「水無八幡神社⇒浄観堂⇒山王坊」 岐阜県下呂市徘徊

岐阜県下呂市「浄観堂」

水無八幡神社から宿を目指す。
 登りばかりの路を下呂温泉合掌村方向に向け歩いていると写真の建物と小さな祠に目が止まり立ち寄ってみた。

地図で見るとここは浄観堂とある。
 左に石の祠があり、浄観堂から右に下ると小瀬稲荷に至るが、その道沿いにも複数の祠が見られた。
下ると登らにゃいかん、そちらはパスして上を目指す。

右の建物は宮本公民館、浄観堂はここに付随して建てられた切妻、平入の堂で小さな向拝の下には鈴が吊るされている。
 住民が集う公民館、こうした堂や社が併設して祀られるのを目にすることがある。
集落の外れでそっと佇む事を思えば、人が集う場所に祀られる方が忘れ去られる事もない。

堂の拝所に架けられた浄観堂の額。

堂の内部。
 40体程の観音像を安置する観音堂のようだ。 
浄観堂について調べて見たが詳細は分からなかった。

浄観堂左に祀られた石の祠。(写真は14番)
 この辺りはこうした祠が多数見られ、祠は後方の山の頂に鎮座する高野山真言宗 飛騨信貴山 山王坊まで延々と祀られています。
宿に向かう道沿いが特に集中し、辛いばかりの長い上り坂ですが、時折現れる石仏を拝みながら登っていく事になります。

浄観堂から上に進むと目の前に車道が現れ、山側にはこうした石垣が続き、歩道も整備されています。
 下で見かけた形の祠が石垣の中に一定の間隔で祀られている。
(写真は16番)

途中には愛宕神社に続く石段があるが、下から社殿は見えず、明日も歩いて下る元気があれば訪れる事にしてここはパス。

上は17番、下は18番。
 これが88ヶ所続くわけ。

21番

上は31番、道は左に緩いカーブを描くので終わりの見通しがつかない。
下は32番、この辺りで前方が開け、左側には宿へ続く緩い下りの道があらわれる。
祠の全てを見て廻れなかったが、あそこで登りは終わりだ。

宿に向かう三叉路が高野山真言宗 飛騨信貴山 山王坊の門前。
 石の祠は更に奥に続いている。
石標に「東海圏新西国 第二番札所」とある。
 昭和43年8月、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれ、41号線を走行中の観光バス2台が飛騨川の濁流に転落、多くの方がなくなった「飛騨川バス転落事故」御存知だろうか。
 事故現場の国道を走行していると「天心白菊の塔」が立ち、事故の事実を伝えてきた。
その塔も今年、上流の「道の駅美濃白川」に移転されたようだ。
 この事故を契機に国の国道の整備・点検・管理体制の見直しにつながった。
それでもこの国道や鉄道は常に災害のリスクが伴う、安全で快適が当たり前のように錯覚してしまう昨今、こうした碑は風化させたり撤去してはいけない。
 ラグビー爺さんの銅像立てたところで何も学びはない、やりたきゃ自腹で建て、維持管理すればいい、どうでもいい話。
この観音霊場は犠牲者の慰霊と供養を弔う目的で事故後設けられた33の霊場で山王坊はその一つ。

山王坊の門前から少し下ると右手に大学のキャンパスの様な施設が現れる。

 今夜の宿「大江戸温泉物語 下呂新館」
ウェルカムドリンク(ビール)飲み放題に釣られて来たが、どんなところか楽しみだ。
 それにしても歩いてくるには不便な場所、次があれば送迎バスに乗ってこよう。

浄観堂

創建 / 不明
祭神 / ---
所在地 / ​岐阜県下呂市森1739
参拝日 / 2022/06/28

水無八幡神社から大江戸温泉物語 下呂新館まで徒歩ルート / ​25分前後​ 
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八幡社、津島神社、御嶽神社 (中村区本陣通5)

