頑なに硬い鬼胡桃

先日秩父に出かけた際に地元で食べた胡桃たれの蕎麦。
余程美味しかったのか、はたまた鬼胡桃は洋胡桃に比べ一層健康にいいとされる都市伝説に毒されているのか、秩父で安く手に入れることができた。
かみさんがコストコなどでよく買ってきては食べているが、それは洋胡桃。
殻はくるみ割りで容易に割る事ができるが、鬼胡桃は半端なく固い。
銀杏割で割ろうものなら割るどころか握り手が曲がってしまい使い物にならなくなる、だから殻付き鬼胡桃は買わない、採らない。

山間地の神社に訪れるとこんな実が成っていたり、落ちていたりします。
これが鬼胡桃、キウイのようにも見えますが見慣れた胡桃の姿はこの果肉の中にあります。
この実を地中に埋め腐らせたものが、あの胡桃。
webなんかで実を削ぐとかありますが、それはやめた方がいいでしょう、土中で腐らせ肥やしにするのがお勧め。

今回は頑固なまでに固い鬼胡桃の殻を、ハンマーで粉砕することなく割る方法と結果をお伝えします。
まずやらない方がいい事を下に列記します。
1.果肉を削ぐ(かぶれたり手が茶色に染まる)
2.電子レンジでチンして割れ目を作る(レンジ内がウオールナッツのスモーク臭で満たされる・機器の破損要因)
3.ハンマーで割れ目を目がけて叩き割る。(危ない・粉砕されるだけで胡桃バウダーになる)
4.普通の銀杏割ではやらない。(柄が曲がるだけで効果がない)
これらはwebで勧める向きもありますが、いずれも過去に経験済みで自分は勧めない。

我家でやった事。
1.買ってきた胡桃を水を入れたボウルに放り込み、上から皿を重しにして二日ほど胡桃を水没させる。
2.二日後胡桃を取り出して中火で熱したフライパンで殻を炒る。

3.パキンと音がすれば割れ目が開いた合図。
4.手袋をしてキッチンバサミの握り手側に付いている突起を使い、割れ目に差し込みテコの原理で割る。

買ってきてその日には食べれないかもしれませんが、鬼のように固い殻は写真のように綺麗に割れました。
・・・が、ここから綺麗に取り出せるかが課題かもしれない。
取り敢えずパウダーよりはましだろうし、二次加工して濃厚な風味を楽しむ気にもなるかぁ。
※炒るためのフライパンは捨てようかな?と思っているものがあればそれを使い、念のため眼鏡を付けることをお勧めします。

「上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を車中泊で巡る」part2

上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社車中泊で巡る」part1からの続きとなる群馬県二日目。

道の駅赤城の恵で迎えた二日目。
昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。
二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。
その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。

8:16
食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。
利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。
ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。
上は太田市歴史公園マップ。
園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。
資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。
下は資料館前の新田義貞像。
稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像
新田荘歴史資料館
所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9

世良田東照宮小黒門から境内の眺め。

門の前の通りから右を眺めると東照宮別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。

東照宮境内から社殿の眺め。
当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。

世良田東照宮 由来
寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。
奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。
東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。
御祭神
東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。
配祀
菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。
祭事
一月元日 初詣
1月4日 除魔神事 午後1時
1月5日 御釿始め式 午後一時
4月第一日曜日葵祭り 午前十時~
4月17日例祭、10月17日春季祭
11月 七五三祝祭

太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。
徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。
新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。
新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。
これが徳川氏発祥の始まりと言われています。
その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。
そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。

大鉄燈籠。
上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保元号が刻まれた石灯籠が見られます。

世良田東照宮
創建 / 寛永21年(1644)
祭神 / 東照大権現
境内社 / 稲荷社、日枝社
拝観料・開場 / 300円・9:00から
道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程
所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1

これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。
時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。

次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。
世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。

10:05
駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。

徳川東照宮社頭全景。
利根川支流の早川右岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。
公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。

「徳川氏発祥の地尾島町
江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。
新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。
義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。


社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。
左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。


かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。
この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。
現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。
世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。
御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。

徳川東照宮
創建 / 天正19年(1591)
祭神 / 東照大権現
所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1
世良田東照宮からアクセス / ​徒歩20分​、​車で5分
10:30
群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。
​移動時間は約70分程。

道の駅へはほゞ12:00到着。
ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。
ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。

「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?

駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。

そば処入船。
道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。
左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。
既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。
しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。
30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。
30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。
やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。
舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。

趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。

大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。
木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。
正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」

秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。

そば処入船

所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1001
13:40
多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。

父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。
秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。

秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。

上は栞にある境内マップ。
現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。
毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。
訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。


神門から拝殿の眺め。
参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。

拝殿正面全景。
入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。
秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。
拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。

拝殿両側面の装飾。

左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。

父父夫國総鎮守 秩父神社
創建 / 崇神天皇10年
祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)
所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1-3

秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。

世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社御朱印

名古屋にはとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。

訪問日 / 2023/05/11~12
二日目走行ルート​ 

関連記事 / 「上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社車中泊で巡る」part1 

「上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を車中泊で巡る」part1

5月11日~12日にかけて、久し振りに車中泊で一之宮を巡って来ました。
かみさんが温めていたプランのひとつで、上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を巡る総走行距離は約800㌔の行程です。
名古屋を5時に発ち一路中央道をひた走り、岡谷ICで降りて立科、軽井沢方面に向け山越えの道を走る。
初日の第一目標上野国一之宮貫前神社を目指しました。

高速は工事規制もありましたが、全体の流れが法定速度+10km/hの巡行速度で、十分な車間距離を保つ流れだったのでブレーキを踏む必要もなく運転のストレスは少なかった。
10:00
国道142号線沿いの「道の駅 女神の里 たてしな」に到着。
一面田畑が広がり浅間山が望める長閑な道の駅で、地元の野菜や珍しい山菜、苗などが販売されています。
こちらの新トイレはとても綺麗、女性には受けがいい事間違いなし。
国道は交通量はさほどでもないがトラックの往来があり、車中泊だと音が気になるか。

「道の駅 女神の里 たてしな」
所在地 / 長野県北佐久郡立科町茂田井2480

11:15
奥多摩の山々を見渡す富岡町の山間に鎮座する上野国一之宮貫前神社に到着。
一ノ鳥居の下に車を停め、石段を上り詰め大きな両部鳥居をくぐり、総門に向かう。
総門前にも駐車場があるので石段を避けたい向きにはお勧めですが・・・

総門から社殿の眺め。
随分と下に社殿があります。
下り参道と云われ、総門から楼門へは石段を下りていく事になります。

上野国一之宮貫前神社拝殿から本殿。
2009年から2013年にかけて「平成の大修復」が行われ、彩色も落ち着きを見せ、嫌みのない華やかな社殿。
貫前(ぬきさき)神社の創建は安閑天皇元年(531)とされ、物部姓磯部氏が氏神経津主神を蓬が丘綾女谷に奉斎したのが始まりとされ、祭神は経津主神姫大神
樹齢1200年とも云われる大杉をはじめ、スダジイイチョウの古木が聳え立つ広大な社叢に包まれた美しい神社です。
富岡と云えば世界遺産富岡製糸場」もあり、こちらを訪れた際に貫前神社は訪れるだけの価値はあります。

