前回掲載した石野八柱神社から矢作川沿いに南下、国道153号線から平戸大橋で矢作川を渡り、1km程直進した越戸町松葉地内に鎮座する灰寶神社を訪れました。

上が灰寶(はいわ)神社の鎮座地で、矢作川が大きく蛇行する西岸に位置します。
鎮座地の越戸町の地名の由来は、古来、矢作川を利用して資材や人馬の移送のハブとなり、東岸の百々町には百々貯木場もあった。


車の場合、国道153号線から右折すれば写真の駐車場があるので、駐車場所の心配はありません。

北側の生活道路には写真の脇参道があり神明鳥居が建てられています。
正参道は国道に接しており、東参道、正参道、秋葉神社参道の三つあり、其々に鳥居を構えています。

社地東の参道口には明神鳥居と、右に「村社 式内 灰寶神社」の社号標が建てられています。
写真左には「寛政9年(1797)」寄進の常夜灯が建てられ、鳥居の正面に大きな銅像が建立されています。

前田栄次郎翁銅像と感謝碑。
当地出身の実業家で当地域のインフラや当地の神社復興に尽力された方で、神社巡りでは前田公園や駒形神社などで彼の名を見ることができます。

灰寶(はいわ)神社正参道。
明神鳥居の先の広い境内に社殿が連なります。

秋葉神社参道。
地史などで創建時期等調べていませんが、越戸地域の防火の神として祀られたものでしょう。

かつては身近に見かけた二宮尊徳像。
寄進年は不明ですが、かなり大きな像です。
近年では「時代にそぐわない」「児童虐待の象徴だ」といった声もあり、街中でほとんど見かけなくなりました。
それでも、猿投地域の神社では今なおその姿を目にすることがあります。
やがて完全に姿を消してしまうのかもしれません。
今では本がスマートフォンに置き換わり、歩きながらスマホゲームに夢中になる若者や、優先席でスマホに没頭し、目の前で杖をついた高齢者に席を譲ろうともしない若者の姿を見るにつけ、私にはむしろ現代の方が奇異に映ります。
今は若い彼らも、あっという間に老いていく、その時の日本人の美徳がどうなっているのか興味深い。

正参道正面全景と「灰寶神社」鳥居扁額。



愛知県神社名鑑(1992)では以下のように解説されています。
『十等級 灰寶神社 旧郷社
鎮座地 豊田市越戸町松葉52番地
祭神 波尔安比咩命
由緒 社伝に慶雲3年(706)正月の創建という。
往古は矢作川を越えて東国、信濃地への交通の要衝の地で、「延喜式神名帳」に賀茂郡七座の灰寶神社とあり、「本国神名帳」に正五位下灰實天神とある。
永延2年(988)4月、原信之進平氏勝、社殿再建し、久安5年(1148)11月、永井九十郎之勝造営する。
元仁元年(1234)8月、平太郎氏里が再建、正応3年(1290)8月原田勝之介信里、再建、応永7年(1400)正月畠山某、永禄12年(1569) 本多時之介忠勝ら再建した。
明治5年10月12日、村社に列し、同40年10月26日、指定社となる。
昭和6年10月26日、郷社に昇格する。
同7年11月17日社殿を改築した。
「参考」平戸橋南路傍の渡岩弁天を灰宝神社だとの説もある。
渡辺政香の「三河史」 に越戸は昔越人と書き、灰宝渡岩に音近し、明治元年挙母藩で式内と定め社号灰宝とした。
例祭日 10月第2日曜日
社殿 本殿流造3坪、幣殿4坪、拝殿10坪、社務所28.5坪、神庫12坪
境内坪数2320.56坪、氏子数2000戸』とあります。
寛文年間に編纂された『三河志』には、「越戸村の東の川端に波岩(ハイワ)社という小さな南向きの社があります。
この社は昔、川の中の中州にあったが、後に西岸に移され、これを灰寶の社と村人は言い、現在は弁天を祀っており、波岩の弁天と称します。」
という記述があり、すぐ脇の矢作川河畔には「波岩」と呼ばれる巨大な大岩があります。
また、大正5年に出版された『西加茂郡誌』の灰寶神社の項にも、『三河志』と同様の記述が見られました。
興味深いことに、平戸橋南傍らの波岩弁天は、明治元年に挙母藩が式内社と定め、社号を灰寶神社と復したとあり、式内社灰寶神社とする説もあるようです。