秋葉社(日比津2)から南西に​徒歩約10分程度、外堀通り沿いに社頭を構える八幡社を訪れる。

八幡社に直接向かう場合は、地下鉄「本陣」駅から外堀通りを西に向かい15分程。
 前回訪れた日比津2の秋葉社からだと南西に約10分程、多少遠回りになりますが、一筆書きで効率的に廻ろうと思うも、目的地を決め打ちしないと無駄に歩く事になる。

上は1920年の当地とほぼ現在の比較。
 八幡社は既に当時から鎮座していたようで、明治の地図にも鳥居の印が記されている。

外堀通り沿いの社頭。
 二本の街路樹の陰になり、その奥に立つ鳥居と参道は分かり辛いかもしれない。

本陣通り「八幡社」社頭から境内の眺め。
 右手に八幡社社標(昭和3年)が立つ。

石の明神鳥居から参道先の拝殿まで随分と奥になる。
 街中ということもあるのだろうか、杜と呼べるほど樹は生い茂ってはいないが、拝殿左右の聳え立つ二本の神木がシンボリックな存在。

八幡社伽藍全景。
 住宅街にあって余裕をもった社地に拝殿・本殿、左右に境内社等の伽藍が建つ。

名古屋市西区日比津町字南諏訪野
八幡社
祭神 応神天皇
由緒
勧請年月詳記なし。
日比津には往古乾屋敷の城、栗山城があり、下野守勝宣野尻藤松氏等居住したと古書に記載あり。
当時弓矢の守護神として祀られ、寛政乙卯年(1795年)以降の棟札8枚を寄進。
御神徳
応神天皇は筍飯大神の御子として御名誉田別尊と申し、御母神功皇后三韓征伐の時、御胎内に宿して親しく見給はし御降誕の後、彌武勇優れ給い三韓愈々服従せしを以て御威徳を稱え、弓矢の神として特に武人の崇敬するところとなる。
例祭 10月4日、氏子数 508戸 、昭和6年10月」

燈籠の先に拝殿、右に境内社津島神社と手水舎、拝殿左に御嶽神社が祀られている。

手水舎から伽藍全景の眺め。

拝殿は切妻造りの瓦葺で妻入、四方吹き抜けで格子が付くもの。 

「八幡社
御祭神 / 応神天皇神功皇后
例祭 / 大祭10月4日、歳旦祭1月1日
御神徳 / 家内安全、厄除開運、学問技術の向上、健康長寿
創建 / 昭和6年10月と碑にある」

拝殿前の狛犬大正3年(1914)寄進のもの。
 寛政乙卯年(1795年)以降の棟札に繋がる寄進物は見つけられなかった。

創建が昭和6年とあるのは当社で現存するエビデンスを基に書かれているものかもしれない。
 栗山城(南北朝時代とも)城主とされる野尻藤松氏により祭祀されたとすると、勧請年月はかなり遡り1300年代には祭祀形態はともかく、この地に存在していたのかも知れません。