所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535

参拝を終え、丁度昼時となり10分程離れた登利平 富岡店で昼食としました。

群馬では鳥めしがソウルフードだという事で、登利平は群馬県内各所に店舗があるようです。

写真は胸肉とモモ肉を甘辛たれで絡ませた「鳥めし松重(¥900)」
御飯にもたれが浸み込み、うなぎ程こってりでもなくさっぱりとした味わい。

ここから一旦上信越自動車道に乗り、次の目的地「前橋東照宮」まで小一時間の移動時間。

前橋公園駐車場へは15:10に到着。
ここに車を停めて周辺を散策。

まずは、公園東に隣接する臨江閣と庭園を散策。
手入れの行き届いた庭園内には臨江閣本館、別館、茶室の国指定重要文化財三棟が建っている。
明治期における近代和風建築の迎賓施設で、明治17年(1884)に群馬県を訪れる皇族や賓客の接待・宿泊施設として建てられたもの。
臨江閣
所在地 / 群馬県前橋市大手町3-15-3

三時のおやつ。

群馬県ソウルフード原嶋屋総本家の「焼きまんじゅう(¥240)」
なんというのか、五平餅のたれを丸いパン(まんじゅう)に塗って焼いたもの・・・悪くはない。
群馬県は名古屋同様に味噌文化が花開いているのか、味噌を挟んだ味噌パンなどスーパーで売られていた。
もちろん「こんにゃく」も豊富で価格も安く、大量に袋詰めされた刺身こんにゃくを土産に買ってきました。
原嶋屋総本家
所在地 / 群馬県前橋市平和町2-5-20

前橋公園駐車場から5分程南の大手町に鎮座する前橋東照宮
御覧の様にスタイリッシュな外観で、この建物自体が鞘殿で本殿は右側のガラス張りの部分にある。
外部から本殿の全容が見れますが、映り込みもあり見えそうで見えない。
前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より賜った領地、福井県の越前勝山に寛永元年(1624)に創建されたもの。
江戸時代中期には松平家が各地の国替え経て姫路城より前橋城に入城。
その後洪水の被害を受けて、一時武州川越に居住しその川越に作られた社殿で、洪水による復旧を遂げた前橋に戻るに際し解体・移築されたもの。
現在の社殿は明治4年(1871)に再築されたものだという。

前橋東照宮
創建 / 寛永元年(1624)
祭神 / 東照大権現木花咲耶姫菅原道真、長壁様
所在地 / 群馬県前橋市大手町3-13-19

初日の行程は一通りコンプリート、そろそろ地元スーパーに立ち寄り今夜の酒と肴を買い込み今日の宿泊地「道の駅 赤城の恵」に向かいます。

17:45赤城山の南麗にある「道の駅赤城の恵」に到着。
この道の駅には「あいのやまの湯」が隣接し、お風呂も食事も済ませることができるので車中泊にはいい条件が揃っています。
車を停め、車内をお泊り(宴会)モードにセットしてお風呂に向かう。
久し振りの長距離走行で腰はパンパン、歩き疲れて足は重い、41℃のやや塩味を感じる湯に浸かり一日の疲れを癒し食事処で乾杯。
入浴料は大人520円で、65歳以上は310円に割り引かれ、施設内には休息所もあるなどお得な施設。
ここで20:00までゆっくりと休むことが出来ます。
その後は車に戻り二次会、今夜の酒は地元のスーパーで見切り品だった「船尾瀧」。
テレビの受信状況も良く、雉や鶯の鳴き声も聞こえるいいロケーションの道の駅でした。

初日行程 / ​名古屋~道の駅赤城の恵

名古屋市中村区名駅南1「柳里神社・白鷹龍神」

名古屋市中村区名駅南1、柳里(りゅうり)神社・白鷹龍神
迦具土神社・豊光稲荷大明神の続きで、名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りとなります。

今回掲載する柳里神社・白鷹龍神は上のマップの赤い矢印の位置になり、移動時間は15分前後です。
鎮座地は笹島交差点南東の区画の南側に鎮座します。
上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。
社頭の前は柳街道が通り、嘗て街道周辺が一柳荘と呼ばれた荘園で、柳の樹が多く植えられていた事に由来するとも云われるようです。
柳街道は佐屋街道から名古屋城下町へのバイパスとして整備されたもので、柳の樹を植えたくなるような土地柄だったようです。
神社名の柳里もそうしたことから付けられたのかも知れません、今はその柳の樹は見かけません。
柳里神社の呼称は「やなぎさと」や「りゅうり」などさまざまですが、ここでは「りゅうり」としておきます。

