津島界隈 #4 『宝寿院』

津島市神明町と言うより「津島神社」の方が分かりやすいか
門前町を西に歩き、神社の東大鳥居方向にやってきました
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平日にもかかわらず駐車場は結構一杯です、さすが東の津島と云われるだけのことはあります
何回か参拝に訪れていますが、今回は津島神社ではありません
境内の北側にある津島神社の神宮寺である「宝寿院」を訪れました
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鳥居を過ぎて右手に宝寿院の看板
鎮守の杜で包まれ、手入れされた庭園を眺めながら参道を進みます
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小池の右は津島神社です
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狛象?が両脇で出迎えてくれる宝寿院入口です
参道は左に折れ本堂に続きます
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狛象の左に掲げられた略縁記
以下は宝寿院HPから引用
今より1200年前、弘法大師(空海)が熱田社に詣でる道中津島に来臨されました。大師は人々が疫病に苦しむ様子を哀れみ、薬師如来牛頭天王社(現在津島神社)弥五郎殿脇に奉安され、厄疫退散当病平癒の祈祷を勤修されました。以来、神仏混合の天王社は『東の津島、西の八坂』と称され、全国に末社三千の牛頭天王信仰を支えてきました。中でも信長、秀吉からは特に篤い信仰を受けたことでも知られています。
明治以前までは宝寿院・実相院・明星院の三寺の住職が天王社神宮寺別当職を継承してきました。神宮寺の内一番西に位置する宝寿院は、地域の人々に「西寺さん」と呼ばれ親しまれてきました。

ご本尊は薬師如来。子安地蔵、泉大竜神、弘法大師を奉安しております。真言宗智山派に属し、弘法大師より受け継がれてきた密教を伝えるご祈願のお寺です。

明治初年の神仏分離令は全国の神宮寺に多大の影響を及ぼし、寺の存亡に関わる事となりました。
尾張津島も例外ではなく、三つの神宮寺の内宝寿院以外は還俗(僧侶を辞めること)しました。そんな中、時の宝寿院住職・宥三は還俗すれば財産も身分も保証される中で孤軍奮闘。「いかに貧しくなろうとも 仏法捨てがたし」と、一年間寺社奉行へ日参し神宮寺の存続を訴えました。

しかし願いは聞き入れられず、宥三はついに私財を投げ打って宝寿院住坊を買取り、神宮寺の仏像仏画・法具の数々を焼き討ちから守り今に伝えています。

なんだか、HPの内容だけで充分な紹介です
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宝寿院の全景
この境内の雰囲気は何と表現すればいいのでしょうか
力強さとは対極の温もりを感じる女性的な趣が漂います
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狛象の右に寺号標と降魔成道(ごうまじょうどう)の釈迦如来坐像
釈尊が悟りを開いて立たれるときに、それを妨げようと多くの煩悩が現れます、そのときに、お釈迦様はそれらの煩悩と戦い制圧、仏陀として悟りを開いたことを「降魔成道」と云われます
煩悩を振り払ったお釈迦様の表情は穏やかそのものです
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参道左の子安地蔵と特徴のある丸い屋根が印象的な地蔵堂
こちらの地蔵菩薩は、江戸時代まで現在の津島神社の東門十王堂で祀られていたものだそうです
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堂内全景
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水子地蔵尊後方の子地蔵群
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象の次は亀
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境内の右手の釈迦涅槃像
その表情はどこまでも穏やかです
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大師堂と修行大師像
真言宗の宗祖弘法大師(空海)を祀ります
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本堂と右手は客殿(御朱印はこちらになります)
1981年に再建されたもので、本尊の薬師如来が祀られます
江戸時代までは津島天王社の本地堂(現在の津島神社弥五郎殿辺り)に祀られていましたが
明治初年にこちらに移されたもの
神宮寺当時から秘仏と云われ、毎年元旦から1月8日の初薬師の間に参拝客に御開帳されるそうです
一度は見ておかねば
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堂内
本尊の薬師如来、日光・月光両菩薩、十二神将の他、大聖歓喜天が祀られているそうです
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本堂左の泉大竜
正面の建屋に祠が祀られています・・・・・嫌な予感
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ほら出た、亀の次は蛇
苦手な奴がいました、しかもとぐろを巻いています
重軽さまと呼ばれ、蛇の形をした重軽石です
津島の森の守り神とはいっても、これは持てません
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水琴窟(左)と双連の樹、元は別々で芽生えいたものが何時しか根元からひとつとなり、一本の大樹(イスの木)となったもので、夫婦和合の願を叶えて頂けるそうです
そういえば、かみさんは御朱印を頂きに行ったまま戻ってこない
探して見れば、こちらで出逢った御朱印ガール?とずっと情報交換をしています

これは長引きそうです
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津島神社に参拝してくるかァ
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当日頂いた御朱印

宝寿院​HP
住所 / ​愛知県津島市神明町2番地​​
アクセス / 名鉄尾西線津島駅から西へ徒歩15分