名鉄知多新線内海駅からスタートし、内海峠を経て約3.6㌔西の小野浦海岸までやってきました。
ひたむきに歩き、小野浦海水浴場のすぐ東に今回最初の札所良参寺が鎮座します。

八幡神社社頭から約10分ほどで前方に良参寺の伽藍が見えてきます。
手前の方型の建物は良参寺地蔵堂。

大棟に鯱が載る山門と鐘楼。
峠を越えてようやく辿り着いた札所。
疲れた体を休めるように、参加者は一様にゆっくりと腰を下ろす。
その表情には安堵の色が浮かび、静かな境内の空気が彼らを包み込んでいた。

山門は切妻瓦葺の木造の薬医門で「禅林山」の大きな山号額が目を引く。

良参寺境内は参道正面の本堂、右に庫裏、左に太子堂、金毘羅堂、袴腰が施された鐘楼、その奥に稲荷が祀られ、そこから右に山本音吉・久吉・岩吉はじめ、遭難した宝順丸の乗組員14名の墓石があります。
これら伽藍の他に、境内に聳える二本の巨木が印象に残ります。

小野浦の地が千石船で栄えた江戸時代に、現在の庫裡と本堂は再建されました。
当時の面影は航海の無事を祈念した金毘羅堂や雨水桝に刻まれた海上安全の文字にも残っています。
境内には樹齡四百年のイブキの巨木が二本そびえ、一本の根元には子供を抱く観音様の姿が現れています。
弘法大師は「御助大師」と呼ばれ、昭和初期に盲目の女性が開眼した霊験等が伝えられています。
本堂裏の墓所には初の和訳聖書の制作に協力した「三吉」を含む宝順丸の乗組員の墓碑が立てられています。」
八幡神社社頭南側の音吉・久吉・岩吉の三氏を讃える石碑は、墓碑のある良参寺に繋がっていた訳です。
彼らは異国の地で一生を終えましたが、故郷である小野浦に戻ってこれた経緯が掲げられています。

1970年に同墓地が都市計画によって公園へと転用された後、遺骨の移転場所は長い間不明のままとなっていた。
同時に、当時音吉はオーチャード通りに邸宅を構え、大規模に貿易を営んでいた記録、上記の死亡年月日及び死亡場所の記録とともにリョン氏から提供された。
11月27日には同国立墓地タン・ピンファ所長立ち会いのもと発掘・火葬した後、遺灰をイオ・チュー・カンの日本人墓地公園納骨堂に仮安置。
2005(平成17)年2月17日、伊勢湾に開港した中部国際空港からシンガボールへ向かう一番機で、美浜町民を始めとする120人の訪問団が出発、翌18日に日本人墓地公園において音吉遺灰の分霊式が、日星両国関係者多数の参列のもと挙行。
音吉の遺灰は3つに分けられ、シンガポールでは日本人墓地公園納骨堂、日本では音吉の子孫である山本家先祖代々の墓、そして遭難当時、行方不明となった宝順丸14人の乗組員のために建てられた良参寺の墓に納められ、遭難後173年ぶりに帰国を果たした。2006/6吉日」

入母屋瓦葺の本堂。
大きく枝を張ったイブキが、大きな木陰を作り、巡拝者に心地よい休息の場を与えてくれる。

本堂。
本尊は聖観世音菩薩。


知多四国四十八番札所、お助け大師。
太子堂前のお助け大師の謂れ。
体の変調に悩む方々がこちらにお参りし、それにより改善された事例が書き連ねられています。

堂内右の間に南無観世音菩薩の提灯と古い奉納額が掛けられています。

金毘羅堂の右に安置されている不動明王。

金毘羅堂(右)と中央の稲荷社、方形屋根で袴腰の鐘楼の眺め。

金毘羅堂内にも複数の奉納額が掛けられています。
古くから海運で賑わった町だけに、航海の安全の神は必要不可欠なんだろう。

稲荷社。
宝珠紋の幟が立つ稲荷社。
豊川稲荷系の仏教神が祀られていると思われます、創建時期は不明。
山本音吉ら宝順丸乗組員の墓は、ここから右手の墓地に建てられています。

庫裏前のイブキの樹。
樹齢は400年を超えるとされ、一抱えは優に超える幹の根元には、観音様に似た瘤があり、子宝に恵まれる子抱観音として崇敬されています。

次は四十九番札所 吉祥寺。
ルートは平坦な国道沿いではなく、良参寺北側の山間を越え冨具崎方向に抜ける1.5㌔の古道を進みます。
Gマップでは表示してくれません。
愛知県 知多四国巡礼 第4回:四十八番札所 禅林山 良参寺
宗派 / 曹洞宗
開基 / 融山祝公首座
開山 / 天祖順応禅師
開創 / 天正13年(1585)
本尊 / 聖観世音菩薩
所在地 / 知多郡美浜町小野浦清水18
参拝日 / 2025/04/19
小野浦八幡神社から良参寺徒歩ルート / 北へ約0.5㌔、約7分
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