愛知県 知多四国巡礼 第16回: 山之神(日長堀田)

日長神社を後にして、常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した先の左側が今回取り上げる不明社。
 日長神社から距離にして約0.8km、移動時間は10分少々。

上は不明社の鎮座地。
 戦国時代、日長神社の北東丘陵地に日長城があったとされ、元禄元年に書かれた「日永大明神略縁起」には、匹田氏、駒沢氏と云う武将が砦を築いたとある。
城の全体像は不明で、現地は樹々が生い茂る小高い山で遺構などはないという。
 不明社が鎮座する日長堀田地区、日長川右岸の城見坂地区など城の名残を伝えるようだ。

訪れた当日、不明社の前の水田ではちびっこ達が泥と格闘しながら田植えを行っていた。

こちらが今回取り上げる不明社。
 田圃と畑が広がる一帯にこんもりとした森が残されています。
子供のころ、身近にこんな景色は普通にあったものが、住宅やビルに代わり消えていった。
 こうしてポツンと残る森は古墳か、神社が祀られているもので、ここには日本の原風景ともいえる光景が残っています。
田植えに忙しいちびっ子たちを横目に農道を歩き森に向かう。

こんもりと盛り上がった高みは円墳のように見えなくもないが、解説板もないことから古墳ではなさそうだ。
 森の南側に石段が作られ、頂に小さな社が祀られています。

社の主は「山之神」。
 自然崇拝のひとつで農民から崇敬される神で、春になると山から里に下りてきて、田の神となり稲を育み、収穫が終わると再び山に戻り山の神となる。
農業を営む者にとって一番身近な存在かもしれない。
 こうしたロケーションの場所には水神が祀られていることもある。

食糧自給が問われ、人口減少が進む現在でも、農地は宅地となり家は建てられる。
 こうした社のある光景も見られなくなるのだろう。 

山之神を祀る森を後にして、かつて田んぼであっただろう農地の中に伸びる細い農道を進み、岡田の町を目指します。
 随分怪しげな道ですが、車道を歩くよりは安全で心地いい。

愛知県 知多四国巡礼 第16回: 山之神(日長堀田)
創建 / 不詳
祭神 / 不詳
境内社 / ---
例祭日  / ---
氏子域 / ---
所在地 / 知多市日長堀田35-7
日長神社から山之神 / 日長神社から常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した左側。​​約0.8km・12分​​。
参拝日 / 2026/05/16
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愛知県 知多四国巡礼 第16回: 日長神社

新舞子の白山神社から次の目的地「日長神社」に向かいます。

 国道155号線を北上、神田交差点で右折し常滑街道を進みます。
目の前の日長川に架かる参宮橋を渡り前方を眺めると小高い山が見えます、そこが日長神社の鎮座地です。

参宮橋を渡り左に進むと日長神社一ノ鳥居が建つ参道がある。

上は尾張名所図会(1838~1841)知多郡の挿絵に描かれた日永神社。
 地名の由来は日本武尊の時まで遡るようで、日高から日永に変わっていったとされる。
現在は日長と書かれる。

一ノ鳥居から日長神社の眺め。

参道中ほどに小さな堂が建てられています。

入口にかなり古びた手水鉢が置かれています。

大峯山大権現。
 奈良県吉野村にある山上ヶ岳の頂に役小角が開祖の大峯山寺の神仏。
この大峯山大権現が単独で建てられたものか、参道向かいの福田寺と関係あるか定かではない。
 つい最近まで奈良国立博物館で「大峯山寺の秘仏蔵王権現展」が開かれ秘仏蔵王権現が展示されていた。
折しも、かみさんが旅行中で留守番が続き、行きたいなとは思いながらも行きそびれてしまった。

山の入口にニノ鳥居が立っており、頂の境内まで石段が続く。

明治初期に寄進されたニノの鳥居、右脇に日長神社由緒が立てられている。 

右に「郷社 日長神社」の社号標があり、石段左に玉垣で囲われた境内社が祀られている。

社名札はなく、常夜灯からも社名は分からなかった。

長く続く石段から三ノ鳥居の眺め。

石段中ほどに安置されている狛犬、台座には「明治拾年」とある。
 細部まで彫られた大量生産前のもの。

石段の先に大正七年寄進の三ノ鳥居と神門。

鳥居の左側手水舎。
 鉢には石造りの龍口と五七桐紋が施されている。

神門。
 軒唐破風が着く切妻瓦葺の四脚門で重厚感が漂う。

神門前の狛犬、寄進年は見なかったが、風貌は先に見たものより古そうだ。
 左右の袖壁の連子窓に神社の由緒と伝説を記した木札がありますが、文字が薄く全文読み取れなかった。

神門正面の拝殿はコンクリート製の入母屋造。

愛知県神社名鑑(1992)の当社解説は以下。
 『九等級 日長神社 旧郷社
鎮座地 知多市日長字森下四番地
 祭神 日長命、日本武尊、倉稲魂命
由緒
 社伝によれば、延喜十四年(914)、寛徳元年(1044)創建ともいうが、戦火により古記録が灰燼に帰せしにより明らかでない。
上古蕃賀郷の総社として祀られた。
 本国帳には従三位日長天神とある。
江戸時代には日永天神社、江文大明神とも称せられ、日長七村の総社であった。
 本殿は天正九年(1581)十二月、造営の古い社である。
明治五年九月、郷社に列格せらる。
 昭和四十八年、幣殿、拝殿を造営した。 社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所。
特殊神事
 祈年祭 二月第二日曜日
 新嘗祭 十一月第二日曜日
 奉射祭 四月第二日曜日・弓道大会を行ない、金的を奉納する。
 御馬頭神事四月第二日曜日・飾馬四頭が出る。』