柳街道沿いで三方をビル囲まれ、良くある街中の神社の佇まい。
街道沿いの歩道を歩くと両脇を壁のようにビルが連なる一画に、玉垣と白鷹龍神の白い幟がはためく柳里神社が現れます。

鳥居は少し奥に立てられているので目印はこの幟旗だろう。

歩道から境内の眺め。
右手に「柳里神社」の社標と常夜灯、鳥居と続き、左側に白鷹龍神の覆屋があり、手水鉢は本殿右側にあります。

「柳里神社」の社標はセメントで塗り潰された痕跡もなく、常夜灯も比較的新しいものです。
愛知県神社庁で柳里神社・白鷹龍神を検索するが属していないようで情報は得られなかった。

どちらも大正4年(1915)とあるので無格社という事か。

境内左の白鷹龍神覆屋と右に小さな祠が祀られています。
板宮造りの社は社名札はないが恐らく白鷹龍神の本殿なのだろう。
左右の祠其々に座布団が敷かれ、中に石像が安置されています。

左の祠の石像。
嫌な予感はしたが、やはり蛇。
とぐろを巻き、鎌首をもたげこちらを睨んでいる。

右の祠にも蛇らしき石像。
とぐろの部分は蛇のウロコの様に表面が劣化、頭部に耳らしき突起があるも、もはや蛇なのか龍なのかイメージすらできない。
これらの像が重軽石なのか、撫でるものなのか作法は分からない。
白鷹龍神の謂れはよく分からなかったが、低地で湿地帯が多く、田んぼの広がっていた土地柄を考えると、水や天候を司る龍や蛇が祀られても違和感はない。
事実、江川線沿いに鎮座する白龍神社や堀川左岸の須崎神社には白龍龍寿大神が祀られるなど、龍神の多いところかもしれない。
五行説に於て白龍は西方を守護し、金運や仕事運、縁結びなどの御利益があるとされ、ビジネス街に鎮座する白鷹龍神に訪れる地元の方は多い。

本殿域全景。
背後と左右はビルの壁が迫り、小さな社地のこの一画の上だけが抜けている。

右側に澄んだ水が張られた手水鉢、柄杓も置かれています。

本殿全景。
コンクリートジャングルの中にあって、本殿域には貴重とも思える緑の樹々が杜を形造り、境内は表通りに比べると体感温度も幾分低く感じる。


小さな体で精一杯大きく口を開けている本殿域の狛犬
寄進年など見る事は出来なかったが、子犬の様にムチムチした体をしています。

本殿と常夜灯。
祭神は須佐之男命、火之迦具土神とされ、神明造の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。
偶数の鰹木と水平カットの千木は女神と云われるがどうなんでしょう。
左の常夜灯は随分古そうで、竿には「柳野天王〇」と刻まれており、嘗ては牛頭天王として祀っていた?
創建時期や由緒が定かでなく、創建時からこの柳街道に祀られていたものか、明治以降の変貌著しい鉄道整備に伴い遷座したのか不明。
ヒントは竿の裏側に刻まれているかもしれません。

こぢんまりとした柳里神社の本殿域から上を見上げれば、コンクリートジャングルの隙間に空が広がる。

本殿域から社頭の柳街道の眺め。
忙しない街中の喧騒から逃れ境内に立ち入れば、そこにはゆっくり時を刻む特別な空間がある。

柳里神社・白鷹龍神
創建 / 不明
祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神
所在地 / ​名古屋市中村区名駅南1-24
参拝日 / 2023/04/27
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「清盛神社」厳島神社境外末社

