熊野三山 「熊野那智大社」

大門坂から石畳の熊野古道を小一時間歩き「熊野那智大社」一ノ鳥居に到着。
右手の「那智山青岸渡寺」は改めて掲載する事にします。
まずは熊野那智大社参拝です。

f:id:owari-nagoya55:20210515081552j:plainここまで来ると参拝客は増えて来るけれど、やはり海外からの観光客やツアーバスの減少もあり、御一行様は皆無、静寂に包まれた世界が広がります。
一ノ鳥居からニノ鳥居方向の眺め、比較的緩やかな石段が続きます。
鳥居の左に手水舎、手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20210515081623j:plain朝一番だと御日様の加減が逆光となりなかなか撮り辛い。
流石に手水は注がれているが龍口から二手に分けられている。

f:id:owari-nagoya55:20210515081653j:plain手水舎の対面に児宮(多冨気王子神社)が鎮座しています。
授児安産、無事育成に神徳ががあり、祭神は彦火火出見尊

f:id:owari-nagoya55:20210515081712j:plainこの二日間で石段は何段上ったのだろう、とはいえ神倉神社の事を思えば大したことはない。
石段はこの先で右に折れニノ鳥居へ続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210515081734j:plain上の石段を上り切ると左側に神馬舎。
ここから眼下に大門坂方向の眺望が開け、自分の足で登ってきた満足感が味わえる。

f:id:owari-nagoya55:20210515081753j:plain最後の石段。
両脇に逞しい姿の狛犬とニノ鳥居が間近に見えて来た。

f:id:owari-nagoya55:20210515081810j:plain年代は見ていないけれど、苔むした台座の上に角付きで胸に鈴が付いた狛犬です。
胸板の厚い事。

f:id:owari-nagoya55:20210515081831j:plain最後の石段、ここを登り切れば社殿が見えてくる。
石段の途中から見上げる額。

f:id:owari-nagoya55:20210515081853j:plain熊野の山々を背景に建つニノ鳥居と手水舎。
天空に建つ神社の趣がある。
10:30

f:id:owari-nagoya55:20210515081941j:plain手水舎から拝殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210515082000j:plain鳥居左は社務所が建つが参拝時は新たに何か建つようで工事中。

f:id:owari-nagoya55:20210515082018j:plain熊野那智大社
田辺市熊野本宮大社新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社。
街で見かける熊野神社の本社で、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬が厚い。
ご祭神「熊野夫須美大神(伊弉冉尊)」をお祀りし、夫須美が結びと同意であることから「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁に留まらず様々な願いを結ぶ宮として崇めらています。
那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、八咫烏の縁起から導きの神として、古くから交通・海上安全の守り神として崇められている。
境内拝殿右には御神木の梛の木があり無事息災をあらわすものとして崇められています。
正に熊野の自然と共に神の恵みを授かる事の出来る神社。
熊野信仰は仏教伝来以降早くから神仏習合が進み、修験道の降盛とも相俟って熊野権現として崇められて来た。

f:id:owari-nagoya55:20210515082040j:plain手水舎の向かいは宝物殿。
那智経塚の出土品や熊野那智大社文書(国指定文化財)等、熊野信仰の歴史を伝える資料が展示されています。

f:id:owari-nagoya55:20210515082056j:plain宝物殿右に八咫烏のモニュメントと御縣彦神社(ヤタガラス)、右は第六殿八社殿(天神地祗)。

f:id:owari-nagoya55:20210515082117j:plain青い空と緑の山々を背景に建つ朱の社殿が一際映える、昔の印象そのままだ。

神日本磐余彦命(神武天皇)の東征を起源とし、西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸した際、光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったいう。
那智御瀧(那智の滝)と出逢い、その瀧を大己貴命の現れた御神体としてお祀りしたとされる。
一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原へ辿り着くことが出来、初代天皇神武天皇として即位したとされます。
一行を導いた八咫烏は熊野の地へ戻り、石(鳥石)に姿を変えて休んでいるといわれています。
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしていたが、仁徳天皇5年(317年)に山の中腹にあらためて社殿を設けたのが「熊野那智大社」の始まりとされています。
ここから少し下った所にある「飛瀧神社」は、熊野那智大社の別宮で「那智の滝」を御神体としています。

f:id:owari-nagoya55:20210515082136j:plain拝殿右の授与所、後方の入母屋屋根は那智山青岸渡寺本堂、那智大社境内の東門を出ると目の前です。
右側の巨木は楠木で熊野那智大社の御神木。

f:id:owari-nagoya55:20210515082207j:plain御縣彦社
八咫烏を祀る社で祭神は建角身命。
八咫烏は熊野の神様の使いで三本足の烏で、より良い方向へ導く、導きの神とされる。