拝殿から幣殿方向の眺め。

境内左の手水舎と後方の神庫。
手水鉢は天明4年(1784)に寄進されたもので、境内には寛政9年(1797)常夜灯など古い時代の寄進物が残ります。

先の大戦末期には重要宝物類の分散疎開が行われ、灰寶(はいわ)神社の神庫に熱田神宮や名古屋城の宝物が移管され、その中に本丸御殿復元に必要な資料が含まれていたという。

拝殿は切妻造・妻入りで四方吹き抜けのもの、左にはコンクリート造の白い舞殿が続きます。

舞殿から中門・幣殿・本殿方向の眺め。
遠目に方形屋根のように見えますが、こうしてみると寄棟風のコンクリート造り。
白塗りの外観は白鷺が羽を広げた姿にも通じる美しい姿を見せています。
神庫の造りに通じるものがあり、ひょっとしてこちらも前田氏寄進のものだろうか。

本殿域。
正面の中門に透塀が結ばれ、側面・後方は白壁が本殿域を囲んでいます。

猿投山を中心とした周辺では古くから窯業生産地であり、矢作川の水運を利用して更に広く流通していったのだろう。
その要衝ともなったこの地に、陶磁器の祖神が祀られているのも不思議な事ではない。

今から1000年余り前善政の模範と言われた醍醐天皇の時代(901~922)の延喜5年(905)に天皇の勅命で藤原時平他2名によって「延喜式」という全50巻におよぶ法律書が作成されました。
その書の中に国として祭る神社を登録し全国で2861社が式内社として定められました。
豊田市内では8社あり、うちの1社が地元の灰宝神社です。
灰宝神社の祭り神は速邇夜須毘売命です。
伊邪那岐尊・伊邪那美尊が大八島、つまり日本の国土を生んだあと、風雨草木山野五穀火の神々等を生み国土経営の基礎が進んだあとに生まれた神様です。
またの名を埴安姫命とも言われ速邇夜須は埴粘の事であり、大地でもある粘土をこね形を造り焼いて土器を作った陶芸の神様です。
其の昔、良質の粘土を求めて越戸港より陶工達がどんどん上陸し『越人』となり、この地方の開拓にあたり人々地域の安全発展安寧を願いお祀りされたものです。
このように歴史と由緒のある神社が私たちの地域にあることは誇りでもあります。
伝統ある神社を大切にして行きたいと切望するものです。』

中門から幣殿・本殿方向の眺め、三間三戸の流造のようです。

舞殿と拝殿の眺め。
味気ない印象を受けるコンクリート造りも、色合い次第で雰囲気もかわって見えます。

中門・幣殿・本殿の連なり。

側面から流造の本殿の眺め、意匠はシンプルなもののようです。

本殿右の境内社。
この一画に4社が祀られています。
右から山ノ神神社(大山祇大神)、津島神社(建速須佐之男命・大穴牟遅命)、お尺口神社(豊受皇大神)が相殿に祀られ、左手に注連縄が巻かれた石が産守ノ神社(産土神)が祀られています。
名鉄三河線沿いの神社、もう少し回りたいところですが、あまりの暑さから今回はここまでとしてエアコンが効く車内に戻り帰宅しようと思います。
前の車はガス漏れを治す部品が廃版となり、夏場は使うたびにガスを補充していましたが、普通にエアコンが効く有難味を身に染みて感じる。
延喜式賀茂郡7座「灰寶(はいわ)神社」
創建 / 慶雲3年(706)
祭神 / 速邇夜須毘売命
境内社 / 山ノ神神社、津島神社、お尺口神社、産守ノ神社、秋葉社、越戸神社
氏子域 / 越戸町
例祭日 / 10月第2日曜日
所在地 / 豊田市越戸町松葉52
八柱神社から灰寶神社 / 石野地内を南下、勘八町勘八交差点を右折、国道153号線で平戸大橋西交差点を直進し1km先の右側、移動時間15分ほど。
訪問日 / 2025/08/08
関連記事
・豊田市枝下町『枝下駅跡と旧枝下用水取水口』
・平岩 神明社
・旧名鉄三河線 「三河広瀨駅」
・東広瀬町城下「廣瀬神社・広瀨城趾」
・西広瀬町市場「八劒神社と農村舞台」
・石野町上谷下 「八柱神社」
過去記事
・胸形神社 : 豊田市平戸橋町波岩