厳島神社の参拝を終え、出口から右手方向に向かい、松並木と石灯籠が続く西松原を清盛神社に向かいます。

赤丸部分が清盛神社なります。
この一帯は砂が堆積した岬の様になっていて、波打ち際から望む海に浮かぶ大鳥居の眺めは絶景です。

清盛神社はこの西の松原の先になります。
西灯籠の左手は細い流れの御手洗川が流れており、この川で清めをしていたのかもしれない。

西の松原から見る大鳥居と宮島桟橋の眺め。

参道をしばらく歩いて行くと清盛神社の赤い社殿が見えてくる。
現在の厳島神社を形作った平清盛をお祀りする神社なので、ここは参拝しておくべきところだろう。

社地は周囲に瑞垣を廻らし、朱の鳥居とその先に檜皮葺流造の本殿が建てられている。
社殿は随分新しく綺麗なものです。

清盛神社全景。
厳島神社は参拝者で溢れていますが、清盛神社まで訪れる参拝者は少ないようです。

鳥居右の清盛神社由緒。
「御祭神 平清盛
例祭日 3月20日
御由緒
平清盛公の没後770年を期に、御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和29年(1954)に創建された。」
とあります、どおりで綺麗なわけです。
島内に厳島神社の摂社三翁神社が鎮座していますが、そちらから分祀創建されたのが清盛神社です。
平氏にあらずんば人にあらず」、あまりいい印象を持たれない清盛ですが、この地方に於ては音頭の瀬戸を始めとした航路や港の整備などに貢献し、清盛の印象は変わり、寝殿造りの厳島神社の基礎を築いたのも清盛の功績なのかもしれません。

社殿後方の眺め。
厳島神社参拝のあとは、清盛神社まで少し足を伸ばして見るのも良いかもしれません。

厳島神社境外末社「清盛神社」
創建 / 昭和29年(1954)
祭神 / 平清盛
例祭日 / 3月20日
所在地 / ​広島県廿日市市宮島町28-1
参拝日 / 2023/03/03
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『南宮神社』

岐阜県土岐市鶴里町鎮座南宮神社。
国道脇363号線沿いに石鳥居を構え、参道は杉林の中に続いています。
社頭前に駐車余地があるので駐車場に困る事はないかも知れない。
国道と沿う様にかつての中馬街道が続き、名古屋から瀬戸を経て柿野、細野、曽木を経て飯田に至る街道があり、江戸時代に山間の農民が自家産物を馬に背負わせ山を下り、その帰りに塩などを積んで帰る駄賃馬稼ぎの習慣が生まれ、信州一円で行われていました。
国道363号線を走っていると、道端に祀られた馬頭観音や石仏などの姿を見かけます。

社頭全景。
石の明神鳥居を構え、右に「南宮神社」社標、左に手水舎がありそこから先は上に向けて石段が伸びている。

社頭正面、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、石段を上り始める。

鳥居の額は南宮社と刻まれているが、風化も進み読み取り難いけれど、鳥居の柱には大正8年(1919)と刻まれています。

手水舎全景。

湧水が導かれているのか、澄んだ清水が絶え間なく注がれていた。
4月だというのに温かいを通り超して暑いと感じる陽気、清水の冷たさが心地よく感じた。

広葉樹と杉に包まれた参道の石段は、氏子により2003年に整備されたもので、勾配はさほどでもなく、手摺も整備されておりありがたい。
すぐに社殿は見えてくるものと思っていたが意外に道のりは遠い。

幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続く。
前方を見渡しても社殿の姿はなく、これは奥が深そう、かみさんに怒られるパターンだ。
木漏れ日が入る明るい杜の中からウグイスの鳴き声も聞こえ、解放感のあるなだらかな参道です。

やがて右手に石段が現れ、それを上れば社殿がある。

南宮神社社殿全景。
大きな杉の杜に包まれた神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先の覆殿が一体となったもので、雪深い土地柄なのが伝わってくる。