境内の由緒より一部抜粋。
『境内末社
神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社
 例祭日 四月第二日曜日
由緒
 創立年月日は明らかでありません。
日本武尊は、「東夷征伐の折この地に立ち寄られたご縁」により、日長命は、「この地方を開拓された神」として倉稲魂命は、「農業や諸産業の発展と守護の神」としてお祭り申し上げています。
 古代には蕃賀郷(知多西北海岸地方と云われている)の総社として崇敬されたと云われています。
後鳥羽天皇文治年中(約八百年前)に従二位日永天神を賜り、近世には、日長七村(森村、鍛冶屋村、松原村、大草村、羽根村、岡田村)の総社として崇敬されました。
 文政頃より日長神社と称するようになりました。』

拝殿額と神紋。

拝殿内から幣殿本殿を望む。

本殿域内の右側にある磐境。
 古代祭祀形態の磐座と伝わっている。

拝殿右に南向きに境内社が纏められています。
 左から薬祖社、風宮社、神明社、八幡社。

こちらは西を向いて五社が祀られています。
 左から山神社、八剣社、恵比寿社、天満社、金刀比羅社。

境内右側の東に続く参道の先に、日本武尊が東征の際に当地に立ちより、村人に掘らせたと伝わる「手水池」があります。
 名のとおり、参拝前にこちらで手を洗い清めたとされます。
日照りが続いても干上がることはなく、水が澄んでいると平和、濁ると争いが起こると伝わり、四年に一度氏子達により池さらえが行われているという。

境内左から拝殿全景の眺め。

境内左の社務所。

境内から神門を眺める。
 昭和四十八年に幣殿、拝殿造営とありますが、この神門も同時期のものだろうか。

三ノ鳥居から見下ろす社頭方向の眺め、ルートは社頭から山裾に沿うように東に向かって進んでいきます。 

愛知県 知多四国巡礼 第16回: 日長神社
創建 / 不詳、(延喜十四年(914)・寛徳元年(1044)とも)
祭神 / 日長命、日本武尊、倉稲魂命
境内社 / 神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社
例祭日  / 4月第2日曜日
氏子域 / 旭桃台、旭南、新舞子、新舞子東町、長浦、日長、日長台、日長東田、緑浜町、南浜町
所在地 / 知多市日長字森下4番地
白山神社から日長神社 / 白山神社から国道155号線を北上、神田交差点を右折・直進、日長川に架かる参宮橋を渡り直進。​約1km・15分​。
参拝日 / 2026/05/16
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・愛知県 知多四国巡礼 第16回: 白山神社

愛知県 知多四国巡礼 第16回: 白山神社

名鉄主催の歩いて巡拝 知多四国、全17回で知多四国の札所を巡るものです。
 今回で第十六回となり、5月16日本開催の知多四国を巡ってきました、長かったゴールもみえてきました。

上が今回のルートです。
 スタートは名鉄常滑線新舞子駅。
駅前から一路東に向かい72番札所慈雲寺➡78番札所福生寺➡79番札所妙楽寺・開山所妙楽寺➡ゴールの名鉄常滑線古見駅に戻る約9km、4つの札所を巡るもの。

既に一巡したかみさん、今回は姉妹でフランス旅行中で参加できず、おやじ一人での参加。
 ということで、スタートからコースアウトして参加者とは別の方角に歩き出します。

新舞子駅東口から住宅街に伸びる常滑街道を北に向かうこと約5分ほど、国道155号線の西に鎮座する白山社に到着。

白山社の鳥居前から境内を望む。

切妻瓦葺の妻入りの拝殿とその前に掲げられた白山社由緒。

白山社由緒。

『神社名 白山社
 鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地
御祭神 菊理媛命
 イザナギが、なくなったイザナミを連れ戻そうと黄泉国に赴くが、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した。
黄泉平坂で追ってきたイザナミに追いつかれ論争となる。
 この時二人の間に立ち、言葉を取り伝え、相互の主張を聞き入れ和解させた神。『日本書紀』。
この説話から、二人を仲直りさせたとして、「夫婦和合」・「縁結び」の神とされている。
 また、「くくりひめ」から「くくりむすび」につなげ「産霊」と書いて「むすび」と読むことから、「あらゆるものを産みなす霊力」を現す神として、諸願成就の信仰が篤い。
境内末社
 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社
例祭日
 七月第四土曜日
由緒
 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。
その根拠は、元禄十一年(1698)の棟札に「慶長年中の末、長雨の為大きな洪水があった時、浜辺に社が流れ着いたので里人が集いこの所に安置し祀った・・・」とあることによるものと思われる』

愛知県神社名鑑(1992)では当社を以下のように記している。
 『十四等級 白山社 旧無格社
鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地
 祭神 菊理姫命
由緒
 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。
尾張志(1843)には、白山ノ杜山神社松原村にありしとある。
 明治六年、据置公許となる。
例祭日 七月第三土曜日
 社殿 本殿 流造、拝殿、社務所、山車庫』

