姥堂・徳川家康幼時幽居地

鈴之御前社の所でも出てきたけれど
熱田区のこの辺りは大正時代まで精進川と名のついた川が流れていたという
現在の姥堂から少し東に旧東海道と繋ぐ裁断橋と呼ばれる橋が架けられていたという
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この精進川は三途の川と見立てられたという
橋の傍らに衣領樹(エンリョウジュ)という大樹あり,そこには奪衣婆(ダツエバ)と懸衣翁(ケンエオウ)という鬼の姥と翁がいて、奪衣婆は三途の川の畔で死者の衣を奪い取り、懸衣翁はそれを衣領樹の枝に懸け枝のしなり具合を見て生前の罪の軽重を計り渡る場所を裁断した事から裁断橋の名が付いたとも言われる
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姥堂円福寺の末寺として1358年(延文3)創建されたと伝わります
1573~1592(天正年間)火災で焼失、1605年(慶長10)に再建される
奪衣婆を本尊とするようです、元は熱田神宮の涙ヶ池の傍らにあった云われますが
1945年(昭和20)の空襲で本尊を含めて焼失し戦後に再建され、写真の建物は1993年(平成5)に建て替えられています
本尊も焼失前の写真から縮小して復元されたもの、その姿は奪衣婆とも日本武尊の母(播磨稲日大郎女)か宮簀媛命ではないかとも云われ様です
昔から安産・子育・家内安全の仏として「おんばこさん」として信仰されているようです
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裁断橋の右に「都々逸(ドドイツ)発祥の地」の石碑
都都逸扇歌(1804~1852年)によって「名古屋節」の合の手を取り入れ大成された江戸時代の大衆娯楽で、名古屋節の発祥地が熱田とされる事からこの碑があるようです
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碑の横に姥堂と裁断橋の解説板
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尾張名所図会に記された裁断橋と右手に姥堂
当時は人で賑わった様子が伺われます、現在は住宅とビルが建つ静かな趣です
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裁断橋址の石碑と名古屋市教育委員会の解説板
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姥堂前に復元された旧裁断橋
1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦に出兵、帰らぬ人となります
ここ裁断橋まで見送った母親は、翌年、供養のために私財を投じて裁断橋の架け替えを行いました
帰らぬ子を偲ぶ母の想いは擬宝珠の一つに刻まれ語り継がれました
天正十八年二月十八日小田原への御陣堀尾金助と申す十八になりたる子をたたせてよ又二目とも見ざる悲しみのあまりにいまこの橋を架けるなり母の身には落涙ともなり即身成仏し給え」

橋の欄干に飾られた擬宝珠(ギボシ)は空襲による焼失を免れ、戦災後に建て直された姥堂に規模を縮小し再建されたもので、オリジナルの擬宝珠は名古屋市文化財として名古屋市博物館で保管されている
堀尾一族が大口町に屋敷を構えたことから、大口町を流れる五条川にも裁断橋と擬宝珠が復元されています
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裁断橋左には地蔵が祀られ、精進川に架かっていた旧裁断橋の桁石が保存されています
今は精進川の面影もありません

姥堂
宗派 / 時宗四条派
創建 / 1358年(延文3)
本尊 / 奪衣婆像
住所 / 名古屋市熱田区伝馬二丁目5番
アクセス / ​地下鉄名城線「伝馬町」徒歩5分程


徳川家康幼時幽居地
姥堂を訪ね歩いていた途中で見かけた「徳川家康幼時幽居地」
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駐車場の片隅にこの碑と解説板のみが残るのみ
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「松平竹千代(徳川家康)の父・広忠は、三河に勢力を拡大する織田信秀に対抗するため、駿府今川義元への従属を強め、1547年、6歳の竹千代を人質として差し出しました
しかし、岡崎から駿府へ送られる途中、竹千代は、田原の領主・戸田康光により身柄を奪われ、織田氏へ送られました
そして、熱田の豪族加藤図書助順盛に預けられ、熱田の地に幽閉されました」
熱田区解説から抜粋
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後に家康は厚遇を受けた加藤家に140余石の土地を与えたとあります
幼少の頃ここで過ごした二年間の感謝の意を表したものと云われます
現在は屋敷はなく駐車場と化しています

徳川家康幼時幽居地
​住所 / 名古屋市熱田区伝馬2丁目13
アクセス / ​姥堂から南へ徒歩2分