南宮神社の詳細は調べきれなかったが、岐阜県神社庁の一覧に社殿の写真と共に以下の記載があった。
主祭神 金山毘古神、祭礼日 10月初旬、創祀・縁由不明、摂末社祭神 空欄」

情報が乏しいと捉えるか、これだけでも有難いと取らえるか人其々。
どこぞの県の神社庁に比べれば、よっぽど把握に努めている。

境内の常夜灯の竿には、識別しにくいですが明治12年(1879)と刻まれています。
これが現地で見た一番古い寄進物になる。

拝殿とその前を守護する狛犬

この狛犬の寄進年は未確認ですが、風貌から燈籠の寄進年と同時期かと。

拝殿から幣殿、本殿。
土岐市やお隣多治見、瑞浪の主要産業を支えるのが窯業・土石製品という事もあるのか、祭神は鉱山の神様金山毘古神を祀る。

本殿の造りまでは分からないが、陶製の小さな角を持つ狛犬の姿が見える。
頻繁に崇敬者が訪れているようで、山の中にある神社としてはとても綺麗に手入れされているのが印象に残る。

拝殿左から覆殿方向の眺め。
手前に石の社が祀られています。
拝殿右手側は見ていませんが、こうした社が右にも祀られているのかもしれません。

境内社
石の社の正面に社名が刻まれているようですが全文読み取れず不明としておきます。

結局境内に由緒らしきものはなく、詳細は分からないままですが、燈籠の寄進年が明治12年である事や中馬街道も近い事から創建は江戸時代に遡るかもしれません。

石段から社頭の眺め。
創建や由緒等分からない事ばかりですが、杜の中に続く整備された参道や、手入れされた境内・拝殿など見る限り、この地に住む人々の生活と神社は今も密な関係にあるようです。

蜜な関係?

南宮神社
創建 / 不明
祭神 / 金山毘古神
境内社 / 不明社
所在地 / ​岐阜県土岐市鶴里町柿野2829
車移動 / ​名古屋市役所から東へ約80分
参拝日 /2023/04/11
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広島県廿日市市宮島町『安芸国一之宮 厳島神社』

地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。

厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。
駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。
乗船する際は右舷側をお勧めします。

宮島口から宮島フェリーは目の前、そこから宮島まではフェリーで10分程。
このJR宮島フェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側で待っていれば修復を終え海に浮かぶ両部鳥居と社殿を一枚に収めることができます。

宮島港桟橋
宮島(厳島)を訪れる観光客は年間300万人を超える、その多くがこのフェリーで訪れます。

宮島桟橋広場。
宮島や厳島と呼ばれる神の島ですがどちらも同じ島を指していますが、国土地理院の定める正式名称は「厳島」です。
厳島の由来はいくつかあるようで、ひとつに祭神の市杵島姫命の「いちきしま」から厳島(いつくしま)に転じたとされ、戦乱の時代が終わった江戸時代頃から厳島神社(お宮)のある島から、宮島と呼ばれるようになったとようです。

これ以降は通称の宮島として記載します。

宮島桟橋広場に出ると、神の使いとされる鹿が出迎えてくれます。
もともと陸続きだった頃から宮島に生息していた野生の鹿で、禁足地だった頃から神の使いとして見守られてきたこともあり、人を恐れませんが飼いならされたものではありません。
人が接し方を間違え、それによるトラブルが結構起きていると聞きます。
昼寝の邪魔をしない方がいい。

宮島は島全体が神、観光の中心は厳島神社になりますが、弥山を含め奥宮や奥之院、さらに海岸に点在する神社「宮島七浦巡り」などがあり、とても一日で巡ることは出来ません。
今回は厳島神社とその周辺の寺社を中心に巡る事にしましたが、機会があればテントを張ってのんびり巡りたいもの。

厳島神社が鎮座する宮島は日本三景の一つで、世界遺産にも指定される景勝地です。
島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。
御神体の宮島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理されています。
宮島には厳島神社以外に、弘法大師護摩修業した1200年前から「消えずの火」として受け継がれて来た不消霊火堂など多くの寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。