境内左の眺め。
 ここに手水舎、社務所、山車庫が集約されており、正面の山車庫には天保年間の築造とされる、漆塗りと金箔で仕上げられた山車が保管されています。

小堂と手水舎。

堂内には役行者(役小角)像を安置する。

拝殿は普段は四方の戸板が付けられ、内部の様子を垣間見ることは出来ない。
 後方の本殿域の右側には境内社が建てられています。

拝殿額は「白山神社」。

本殿域は一段高く盛られており、冠木門から玉垣が廻らされています。
 本殿域には本殿の他、左右に複数の境内社が祀られています。

流造の白山社本殿、頭貫の上の龍の彫飾りは手がかかっています。

本殿左の境内社四社。
 右から金峯社、駒嶽社、山神社、御鍬社。

右の秋葉社と白山社本殿。

本殿左の境内社、御鍬社、金刀比羅社。

本殿域右の境内社は霊神碑が纏められた御嶽神社。

境内から社頭の眺め。
 交通量の多い国道から一本入っているため、騒音は気にならない。

愛知県 知多四国巡礼 第16回: 白山神社
創建 / 慶長十九年(1614)
祭神 / 菊理媛命
境内社 / 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社、御嶽社
例祭日  / 7月第4土曜・日曜
氏子域 / 新舞子、新舞子東、日長、日長東田
所在地 / 知多市新舞子北屋敷7
名鉄常滑線新舞子駅から白山神社 / 新舞子東口から​700m北上した北屋敷地内​。
参拝日 / 2026/05/16
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山梨県・埼玉県一之宮巡り DAY1『武田神社・甲斐善光寺・淺間神社』

6月10日から12日にかけ、一ノ宮巡りで山梨県・埼玉県を訪れてきました。
 今回は甲斐國一宮の淺間神社を参拝するのが目的ですが、県境を少し超えて埼玉県秩父市の妙法ヶ岳(標高1332m)の頂に鎮座する秩父三社のひとつ三峯神社奥宮に登拝するため、二泊三日で巡ってきました。
おりもおり、日本各地で毎日のように熊被害や目撃情報を耳にするだけに、熊と天気の動向を見ながらの山行です。
 今回は初日に訪れた武田神社、甲斐善光寺、甲斐一宮淺間神社のtopixを掲載します。
当日は6:00に名古屋ICから新東名で一路静岡方面に向かい、第二東海自動車道、中部横断自動車道を経て甲府に向かいました。

10:40、山梨県甲府市古府中町に鎮座する武田神社に到着。
 甲府盆地の北端にあたり、興因寺山(855)と東山(885)の谷筋が盆地にかけて広がりを見せはじめる緩やかな丘陵に位置し、南側には広大な甲府盆地が一望できる相川の扇状地。
当日は社頭に一番近い駐車場に空きがなく、社地西側の駐車場に駐車し、水堀沿いを歩き社頭にやってきた。

神橋から一ノ鳥居を望む。
 水堀の周囲は二段に石垣が組まれ城を思わせる外観。
武田神社の鎮座地は甲斐国守護武田氏の居館跡に創建されたもので、境内には当時の遺構が今も残されています。

社頭の武田神社由緒。
 武田信玄を祭神とする神社で、郷土の英雄を祀る神社創建の声は明治時代からはじまり、大正8年(1919)に武田氏館跡のこの地に創建されたのがはじまり。

躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、永生16年(1519)、信玄の父信虎が平等川右岸の石和から当地に館を移したことからはじまり、以降武田家当主の居館として使われた。
 当時はこの館から南にかけて城下町として栄えていた。

武田神社一ノ鳥居。
 鳥居前で胸板が厚い凛々しい姿の狛犬が守護する。
鳥居をくぐると広大な主郭が現れる。

かつての主郭に鎮座する武田神社社殿。
 大正時代創建の神社ながら、外観は檜皮葺の屋根に唐破風向拝が付き重厚感のある趣が漂う。

向拝下の武田神社の額、神紋は武田菱。

拝殿から本殿方向を望む。
 祭神は甲斐の英雄 武田晴信(信玄)。

上は躑躅ヶ崎館配置図で写真左側が鳥居のある社頭にあたる。 

社殿から左に進んだ先の西曲輪は、御屋形様の散歩道と呼ばれるようで、信玄もここで朝の散歩を楽しんでいたのだろう。

鳥居から南の甲府市内を望む。
 まっすぐに続く武田通り、その先に武田氏滅亡後に秀吉により築城された甲府城跡に続きます。

武田神社(躑躅ヶ崎館)
祭神 / 武田信玄
創建 / 大正8年(1919)
所在地 / ​山梨県甲府市古府中町2611

次の目的地は武田通りを南下して、武田交差点を左折し、10分ほど走った先の甲斐善光寺に向かう。​

11:40、甲府市善光寺3に鎮座する甲斐善光寺山門に到着。
 入母屋造の楼門で宝暦4年(1754)に消失したが明和4年(1766)に再建されたもの。
上層には手摺が巡らされ、下層の両の間に金剛力士像が安置されています。

長い参道の先の金堂。

甲斐善光寺は浄土宗の寺院で正式な名称は定額山淨智院善光寺。
 永禄元年(1558)武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、本尊の善光寺如来像のお前立を奉遷するために開基したのがはじまり。

金堂正面全景。
 信濃善光寺に通じる造りで撞木(しゅもく)造と呼ばれる形式で、棟の高さは約27m、奥行49mの大建築で、現在のものは寛政8年(1796)に再建されたもの。
三方に向拝が付き、正面には唐破風向拝が付く。

