第五回歩いて巡拝知多四国(後開催)。
5月17日の本開催当日の天気予報は雨模様。
23日の平日に後開催のコースマップで22番札所大日寺から23番札所蓮華院・24番札所徳正寺・25番札所円観寺と番外札所葦航寺の五カ所の札所を巡拝する8.5Kmのコースを歩いてきました。

上が後開催のコースマップ。
コースは25番札所円観寺から番外札所 葦航寺の移動は電車となっていますが私たち二人は徒歩移動です。

スタートは名鉄河和線知多武豊駅。
こちらの駅でコースマップを手に入れ歩きはじめます。
後開催なので今回の梵字カードはロストかぁと思いきや、本開催の残りがあれば配布してもらえるようでした。
現在の武豊町は明治22年に長尾村と大足村が合併してできた町で、町名の由来が長尾村の氏神「武雄神社」と大足村の氏神「豊石神社」の頭文字を一字ずつ取って名付けられたという。

10:45、知多武豊駅前から線路沿いに北に向かい、1㌔ほど先の武豊町ヱケ屋敷に鎮座する22番札所 御嶽山 大日寺を目指します。

知多武豊駅前から徒歩15分程で22番札所 御嶽山 大日寺山門に到着。
平日なのでイベント開催日の賑わいもなく、人の映り込みを気にしなくてもいい。

薬医門から境内の眺め。
御嶽山大日寺の宗派は西山浄土宗で本尊は大日如来。
浄土宗のお寺で本尊は大日如来、どこかの時点で真言宗から改宗されているのかもしれません。
境内に沿革が見当たらず、web「知多四国・・・」には以下のようにある。
尾張徇行記(海西郡・知多郡之部)の長尾村、大足村に目を通したが、現在の大日寺についての記述はなく、「大日堂」として見ることができる。
しかし内容は創始年代不明とあるだけで詳細に触れられていなかった。
尾張徇行記の編纂が1792~1822とされ、知多四国霊場が開創されたのが1800年代とされるので、開創前の視点で書かれているだろう。
その後の尾張名所図会、尾張志、知多郡史などから大日堂、光照院、大日寺として目を通すも、web情報の記述に結びつくものが見られなかった。
開基が行基菩薩(668-749)といわれているので、創建が飛鳥、奈良時代と長い歴史を持つその寺が創始年代不明としか記されないは意外でもある。

境内から薬医門と手水舎の眺め。

その先のびんころ地蔵(右)とみたけ観音(左)。

天文年間に兵火にかかり堂宇が炎上したとき、像は持ち出され、ここから北西に1時間ほどの場所にある灌漑用の溜池「大日池」に沈められたとされます。
後の江戸時代に大日池の整備中に像が見つかり、ここに安置されたとされます。
武豊観光協会の「武豊知恵袋」に依れば、「大日池付近に、桓武天皇の勅願寺で七堂伽藍を備えた「御嶽山光明院」が建てられていた。
天正年間(1573~1592)、信長の子信雄と豊臣秀吉の兵火にかかり、ことごとく灰燼に帰したとき、多くの仏像がこの池に沈められ、難を逃れた。
この池からは、その後、多くの仏像が発見され、成岩の各寺や阿野の高讃寺の本尊となったという伝説がある。」
大日堂の由縁は池から見つかった仏さまを長尾村の観音堂へ祀り、その仏さまが大日如来であったことから、『大日堂』と呼ばれるようになり、後に大日寺へと発展していったようです。
この伝承は明暦(1655-58)の頃のこと。
当時の大日堂は、観音堂だけの小堂であったと推測されます。
又、同webには武豊町の寺社として紹介はあるが、大日寺については紹介されていなかった。
このことから、現在の大日寺の伽藍は、明暦以降に整えられたものと推測されます。

本堂の山号額。
額の両縁には昇り龍と降り龍が施された立派な額です。

豪華な天蓋の先の黄金色の厨子の中に本尊が安置されている。


左側に弘法大師、右側に観世音菩薩が安置されています。

表面はペンキで着色されており、像容はどこかユーモラスな趣のある、独特な観音さまです。
長年培ってきた小手さばきを活かし、引退後にこうした像を複数制作・奉納したようです。
「みたけ」は山号から付けられたようです。