フェリー乗船中の観光ガイドでこの島にないものとして三つ紹介されていました。
一つは島内に一基も墓は建てられていません、同じ理由から出産も本土ですることが受け継がれています。
二つ目は島内に信号がない。
三つ目に島内にはコンビニがない。
今回は厳島神社周辺を歩いただけで、宮島ロープウエイ方向まで廻れませんでしたが、確かに上の三つは目にしなかった。

一ノ鳥居と狛犬
波打ち際の松並木が続く参道にある石造の明神鳥居で、一対の大きな狛犬が出迎えます。

青銅狛犬
大正8年(1919)の寄進で、角付きの吽形と阿形は笑っているような。

厳島神社の象徴といっても過言ではない海に浮かぶ大鳥居、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかりで現在のもので9代目と云われます。
鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近で見ることができ多くの人で賑わいます。
やはり海に浮かぶ姿が一番。

干潮を迎える厳島神社社殿。
大半の建造物は国宝または重要文化財に指定されています。

青銅狛犬の次がこの石造狛犬

主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。

国宝厳島神社東廻廊入口。
どこでもそうだろうが、陽も高々とあがってからでは人の映り込みは避けられません。
拝観は6時30から出来るのでその時間なら本来の姿が見られるだろう。

東廻廊から見る客(まろうど)神社。

東廻廊。
人波が途切れる事はありません。
廻廊右の飛び出した部分は客神社の祓殿。

客神社拝殿から見る幣殿、本殿。
厳島神社最大の摂社で本殿、幣殿、拝殿、祓殿とあり、祭神は天忍穂耳命、活津彦根命、天穂日命天津彦根命、熊野櫞樟日命の五男神が祀られています。

本社拝殿から見る客神社と東廻廊。
平清盛の厚い庇護を受け建てられ、鎌倉時代の仁治2年(1241)に再建されもので、本殿は前後に長い庇を持つ両流造で檜皮葺き。
手前の祓殿の廻廊に付けられた白い波よけ板、正面の二間だけが付けられていないのは、往古の儀式などでここから海側へ昇降できるように配慮したものと言う。
厳島神社には地御前社で少し記載した管弦祭や舟で海に団子を供えた藁船を浮かべ、烏がそれを食べに来れば吉兆と占う伝統神事「御島巡り」など舟を用いた祭礼が幾つもあり、そうした事もあるのかも知れない。
後方に聳えるのは厳島神社五重塔と左は豊国神社千畳閣。

高舞台の左右を守護する青銅製の狛犬
寄進年は未確認ですが、個性的な尾と鬣を持つ風格のあるもの。

高舞台から本社祓殿。
厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。
現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。
祓殿の前に一段高い高舞台が設けられています、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄を廻らし前後に階段がつけられた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽が演じられ、現在の舞台は、天文15年(1546)棚守房顕によりつくられたもので、国宝に指定されています。

この日は挙式も行われ、居合わせた国内・海外から訪れた観光客からも祝福を受けていました。
その光景を見てカナダバンフの片田舎にある教会で、二人だけで挙げた結婚式の様子が蘇ってきた。
あの時も現地の人から祝福を受けたものだ。

右門客神社と鳥居。

高舞台から見て右の神社で切妻檜皮葺の覆屋内に流造の社殿がある。祭神は櫛磐窓神を祀る。

両部鳥居。
平舞台の沖に建てられた鳥居で、補修を受け色鮮やかに海に聳えている。
鳥居の島木と笠木の内部は空洞で、内部に石が詰め込まれ、その自重で自立し、風や波の影響から耐えるようになっている。
往古の鳥居は両部鳥居ではなく明神鳥居だったようで、両部鳥居に変えられたのは天文16年(1547)に再建された際からだといわれます。