向拝前から金堂内の眺め。 

金堂の中陣天井には巨大な二匹の龍が描かれており、中陣で手を叩くと天井の龍が共鳴する日本一の鳴き龍と称されています。
 いろいろなところで鳴き龍は経験していますが、共鳴の度合いは確かに一番かもしれない。
内陣の奥には戒壇廻りもあり、距離はともかく、なかなかの暗闇で、その道筋は「心」の形を模しており、手探りで慎重に進まないとぶつけたり、踏み外すことになる。
 戒壇廻りでどこに行ってもお決まりの鍵はしっかりと触ったことがなかったが、甲斐善光寺で初めてしっかりと触ることができた。

甲斐善光寺
宗派 / 浄土宗
開基 / 永禄元年(1558)・武田信玄
本尊 / 善光寺如来
所在地 / 山梨県​甲府市善光寺3-36-1

12:30甲斐善光寺の参拝を終え、甲州市勝沼町に昼御飯を食べに向かおう。

 「ピンポンパンポーン、只今○○町でクマが目撃されました・・・ご注意ください」のアナウンスが境内に流された、詳しく聞き取れなかったが、後日webでこの日の情報を調べると甲斐善光寺から西に2kmほどの市街地に現れたようだ。​
宇都宮では全国区で大騒ぎになるのだが、ここでは日常の出来事なんだろう。 
 大都会では未だ、やれ「殺すな、可哀想」とかの意見がある、熊さんがスクランブル交差点に現れる可能性すら捨てきれない世の中になってきて、現実に直面した時に慈悲に満ち溢れた対応を取れるだろうか。
明日は三峯神社から妙法ヶ岳の奥宮へ登拝予定。
 長い人生で熊と遭遇したのは一度だけ、蛇との遭遇は心配しても、熊との遭遇を心配したことはなかった、明日はどうしたもんだかね。

13:10、甲州市勝沼町に店を構える「ほうとう処 いしはら」に到着。
 国道20号線から一歩中に入ったブドウ畑の中にポツンと店を構えており、外観は田舎の古民家そのもの。
店内は今どきのリノベされた内装ではなく、梁に電線が這う、昔ながらの古民家そのもの。
 鏡のように磨かれた廊下に庭の緑が映り込み、開け放たれた窓から心地よい風が吹き抜ける。
 エアコンなしでも実に快適だ、座敷で大の字になろうものなら睡魔に襲われそうだ。

店名にあるようにメニューは「ほうとう」、この暑い時期に「ほうとう」ですか。
 とはいっても、涼しいくらいの店内で食べる熱々の「ほうとう」はこれで結構いける。
ボリュームが有り、晩御飯もいらないくらい。

ほうとう処 いしはら
所在地 / ​山梨県甲州市勝沼町藤井928
定休日 / 火曜日
営業時間 / 11:00~15:00

13:50、いしはらを後にして、国道20号線を右折し、2kmほど先の「一宮淺間神社交差点」を右折し「甲斐國一宮 淺間神社に向かう。

14:00、「一宮淺間神社交差点」を右折した目の前が淺間神社の大鳥居で右に「甲斐国第一宮 淺間神社」の社号標が建っており、鳥居の先に見えている杜が淺間神社の杜になります。
 淺間神社二ノ鳥居はここから300m先の正面です。

社頭から眺める二ノ鳥居と右に「国幣中社淺間神社」の社号標があり、その先に神門を構えている。
 所在地は笛吹市一宮町一ノ宮。

左右の間に随身を安置する随神門から社殿の眺め。

社殿はこの拝殿と後方の本殿、境内右の神楽殿が主なもので、本殿外周は一周でき、境内社の七社大神や護国神社など祀られています。
 また、神楽殿から右に進んだ裏参道口に、かつての一ノ鳥居が移設されています。

祭神は富士山を神格化した神とされる木花開耶姫命を祀る。
 由緒は古く、垂仁天皇八年(BC18)、現在地から約3km程南の神山の山中に、山宮神社(現在の摂社山宮神社)として大山祇神と天孫瓊々杵命、木花開耶姫命をお祀りしたことにはじまる。

富士山貞観大噴火(864~866)を契機に、朝廷から甲斐國にも祠を立て官社に列し、祭祀をおこなわせるという勅が下った。
 噴火翌年の貞観七年(865)、山宮神社の木花開耶姫命を里宮にあたる当社に遷座、淺間神社としたとされる。
鳥居や随神門は全て富士山方向の南を向いていますが、社殿は東向きに建てられています。
 これには訳があり、富士の噴火被害を受けないよう、富士を望めぬこの地を意図的に選び、社殿も富士に対し90度東に向け建てられている。
 境内の南東角には神山を背にして建てられた社(山宮遥拝所)があります。

当社周辺は「葡萄畑が織りなす風景」として日本遺産に指定されています。
 
 山梨を訪れるにあたって、「キャンプしがてらワイナリー巡り」を提案したが採用に至らず、今回ワインは飲めずに終わる。

甲斐國一宮 淺間神社
創建 / 貞観七年(865)
祭神 / 木花開耶姫命
所在地 / 山梨県​笛吹市一宮町一ノ宮1684

14:45、淺間神社を後にして、一路北上し甲府市方向に向かい、市内のスーパーを巡り、晩御飯や地元食材、酒や肴を調達する。
 このあと、国道140号線を約90分かけて、山深い秩父方向に向け、今夜の車中泊地「道の駅大滝温泉」に向かいます。
この先には食事処や食材を調達する所がなく、道の駅の営業時間も早いので、ほうとうで満たされた状態の食材選びでした。

16:40、「道の駅大滝温泉」に到着したが、そこから3kmほど下った埼玉県秩父市大滝の三峯神社大輪表参道一ノ鳥居まで足を伸ばす。
 国道沿いに鳥居が建てられ参道は荒川を越え山深い山中に消えていく。