拝殿から本殿域を眺める。

拝殿側面と左の本殿方向。

本殿域前を守護する狛犬
 台座には昭和3年10月とあった。

透塀で囲われた本殿域、門の棟には鯱が乗り消火体制は整っている。

本殿域。
板宮造りの社が一つ、この社に応神天皇神功皇后の二柱を祀る相殿のようだ。

本殿域左の御嶽神社と霊神碑。

御嶽神社
御祭神 / 国常立尊大己貴命少彦名命
御祭礼 / 大祭7月27~28日

御神徳 / 家内安全、開運成就、安産と母子健康、交通安全
創建 / 昭和9年8月と碑にある」

手水舎。
 手水鉢には大正2年と刻まれていた。

本殿域右の津島神社
津島神社
祭神 / 建速須佐之男命
例祭 / 7月1日
御神徳 / 家内安全、厄除開運、安産と母子健康
創建 / 不詳」

本殿域後方から鳥居方向の眺め。

雲間から青空が顔を見せるが霧雨の降る怪しい空模様、迷走台風が迫っていた。

中村区本陣通八幡社
 勧請、創建年度共にどうもはっきりしないけれど、この周辺の氏神として多くの氏子達に支えられている神社だ。

八幡社
創建 / 不明
祭神 / 応神天皇神功皇后
境内社
津島神社 / 創建 / 不明、祭神 / 建速須佐之男命 

御嶽神社 / 創建 / 不明、祭神 / 国常立尊大己貴命少彦名命
参拝日 / 2022/09/02
所在地 / 名古屋市中村区本陣通5-57
秋葉社(日比津2)から徒歩ルート / ​南西に​徒歩約10分程度​​​
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線「本陣」駅降車、​​本陣通りを西へ徒歩15分前後
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白川郷萩町 「明善寺」

白川郷 其の3
「白川八幡神社」を後に北へ向かいます。
 二股を右手に進むと右手に茅葺屋根の鐘楼が見えてくればそこが今回の目的地「松原山 明善寺」です。

上は白川八幡神社から明善寺までのルート、移動時間は5分もかからないだろう。

明善寺全景。
 大きな櫟の陰に隠れ茅葺屋根の鐘楼が写真では分かりづらいですが、右手の本堂は目印になると思います。

左手が鐘楼、二本の松の木の先が庫裏、右手が本堂。
 稲穂が垂れ始めた田んぼと茅葺屋根の伽藍は白川郷らしい趣がある。
合掌造りの庫裏は、江戸時代末期に建てられ、内部は五層構造で高さは15㍍という。
 萩町では最も大きな合掌造りの建造物で明善寺郷土館として有料公開されています。

訪れた時にはコスモスが咲き、秋の訪れを告げていた。

 明善寺開基について、白川村の真宗大谷派の光明山本覚寺が1680年(延宝8)に本願寺派へ転派した事から始まる。
大谷派本山は本覚寺本尊の阿弥陀如来と名号を返上させ、白川村の大谷派門徒にそれを与えた。
 1736年(元文元年)、玄西に依り大谷派寺院開基に伴い名号と本尊が下付され、寺の本尊となっている。
1744年(延享元年)、本山より寺号を許され松原山明善寺と称するようになった。

明善寺鐘楼。
 入母屋茅葺屋根で壁はなく吹き抜けで、二層目に高欄を巡らせている。
自然に包まれた白川郷の風景に溶け込んだ素朴な外観は、白川郷を代表する建物かも知れない。
 左の樹は1827年(文政10)に鐘楼完成に合わせて植樹された櫟の樹で、幾つもの幹が一つに纏まって形をなしている。

この鐘楼は明善寺創建時に建てられたもので、全て欅が用いられた二層の造りで、一層目に板の庇が付くもの。
 茅葺屋根を支える垂木のシルエットは綺麗なものがある。

人目を引き付ける派手さはないが、合掌集落にあって、茅葺の本堂と鐘楼は見事に調和している。

木の風合いを生かし、妙な彩色はされていない、木鼻に飾りも素朴な造形のもの。

梵鐘を下から見上げる。
 建立当初の梵鐘は戦争時に供出され、現在の梵鐘は戦後に鋳造されたもの。

境内の由緒書き
「明善寺鐘楼門(岐阜県指定有形文化財 建造物)
 一間一戸二重、入母屋造、茅葺。
 1801年(享和元年)10月9日、飛騨の匠加藤定七より延べ人足1425人を要して建てられたと伝えられる。

梵鐘は第二次世界大戦中に供出され、戦後、鋳金美術の大家中村義一(高岡市)に依頼し設置された。
 暖かい季節は毎朝6時に住職が鐘を突き、法要の時刻を檀家に知らせます。
茅葺の鐘楼門は全国でも珍しく檀家により大切に護られている。