f:id:owari-nagoya55:20210515082226j:plain本殿正式参拝をすると烏石を見ることが出来るらしく触れると八咫烏のパワーを授かれるそうな。

f:id:owari-nagoya55:20210515082246j:plain御縣彦社から入母屋造で唐破風向拝の付く朱塗りの拝殿。
拝殿から左右に瑞垣が繋がり本殿域を取り囲んでいますが、正面から本殿の姿を見る事は出来ません。

f:id:owari-nagoya55:20210515082325j:plain拝殿 
主祭神 / 熊野夫須美大

f:id:owari-nagoya55:20210515082342j:plain御神木から拝殿の眺め。
香炉に火も入れられたようです。昔の印象とは朱で彩られた山の斜面に建つ神社だった、今も当時の印象と何ら変わりはない。

f:id:owari-nagoya55:20210515082400j:plain御神木の大楠。
平重盛の御手植えと伝わり、樹齢約850年を超えるとも云われ、幹が空洞化している。
「胎内くぐり」といって鳥居から御神木の空洞を通り抜けることができる。

f:id:owari-nagoya55:20210515082420j:plainこの辺りから東を眺めると、一ノ鳥居や観音堂、遥か下には那智の谷筋が一望できる。

f:id:owari-nagoya55:20210515082439j:plain東門の先は「那智山青岸渡寺」に繋がります。
左の玉垣あたりから本殿域を見通すことが出来ます。

f:id:owari-nagoya55:20210515082457j:plain本殿域
玉垣内には拝殿正面に五殿あり、左から二つ目の社殿が、熊野夫須美大神(伊弉冉尊)が祀られている。
玉垣と鈴門があり社殿は熊野造りで殿内は外陣・内陣に区切られています。
樹で隠れてしまったけれど、右から第一殿 滝宮(大己貴命)、第二殿 証誠殿(家都御子大神)、第三殿 中御前(御子速玉大神)、第四殿 西御前(熊野夫須美大神)、第五殿 若宮(天照大神)と朱の社が整然と並ぶ。
実に綺麗だ。

f:id:owari-nagoya55:20210515082516j:plain那智山青岸渡寺から東門。
御神木の楠の枝は空を覆う様に枝を張り、そこから差し込む陽射しに神々しさを感じる。
11:00
さあ、次は「那智山青岸渡寺」です。
2021/2/22

f:id:owari-nagoya55:20210515082543j:plain熊野那智大社
主祭神 / 熊野夫須美大神(伊弉冉尊)
第一殿  / 滝宮(大己貴命)
第二殿  / 証誠殿(家都御子大神)
第三殿  / 中御前(御子速玉大神)
第四殿  / 西御前(熊野夫須美大神)
第五殿  / 若宮(天照大神)
第六殿 / 八社殿(天神地祗)
御縣彦神社 / 建角身命
創建 / 仁徳天皇5年(317年)
住所 / ​和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
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高岡市「護国神社」

富山県高岡市の中心部、高岡古城公園内に鎮座する高岡護国神社
先に掲載した射水神社の境外末社で、高岡出身の戦没者、空襲により亡くなられた方々の霊をお祀りしています。

f:id:owari-nagoya55:20210512102928j:plain 写真は射水神社のある本丸と二の丸を結ぶ土橋。
高岡城は1615年廃城となりました、当時の城壁の名残はこの土橋が留めている。
この素朴な石積みは乱積みと呼ばれ、使われる石にはいろいろな文字が刻まれているそうです。
石を切り出した石工が付けた目印だと考えられていて、一説によれば キリシタンに関係があると云う話もあるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210512102945j:plainその他の遺構は本丸と三の丸の井戸(民部之井戸)など一部残る。
写真は民部之井戸。

f:id:owari-nagoya55:20210512103003j:plain忠魂碑
本丸から土橋を渡った左側の広場に建ち、広場中央に鶴の噴水がある。
右には護国神社の社殿が見えている。

f:id:owari-nagoya55:20210512103023j:plain城下からだと駐春橋を渡った右側に鎮座しています。
高岡古城公園射水神社を訪れた人々を傍らから見守る様に佇んでいる。
1935年(昭和10)高岡市招魂社として創建され、後の1952年(昭和27)高岡市護国神社に改称されました。

f:id:owari-nagoya55:20210512103039j:plain石段の先に2012年建立の明神鳥居。
射水神社の境外末社

f:id:owari-nagoya55:20210512103058j:plain拝殿は平入の入母屋造。
銅板葺の屋根で、低い重心のフォルムは安定感がある。
周囲は木の折り戸が付けられ、黒の飾り金具と木の色合いは落ち着いた外観に調和している。
国のため亡くなられた方が鎮まるには相応しいものだ。
平和に慣れ、当たり前の様に感じるこの時代だからこそ、参拝したいものです。