かつては三峯神社に登拝する玄関口として賑わったようですが、現在は参道沿いの旅館や茶店は閉ざされ寂れた印象が漂う。
 燈籠の先には三峯神社の特徴でもある狼の狛犬が安置されている。

荒川に掛けられた登竜橋。
 ここから三峯神社までは概ね2時間半ほどの参拝道が続きます。
橋の袂には「熊出没注意」「登山道」「滑りやすい」など注意勧告がされており、身支度や熊除け対策など整っている人はともかく、軽い気持ちで踏み込むところではない。

登竜橋から荒川の眺め。
 若い頃は一人でフライを振って釣遡っていたが、もはや体力・視力ともに過去の話だね。
今では野生動物、特に蛇が横切っただけでもそれ以上進めなくなる、実に臆病になったもんだ。
 無謀だったのか、守るものがなかったのか、よくやれたものだ。

ここからいよいよ登山道、本社までは五十三丁あります。
 かつて、この先にロープウェイもあり、参拝客で賑わいを見せた大輪表参道も、今は訪れる人影も少ない。 
明日はここからではなく、三峯神社駐車場から奥宮を目指します。

三峯神社 大輪表参道一ノ鳥居
所在地 / ​埼玉県秩父市大滝73

17:00、「道の駅大滝温泉」に到着。
 写真の駐車スペースと、コンビニ駐車場の下に駐車場があり、後者に駐車して車中泊の準備を整える。

道の駅後方から眺めた荒川の流れ。

施設は左手の大滝歴史民俗資料館と右の大滝温泉游游館、施設左に大滝村食文化センター郷路館がある。

 温泉施設を除き17:00が終了時間で、温泉は20:00まで営業しています。

周辺観光マップ。

ジオパーク秩父観光マップ。
奥秩父山地・上武山地、外秩父山地に囲まれた秩父盆地、周辺にはダイナミックな地球の営みによる造形や観光名所があり、多様なみどころがある。
 秩父三社と称される三社があります。
盆地の中央に鎮座する秩父神社、荒川右岸の寳登山に鎮座する寳登山神社、そして妙法ヶ岳の頂に奥宮を祀る三峯神社もこのエリアに分布しており、三社のなかでもっとも険しく、山深い地となります。

道の駅の施設をひと回りし温泉に浸かり今日一日の疲れを癒す。

やや茶色を帯びた湯で、泉質は肌に滑らかなもので、内風呂と階段を下りた先の半露天風呂のふたつあり、サウナもあります。
 料金は800円ですが、施設には休憩所やウォーターサーバーもあり20:00まで滞在できます。

温泉で体を癒し車に戻る、後方の壁面にはこのような貼り紙。 

山梨初日の宴をはじめる。
 キンキンに冷えたビールからはじまり、スーパーで買った日本酒で晩御飯というより居酒屋か。
ポータブルTVは受信できず、今日の出来事はwebで見るしかなかった。
 就寝中は近くの車がエアコンをかけはじめ、快適とは言えなかった。
営業マンの話では、車購入時にウェザーシールドを付けない人もあると聞く、付けておけば窓を少し開けておくだけで寒いくらいだったのだが。
 ※埼玉県は条例で駐車時または停車時のエンジン停止が義務付けられています。 

道の駅 大滝温泉
所在地 / 埼玉県秩父市大滝4277−2
定休日 / 木曜日
営業時間 / 10:00~17:00

大滝温泉 遊湯館
定休日 / 木曜日
営業時間 / 10:00~20:00

day1移動ルート

走行距離331km、運転時間6.5H、平均燃費25.9km/l

岩倉市下本町『神明生田神社』

吉祥寺から岩倉街道を250mほど北に向かった右側に社頭を構える神明生田神社。
 今回の岩倉徘徊もこちらを参拝し終わりとなります。

岩倉街道と五条川に挟まれた下本町下市場に位置し、岩倉城跡から旧五条川を辿るように歩いて行くと神明生田神社の脇参道に至ります。

前回掲載した吉祥寺からだと街道沿いの赤いポストが正参道の目印になるだろう。

街道から見る社頭。
 石柱門の右に「神明生田神社」の社標が建っています。

参道は、鳥居をすぎると五条川に向け境内が広がり、南向きに社殿が建てられています。

参道脇の神明生田神社の概説。
 当神社は山内一豊の誕生地とされ、境内に石標と記念碑が建てられています。

鳥居手前に下本町の山車庫。

『昭和49年11月15日市指定
下本町山車は寛永2年(1625)に製作された、尾張地方で最古級の山車である。
 その後、文化10年(1813)に剣村の覚四郎によって作り直され、現在の姿となった。木製三段組立で漆塗りの豪華な山車で、別名「杉山」と呼ばれ、祭礼では上段の柱に杉の枝を立てる習わしがある。
 からくり人形は「ざい振り」「菅丞相」の糸からくりと、連台に逆立ちして鉦を打つ唐子の離れからくりがあり、天明5年(1785)に隠居吟笑が制作したと伝わる。
かつては旧暦6月16日の祇園祭で、中本町の神明太一社を中心に曳行された。岩倉市教育委員会』

岩倉には大上市場、中本町、下本町にそれぞれ三台の山車が受け継がれており、毎年春と夏に引き出され、神明太一社まで曳行されます。
 昭和に入り戦争などから中断されていたようですが、桜まつりを契機に平成4年から復活したそうです。
山車の高さは8mほどで、狭くて電線が張り巡らされた岩倉街道を曳行される。

