名古屋市緑区  『八幡社』


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北に天白川が流れ、海抜は3mとそれ程高くはありません
知多半島丘陵地最北端にあたる大高城跡のある小高い丘が左に見えます
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『八幡社』は大高城跡から北東に歩いて​10分程​の住宅地に鎮座します
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小さな三差路の北角が『八幡社』、西側に大高北小学校が隣接しています
上段
玉垣で囲われた社地の東南角に石鳥居があり境内につながります
下段
南側道路からも境内全景が良く見通せます
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参道入口鳥居をくぐり右に境内が広がります
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鳥居には1914年(大正3)と記されていましたが、100年を過ぎたとは思えない程に綺麗
鳥居前の狛犬は愛らしい表情をしています
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境内には大高歴史の会の解説板と神社由緒書が掲げられていて
この神社が地域、氏子からも崇拝されているのが伝わってきます
境内の手入れの良さだけでなく、社殿整備も円滑に行われているようです
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境内右手の手水舎、鳥居と同年に新築されたもの
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龍が良い仕事しています
注ぐ清水は澄み、気持ちよく清める事が出来ます
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:境内から右から社務所、拝殿、境内社の眺め、とても綺麗に整った神社だと思います
イメージ 10尾張造りの拝殿は破風と向拝が施され、軒は優雅に反りバランスが整った外観
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拝殿扁額と拝殿内から本殿の眺め、神前幕には三つ巴の神紋
八幡社祭神 / 応神天皇神功皇后玉依姫

由緒
明治半ばまで社職を務めた原田家の記録によると
1180年(治承4)源頼朝により鶴岡八幡宮の分霊を勧請、相模国小林郷丸山に鎮座
後に大高城主の花井備中守により大高に遷され、ここ町屋川と大高城跡のあった城山に祀られたのが1200年頃と言われる

当時の城山の八幡社は武士の社で町人の参拝は叶わず、ここ町屋川の八幡社が町人の社の位置付けだったようです

1560年(永禄3)の桶狭間の合戦の前に、今川義元の命を受けた家康(松平元康)は兵糧の欠乏した大高城に兵糧を運び込むことに成功、大高の兵糧入れとして知られることになる
桶狭間の合戦から1年後の1561年(永禄4)、20歳の家康はここ大高の地を訪れ町屋川の八幡社に参詣、祈祷したとされる歴史のある神社です

やがて大高城は廃城となり、尾張藩家老の清水家がここに館を構え移り住むも、明治に入り売却されると共に城山の八幡社は廃れていきます
反面、町人の町屋川八幡社は氏子により代々守られ続け現在に至っています
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屋根の美しい作りが印象的です
拝殿は渡殿と共に1914年(大正3)に新築、2002年(平成14)建替えられた新しいもの
本殿は1981年(昭和56)、社務所も1999年(平成11)に改築を受けた様です
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拝殿横から妻の眺め、金色の三つ巴の神紋が輝いています
本殿は千木が見える程度で全体は窺えません
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拝殿右に三社が祀られています
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左が稲荷社
玉砂利の敷きつめられた広い神域に楠木の御神木
その前にポツンと祀られています
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中央に金刀比羅社
拝所の屋根が社まで伸び覆殿の様になっており、その下に祀られています
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右が川向秋葉神社
前の二社は塀で囲われていますがこちらは少し違っています
どこからか移されてきたものなのか?
川向の地名を調べて見ました、川向と付く場所は神社南に川向公会堂があるものの、地名としては現在見当たりません
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杜を形成する木々
明るく風通しのいい境内は心地いいものです
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八幡社境内東側の道路に面した場所にある奉安殿
1928年当時の大高尋常小学校校庭南に建てられていた
天皇皇后の写真と教育勅語が保管されていたが、後の1946年廃棄命令によりその地に埋められたそうですが1997年に彫りだされ歴史遺構として修復されたもの
現在は学区の資料保管庫として使用されているそうです


大高町町屋川 『八幡社』
創建 / 不明 鎌倉時代初期と思われる
祭神 / 応神天皇神功皇后玉依姫
境内社 / 稲荷社、金刀比羅社、秋葉社
住所 / 名古屋市緑区大高町字町屋川14
アクセス / ​JR東海道本線「大高」下車西に徒歩5分前後