別の形の戦いを強いられている現在。
さざ波としか捉えていない無能なお国や指導者ためではなく、最前線で活動されている方々への感謝と負担を掛けないため、自分と家族を守るため、今は積極的な孤の選択を惜しむべきではない。

f:id:owari-nagoya55:20210512103113j:plain拝殿前の狛犬
1933年建之のもので、角付きで突き出した胸には鈴の付いたもの。
招魂社などで良く見かける勇猛な姿。

f:id:owari-nagoya55:20210512103129j:plain拝殿内陣から本殿方向。
本殿方向を除き周囲が折り戸なので、本殿からさしこむ陽光が額や本殿を浮き立てている。

f:id:owari-nagoya55:20210512103145j:plain忠魂碑側から本殿の眺め。
銅板葺の流造。

f:id:owari-nagoya55:20210512103201j:plain駐春橋
護国神社から左に進み、外掘りに架かる橋。
ここから先に城下が続き次の目的地高岡大仏に向かいます。

高岡市護国神社
創建 / 1935年(昭和10)
祭神 / 高岡出身の戦没者、空襲により亡くなられた方々、殉職者の霊を祀る。
所在地 / 富山県高岡市古城1-3 (高岡古城公園内 二の丸)
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稲置街道を行く 「津島神社」

犬山市犬山南古券 「津島神社
稲置街道の秋葉教会・玉光稲荷大明神から犬山城方向に向かい2~3分の西に少し入った三叉路に鎮座していました。

f:id:owari-nagoya55:20210510081401j:plain

写真は了義山徳授禅寺の寺号標。
臨済宗の寺で、室町時代中期に桃隠玄朔が草庵を結んだ所とされ、1476年(文明8)妙心寺紫衣再興を果たした柏庭宗松が、一寺を建立して了義山徳授院と名付けたのが始まり。
前方に見える赤い山門や鐘楼など趣のある寺です。
稲置街道沿いに門前があり、左には小さな堂があります。

 

f:id:owari-nagoya55:20210510081439j:plain徳授寺の参道入口に建つ堂、その右の石標の側面に犬山焼の陶工「兼松所助(しょすけ)の墓」とあり、石標の正面には文久元年と刻まれている。石標自体は文久のものとは思えず没年を刻んで新たに建てられたものかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210510081457j:plain観音堂の様で、馬頭観音が安置され、1768年(明和5)、犬山馬付連中と刻まれています。
その他に安置されているようですが顔は前掛で覆われよく分からなかった。
今回の目的地「津島神社」は、この観音堂のある場所の向かいに延びる細い道の突き当りに鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210510081512j:plain観音堂から西側の筋に建つ赤い社の「津島神社

f:id:owari-nagoya55:20210510081527j:plain三叉路の間に三角形の社地があり、東角には大きな銀杏の樹が聳えています。
周囲は住宅が取り囲み、どの方向から来ても「津島神社」に突き当たります。

f:id:owari-nagoya55:20210510081542j:plain角の取れた丸い石を積み上げた台座の上に流造の社と板宮造りの小さな社が鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210510081557j:plain鳥居から二社の眺め、南を向いて祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210510081612j:plain左の本殿は扉が開けられ内部が見通せ、中には小さな社があり津島神社の御札が見えます。
木鼻など彫飾りも施され手が込んでいる、色褪せた赤い塗装はそろそろ手をかけてほしいと訴えている様に見える。右の2社相殿は残念ながら分かりません。

津島神社
創建 / 不明
祭神 / 建速須佐之男命
所在地 / ​犬山市犬山南古券129
秋葉三尺坊大権現から徒歩で2~3分
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f:id:owari-nagoya55:20210510081629j:plain観音堂の前に戻りそこから稲置街道の犬山城方面を眺める。
目と鼻の先に小さな流造の社がある。

f:id:owari-nagoya55:20210510081643j:plain
城下町の名残が残る町内、棟続きの家も多いだけに火災は他人事ではすまない。
一心同体と云える町内の火防、火伏の大役を担っている。
2011年(平成23)外町組とあり、新しく整備されたようで境内も社も新しく綺麗だ。