 明善寺のイチイ(岐阜県指定天然記念物 昭和49年11月13日指定)
根廻2.6㍍、目通り3.5㍍、樹高10.6㍍、枝張り東1.9㍍、西3.5㍍、北3.5㍍。
 この杉は1827年(文政10)本堂再建の記念の木として福棟梁の大工与四郎が鐘楼門の横に植樹したものとされる。

明善寺本堂(白川村指定有形文化財 建造物 昭和42月31日指定)
 間口8間、奥行7間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。
平面形式は典型的な真宗寺院の形態を持ち、内部前方4間を外陣、内陣と接する一間を矢来内として、後方  中央に見付3間を内陣、両脇2間を余間とし、共に奥行は2間半で、背面に奥行半間の仏壇を設け、内陣中央は後門を作っています。
 穂覚書帳の記録では、1806年(文化3)より欅材の伐採に着手。
1823年(文政6)高山の大工水間宇助により建築が始まり、1827年(文政10)延べ人足9191人を要して建築されたとされる」

本堂。
 こうして見ると寄棟の様に見えるが、少し回り込むと妻がある入母屋造りの建物。
茅葺屋根は素材の性格上、一生に一度は葺き替えが発生します。
 こうしたイベントを一人で行うには膨大な労力が必要となります。
山に閉ざされた小さな集落には、そこで生活を営む住民同士、お互い助け合う精神が綿々と育まれて来た。
 それは葺き替えに留まらず、田植えや稲刈り、寺社の維持管理、冠婚葬祭も総がかりで行う文化がある、もともと日本どこにでもあった文化で誰しも持っていた精神だ。
 交通の便が良く、住居や店が立ち並び、夜も明るい街にあって、孤独感を感じることがあるとすれば、そうしたものを失ってしまったことにあるのかもしれない。

街を離れ、不便な田舎に来ると妙に落ち着くのは、失くしたものを求めているような気もする。

萩集落の真宗大谷派の寺院。
 伽藍全てが合掌造りというのはあまりお目にかかる事はない。
向拝柱の木鼻飾りも、虚栄を張った意匠ではない。
 昔は見苦しいセンサーなどなかったが、必要な時代になったという事か。

本堂左の庫裏。
 集落最大の合掌造りで5層構造、1968年(昭和43)に岐阜県重要文化財に指定されています。

境内から見る鐘楼。
 若かった頃の印象そのままだ。

毎朝、時を知らせる鐘の音が集落に響き渡る。

伽藍右の道路沿いから見る本堂。
 街では花期の過ぎた紫陽花がここでは生き生きと咲き誇っていた。

ここから奥に続く小径を進んで見ます。

明善寺
宗派 / 真宗大谷派
山号 / 松原山
創建年 / 1736年(元文元年)
開山 / 玄西
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 岐阜県大野郡白川村荻町679
白川八幡神社から徒歩ルート / ​北東に徒歩5分
参拝日 / 2022/08/22
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名古屋市西区 『宗像神社』

名古屋市西区上名古屋2「宗像神社」
 西隣に先回掲載した和徳稲荷社と社地を共にする。

辨天通り沿いの歩道沿いに鳥居を設け、参道を抜けると社頭が現れる。
 車道に面し、左が和徳稲荷社の鳥居、右が「宗像神社」の神明鳥居。

伽藍は、正面が拝殿で右に社務所が連なり、鳥居右奥に手水舎と神楽殿が主な伽藍。
 社務所右に境内社へ続く参道が奥に延びる。

鳥居左に立つ遷座由来、下は由来から抜粋。
 「宗像神社創建は詳らかではない。
応永5年(1398)3月、改造の記録が残る。
 遡る事555年、深島弁財天の下に御深井社、滝島社があり、那古野荘三弁天と称され四民から崇敬された。
慶長年間(1596~1615)、名古屋城造営に伴いこの三社は城郭の守護神とされ、藩主からの崇敬は篤く、修理造営の支出は代々藩から支出され止むことはなかった。
毎年10月9日の例祭には、徳川家より使者が派遣され幣帛が献上された。
明治26(1893)年1月、御深井社は当地に遷り村社に列格。

