小牧市堀の内「神明社」

堀の内2「神明社
鎮座地の堀の内は昭和59年に、それ以前の小牧市小牧、市之久田、間々本町、曙町の一部から誕生した町のようで、堀の内1はほぼ小牧山全域、今回の掲載する神明社は堀の内2に鎮座します。
 小牧山南側のこの辺りは明治の一時期、八幡前と山前の二つに分かれていたようで、鎮座地はその八幡前にあたります。

上は天保15年(1844)に編纂された尾張志付図から、小牧山周辺を拡大したもの。
 神社の鎮座地は、当時元小牧として表記されています。
永禄年間、信長が清州から小牧山へ居城を移した際、小牧山南側に城下町を整備し、一時は栄えたようです。
 しかし、信長が岐阜城へ移るとともに城は廃城となり、城下町も徐々に衰退。
さらに、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山が再び戦略的拠点となり、小牧山南側の様相も変化し、土居や豪が形成されていった。

上は天保12年(1842)の小牧村絵図で、かつての町割の地名は残っているものの、多くは田畑へ姿を変え、小さな集落が点在する程度に見えます。
 鎮座地は集落北側の赤丸部分と思えますが、鳥居の印ははっきりと確認できません。
旧城下の移り変わりは、元和9年(1623)に徳川義直の命により、小牧山東側の上街道沿いへ町筋が移されたことから、この地域の集落は更に田畑へと変わっていったと思われます。

上の明治期中期の地図では、小牧元町集落の北側に神社の鳥居が記され、城下町から田畑へと変遷した痕跡が見て取れる。
 神社は江戸時代にはすでに鎮座していた可能性が高い。

昭和48年(1973)に発行された『小牧町史』の無各社に八幡前神明社として「祭神を天照大御神とし、社伝不詳。
 大正2年天道社の祭神天照大御神と合祀し二柱を祀る。
境内神社に秋葉社、金刀比羅社、稲荷社等がある」の記述を見付ける、「八幡前」から当神社を指していると思いたいが、境内社の記述と現状が違うようにも思える。

 尾張志から当神社の記述も探したが見当たらず、1977年に出版された『小牧市史』には、小牧の神明社として二社が記されていました。
一社は小牧神明社、もう一社は堀の内2の神明社と思われます、しかし、創建などの詳細な記述はなく、別途「小牧の神社」として纏められているようです。
 国立公文書館で公開されているのを期待したが、Web上では確認できず、小牧図書館で閲覧可能なので、詳細を調べるには実際に訪れる必要がありそうです。

全く分からないでは気持ちも悪い。
 愛知県神社庁には、祭神・氏子域・祭礼日だけ掲載されていました。
それによれば氏子域は小牧山北側の入鹿出新田とあった、更に地名の入鹿も気も気になりはじめ、結局堀の内2の神明社の縁起は分からずじまいです。

写真は堀の内2の神明社社頭全景。
 鳥居はなく石柱門と参道の先に木造蕃塀を構えています。
境内右には堀の内会館が建てられています。

参道正面に蕃塀と左に手水舎が建てられています。

コンクリート造りの入母屋妻入り拝殿と本殿域の全景。

一対の狛犬が守護する本殿域は板塀の玉垣が一周し神門とつながっている。

本殿前の狛犬(寄進年未確認)。

本殿域。
 本殿は神明造、千木は内削ぎで鰹木は6本飾られています。

本殿域右の朱の鳥居を構える境内社
 稲荷社だろうか。

右の板宮造りの社は社名札がなく分からない、左は秋葉大権現
 『小牧町史』の記述に近いものですが、境内に金刀比羅社の姿はない。

境内右端は金刀比羅社・・・と思ったが、こちらは水神、田畑を潤す神様です。
 全て参拝を済ませたが、結局もやもやとしたスモークが残ったままでした。

境内上空をスモークを焚いて飛び去るブルーインパルス、これはさすがに気持ちいいものだ。

堀の内2「神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神
祭礼 / 4月第2日曜日
境内社 / 秋葉大権現、不明社、水神
氏子域 / 入鹿出新田
所在地 / 小牧市堀の内2
小牧山吉五郎稲荷から神明社 / 県道197号線小牧山西交差点を左折。​​​​徒歩10分程​​​​