外町 「秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土神
所在地 / ​犬山市犬山南古券

新守西の「天王社」

前回掲載した新守山の天王社から北方向へ、幸心1丁目交差点を更に直進し右に入った所に鎮座する天王社
ここまで10分、15分程だろうか。
この手前に地蔵さんが祀られた小さな祠(宮地小祠(みやちしょうし)を過去に訪れた事がありますが、そこから少し東に入った場所が鎮座地です。

f:id:owari-nagoya55:20210508130351j:plain瓦葺の四方吹き抜けの拝殿と朱塗りの覆屋、それらを取り囲む様に杜が作られています。

f:id:owari-nagoya55:20210508130408j:plainこの辺りは古い区割りのまま住宅が立ち並んでいて、天王社周辺の道幅は狭く、車で訪れても駐車スペースはありません。
新守西の「天王社」はそうした細い路地の三叉路の角に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210508130421j:plain天王社正面全景
守山で見かける天王社としては拝殿もあり規模は大きい部類。

f:id:owari-nagoya55:20210508130434j:plain拝殿から眺める本殿
コンクリート土台の上に妻入りの覆殿があり、その中に小さな平入の本殿が祀られ、新守山の天王社同様小まめに手入れが施されているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210508130448j:plainこの辺りの地図を過去に遡ってみたが創建時期に繋がらなかった。
上の地図は昭和7年頃の当地(左)、天王社のある場所は航空写真で見ると鎮守の杜の様にみられ、幸心集落の東外れに氏神さまとして祀られてきたように見えますが詳細は分かりません。

当時の集落周辺は一面田畑が広がり、島の様に集落が点在する地域、それから短い期間で田畑から戸建住宅や集合住宅に変り、地域以外から新たに移り住む方が多いかもしれません。
その中で現在もこうして大切に守られている姿を見ると、これから先もこの天王社は残っていきそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210508130508j:plain参拝を終え東の通りに出て次に向かいます。

新守西 「天王社」
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / 名古屋市守山区新守西1101
​​新守山天王社から当地まで徒歩ルート​​​
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熊野古道大門坂から熊野那智大社

2021年2月21日~22日
車中泊で巡る熊野詣、最終日は那智山参拝で今回の予定はコンプリート。
「道の駅たいじ」の前を伸びる国道42号線、太地駅方向に向かい最終日が始まった。
国道42号線「市屋」交差点を右折、ほどなく「市屋ランプ」で右折する、この交差点が逆走を誘発させかねない。
片側二車線ある整備された道路ですが、上下線の分離帯がやたら広いので前方をよく見ていないと逆走しかねないので要注意かも知れません。
信号待ちの車もないこうした場所、逆走は年齢以外の要因もあるように思う。
立派な道路にパンダもいたり、余程有力な先生がいらっしゃるのだろう。
那智勝浦ICで降り、県道46号線を左折し那智川左岸を走っていけば那智山の入口「大門坂駐車場」
道の駅からゆっくり走って30分もかからない。

f:id:owari-nagoya55:20210507223710j:plain那智山まで車でもバスでも容易に行ける、折角訪れたのだから、ここは少しだけでも熊野古道を歩いて行こう。
という事で「大門坂駐車場」から那智大社までの高低差100㍍程を歩いて行きます。
駐車場の案内板この時点で9:20(撮影時刻)

f:id:owari-nagoya55:20210507223725j:plain大門坂へは駐車場から県道を右方向に進みます。

f:id:owari-nagoya55:20210507223743j:plain直ぐに写真の「大門坂」の看板と石標があり、そこから左に進みます。
この時点で県道に対し緩やかに傾斜が増しています。

f:id:owari-nagoya55:20210507223759j:plain民家脇を通り過ぎると正面に石段と鳥居、その先に赤い欄干の橋は「振ヶ瀬橋」、ここから「大門坂」が始まります。

f:id:owari-nagoya55:20210507223813j:plain案内板によれば那智大社まで1.2㌔とある、平坦ならともかくどれくらいかかるんだか。
9:30

f:id:owari-nagoya55:20210507223832j:plain鏡石
「振ヶ瀬橋」を渡った先にあり、案内には「祈り石です」とある。
9:34

f:id:owari-nagoya55:20210507223848j:plain石畳の先に大きな杉が現れる。
9:35

f:id:owari-nagoya55:20210507223905j:plain夫婦杉と呼ばれ、嘗てはこの辺りに門があり、ここで通行税を徴収したという。
ここから先は空を覆うように樹々が生い茂る。

f:id:owari-nagoya55:20210507223923j:plain大門坂入口
杉並木に包まれた古道は角が取れた石が敷き詰められ、上へ上へと延びています。
9:36

f:id:owari-nagoya55:20210507223939j:plain多冨気王子跡
夫婦杉からすぐ先の右側にあり、この辺りから古道は勾配を増してゆきます。
9:37

f:id:owari-nagoya55:20210507223956j:plain熊野参詣道中辺路にある最後の王子社、峠の神仏に手向けをした場所。
いつしか王子と呼ばれるようになった。
王子の名は江戸時代の地誌類に現れ呼び方も様々だったようで、江戸時代は社殿も築かれ、1877年(明治10)に熊野夫須美神社(熊野那智大社)の境内に移され、跡地だけとなったようです。

