以前の矢田川堤周辺は夜に走ると灯りの少ない田舎の印象が強かったけれど
今では住宅が連なり、随分と若い頃の印象とは変わっています
矢田川の堤を越えると下には昔ながらの田園風景が残っています
訪れた当日(1/31)は周辺工事で通行が規制され、田畑の先に一之御前神社の杜は見えているが思う様にたどり着けない状況
今では住宅が連なり、随分と若い頃の印象とは変わっています
矢田川の堤を越えると下には昔ながらの田園風景が残っています
訪れた当日(1/31)は周辺工事で通行が規制され、田畑の先に一之御前神社の杜は見えているが思う様にたどり着けない状況
神社東側の道路から玉垣に導かれ一之御前(いちのごぜん)神社鳥居へ
街中の神社には無い広々とした境内が広がります、子供の頃なら絶好の遊び場にしたでしょう
街中の神社には無い広々とした境内が広がります、子供の頃なら絶好の遊び場にしたでしょう
鳥居をくぐった右側に社務所と手水舎
上段 社務所全景
下段 境内左の玉垣造園記念碑
昭和53年玉垣など境内整備の際に建てられたもの、碑によれば
「白鳳時代の創建と伝えられ、国之常立命を祀る由緒深い御社であり、稲葉の産土神としてあまねく、祭事の維持を務め現在に至る」と記される
一之御前神社と書くと天照大神荒魂を祀る熱田神宮を思い浮かべるけれど、熱田神宮の一之御前神社の読みは「いちのみさき」、こちらは「いちのごぜん」と読みは違います
一説では熱田神宮の一之御前社から勧請したともいわれますが、そこのところは諸説ありということで
下段 境内左の玉垣造園記念碑
昭和53年玉垣など境内整備の際に建てられたもの、碑によれば
「白鳳時代の創建と伝えられ、国之常立命を祀る由緒深い御社であり、稲葉の産土神としてあまねく、祭事の維持を務め現在に至る」と記される
一之御前神社と書くと天照大神荒魂を祀る熱田神宮を思い浮かべるけれど、熱田神宮の一之御前神社の読みは「いちのみさき」、こちらは「いちのごぜん」と読みは違います
一説では熱田神宮の一之御前社から勧請したともいわれますが、そこのところは諸説ありということで
拝殿扁額と拝殿内から本殿方向の眺め
祭神 / 国之常立命
創建 / 不詳 尾張徇行記に1663年(寛文3)に氏子によって再建と記される
一之御前神社は1911年(明治44)に本地ヶ原の白山神社を合祀していましたが
1970年(昭和45)に本地ヶ原神社に復祀されています
祭神 / 国之常立命
創建 / 不詳 尾張徇行記に1663年(寛文3)に氏子によって再建と記される
一之御前神社は1911年(明治44)に本地ヶ原の白山神社を合祀していましたが
1970年(昭和45)に本地ヶ原神社に復祀されています
広々とした境内、西側からの全景
拝殿左の一画に「検藤流棒の手」の碑があります
棒の手は尾張から西三河に伝わる、戦国時代の農民の隠れ武術として始まったとされます
検藤流棒の手の由緒は1338年(延元3)年まで遡るとも云われ、秋祭りに境内で奉納される様です
碑の右に小社がありますが、詳細は分かりません
拝殿左の一画に「検藤流棒の手」の碑があります
棒の手は尾張から西三河に伝わる、戦国時代の農民の隠れ武術として始まったとされます
検藤流棒の手の由緒は1338年(延元3)年まで遡るとも云われ、秋祭りに境内で奉納される様です
碑の右に小社がありますが、詳細は分かりません
拝殿から参道を振り返る
広大な境内の先には田畑が広がり、それを潤す川が流れる
良い風景が残っています
『一之御前神社』
住所 / 尾張旭市稲葉町3丁目164
アクセス / 名鉄瀬戸線「尾張旭」下車南へ徒歩20分程
広大な境内の先には田畑が広がり、それを潤す川が流れる
良い風景が残っています
『一之御前神社』
住所 / 尾張旭市稲葉町3丁目164
アクセス / 名鉄瀬戸線「尾張旭」下車南へ徒歩20分程
本地ヶ原神社から徒歩ルート