左門客神社と青銅製の灯籠。
高舞台から見て左の神社で右門客神社同様の造り。祭神は豊磐窓神を祀る。
客神社の脇に高舞台で舞が行われる時に使用される楽房がありますが、人の映り込みも多く掲載は見送りましたが、これも国宝です。

高舞台から海に伸びる火焼前先端は、燈籠と鳥居を入れ撮影する映えスポットのようで、長い列は途切れない。
三つの燈籠は寄進年がそれぞれ違いますが、いずれも細かな意匠が施されています。
ここは左門客神社の青銅製の灯籠と鳥居を入れて一枚。

祓殿、拝殿、幣殿の全景。

平舞台から能舞台(左)と楽屋が見える。
楽屋右奥の山の上に足場が聳えているのが多宝塔で現在修復作業中でした。

本社拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。
神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。

なにを買って帰ろうかねぇ。

大国神社。
鎮座年代は不明、天文6年(1537)の記録に記述があるようで、祭神は大国主命相殿神保食神をお祀りする。
由緒によれば本社にお供えする前に、ここに一旦安置した後に本社にお供えされたという。

檜皮葺き両流造の本社。

西廻廊から見る天神社と反橋。

西廻廊から能舞台の眺め。
慶長10年(1605)の建立とされ、延宝8年(1680)にも再建され、現在のものは1991年の台風19号で倒壊、平成9年(1944)に再建された切妻檜皮葺のもので、鏡板に描かれている松もその際に描かれたもの。

全長24㍍、幅4㍍の反橋で、こうして見ると緩やかな曲線を描いています。
橋脚部分は黒漆、高欄は丹塗りのコントラストの効いた橋ですが干潮時は今一つ趣がないか。
往古は天皇の勅使しか渡る事が許されなかった事から勅使橋と呼ばれたそうです。
廻廊から入口を見ると壁のように見え、とても渡れたものではない。
高欄の擬宝珠には銘が残され、現存する橋は弘治3年(1557)に毛利隆元、元就父子により再建されたもの。

潮もすっかり引いて地上に現れた社殿全景。
潮が引いても燈籠の前の順番を待つ長い列は途切れることはないようです。


豊国神社千畳閣。
名の通り、豊臣秀吉が千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願、建立した入母屋瓦葺の大経堂で未完成のまま現在に至っています。
廃仏毀釈により明治5年(1872)、神となった豊臣秀吉加藤清正を祀る厳島神社末社豊国神社に改められ現在に至るようです。


堂内には大きなしゃもじが安置されていますが、しゃもじは御飯をすくい取る事から勝利をすくいとる縁起物として奉納されるようになったとか。


五重塔
室町時代の応永14年(1407)の創建で、千畳閣の境内に聳えています。
もとは大聖院の子院(金剛院)の五重塔でしたが、廃仏毀釈にともない、厳島神社に附属する塔となりました。

厳島神社のシンボル朱の大鳥居。
平安時代から数えて9代目の現在の鳥居は、明治8年(1875)に再建され、修復を終えたばかり。
鳥居の額は海側は「厳島神社」、本社側は「伊都岐嶋神社」と書かれています。
間近に見るより海に浮かぶ姿が一番趣がある。

鳥居は人が取り囲んでいますが、意外にこうして社殿を眺める人は少ないようです。
こうして見ると客神社の脇の楽房や三つの燈籠も一望する事が出来る。
「あのおやじ邪魔」なんて声が聞こえてきそうだ。

次回訪れる際は腰を据えて海岸線に鎮座する宮島七浦巡りだけを訪ねたいものです、そこならさすがに人は少ない気もする。


安芸国一之宮 厳島神社
創建 / 推古天皇元年(593)
祭神 / 市杵島姫命田心姫命湍津姫命
境内社 / 客神社、右門客神社、左門客神社、大国神社、天神社
所在地 / ​広島県廿日市市宮島町1-1
参拝日 / 2023/03/03
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