指定文化財 多冨気王子跡(県史跡)、那智山旧参道杉並木(県・天然記念物)
案内板左にある「市野々王子」、駐車場からだと那智川を越えた山間にあり当然歩きとなります。

f:id:owari-nagoya55:20210507224011j:plain右には庚申塔

f:id:owari-nagoya55:20210507224026j:plain町内にはこうした庚申塔が73基あるそうだ
9:40

f:id:owari-nagoya55:20210507224042j:plainこの辺りで1町
石畳の角の減り方はどれだけの時間が必要なんだろう

f:id:owari-nagoya55:20210507224059j:plainここまでは他の参拝客に出逢っていない、年輪を重ねた杉が見事
9:42

f:id:owari-nagoya55:20210507224118j:plain視界が開け右に県道が現れる。
この辺りにバス停もあり小規模な駐車スペースもある。
9:45

f:id:owari-nagoya55:20210507224137j:plain今登ってきた道を振り返る、杖は置かれているが出払っているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210507224152j:plain2町石

f:id:owari-nagoya55:20210507224208j:plain3町石
9:51 

f:id:owari-nagoya55:20210507224229j:plain時々こうした石が見られる
明らかにこれは最近でしょうと思われる何かで削ったものが見受けられる
相合傘も〇×参上は要らない

f:id:owari-nagoya55:20210507224247j:plain4町石
昨日の神倉神社に比べると大門坂から歩く古道は快適だ
9:55 

f:id:owari-nagoya55:20210507224310j:plain今しがた4町だったがもう町石が・・・と思ったがは違う唐斗石の石標
右に唐斗石と呼ぶ石がありここで祈りを捧げるらしい
9:56

f:id:owari-nagoya55:20210507224352j:plain十一文関跡
唐斗石の少し先にあり、以前はここで通行税を徴収した場所。
現在は何もないけれど当時の名残だろうか石垣が見られた。

f:id:owari-nagoya55:20210507224411j:plain5町石
9:59

f:id:owari-nagoya55:20210507224430j:plain前方が開けてくる。
10:01

f:id:owari-nagoya55:20210507224452j:plain6町石
石段を登り切ると広場に出る
10:02

f:id:owari-nagoya55:20210507224510j:plainここで小休止、水分補給だ
そこには熊野古道大門坂と熊野山旧参道の杉並木の解説がある
石段は267段で距離は600㍍程、両側にあった杉並木は132本、入口の夫婦杉はの幹回りは8.5㍍程、樹高は55㍍、樹齢約800年だそうだ、名の由来は門から付いたとある。
ここでこの看板は下る方向けか、それとも上ってきた方向けの復習か。

f:id:owari-nagoya55:20210507224528j:plain空が近く、山々の頂も随分と近く感じる。
古道の雰囲気はここまでです。

f:id:owari-nagoya55:20210507224545j:plain10:07
6町石から先は車も通る現代の世界になる。
左手の参道入口の看板に向かう。

f:id:owari-nagoya55:20210507224603j:plainここは昔来たことがあるぞ、参道脇の店先に那智石がいっぱい並んでいたのは覚えている。
 

f:id:owari-nagoya55:20210507224617j:plain10:08
石段入口の案内板
熊野那智大社までもうひと上り

f:id:owari-nagoya55:20210507224632j:plain石段途中の左側に県指定史跡の実方院跡(上皇法皇の宿泊所)と天然記念物木斛の樹
10:14

f:id:owari-nagoya55:20210507224648j:plainこの木斛の樹は樹齢400年、樹高は10㍍で幹回り1.8㍍

f:id:owari-nagoya55:20210507224704j:plain実方院跡の庭園
前方に熊野那智大社の鳥居が見えて来た。

f:id:owari-nagoya55:20210507224723j:plainあと少しで到着だ

f:id:owari-nagoya55:20210507224738j:plain石段途中で見かけたが、石標なのか石仏なのかよく分からない
10:16

f:id:owari-nagoya55:20210507224754j:plainあの頃は参道脇のお店は賑わっていたけれど、コロナ禍で海外から客の途絶え人気はなく閉まった店も多い。

f:id:owari-nagoya55:20210507224810j:plain右手に方型の堂が見えて来た
平和観音堂と云われるようで観世音菩薩を安置するようです
10:18

f:id:owari-nagoya55:20210507224824j:plain内部には穏やかで優しい表情の観世音菩薩の立像が安置されている

f:id:owari-nagoya55:20210507224841j:plain上には斜面に張り出した信徒会館と左に那智山青岸渡寺の仁王門も間近

f:id:owari-nagoya55:20210507224857j:plain左手に熊野那智大社鳥居が見えてきた、漸く到着だ。
10:20

f:id:owari-nagoya55:20210507224914j:plain右手には那智山青岸渡寺石標、ここから先は仁王門に続く。
大門坂駐車場から熊野古道の雰囲気を感じつつここまでほぼ1時間で辿り着きました。
町石は途中から見失い写真に収めたのは6町石までとなりました。
さあここから参拝だ

