豊田市加納町『鈴ヶ滝不動明王社』

9月6日に訪れた猿投山南麗神社巡りも鈴ヶ滝不動明王社で終わりとなります。

この日10社目の鈴ヶ滝不動明王社の所在地は豊田市加納町馬道通、というより猿投温泉といった方が分かりやすいかも。
亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、ひたすら直進し猿投温泉に向かいます。移動時間は10分程で到着できると思います。
鎮座地は猿投温泉の前を流れる加納川を堰き止めた灌漑用の溜池鈴ヶ滝湖の下流に位置します。

駐車場は猿投温泉駐車場に駐車し、帰りは温泉でひと汗流して帰ることができる。
写真は駐車場脇のマップ、不動明王社はマップの一番奥に架かる橋の袂に鎮座します。

癒しのパワースポット 不動明王社(創建1554年)と鈴ヶ滝。
「山容が秀麗で深山の趣にことかかない猿投山は「神霊が鎮ります山」として古くから崇められ、猿投山に詣ずる修験者や信者たちは加納の澤 (現、猿投温泉内の加納川)を通り、滝(現、岩風呂棟に隣接)で身を清めて 頂上に向った。
 鐸杖の音が絶えなかったことからこの滝(落差10米)は「鈴ヶ滝」と呼ばれ、滝前の「不動明王社」にお参りすることを常とした。
北の明王である「鈴ヶ滝不動明王」は、不動明王の中でも一番力をもっており、あらゆる災難を除き参拝者を強いパワーで守ります。
 「不動明王社」と「鈴ヶ滝」周辺は中部有数のパワースポットで温泉内で一番美しい場所です。
御神体
 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩弘法大師道祖神、南無大師遍照金剛」とある。

駐車場から大和橋を渡り、右手奥の鈴ヶ滝橋に進みます、ここから先は車は通行不可。
すぐ正面に不動明王社、傍らの鈴ヶ滝橋から鈴ヶ滝を正面から眺められます。
橋を渡ると左手に鈴ヶ滝湖への散策路、直進すれば金泉の湯を通り駐車場に至ります。
ここから先は森の木陰に包まれ、昼でも薄暗く、滝から噴き出す涼やかな風が心地いい。
しかし蚊がいるので、虫除けは持って行った方がいいと思います。

下を流れる加納川。
名古屋からも近く、地下鉄東山線藤ヶ丘駅から無料巡回バスも運転されており手軽に温泉を楽しめます。
その昔、事故に遭った際、後遺症の療養や、猿投山散策後の汗を流すのに足繁く通った馴染みのある存在です。
長らくご無沙汰していましたが、今日の目的は不動明王社なので温泉はあとまわし。

鈴ヶ滝橋下流から不動明王社(左)と鈴ヶ滝。

道の正面に石の明神鳥居を構える不動明王社が見えてきます。

社頭全景。
左手に南無大師遍照金剛や道祖神が安置され、鳥居の先の朱塗りの堂が不動明王社になります。

鳥居の束には「鈴ヶ瀧大神」と彫られているようで、鳥居は昭和39年寄進のものでした。
岩と真砂土の印象が強い猿投山ですが、ここも後方の大きな岩や川底など通じるものがあります。