鳥居前から境内の眺め。
 境内左に手水舎と社務所があり、正面は拝殿の側面に出る。

拝殿は切妻瓦葺で四方吹き抜けの木造で写真右側に脇参道の入口があります。
 この地域にあって比較的大きな拝殿です。
拝殿の先の境内には児童館と左側は桜祭りのグルメスポットお祭り広場になっています。 

鳥居から境内左の眺め。
 左に手水舎、赤い鳥居は境内社の白髭大明神、右に神明生田神社幣殿と鎮座します。

写真は手水舎後方に安置されている鬼板。
 平成九年に拝殿を修復した際のもので橘の紋が入れられている。

白髭大明神社頭、本殿に向け多くの奉納鳥居が建てられている。

白髭大明神本殿。
 後述する岩倉市史(1985)の境内社一欄にこの白髭大明神の社名は見られなかった。

本殿右に「正一位稲荷大明神」が祀られている。
 こちらは岩倉市史にも稲荷社として記述されています。

愛知県神社名鑑による神明生田神社の解説は以下内容。
『七等級 神明生田神社 旧指定村社
 鎮座地 岩倉市下本町下市場五番地
祭神 大日霊命、稚日女命
 由緒
 社伝に永正年間(1504-21)祠官増田兵部太夫の奉仕し、三代増田助太夫の時、尾張上四郷の領主織田伊勢守より百石の封をうけた。
 千秋村に鎮座の式内生田神社より稚日女命を勧請し、字丸の内鎮座の神明社に合祀し岩倉城の守護神として祀る。
永禄二年(1559)織田信長の兵火にかかる。
 一時真光寺に難を避け、文化六年(1809)但馬守盛豊の宅跡に社殿を再建、現在に至る。
明治五年五月村社に列格。
 大正八年三月十五日、神明社を神明生田神社と改称した。
同十三年十月十四日供進指定をうけた。
 例祭日 十月十五日
社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』
 お祭り広場の脇に五条川に架かる真光寺橋がありますが、橋を渡った対岸に真光寺が広がっています。
難を避けるため遷座したという現地にはその痕跡を残すものは見られません。

岩倉市史(1985)から一部抜粋。
 「当社の創始としては天文二十三年(1554)の棟札に「天文二十三寅稔 奉造営神明生田神社正殿八月。岩倉村 山内但馬守盛豊 武運長久祈所」とある。
このことから山内但馬守盛豊(一豊の父)が天文二十三年(1554)に造営したと取れる。
 伝承によれば、当初は小字丸之内にあり、岩倉城落城後に真光寺へ遷座したとされ、現在地に変わったのが文化七年(1810)という。
現在地への遷座に関しては文化六年に小牧代官所へ出した願書が残る。
 また、当社の社名は地誌により神明、生田明神と記される。
生田と称する社名は全国的に珍しく、神戸市生田の生田神社が知られるが、岩倉市域では大山寺生田明神社と当社のみという。
 境内末社は八幡社(応神天皇)、天神社(菅原道真)、津島社(須佐之男命)、市神社(市杵島姫命)、金峯社(金山彦命)、稲荷社(倉稲魂命)」

創建時期については双方隔たりがあり、一方で当社は生田神社、生田明神社、生田社、神明生田神社と並び、延喜式神名帳(927)の尾張国丹羽郡22座 大1座 小21座にある「生田神社」に比定されることがある。
 市史では延喜式神名帳について触れてはおらず、現地正参道、境内南側にある脇参道の社標にも式内と記されたものは見られなかった。
創建時期は定かではないが、写真付きの棟札は説得力があり、永正年間から天文にかけて創建されたものと思われます。 

幣殿前を守護する狛犬。

幣殿左脇に祀られているのは天神社と津島社。

境内右から社殿の眺め。
 右側にも境内社が祀られている。

左が市神社、右が八幡社、金峯社。

社殿右側のこんもりと盛られた一画があり、その高みに大きな石碑が建っています。

入口に掲げられている山内一豊誕生地解説。
 『昭和49年11月15日市指定
山内一豊は天文14年(1545)、岩倉城家老・山内但馬守盛豊の二男としてこの地に生まれた。
 大正8年(1919)の神明生田神社遷座式で棟札が発見され、これが誕生地の有力資料となったため、山内家は沼田頼輔博士に調査を依頼し、この地を一豊誕生の地と認めて記念碑を建立した。
 父盛豊は永禄2年(1559)の岩倉城落城で戦死し、一豊は15歳で家臣五藤浄基に伴われて母や弟妹とともに浅井新八郎政高のもとへ身を寄せ、その後牧村政倫、山岡景隆に仕えた。
永禄10年(1567)頃からは織田信長に仕え、天正12年(1584)に長浜五千石、同18年(1590)には掛川六万石の領主となる。
 秀吉没後は徳川家康に与し、慶長5年(1600)に土佐二十万二千六百石の領主となり高知城を築いた。
慶長10年(1605)9月12日没、享年61歳。』

昭和九年山内一豊公誕生碑が建立された。

碑には細かい字で随分と長い碑文が刻まれており、岩倉住民の一豊に対する思いが伝わってくる。
 一豊の出生地は岩倉の他に木曽川町黒田が出生地とすることもあり、実際のところ記述として明確なものは残っていないようです。