第二次大戦終結の年、昭和20(1945)年5月14日、空襲により伽藍は悉く烏有と帰す、幸い御神体末社金刀比羅社に合祀されていたため難を逃れた。
昭和21年11月9日宗教法人宗像神社成立。
本殿、拝殿、社務所が相次いで再建され、昭和28(1953)年10月9日御神体は本殿に戻された。
本社祭神は田心姫命湍津姫命市杵島姫命宗像三女神
鎮座地は名古屋市西区上名古屋町西内江四十二番地。
昭和28年10月9日」

この遷座由来が現地で確認できたものとしては一番詳細に書かれている。

上は後日、和徳稲荷社を調べている際に出会った宗像神社の記述。
 名古屋市史 社寺編から宗像神社の記述を抜き取ったもの。
記述はコマ番号181から始まり、一部抜粋したものを下にあげて見た。

「宗像神社
 西春日井郡金城村大字上名古屋字西内江に在り。
もと辨才天、藩祖義直公、宗像神社を勧請、宗形社とも号した。
 俗に辨天又は御深井の辨天と称す。
もとは下御深井の池の中島にあり。
 勧請年月不詳、尾張史には本社深島社、武島社の三社を筑前の宗像三社と疑いの余地はないが、それ以前の詳細は不明。
頻繁に修造、遷宮の記録があり、従来は尾張徳川家の私社。
 明治7年(1874)村社に列し、以来開門され一般の参拝が許される。
明治22年現在地に正遷宮
祭神は中央 田心姫命、左 倉稲魂命、右 徳川義直
境内社は金刀比羅社、須佐之男社、祭神は須佐之男尊を祀り、村の辻天王の二社。

金刀比羅社殿はもと境内神社和徳稲荷社の本殿にして、明治初年御深井の種々の小社を合祀。
和徳稲荷の祭神は倉稲魂命、もとは屋船句句能智命、屋船豊宇気姫命

ここで分からなかった和徳稲荷の祭神の記述が現れ、先に掲載した和徳稲荷の祭神を不明としたが追記した、相変わらず創建時期については不明のままです。

鳥居をくぐった先の常夜灯。
 竿には安政7(1860)とある。
遷座由来によれば、明治26(1893)年に当地に遷座とある。
 この常夜灯が移設されたものでなければ、市史にある「和徳稲荷社の本殿…」とあるように稲荷社もしくは金刀比羅社のものが流用されているのかナ。
社標は昭和28年(1953)で宗像神社建設委員会から寄進を受けたもの。
 笠の先端が欠けているのは空襲の影響か?

手水舎、手水鉢。
 切妻瓦葺の良く見かける姿のもので、手水鉢に龍はいない。
変わり?といっては変だが、鉢の上に吊るされた鳥の目的はなんだろうね。

拝殿全景。
 左に保存樹の楠木が聳えている。

拝殿前には白い狛犬

大正4年(1915)に寄進された狛犬、1世紀前のものとは思えない程綺麗な色をしている。
 なんだろう、妙に鼻が強調された肉付きの良い姿をしている。

楠木を見上げる。
 一旦は幹の先端で上を止めたようだが、そこから新しい枝が伸び、空に向かって成長する。
幹は樹高以上に逞しく成長し続ける。

 我家の桂も同様、自然の力を抑え込もうとしてもおよびもしない。

拝殿向拝の破風飾りに三つ葵の紋が輝いている。
 拝殿内には大きな宗像神社の額、奥の社の前には金色に輝く角付きで個性的な表情をした二対の狛犬の姿がある。
宝物の義直揮毫の社号額、狛犬とはこれらの事?
 