鳥居左の経塔と道祖神

光背に「右??」「左 山??」…ピントが甘く読み取れない。

鈴ヶ瀧を正面に眺める堂内、昼でも灯りが灯されています。

正面右奥が猿投大神、左の祠は文字が刻まれていませんが恐らく鈴ヶ瀧不動明王と思われます。
後方の大岩の上に石の祠が見られますが詳細は不明です。

鈴ヶ滝橋から大蛇の体を祀ったとされる堂と猿投大神の眺め。

自然の中に包まれて佇む社は全て石です。

大蛇が傷を洗い清めたとされる滝壺。

鈴ヶ瀧の由来と伝説
「昔から山は信仰の場になっており、猿投山(標高629㍍)もその一つ。
 猿投山に詣ずる修験者たちがこの沢を通り、この瀧で身を清めて頂上に向かった、錫杖の音が絶えなかったことから、この瀧を鈴ヶ瀧と称した。
戦国時代は織田信長豊臣秀吉徳川家康北条早雲など割拠し、この地方は三河北部の重要拠点をなしていた。
 当時、松平清康がこの地を治め、現在の豊田を中心に広瀬城、上野城、寺部城、衣城、福谷城、八草城が在り、この城主たちは共謀して松平清康に反抗したが敗退。
天文18年、この地を中古広見城主中条将監秀正が代って治めていた。
 文和4年(1554)秀正の育てていた鷹が沢の大樹に巣をかけた、これを猿投山を徘徊する大蛇が見つけ窺っていたので、秀正は村人に命じて監視させていたが、ある日大蛇が現れ巣を襲わんとしていた。
村人は弓矢で18本の矢を放った。
 この時空は一天俄かにかき曇り大雨が降り出し、その凄さに村人は恐れ震え逃げ帰った。
大蛇は矢に耐え切れず猿投山の山中に姿を消し、猿投山の西北の鈴ヶ瀧の滝壺に逃げ込み傷を洗い清めた。
 村人は鈴ヶ瀧で喘ぐ大蛇を切り、体を鈴ヶ瀧の傍らの祠に祀り、頭は村へ持ち帰り弁財天として祀った。
その時大雨が降ったことから、旱魃の時はここで難を祈れば効果があるとされ、鈴ヶ瀧のすぐ下流の釜石に供え物をして雨乞いをするようになった。

 猿投山麗は5世紀末から窯業がはじまり、平安・鎌倉・室町時代にかけて発展し、日本の6古窯のひとつに数えられ、数千基の古窯が発見されています。
陶工は定住せず、燃料を求め次々に窯を作っていき、瀬戸や常滑に流れ受け継がれていった。
 鈴ヶ瀧のある加納村から、赤津村三軒屋へ至る道は、後に瀬戸と交流する道路となり、加納川の水を利用した水車小屋で陶土を作り、瀬戸へ供給する交通の要道となり、この道を通る人は鈴ヶ瀧で休憩し鈴ヶ瀧不動尊でお参りするのが常となった。
現在も猿投神社や鈴ヶ瀧不動尊に厄除け参拝する人々は多い。
 釜石は鈴ヶ瀧下流20㍍に今も現在する。
鈴ヶ瀧不動尊は瀧の洞から、現在の場所に移されたが、その年代は定かではない。
 猿投神社創建は西暦313年の創建で、主祭神大碓命、両側に景行天皇垂仁天皇が祀られており、猿投山周遊道の入口である。」

解説から鈴ヶ滝不動明王社の創建は文和4年(1554)、当初の鎮座地とされる鈴ヶ洞は特定できなかったが、解説からすると、さほど離れてはいないだろう。
下流の村に祀られた弁財天についても所在は分からなかった。
いずれにせよ、猿投山周辺では蛇の姿を見かけることが多かった、山中には大碓命が猿投山で蛇にかまれたさいに血を洗い流したとされる血洗いの瀧などがあり、蛇やら龍は縁がありそうです。

不動明王社から200㍍奥に進むと鈴ヶ滝湖がありますが、そこに至る道もそんな道です。
猿投山はせめてトレッキングシューズで足固めして行くべきところで、今は蛇よりも世代が代った熊や猪の方が怖い存在かもしれない。
役に立たないかもしれないが念のため熊鈴も必要な所です。

鈴ヶ滝不動明王
創建 / 天平元年(729) 
祭神 / 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩弘法大師道祖神、南無大師遍照金剛
境内社 / …
祭礼 / …
所在地 / 豊田市加納町馬道通21-21
参拝日 / 2024/09/06
亀首 熊野神社から車移動 / 亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、猿投温泉に向かいます。 ​​​​​移動時間10分程​​​​。
​​​​
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豊田市亀首町『亀首 熊野神社

 

豊田市亀首町『亀首 熊野神社』

大鳥居の白山神社から5分程北上し、青木橋西交差点で左折すると、正面に森が見えてきます。
所在地は亀首町下向イ田、今回の目的地「熊野神社」の鎮座地です。
参拝者駐車場は見当たらず、周辺の生活道路も幅員が狭く駐車余地はありません。
自分は亀首町森腰集会所に停め、森の南側の社頭に向かいました。