大門坂駐車場
所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々3009-5
道の駅たいじから大門坂駐車場車ルート / ​所要時間20~30分
​大門坂駐車場から大門坂入口徒歩ルート /   ​徒歩5分
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富山県高岡市「越中國一之宮 射水神社」

前回掲載した「黒河神社」を後にして、そこからすぐ近くにある当初の目的地「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食べ終え、お腹も満たされたところで、次の目的地「高岡古城公園」に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。
「麺屋いろは」から高岡城址まで県道348号線から県道44号線の「古城」交差点の左が「高岡古城公園小竹藪駐車場」約30分程で到着。

f:id:owari-nagoya55:20210505211825j:plain高岡古城公園の北側に位置する「小竹藪駐車場」。
入口に係員の方がいて「有料?」と思いきや実は無料、懐に優しい有難い駐車場だった。
しかも他府県ナンバーなのに気付き御親切にも神社までのルートや高岡大仏までの道を教えてくれた。
県外から訪れた者に対する心遣い、高岡の町は優しく歓迎してくれた。
駐車場の南側に写真の石碑があり、ここから公園内にアクセスが可能。

f:id:owari-nagoya55:20210505211840j:plain高岡古城公園加賀藩初代藩主の前田利長が築いた高岡城城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。
写真は石標から園内に入りしばらく歩くと、外堀に架かる赤い欄干の橋「朝陽橋」。

f:id:owari-nagoya55:20210505211856j:plain橋を渡って右側から見る朝陽橋、周辺には桜が多く見られます。
「日本さくら名所百選」にも選ばれる公園で園内には約2700本の桜が咲き誇るそうだ、しかし3月末では蕾は固い、それでも僅かにピンクに色付いてきていた、満開の時はさぞかし綺麗な事だろう。

f:id:owari-nagoya55:20210505211910j:plain朝陽橋から石段を進むと視界は広がり広場が現れます。
高岡城本丸広場と呼ばれ正に本丸があった所、ここも周囲は桜がいっぱいだ、ピンクの幕が広場を取り囲むに違いない。

射水神社はこの本丸広場に鎮座します。
江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国でも珍しいと云われています。

f:id:owari-nagoya55:20210505211928j:plain高岡城は1609年(慶長14)前田利長の隠居城としてが築かれたものだという。
隠居城として使われたのは僅かな期間で、1614年(慶長19)に利長が死去、翌年の1615年(元和元年)の一国一城令により廃城の道を辿ったようです。
現在、城の面影は堀と護国神社へ向かう途中の石垣が遺構として残っています。

f:id:owari-nagoya55:20210505211950j:plain本丸広場の途中に鳥居が現れ境内が見えますが、これは脇参道、広場を更に南に進むと左に続く道が現れます、そちらが正参道へ続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210505212017j:plain越中國一之宮 射水神社全景。
大鳥居の左に「国幣中社射水神社」と刻まれた社号標。
そこには地元敬神家の名が刻まれています。
境内右が参集殿、左に手水舎、社務所、中央に神明造の拝殿が見えます。
桜には早いけれど参道両脇の紅梅と白梅が彩りを添えています。
伽藍から古びた印象は感じません、現在の姿は1900年(明治33)に起きた高岡大火により社殿を焼失、1902年(明治35)に再建されたもの。
この高岡大火は市街地の6割を焼き尽す大きな災害だったようです。

f:id:owari-nagoya55:20210505212038j:plain参道の射水神社由緒
祭神 二上神 例祭日 4月23日
北西五㌔の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し、詳らかでないが675年、天武天皇の三年(皇紀1335)正月奉幣に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた、次いで慶雲3年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀11年從五位下の神階に 叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。
やがて戦国の世屡ゝ兵火に罹り頽廃したが前田利家・利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した。
維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎え られ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた。
境外摂末社
日吉社 大山咋神 四月十八日 (二上山第一峯山頂 奥の御前)
悪王子社 地主神 五月十三日 (二上山第二峯山頂 奥の御前)
院内社 菊理媛神 五月三日 (二上山の前面北峯「院内の谷」)
諏訪社 建御名方神 八月二十七日  (二上山前面西麓 上二上)
高岡市護国神社 殉國諸神 十月一日  (高岡城址内)

栞には以下のようにも書かれている。
「創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。
社伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。
当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したと云われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。
その後、承平ら天正の両度兵火により悉く烏有に帰し一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。
明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。
特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。
畏きあたりより奉幣の栄に浴した。
また、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐に一層の光彩を加えた。
幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠める逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。」

射水神社から4㌔ほど北の古矢部川左岸の二上山が神体山で、往古より二上山の麓の二上という地に鎮座していたが、明治に入り、現在地に遷座するにあたり産土神をなくす二上の氏子の反対により、古社地にも分社が残され、1875年(明治8)に現在地の高岡城址に遷座した。
こうなると二上山には行きたいところ、プランナーのかみさんの表情にはその余裕はなさそう。

