愛知県 知多四国巡礼 第5回(後開催):二十三番札 意龍山 蓮花院

前回掲載した大日寺を後にして、門前の国道269号線を200㍍ほど東へ向かい、前田交差点の手前の信号のない交差点を右に進み、師崎街道を200㍍ほど歩いて行きます。

右手に二層の朱色の堂が見えてきます、こちらが武豊町字ヒジリ田に鎮座する二十三番札蓮花院になります。
少し先に山門があるので、参詣はそちらから境内に向かいます。

師崎街道沿いに薬医門を構え、左手に「新四国第廿三番札所」の標柱が立てられています。
蓮花院は法然上人知多霊場の二番札所でもあります。
鎮座地のヒジリ田の由来は古く、幾つかの説があり、武豊知恵袋では以下のように解説しています。
由来1
鎌倉時代、日本はモンゴル帝国の侵攻を受けました。
時の執権・北条時宗は日本各地の武士を九州へ集結させ、蒙古軍を迎え撃ちました。
長尾城の城主・岩田氏もその一員で、神風(台風)の助けを受け、激戦の末日本は勝利します。
岩田宏直は戦の勝利は神仏の加護として、長尾城の鬼門に香椎聖宮を勧請し、隣の土地を供米田として寄進しました。この土地は「聖の宮の田」と呼ばれ、後に「ヒジリ田」となった。

由来2
応仁の乱の戦乱で、農民たちは困窮していました。
教観という僧が村に訪れ草庵を建て、海辺を干拓して新田を作るよう提案しました。
彼の努力で稲作は成功し、村人たちは僧を聖上人と呼び、協力して新田を広げました。
僧の草庵は寺へと改築され、その美田を「ヒジリ田」と呼ぶようになった。

このふたつが町名の「ヒジリ田」の由来だとされます。(武豊知恵袋から抜粋)
どちらが正しいか定かになりませんが、蓮花院は由来2に現れる僧「教観(洞空教観上人)」が開創した草庵がはじまりとされます。

山門の山号額「意龍山」。
蓮花院は昭和41年に火災に遭い、山門・客殿以外の伽藍を全焼、昭和45年に復興されます。
消失を免れたこの山門は、現住職により平成30年に修復された山門で、屋久杉を使用して作られています。

境内左側に手水舎と右にれんげ観音が安置されています。

手水舎の下に金色の聖観音菩薩、かみさんの機嫌がいい時の表情にも通じる、穏やかで優しい笑みを浮かべている。

右手の境内。

左の朱色の二層の塔が弘法堂、正面の二階建ての建物が本堂になります。
右手の階段を上ると本堂です。
蓮花院HPの沿革の抜粋は以下になります。
「歴史
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで成岩常楽寺に逃げ延びた徳川家康公の馬前を払った因縁により、山号を頂き意龍山蓮花院と称し、寺の風格をもった。
その後昭和41年に火災にあい山門客殿のみ残し全焼。
今の弘法堂は昭和45年に復興し、本堂は同62年に完成した。
山門客殿は現住職が平成30年に復興して現在に至る。
弘法堂前には合格祈願・安産・身体健康のご利益がある、張り子の「身代わり大師」がある。
永禄3年(1560)創建​。
脇侍に観音菩薩勢至菩薩を安置。
​しかし昭和の火災で観音菩薩を焼失し、平成30年仏師松本明慶氏によって​新調、本尊宮殿は火事で焼失の為​、馬場の山車の前山部分を譲り受け修復した​。
1850年頃の中野甚右衛門の作品で​、彫り物は素晴らしい作風を残している​。
勢至菩薩は修復され、平成30年より弥陀三尊として安置した​。
本堂二階部分は大須観音より旧本堂を払い下げして再復興。」

尾張知多郡(1893)、張州府志 第6(1893-1896)の蓮花院に目を通す。
どちらも「蓮花院は長尾村にあり、意龍山と号す。浄土宗に属し、成岩村常楽寺に所属す」とだけ記され、詳細は不明。

まずは本堂に向かう。
コンクリート造りの綺麗な建物で、山号額の上の唐破風向拝の梁にカラフルな龍の彫飾り。

木鼻は白い獅子と獏が飾られています。
当日は堂内を拝観する事はできなかった。

蓮花院のシンボル的存在で、方型二階建てのカラフルな弘法堂。
拝所の横には身代わり大師が安置されています。

堂の額は「通照閣」と読めばいいのかな。

堂内は内陣中央に弘法大師賓頭盧尊者地蔵尊など整然と安置されています。

てらのなに ちなひ一れん たくしゃうは みなをしょうふる くちにこもれる

愛知県 知多四国巡礼 第5回(後開催):二十三番札 意龍山 蓮花院
宗派 / 西山浄土宗
開創 / 不明、応仁の乱の頃(1467-77)
創建 / 不明
本尊 / 阿弥陀如来
意龍山蓮花院 / ​公式HP
所在地 / 知多郡武豊町字ヒジリ田27
大日寺から蓮花院 / ​門前から国道269号線を200㍍ほど東へ、師崎街道を南へ200㍍​移動時間10分ほど​。​
参拝日 / 2025/05/23