 祭神は三女神、市寸島比売命、多紀埋毘売命、多岐都比売命徳川義直

社務所右から奥の境内社へ。
 ここにも小さいが個性的な狛犬の姿がある。

境内社には金毘羅社と須佐之男社があると云う、更にこの社の右にも二社祀られている。
 正面の神明造の社に社名札はなく何れか特定できない。

この位置から本殿幣殿の眺め。
 本殿は外削ぎの乗せ千木に5本の鰹木、俗にいう男神となってしまうが…

拝殿から幣殿に続く渡廊の軒下にも引退した狛犬が安置されている。
 猛々しい表情は犬ではないのか?
年代は不明ですが表舞台を若手に任せ、隠居の身となりここに安住の地を与えられたようだ。

 どなたか忘れたが、宣うだけ宣い道筋も付けれなかった「一億総活躍社会」から見れば隠居するにはもったいないキャリアがありそうだ。

不明社とブロンズ製の狛犬

小型ながらなんという威厳に満ちた姿だろう。
 石では表せない細かな表情に滑らかな鬣のウエーブ、一目惚れだ。

失礼ながらバックからも撮らせてもらいます。
 吽形の耳はこちら動きを知ろうと聞き耳を立てているようだ。
台座には文久元年(1861)とある。

不明社の右に祀られた二社。

 社の間の奉納幟は「多聞龍神」とあるが、二社ともに社名札はなく、周辺の寄進物からもどちらが龍神なのか分からない。
 社名札が…欲しい

宗像神社東から社殿の眺め、社殿の向こうが和徳稲荷社。

 手前の石碑は顕彰碑と玉垣建造寄進者の名が刻まれていた。

宗像神社、様々な表情を持つ狛犬が印象に残る神社。

宗像神社
創建 / 不明
祭神 / 市寸島比売命、多紀埋毘売命、多岐都比売命徳川義直
境内社 / 金毘羅社、須佐之男社、多聞龍神、和徳稲荷社
所在地 / ​名古屋市西区上名古屋2-7-1
公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線浄心」駅降車、​北東に​徒歩5分程
参拝日 / 2022/08/26
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『津島社』名東区上社3

名東区上社3「津島社」
 東山通りから一本南の昔ながら道筋に津島神社が鎮座します。

 子供の頃、曾祖母に連れられこの付近の親戚を何度か訪れた記憶がある。
当時は今ほど住宅が建っていた訳でもなく、当時の自分にとっては冒険できる魅力あるところだった。
 今は廃寺となり残っていないが裏山にあった小さな寺で住職に遊んで頂いたものだ。
当時、東山通りから南は未知の世界、今回取り上げる「津島社」については全く知らない。

 存在に気付いたのは社会人になり、車で鳥居の前を通りかり知る事となったが、車が駐車できない事もあり、なかなか縁がなかった。

車の場合は東山通りの本郷交差点を右折、本郷南交差点を右折し直進すると右手に赤い鳥居がポツンと立っている。
 車だと駐車場もなく不便かも知れないが、地下鉄東山線なら本郷駅でも上社駅からでも概ね10分はかからない。

 津島社社頭。
東山通りから一本入っただけで通りは随分と表情を変える。
 社頭は道路際に朱の明神鳥居、鳥居脇に手水鉢があり、奥が社殿。
左に保管庫らしき建物と更に左が津島社社務所

鳥居前から境内の全景。
 本殿の右に津島社の社標(1984年)が立つ。

鳥居に掲げられた赤い額には「津島社」とある。

手水鉢(寄進年未確認)には立派な角と髭を持つ龍が口を開けている。

銅板葺で流造の社も左の保管庫も比較的新しい様だ。
 津島社について調べて見たが創建時期等に繋がる情報は得られなかった。
一つの情報として社務所の定礎がある。

社務所の竣工は昭和58年(1983)とあり、社標(1984年)とほぼ同時期。
 過去の地図を見渡してみても確認できない。
勝手な推測になるが遷座していない限り創建は昭和に入ってからかも知れない。