高岡の町は1821年(文政4)と1900年(明治33)に大火に見舞われ、なかでも明治の高岡大火では市街地の約6割を焼き尽す大きな被害をもたらしたようです。
現在の姿は大火により社殿を焼失、二年後の1902年(明治35)に再建されたものです。
日本海側はこうした大火は起きやすいけれど、地元のに住む人の英知で都度復興してきた。
伽藍から古びた印象を感じないのはそうした経緯もあるのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20210505212057j:plain手水舎
2015年(平成27)に斎行された遷座百四十年祭の記念事業の一環として竣工した新しいもの。
この時期は梅が見頃を迎えるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210505212113j:plain一ノ鳥居左右に梅。

f:id:owari-nagoya55:20210505212128j:plain紅梅解説。
遷座の際に二上の地より移されたもの、樹齢は400年を超えるようだ。
手水舎脇の紅梅はこの梅の孫にあたるらしく、そうした事から子孫繁栄や不老長寿の象徴とされ、幹にできた空洞がハート形に見える?ことから縁結びの御神木として良縁を求める参拝客が多いそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210505212145j:plain一ノ鳥居、木造の神明鳥居は2015年の伊勢神宮豊受大神宮の北御門を移設したもの。

f:id:owari-nagoya55:20210505212200j:plain外拝殿・拝殿全景
直線的でシンプルな簡素な外観は伊勢神宮の「唯一神明造」に基づいているという。

f:id:owari-nagoya55:20210505212216j:plain右斜めから、千木は4本、残念ながら本殿を垣間見ることは叶いませんでしたが、伊勢神宮を踏襲した造の様です。

f:id:owari-nagoya55:20210505212231j:plain内削ぎの千木とシンプルな外観に相応しい上品な飾り金具。

f:id:owari-nagoya55:20210505212247j:plain銅板葺の屋根ですが、もともとは杮葺きの屋根だったようです。

f:id:owari-nagoya55:20210505212303j:plain拝殿正面に掲げられている扁額。
第12代加賀藩主の前田斉泰の筆によるもの。

f:id:owari-nagoya55:20210505212318j:plain拝殿から幣殿方向の眺め。
もともとは内開きの扉が付けられた中門で注連縄の上方に「射水神社」と記された扁額が掲げられいますが有栖川宮熾仁親王のご真筆だそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210505212332j:plain拝殿から大鳥居方向の眺め、この先には摂社高岡市護国神社、外堀に架かる春駒橋を渡ると高岡大仏のある大仏前通りに続く。

f:id:owari-nagoya55:20210505212347j:plain一ノ鳥居解説。

f:id:owari-nagoya55:20210505212403j:plainこの紅白の梅が印象に残る「越中國一之宮 射水神社」です。

f:id:owari-nagoya55:20210505212416j:plain3月末の園内では春の妖精「カタクリ」が春の訪れを告げていました。

f:id:owari-nagoya55:20210505212434j:plain2021/3/23

越中國一之宮 射水神社
創建 / 不明
主祭神 / 瓊瓊杵尊
住所 / ​富山県高岡市古城1番1号
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黒河神社から車アクセス / 黒河神社➡麺屋いろは➡​小竹藪駐車場まで約30分程

「石臼手打蕎麦 草庵」と「薬師堂」

3月に石川県の加賀國一之宮 白山比咩神社を訪れ、昼食をとるために立ち寄った、石臼手打蕎麦「草庵」、こちらがなかなか美味しくてお店の感じも良かった、その近くに「薬師寺跡」の史跡もあり記載する事にします。

f:id:owari-nagoya55:20210503214659j:plain白山比咩(ひめ)神社の東側を伸びる県道103号線、「草庵」は神社から県道を北に5分ほど走った山間にあります。
県道脇には小さく「石臼手打蕎麦 草庵」の看板がありますが、目印とするには目立たないかもしれません、現に自分達も一度見落として引き返しています。

入口さえ間違えなければ草庵は真っすぐ進んだ右側に写真の様な姿で見えてくるはずです。
外観は古民家をリノベした白壁と木の質感を生かし周囲の景観にマッチした落ち着いた外観。 
店舗入り口に薪が置かれ雪深い土地柄を感じさせます。
駐車場は突き当りを右に入った両側に用意されています。

