右側に赤い奉納幟と赤い鳥居が見えてきます、そこが『観音寺』です
右が三吉稲荷で左が観音寺一二支御本尊礼拝殿
小さな観音寺ですが、アートな御朱印で近年知名度が急上昇
津島界隈のアートな御朱印の火付け役となったお寺と言って過言ではないでしょう
かみさんは年明けから予約が取れなくて漸く取れたと大喜び
予約当日も大勢の人が順番待ちで列をなしていました
小さな観音寺ですが、アートな御朱印で近年知名度が急上昇
津島界隈のアートな御朱印の火付け役となったお寺と言って過言ではないでしょう
かみさんは年明けから予約が取れなくて漸く取れたと大喜び
予約当日も大勢の人が順番待ちで列をなしていました
中では一心に御朱印を書く副住職の姿が見える
左の大きな数珠は「厄飛ばし大念珠」と呼ばれ、108の大きな珠が連なります
両手で引いてカチカチと音を鳴らす事で心の悩み、迷いを吹き飛ばし正しい道へと導いてもらえるそうです
左の大きな数珠は「厄飛ばし大念珠」と呼ばれ、108の大きな珠が連なります
両手で引いてカチカチと音を鳴らす事で心の悩み、迷いを吹き飛ばし正しい道へと導いてもらえるそうです
まずは本堂でお参りです
地蔵が並ぶ参道の先の右が本堂になります
地蔵が並ぶ参道の先の右が本堂になります
本堂前の御詠歌の刻まれた石碑
「阿りが多や 八十八のみほとけをこのひにをがむ極楽の山」と刻まれています
昭和11年頃の創建だそうですが、本四国霊場(四国八十八ヶ所)を巡るには、お金も日にちもかかり簡単に行けるものではありません
観音寺には四国八十八ヶ所全てお参りしたのと同じ功徳が頂ける本四国霊場が安置され、一度にお参りができる身近な巡礼地、この上もなく幸せであるとしてこの御詠歌が歌われたそうです
「阿りが多や 八十八のみほとけをこのひにをがむ極楽の山」と刻まれています
昭和11年頃の創建だそうですが、本四国霊場(四国八十八ヶ所)を巡るには、お金も日にちもかかり簡単に行けるものではありません
観音寺には四国八十八ヶ所全てお参りしたのと同じ功徳が頂ける本四国霊場が安置され、一度にお参りができる身近な巡礼地、この上もなく幸せであるとしてこの御詠歌が歌われたそうです
本堂を正面から眺める(上)
観音寺略縁起より
山号を牛玉山(ごおうざん)、寺号は観音寺
真言宗智山派に属し、本山は京都の東山七条の智積院に持つ
1515年(永正12)快祝法師が中興、元は見越村(現在の愛知県愛西市佐織町)にあり、三輿山廻向院観音坊といわれた
織田信秀の頃より白山信仰の先達として寵愛を受け、豊臣秀吉、徳川家康の信頼も厚く、1608年(慶長13)祝蔵法師の時、白山社と共に現在地に移り、津島神社の社僧の列に加わり、牛玉山(ごおうざん)神宮寺と呼ばれた
観音寺略縁起より
山号を牛玉山(ごおうざん)、寺号は観音寺
真言宗智山派に属し、本山は京都の東山七条の智積院に持つ
1515年(永正12)快祝法師が中興、元は見越村(現在の愛知県愛西市佐織町)にあり、三輿山廻向院観音坊といわれた
織田信秀の頃より白山信仰の先達として寵愛を受け、豊臣秀吉、徳川家康の信頼も厚く、1608年(慶長13)祝蔵法師の時、白山社と共に現在地に移り、津島神社の社僧の列に加わり、牛玉山(ごおうざん)神宮寺と呼ばれた
本堂前には煩悩を打ち払い、厄除のご加護がある五鈷杵(ごこしょ)が置かれています
本堂内全景
堂前には温もりを感じる手書きの由緒書き
次は観音寺の右にある三吉稲荷へ参拝
手水は蛇口をひねってト
三吉稲荷の由緒書きも副住職の手によるものなのか
三吉稲荷の由緒書きも副住職の手によるものなのか
予約した時間が近付いてきました、かみさんは御朱印を書いてもらいに礼拝殿へ、おっさんは西隣の白山社に参拝です
続々と予約された方が訪れます
続々と予約された方が訪れます
3ページを使い描かれた御朱印
副住職渾身の力作
体調が芳しくないようで、これまでの様な対応は見直していかれるようです
観音寺
創建 / 不明
本尊 / 不動明王
住所 / 津島市天王通り六丁目43番地の1
アクセス / 名鉄津島駅西口を直進、一つめの信号を左折
副住職渾身の力作
体調が芳しくないようで、これまでの様な対応は見直していかれるようです
観音寺
創建 / 不明
本尊 / 不動明王
住所 / 津島市天王通り六丁目43番地の1
アクセス / 名鉄津島駅西口を直進、一つめの信号を左折