この日、日吉神社を参拝しているが、津島社はその境外社のようだ。

 祭神も推測でしかないけれど須佐之男命かと。

社務所と社殿の全景。
 とても立派な社務所と広い境内、社殿を持っているだけに祭礼時には人が集まり、中央の保管庫の扉はその際に開けられるのだろう。

津島社
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / 名古屋市名東区上社3-217-1
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線「上社」駅降車、​東へ10分程

台風一過 彼岸花咲き始める

強烈な気圧を誇って上陸した台風14号
 被災された方々には心からお見舞い申し上げます。

幸いにもこの辺りでは大きな被害をもたらすことなく通り過ぎて行った。 
 今日一日無駄とも思えた台風対策のリセットに追われる一日だったが、有難い取り越し苦労だった。
単に幸運に恵まれただけの事、次はこの地・・・いつもそう思っている。

台風一過の夕方、近くを散歩して回って見た。
 里山の樹々が折れ散乱するのが常だが意外なほど平穏だった。
その道すがら彼岸花を見かけた、台風の余波は残るものの、風に揺られ咲き始めた彼岸花、平穏だったが故の気付きであり美しさだろう。

取り越し苦労で済んでいる内はまだ〃平穏なほうだ。
 気候は明らかにこれまでとは違ってきている。
想定外は想定に入れておくべき心構えが必要な時を迎えている

「秋葉社」名古屋市中村区

名古屋市中村区日比津町2「秋葉社
 上は水神社で使用した地図に今回の目的地秋葉社の位置を落として見ました。

 所在地は中村区日比津町2-9、水神社からだと東に10分もかからない距離にあります。

旧街道や古い街並み歩いていると「南無妙法蓮華経」と刻まれた石標を見かけることがある。
 日蓮宗の題目を石標や自然石に刻んだもので、その文字は「法」の字以外の筆端が延びる独特の文字で、その形態から髭題目とも呼ばれるそうだ。
光明点書法と呼ばれるこの書法、仏の慈悲の光が四方八方に広がる様子を表したものと云われます。
 日蓮宗では法華経に帰依する意味で「南無妙法蓮華経」の題目を唱えると、その功徳により成仏するとされ、この題目を紙に書き留め本尊としたり、石塔に刻み寺や村々の辻などに立てられたものがこの石標。
写真の髭題目は1847年(弘化4)のもの。
 今回、日比津町を歩いて見てこうした髭題目を幾つか見ることが出来た、全部で何基あるのか分からないが、この町の路を全て踏破すれば全体数が見えてくるだろう。

 因みにこの場所から東に進むと別の髭題目が立てられています。
今回はこの南側に隣接する「秋葉社」を掲載します。

日比津町 秋葉社全景。
 日比津二区集会所も兼ねているようですが、集会所前の常夜灯の竿には秋葉神社と彫られている。

切妻瓦葺で妻入りの集会所の向拝軒下には秋葉社の額が掛けられているのでそれと分かる。

集会所のガラス越しに内部を覗かせてもらった。
 内部は対面する出口扉の先に祀られた社の姿と常夜灯が確認できた。
扉の上には二頭の龍が飾られていた、龍神を祀るのか定かではないが、火伏の神と水を司る龍、この一画を禍から守護するには最強かもしれない。

集会所右から後方にある神域の全景。
 本殿域は石垣で一段高く積まれ、周囲は玉垣で囲み板宮造りの赤い社が祀られている。
手前の常夜灯は入口のものに比べ、年季が入っている様に見え、竿に文字が刻まれているように見えるが写真では分からなかった。
 この秋葉社、冒頭の地図にも印はなく、由緒等の情報は分からない。

秋葉社と後方の髭題目の全景。
 何もわからず、自分の中では空模様同様のモヤモヤが残るけれど、地図に載っていない秋葉社と出会ったことだけでも雲間から陽光が差し込んだような気分だ。

秋葉社(日比津2)
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / ​名古屋市中村区日比津町2
参拝日 / 2022/09/02
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水神社から徒歩ルート / ​​​​​東へ徒歩約10分程度