石碑から社殿側面の眺め、こうして見ると本殿は神明造のように見えます。

石碑から右側は社叢が生い茂っており、その前には一豊の家紋土佐柏紋が刻まれた石碑が建てられています。
 これは平成18年に放送された大河ドラマ「功名が辻」を記念して建てられたもの。

境内右のお祭り広場側から眺める神明生田神社全景。
 桜祭りの時には、普段人影の少ないお祭り広場も多くの屋台が並び花見客で賑わいます。
アルコールの販売価格に関しては、堤沿いよりリーズナブルな価格で販売されており、我家はいつもここの売店で買い求め花見酒を楽しんでいます。
 にもかかわらず、お祭り広場から奥に立ち入ったことがなく、今年の花見で初めて神社の存在に気付きようやく訪れることになった。

境内南側の脇参道から拝殿正面の眺め。
 社標と蕃塀を備えており、社殿の向きからこちらが正参道のように見えなくもない。


神明生田神社は岩倉城、岩倉街道の歴史とともに歩んできた神社であり、山車や一豊誕生地の石碑など、地域の歴史を今に伝える場所でもある。

 

岩倉市下本町『神明生田神社』
創建 / 不明(天文二十三年造営の棟札)
祭神 / 大日霊命、稚日女命
境内社 / 八幡社、天神社、津島社、市神社、金峯社、稲荷社、白髭大明神
例祭日  / 10月15日
氏子域 / 下本町、旭町、栄町、下本町、昭和町、本町
所在地 / 岩倉市下本町下市場25
吉祥寺から神明生田神社 / 岩倉街道を北に。約250m・​徒歩4分程​。
参拝日 / 2026/6/5
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過去記事
神明太一社

岩倉市下本町『護国山 吉祥寺』

旧五条川の痕跡を留めた黒龍神社から西に向かい、岩倉街道を横切り、さらに奥へ進むと、今回の目的地である護国山・吉祥寺の山門に至ります。

上の赤枠が吉祥寺で、岩倉街道から一歩西に入った岩倉集落の西外れに位置します。

街道から吉祥寺山門方向を望む。

山門前には右に「曹洞宗 護国山 吉祥寺」の寺標と左に「桜講本部」石標、「秋葉大権現」と刻まれた常夜灯が建てられています。

吉祥寺山門。
 切妻瓦葺の薬医門で、屋根を支える組物に視線が行く。

山号額と複雑に組まれた組物。

山門入口から本堂境内の眺め、右側に鎮守社の朱の鳥居が見える。

境内右側には地蔵堂、稲荷殿が鎮座します。

稲荷殿(左)と地蔵堂。
 鳥居の額には「豊明稲荷大明神」とあります。

堂内の眺め。

地蔵堂内に安置されている地蔵尊。
 素朴な像容で、銘はないかと目を凝らして見るも分からなかった。

境内左の観音堂。

霊場や年代はわからないが、石仏が三十三体安置されている。 

本堂。
 入母屋瓦葺木造で、右側は庫裏に接続しています。
吉祥寺は釈迦牟尼仏を祀る曹洞宗の寺院。
 岩倉市本町の名鉄線路沿いに位置する龍潭寺の末寺で、創建年代は地史や資料により諸説あり、
吉祥寺過去帳(1801)には大永元年(1521)とすべしとあるようです。
 創建当初は宝蔵庵と称されていたようです。※吉祥寺HPから引用

岩倉市史下巻から一部抜粋した内容は以下のように書かれています。
 本尊 薬師如来。
開山は本寺三世桂峯、開基は全公と伝わる。
 草創年代は尾張志、尾張徇行記では明応五年(1496)、元禄元年(1558)など様々。
桂峯の寂年からの推定、吉祥寺過去帳から大永元年(1521)を執るべきだろう。
 当寺の鎮守は秋葉三尺大権現で稲荷大明神も奉祭されている。
秋葉堂は尾北一円に信者が広がる桜講の中心道場である。

本堂寺号額と龍の彫飾り。

木鼻は獏と獅子。

秋葉堂全景。
 吉祥寺は嘉永七年(1854)に、本堂・庫裡を全焼、隣接する民家にも延焼する火災に見舞われたが、本堂と軒を連ねる秋葉堂だけは消失を免れた。
 その霊験を目の当たりにした信者は桜講社を結成し、毎年春に秋葉信仰の根本道場である遠州可睡斎に参拝するようになりました。これが桜講の起源です。

町内を縦断する岩倉街道は、清須と犬山を結ぶ街道として江戸時代の寛文8年(1667)に整備されたとされるが、それ以前から主要地点を結ぶ、物流や戦略の道として存在した。
 時代も周囲の環境が変わった岩倉にあって、車のすれ違いにも気を使う細い道は、今も街道の趣が残ります。
吉祥寺はその街道から一歩入ったこの地に室町時代から鎮座する古刹といってもいい。

岩倉市下本町『護国山 吉祥寺』
宗派 / 曹洞宗
開山 / 桂峯
開基 / 全公
創建 / 大永元年(1521)・諸説あり
本尊 / 薬師如来
所在地 / 岩倉市下本町下市場157
黒龍神社から吉祥寺 / 黒龍神社の社頭を西に直進、岩倉街道を越えた突き当たり。約120m・​徒歩2分程​。
参拝日 / 2026/6/5
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岩倉市下本町『黒龍神社』

