は不明である。
太政大臣藤原師長尾張井戸田の豪族横江氏の娘との悲恋伝承にちなんだ社である。
「琵琶塚弁財天縁起」には次のような話しが伝えられている。

治承3年(279)、平清盛のために尾張に流された師長は横江氏の娘と知りあう。
治承5年、罪を赦されて都に帰ることになり、別れを惜しんで土器野の里までついてきた娘に、守り本尊の弁財天と愛用の琵琶を形見に残した。
娘は別れの悲しさのあまり淵に身を投げて果てた。
里人がこの娘を弔うため塚をたて、弁財天を祀った。
この塚を姨塚といい、村名の元にもなった。

かつては、小場塚弁財天として親しまれていたが、明治に入り、市寸島社と称するようになった。
祭神は市杵島比賣命である。

一 社宝、他
「琵琶塚 弁財天縁起版木」(町指定文化財第10号)
嘉永7年(1854)、弁財天社再建にあたり、弁財天社の起こりをしたためたものである。
・毎年五月第一日曜日に大祭(弁天祭り)が行われる。 清須市教育委員会


過去記事で名古屋市瑞穂区土市町に鎮座する嶋川稲荷を取り上げていますが、そこには藤原師長(もろなが)の謫居趾の碑があり、師長が当地に身を寄せていたとされます。

師長は琵琶の演奏に優れ、彼の琵琶は「白菊の琵琶」と呼ばれていたそうです。

尾張名所図会にも、師長とその右に白菊の琵琶が描かれ、傍らには女性の姿が描かれています。
京へ召還となった師宣を見送りにきた娘は、別れの悲しさから琵琶と共に身を投じたのがこの地だという。
枇杷島の地名の由来は、この故事に由来するとも言われます。
立ち寄りポイントに小場塚弁財天が選ばれた意味も伝わってくる。

公園には師宣を慕った娘の心のように白い花が咲き始めていました。

写真は南側の宮前公園の眺め。
公園の先に神社のシルエットが浮かんでいます。
コースから外れますが向かう事にします。

小場塚弁財天(辨財天神社)
祭神 / 弁財天(市寸島比賣命)
創建 / 不明
境内社 / ・・・
氏子域 / ・・・
例祭 / 五月第一日曜日 
兼務社 / ・・・
所在地 / ​清須市西枇杷島町宮前2-56
助七 神明社から小場塚弁財天 / ​新川沿いに上流の新川大橋を渡り右側。0.6km、約10分
参拝日 / 2025/01/18
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過去記事
『嶋川稲荷』名古屋市瑞穂区 #2