先に掲載した豊田市富田町 八柱神社、往古は八王子観音として崇敬されていました。
明治2年、国附町の八柱神社より八神の分霊を請け八柱神社と改めました。
今回は、その国附町の八柱神社を掲載します。

写真右手が県道355号線で、参道口と県道の分岐点に立つ八柱神社社標と幟立てが目印になります。
鎮座地は、新富橋から矢作川左岸に渡り、県道355号線で下流に300mほど下った国附町地内のちびっこ広場の西側に社頭を構えます。
この神社のある国附町は江戸時代は国府村と呼ばれ、慶安4年(1651)当時、大島陣屋の石川氏が領地を得たことから地名を「国附」としたといわれ、当神社は石川氏が貞享2(1685)年に創建したと伝えられています。

この参道には車止めはなく、社標から少し奥まった所に石の明神鳥居を構えています。

この鳥居を通過できる車であればこの先の広場に駐車は可能です。
この鳥居の柱には天明2年(1782)、石川阿波守總恒の名が刻まれています。
鳥居は社殿域にも両部鳥居があるので、ここが一ノ鳥居ということになります。

保安林の中の参道を少し進むと、その先は広がりをみせます。

参道の幅からすると、この広々とした空間は、過去に社殿でも建っていたのではと思えるほど広い。
かつては境内に大きな舞台があったとされ、祭礼には、棒の手の奉納や鉄砲の音が響き渡ったようです。

北垂れの斜面に続く石段、社殿はこの先の左側になります。
この保安林全体が社叢で「八柱神社社叢林」として豊田市の名木に指定されています。

朱塗られた木造両部鳥居から社殿の眺め。
社叢に包まれた入母屋茅葺屋根の拝殿は実に趣があり、印象に残る佇まいです。

国附町を見下ろす高台に作られた境内西側の手水舎。

神社は貞享2年(1685)に石川氏が創建したと伝わり、元禄12年(1699)に石川氏三代總乗が家督を承継、その御礼として当神社に元禄14(1701)年に一振りの剣が寄進されたということです。
「豊田市郷土資料館だより」によれば、当神社には「八柱神社記録」があり、『宝物 剣 壱振 但 三ッ葵紋付キアリ 銘 康継 元禄十四年三月吉日 源總乗』と書いてあるそうで、現在は豊田市郷土資料館に寄託されています。

拝殿前の境内社。
左が明和4年(1767)創立の御鍬社、右が宝歴5年(1755)創立の秋葉社。

正面と後方には黒い腰板に朱色の連子窓が施され、後方は渡り廊下で覆殿と結ばれています。
覆殿の左右に神饌所、神庫があります。

正面右側に「金的中」の奉納額が掛けられており、文字は脱色し奉納年月日は読み取れませんが、かつては弓術の競射が行われていたようです。

拝殿後方の渡廊と覆殿。
ひと昔前のこの辺り、冬ともなれば大雪が降るところ。
温暖化の昨今は雪より、程度を知らない降雨から本殿を護るためにも、こうした大きな覆殿も必要なんだろう。

本殿は檜皮葺の流造のように見え、木鼻は象を模したシンプルな意匠。
ここに天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野橡樟日命、市寸島姫命、田心姫命、湍津姫命の八柱が祀られている。

古くは八王子大権現と呼ばれ、いつから八柱神社に改められたものか定かではないが、国府村の鎮守として江戸時代以前から鎮座していたのかもしれません。
『八柱神社』豊田市国附町宮ノ洞
創建 / 不明(貞享2年)
祭神 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野橡樟日命、市寸島姫命、田心姫命、湍津姫命
境内社 / 御鍬社、秋葉社
氏子域 / 豊田市国附町
例祭日 / 10月第4日曜日
所在地 / 豊田市国附町宮ノ洞193
猿投神社から国府町八柱神社まで・車ルート / 県道11号線を下流の新富橋に向かい、矢作川の対岸へ、橋を渡って突き当り右折、県道355号線で国附町地内のちびっこ広場へ。移動時間5分、距離2.5km。
参拝日 2025/9/8
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