古い住宅地の中にご覧のように分りやすい「史跡 古戦場 首塚」の案内板が目に入ります
個人的にはあまり好まない史跡となるのですが、寺を訪ねて行くとどうしても避けて通れなくなります
この地は古くは長久手の合戦の舞台となった場所
それは尾張名所図会といって1844年(天保15)に前篇(全7巻)、1880年(明治13)の後篇(全6巻)の全13巻でなる、尾張の名勝、古跡、風俗、名産、神社仏閣など絵と文章で説明した地誌があります
著者は西枇杷島の青物問屋主人の野口道直と尾張藩士の岡田啓で、挿絵は尾張藩士の小田切春江により作成されました
そこにも長久手古戦場として記されています
この地は古くは長久手の合戦の舞台となった場所
それは尾張名所図会といって1844年(天保15)に前篇(全7巻)、1880年(明治13)の後篇(全6巻)の全13巻でなる、尾張の名勝、古跡、風俗、名産、神社仏閣など絵と文章で説明した地誌があります
著者は西枇杷島の青物問屋主人の野口道直と尾張藩士の岡田啓で、挿絵は尾張藩士の小田切春江により作成されました
そこにも長久手古戦場として記されています
以下は長久手教育委員会案内板からの抜粋
『1584年長久手合戦の舞台となった長久手、この辺りは至るところ戦死者の山となりました
その惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は村人達と共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。毎年、4月9日の合戦の日には村人によって首塚に香華(こうげ)を手向け法要が営まれます
この法要には名古屋から尾張藩士からの参拝もあったと云われます』
長久手周辺には合戦の後に付けられた地名が今も残ります
『1584年長久手合戦の舞台となった長久手、この辺りは至るところ戦死者の山となりました
その惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は村人達と共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。毎年、4月9日の合戦の日には村人によって首塚に香華(こうげ)を手向け法要が営まれます
この法要には名古屋から尾張藩士からの参拝もあったと云われます』
長久手周辺には合戦の後に付けられた地名が今も残ります
田畑だった当地も今では住宅に変貌、県道57号線が通り面影はありません
民家と駐車場に挟まれた奥まった場所に塚と祠が建ち「南無観世音菩薩」の赤と白の幟が靡いています
民家と駐車場に挟まれた奥まった場所に塚と祠が建ち「南無観世音菩薩」の赤と白の幟が靡いています
右側の祠
地誌には描かれていないこの祠、いつ此方に祀られたかまでは辿り着けませんでした
地誌には描かれていないこの祠、いつ此方に祀られたかまでは辿り着けませんでした
祠内は生花が供えられ一体の石仏祀られています
石垣が積まれ一段高く盛られた首塚
今年も法要が行われ、新しい塔婆も建てられていました
傍らの八重桜、散りゆく花弁が塚周辺をピンクに染めていました
・・・・・合掌のみです
首塚
住所 / 愛知県長久手市岩作元門
アクセス / リニモ「長久手古戦場」下車北へ徒歩30分程
傍らの八重桜、散りゆく花弁が塚周辺をピンクに染めていました
・・・・・合掌のみです
首塚
住所 / 愛知県長久手市岩作元門
アクセス / リニモ「長久手古戦場」下車北へ徒歩30分程