前回掲載した五十一番札所 野間大坊の引き続きとなる今回は、野間大坊の東隣に鎮座する五十番札所 鶴林山大御堂寺です。

上は尾張名所図会に描かれている野間大坊と大御堂寺の挿絵
左に大坊と描かれている五十一番の客殿と右の五十番札所大御堂寺の伽藍を合わせ野間大坊と言われています。

客殿から真っすぐ東に進めば写真の鐘楼が間近に見えてきます。
挿絵が描かれた当時の鐘楼は、袴腰付きのものであったことが見て取れます。
いつの時代からか、袴腰は撤去され、下層吹き抜けの現在の姿に変わっていったようです。
鐘楼は、建造物として県指定有形文化財に指定される、入母屋瓦葺の二層の鐘楼です。
屋根の形は主に、寄棟、切妻、入母屋になりますが、古来より入母屋造は一番格式が高い造とされます。
上層には高欄が付き、吊るされる梵鐘は、鎌倉幕府第五代将軍の藤原頼嗣(1239-1256)が寄進したもので、建長2年(1250)の銘が入る尾張地方最古の梵鐘とされ、国重要文化財に指定されてます。

鐘楼の向かいに鎮座する出世稲荷。
挿絵にも稲荷として描かれていますが詳細は不明です。

稲荷と聞くと豊穣や商売繁盛の御神徳で知られますが、こちらの稲荷は「悩み不眠除け稲荷」と呼ばれ、悩みや不眠に御利益があるという。

稲荷社右手の大御堂寺本堂。
知多郡史によれば本堂の大きさは、縦7間(約12.5㍍)、横5.5間(約10㍍)とありますが、実物は更に大きく感じられる堂々たる建物です。

本堂から南側を眺めると、常滑街道沿いに大門を構えています。
切妻平入の銅葺屋根の門柱の他に4本の控え柱持つ四脚門。
建久元年(1190)、源頼朝が父義朝の法要の際、境内の様々な伽藍が建立されたなかのひとつ。
客殿・本堂・鐘楼と並び愛知県の有形文化財に指定されています。
鎌倉時代造営なので目を奪うような派手な装飾は少なく、質実剛健とした意匠です。
頼朝の父義朝が家臣の長田忠致親子により討たれ、その首を洗ったとされる血の池は大門を出て左にあります。

境内東に旧海軍三影の主砲で使われていた主砲弾と朱の鳥居を構える弁才尊天。

覆屋の下に朱塗られた弁才尊天の社と弁天池。

大御堂寺は、大門を除いた伽藍は3度の火災に見舞われ、現在の建物は宝暦4年(1754)に鎌倉様式で再建されたもの。
本堂は吹き抜けの外陣と格子戸の先の内陣に分かれ、内陣には本尊の阿弥陀三尊像が安置されています。
藤原時代のもので快慶作とされ、県の重要文化財に指定されています。

本堂向拝を支える手挟などの彫は見応えがあります。

大御堂寺本尊の木造阿弥陀如来坐像(県指定重要文化財)
藤原時代後期の阿弥陀如来像で、脇侍の木造観音菩薩立像、木造去勢菩薩立像は美浜町重要文化財に指定されています。

本堂右側の源義朝公の墓所。
墓所内には織田信孝、義朝の家臣鎌田正家と妻の墓があります。
入口の解説は以下内容です。
「源義朝公の墓所
源義朝とは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、平家を滅ぼした源義経の父である。
1160年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、 この地野間を治める家臣の長田忠致・影致親子のもとへ身を寄せた。
ところが長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。
義朝公へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝公を風呂場にて切りつけ命を奪った。
武芸の達人であった義朝公は「無念。我に木の太刀の一本でもあればむざむざ打たれはせん。」と言って絶命した。

源義朝公の墓。
後の世の人々が義朝公の菩提を弔うため、そのお墓にお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなる。 いつしか、願いをかなえる武将「源義朝」として、人々が願いをしたためた木太刀をお墓にうずたかく供えるようになった。



おほみどう みだのひかりをながむれば ごしょうをねがう こころおこらん