前回掲載した岩倉城趾から北に続く細い路地があります、今回は路地を150m程進んだ三叉路の突き当りに鎮座する黒龍神社を取り上げます。

上の明治24年当時と現在の地図の赤枠が黒龍神社の位置を示します。
 下本町に鎮座する黒龍神社は、昭和に入り付け替えられた五条川右岸堤に位置しており、鎮座地から東、現在の五条川堤は左岸にあたり、現在の天神塚の一部だった。
付け替えにより右岸となり、旧五条川は埋められ、路地となり生田神明社に続いています。
 その細い路地を境にして、西が下市場、東は天神塚の地名が残されています。 

岩倉市下本町下市場に鎮座する黒龍神社の社頭全景。
 高く積まれた石垣は、旧五条川堤の名残を示すものです。
その堤の上に鎮座するのが黒龍神社。
 ここを右に入り、建物脇に伸びる細い道が旧五条川で、この先の生田神明社、お祭り広場まで続いています。

この高みこそ、かつての旧五条川堤の断面で当時の名残を留めるものです。
 下流の城跡橋まで、この高さの堤が弧を描いて続いていたのでしょう。

西側から見た堤と黒龍神社社殿全景。
 当時の河川床の高さは分かりませんが、ここを越水すると平坦な立地の岩倉集落は水浸しになる。

道路から境内に続く石段の先に、常夜灯、鳥居、本殿を収める覆屋が建てられています。

堤の上を社地とするため横幅は広くはない。

参道左の手水鉢。

普段は使われることがないのか、鉢には蓋がされ、龍口だけが現れています。

覆屋は手前が吹き抜けの拝所で、三方を囲んだ奥に本殿が祀られています。

拝所内から本殿の眺め。

黒龍大権現  
『五条川に四百年以上棲み続けて、神通力を得たという大蛇が、ある夜下本町○○氏の夢枕に現れ、私を祀れば願いを叶えてやるという。
 後日、再度同じ夢をみたことに由来して、昭和5年11月に創建された。
平成29年から神名生田神社の管理下になり、毎年11月になると秋季大祭が執り行われる。
 本殿内には玉を銜えた黒龍の像が安置されていて、何度もお参りすれば、黒龍となった大蛇の霊験により願いが叶うと云われている』
 
岩倉市史(1985)「信仰と伝承」に龍神さまとして黒龍神社について記載されていました。
 それによると、江南から岩倉の五条川沿いには、昔から幾つかの伝説が伝わるようで、黒龍神社の龍神さまもそのひとつ。
その多くは、大蛇を見て病んだり、命を落としたとする話が少なからずあるようです。
 市史では黒龍を祀るきっかけは解説にあるような内容ですが、面白いのは夢枕に現れた大蛇の言葉。
「我は幼川に400年も前から棲みつく大蛇だが、以前は川岸の藪がよく茂り住みやすかった。
 しかしこのごろはすっかり切り開かれ姿を隠す事さえできなくなった。
たびたび人に見られはしたが、人に危害を加えた事は一度もない。
 時に姿を見て病む者もあったが、それはその者の恐怖心からくるもので致し方ないもの。
我は自由に大きくなったり、小さくなれる神通力を持っている、祈願すれば何事も叶えてやろう。
なんとか神として祀ってもらえないだろうか」と懇願したというもの。
 町人は「一度でいいから全身を見せてもらいたい」と頼むと、蛇はむくむくと大きくなり長さ8mほどとなり、絵に書かれ龍の姿のように、色はどす黒く、肌は松の木肌そっくりだったいう。
大蛇は頭をもたげると、爆音とともに天に昇って行った。
 町人は妙興寺の老師に相談したところ「正夢として信じ、祀ったらどうか」との返事をもらったという。
昭和5年11月、町人は下市場の東堤北側に社を建て神官に祝詞を納めてもらうと、一本橋の方から祝詞と玉を口にくわえた大蛇が現れ、その祝詞を村人に授け姿を消したという。
 神官によれは黒龍神社に厨子を納める際、急に持ちかねるほど重くなり、無理やり社の傍まで運ぶと、厨子は急に軽くなったという。
大蛇をお祀りしてからは二度と姿を見たものはいないそうだ。
 
昭和5年の出来事で複数の個人名も記されており、単なる昔ばなしでは片づけられないかもしれない。
 大蛇が住みにくいと訴えるほど、この頃から五条川周辺の環境は様変わりしたということだろう。
因みに「一本橋」を調べてみたが、一豊橋はあるが該当する橋は見当たらなかった。

黒龍大権現を祀る本殿は神明造、小振りながら杮葺きで、6本の鰹木と内削ぎの千木が付くもの。
 自然素材を用いた屋根は趣があっていいものです。
風雨にさらされる屋外の社などは、概ね30年ほどで屋根の寿命を迎え、葺き替えが必要になります。
 覆屋は耐用年数を延ばすためにも必需品だろう。

縣神明社でも書いたが、かつてのこの地には社殿の葺き替え用の萱畑もあったという。
 今や堤沿いに住宅が立ち並び、春ともなれば、堤沿いの桜並木が咲きほこり、庭から花見酒も楽しめる住みやすい町に変貌しました。
まだ新しい神社ながら、堤跡に鎮座する黒龍神社は、かつての岩倉の姿を今に伝える存在といえる。

堤の上から岩倉城跡方向の眺め。
 かつては大蛇が身を隠せるほどの鬱蒼とした藪が広がっていたのだろう。

岩倉市下本町『黒龍神社』
創建 / 昭和五年
祭神 / 黒龍大権現
所在地 / 岩倉市下本町下市場 
岩倉城趾から黒龍神社 / 県道166号線を越え、約150m程進んだ突き当り、​徒歩2分程​。
参拝日 / 2026/6/5
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