営業時間は11:30という事で開店まで10分程ありました。
入口にはウェイティングボードがあり到着順に記名、記名順に呼び出してくれるようでした。
大きな木々の木陰で開店まで待つも良し、周囲を散策するも良し、座って待つにはもったいないロケーション。

f:id:owari-nagoya55:20210503214715j:plain突き当りの高台にお堂と解説板らしきものが目に留まり散策がてら寄ってみました。

f:id:owari-nagoya55:20210503214731j:plain解説板には「白山市指定史跡 薬師寺跡」とある。
訪れたのは3月24日、汗ばむ陽気てすが桜にはまだ早い。

f:id:owari-nagoya55:20210503214747j:plain室町時代から戦国時代にかけてこの辺りには「薬師寺」があったようで、その寺跡のようです。
薬師寺は京都にあった法勝寺の末寺、比叡山延暦寺根本中堂と同じ薬師の木彫仏を祀っていたとされるようです。
この時代、清沢源得寺も建立されたが、享禄四年(1531年)に加賀・能登一帯で起きた大小一揆の争いでこの地は戦地となり金劔宮や清沢源得寺、そして薬師寺も戦塵と化した。
後に小原薬師寺比叡山延暦寺と関係があった事から、この地区では日吉社(神仏分離以前は滋賀県大津市日吉大社延暦寺は同じ団体であった)を祀り、昭和29年(1954)に旧鶴来町編入された際に町名が現在の日吉町になった。
日吉町の由来は社名からきているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210503214805j:plain境内には遺構らしきものは見当たりませんが、現在はこの薬師堂と呼ばれる小さな堂があるのみでした。

f:id:owari-nagoya55:20210503214822j:plainこの薬師堂について解説されていないのが残念で少し調べて見ました。
白山市の薬師堂の解説が見つかり、以下のように紹介されていました。
「石切小原といわれていた現鶴来日吉町にある寺跡です。薬師寺に関することは、室町時代の文明17年(1485)の「実隆公記」の記録に記されており、鶴来地区に残る数少ない確実な寺院跡で、現在は小さな祠が建立されております。」と云うのが見つかった。
残念ながら知りたいことは分からなかった、それどころか「石切小原」なる興味深い地名まで出て来た。

堂に掲げられた額は外観も同様に劣化もなく比較的新しそうです。
薬師堂とあり、現在も薬師如来が祀られているようです。
短い時間でしたが「薬師堂」はここまで、お店が開いたようなので「御飯」です。

先程までは距離を保って静かに待っていたのに、開いた瞬間その秩序は吹き飛ぶ。
お店側はコロナ禍に対応するためスタッフも減らし、席も間引き密を避ける配慮をしてくれています。
呼ばれてもいないのに入口に詰め寄る姿はどうなんだろう。

お国はこんな事に気を使わなくても安心できる世の中に「早く」してもらいたいものだ。

f:id:owari-nagoya55:20210503214838j:plain適度な音量でジャズが流れる店内、少し照明を落としステンドグラスランプの明りが強調される。
蕎麦やとは思えない落ち着いた空間です。
かみさんはあらびき十割蕎麦、「限定」の文字には相変わらず弱い、自分は十割蕎麦を注文。
お茶と共に出される「そばかりんとう」、これが結構素朴で面白い味でお茶に合う。

f:id:owari-nagoya55:20210503214853j:plain十割蕎麦到着。
ランプの優しい明りに照らされた蕎麦、いい雰囲気です。

f:id:owari-nagoya55:20210503214910j:plain蕎麦は若干太めに思え、上品な盛り加減「大盛にすべきだったか?」
かみさんの蕎麦が来ないので「待て」状態、何もつけずに蕎麦を少しだけ頂く。
口に含むとほんのりと蕎麦の香りが広がり、もっちりした食感です。

f:id:owari-nagoya55:20210503214925j:plain待つことしばし、かみさんの限定がやってきた。
これかみさんストロボ焚くもんだから粗挽きの色合いが飛んでしまった。
汁は出汁の風味が利いた上品な甘味のものです。
薬味はおろしとわさび、そしてネギ。
蕎麦にワサビは外せないが、こっち方面に来るとワサビには悪いが蕎麦はおろしが一番おいしいと感じる。何だろうね、
越前蕎麦もそうだけど、大根の種類が違うのか理由は分からないが、蕎麦にはおろしがベストマッチ。
蕎麦湯もなかなかおいしものでした。
最初は盛が少ないなと感じていたが食べ始めると結構ボリュームがある。
若い頃の幻影と現実には相当ギャップがあるようだ。
足りないと感じるくらいが美味しい量なのかも。

次にこちら方面に訪れる機会があれば覚えておきたい店。
白山比咩神社参拝の折には寄ってみるのもいいかもしれない。
2021/3/24

「石臼手打蕎麦 草庵」
定休日 / 毎週木曜日
営業時間 / 11:30~16:00
℡ / 076-273-1090
所在地 / ​石川県白山市鶴来日吉町ロ32

「薬師堂」
創建 / 不明
本尊  / 不明
所在地 / ​石川県白山市鶴来日吉町2