愛知県 知多四国巡礼 第2回:十一番札所 光明山 安徳寺

前回までの伊久智神社から師崎街道で十一番札所 安徳寺へ向かう予定でした。
時計を見ると昼食の時間も過ぎていたので国道をそのまま進み、飛べ豚でラーメンを食べてから安徳寺に向かう事にしました。

この国道、歩道は狭くガードレールもない、人も車も気が抜けない。
師崎街道沿いはもっと過酷、車で各札所を回ろうものなら、すれ違い不能で曲がりくねった道が続く。
ナビを信用して安易に踏み込まないことが賢明。
安徳寺は国道366号線の西の東浦町藤江の高台に鎮座します。

安徳寺石柱門から山門の眺め。
東を向きに門を構え、左に「新四国第11番札所」の石標があり、側面に12番札所までの距離が刻まれています。

なだらかに上る参道の先に山門を構え、左手に「不許葷酒入山門」の石標が立てられています。
禅宗のお寺の門の横で見かけるこの石標、修行の場故に「ニンニクなどの強い臭い、酒はお寺に持ち込むな」の意味がある。

直前に、ニンニク増し増しのラーメン、ビールで喉を潤してきた自分など門前払いとなるところです。

山門右の東浦町教育委員会の解説。
「光明山安德寺 曹洞宗
永禄二年(1559)乾室玖元和尚を開山として創建されたと伝える。
本尊は釈迦牟尼仏。 
薬師如来立像(像高92.5センチ)は恵心僧都(942-1017)の作と伝えられ、東浦町指定文化財になっている。
知多四国十一番札所で弘法大師を祀る。
学制発布により、明治六年に藤江村・生路村・有脇村が共同して、この寺の衆寮に「友強学校」を開設した。」

お寺と云えば、江戸時代は寺子屋として文字の読み・書き・そろばんなど庶民の学びの場でした。
明治政府による学制発布にともない、身近な寺子屋は姿を消し、小学校へ移り変わっていきます。
安徳寺を仮校舎として開かれた友強学校は、寺から西に500㍍の東浦町藤江小学校の前進となった。

山門をくぐった左の広い境内に伽藍が立ち並んでおり、正面が本堂で、本堂左に弘法堂、右が納経所のある庫裏、それと山門が主な伽藍になります。
以前は山門の先に鐘楼が建っていたようですが、現在の境内に鐘楼は見られません。

まずは本堂でお参り。
山号額は「光明山」と書かれています、達筆すぎて揮毫の主は読めなかった。

東浦町誌などから安徳寺の由緒を調べた結果は以下となります。
「光明山 安徳寺(曹洞宗)
所在地 藤江字西ノ宮82番地
本尊 釈迦牟尼仏
開山 保山孚敢大和尚
境内地 1203坪
寺宝什物 厨子入 薬師如来木像、十六羅漢木像、六枚折屏風、十六善神掛軸
由緒
天文19年(1550)5月、乾室久元和尚の開基。
広い境内に薬師・観音・大師(新四国十一番札所)の諸堂がある。
薬師はもと郷中の海沿いにあったが、洪水や台風の被害が頻発、享保年中(1716~1736)には火災で堂宇を焼失。
延享3年(1746)庄屋 新美市郎兵衛がここに移したもの。」
となります。

本堂左の弘法堂。
今回のラス前の札所で、午後を過ぎると巡礼者の姿はめっきり少なくなります。

山門の先の境内西側にかなり大きな梵鐘が置かれています。
鐘楼は伊勢湾台風で倒壊、その後再建されたとも聞きますが、これが現在の鐘楼の姿です。
普段間近に竜頭など見る機会はないだけに、今はレアな時なのかもしれません。
いつの日か藤江の町に安徳寺の鐘の音が戻ってくるのだろうか。

境内から眺める山門は切妻瓦葺の四脚門。
高台から東の衣浦湾を望む山門、かつては間近に海が迫っていたのだろう。

さてゴールの札所に向かう事にします、十二番札所福住寺は師崎街道を1.8km、25分ほど南下した有脇町地内の高台に鎮座します。

のちの世も この世もこころ 安徳寺 仏の御名にけがれ洗ふて

知多四国巡礼 十一番札所 光明山 安徳寺
宗派 / 曹洞宗
開山 / 保山孚敢大和尚
開基 / 乾室久元和尚
創建 / 天文19年(1550)
本尊 / 釈迦牟尼仏
札所 /  知多四国十一番札所
参拝日 / 2025/02/15
所在地 / 知多郡東浦町藤江西之宮82
伊久智神社から光明山安德寺 / 国道366号線沿いを南へ​​​1.2Km・徒歩20分ほど
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