熊野神社は猿投山南麓の亀首集落の籠川右岸丘陵地の亀甲山に鎮座します。
亀首の由来は社地南を流れる本徳川と籠川が合流する、籠川盆地の形が亀の首に似ているから付けられたという事です。
中世頃、高橋庄と呼ばれており、明治頃の大字はその頃の一村で、明治22年廣瀬村大字亀首、明治39年猿投村大字亀首・・・と編入の結果、現在の豊田市亀首町となりました。
明治頃は丘陵地に雑木林の広がる一帯でしたが、現在は大手企業の工場が建てられ、物流トラックが行き交うようになりました。

熊野神社社頭。
一旦社頭を通り過ぎて、南側に鳥居がないか先に進んで見ました。

その先の角に霊神碑と龍王大権現が祀られており、ここから南の本徳川には鳥居は見られなかった。

社頭に戻るため振り返ると森の中に複数の社が祀られていました。

蜘蛛の巣の先に4社祀られており、右手の山神は分かりますが、他の3社の社名は分からなかった。
もう二・三歩踏み込むべきだったか…

村社 熊野神社社頭全景。
石の神明鳥居の先から石段が続き境内と結んでいます。

社頭の狛犬
寄進年は見忘れましたが、後方の石灯籠は昭和13年に寄進されたものでした。

鳥居から一直線に続く石段。

石段の先の社殿。
左側に陽に照らされた石像があるようです。

熊野神社社殿全景。

石段の左に手水舎があり、手前に久しく見ることは無くなった、二之宮尊徳の像があります。
少し前までは金次郎の像が校庭に立てられていたいたものですが、最近はめっきり姿を見かけなくなった。
今の時代に子どもが仕事をしながら勉強する姿は、そぐわないのだろう、今は本の代わりに手に持つのはスマホなんだろうなぁ。

熊野神社の龍口。

社殿右からの眺め。
社殿全体はコンクリート造りの尾張造り。
立て替えからそれ程経っていないように見受けられます。

拝殿脇の由緒。
熊野神社
亀首村磯谷氏の祖である佐竹権之進維高が、熊野三所権現へ七度参拝して七度目の満願で霊亀を得て、現在の丸山に創建しました。
 維高は姓を磯谷と改め、代々にわたり、熊野神社の神官を務めました。
熊野神社の鎮座する地は丸山といわれ、又、山の南側に亀の首に似た松が聳えていたことから亀甲山と呼ばれる様になりました。
 亀首の地名は本徳川と籠川が合流する形 、松、霊亀に由緒があると云われています。
(出典 豊田市教育委員会発行「猿投村に関する口碑伝説集」)
 なお、神社の敷地面積は20118㎡であり、そのうち境内地は3908㎡となっています。
猿投地域会議 」

愛知県神社庁熊野神社記載内容は祭神の記載に留まり、創建など記されておらず、愛知縣神社名鑑を買えという姿勢の様で、他県の情報と比較し創建程度は掲載してもらいたいと感じる。

大正15年(1926)に出版された【西加茂郡誌】には以下のように記されています。
「祭神 速玉之男命、他2柱
創建 天平元年(729)9月
 祭日 10月18日
所在地 亀首
 氏子 102戸」
【猿投町誌(1968)】の記載内容は西加茂郡誌と同様で創建年は「不詳」となっていた。

熊野神社拝殿額、神紋は左三つ巴の様です。

拝殿内から幣殿、本殿方向の眺めです。

右翼殿から本殿の眺め、5本の鰹木と外削ぎの置き千木が載る。

境内に左の社務所後方には東郷元帥と乃木大将の像と大東亜戦争殉国碑が建てられています。
(写真は乃木大将像)

そこから更に亀甲山の頂に向け石段が伸び、その先に境内社の姿があります。

境内社全景。
正面に板宮造りの4社と右に石の社、左に少し離れて1社が祀られています。

左の社は御嶽神社

左から天道神社、秋葉神社金比羅大神と続きますが、4社目と石の社の社名は読むことができませんでした。

社務所から見る社殿の全景。
地史を見ているなかで、この辺りの神社は「古くから続く神社が多いが古来の面影を残すものは少ない」とありました。
熊野神社天平元年(729)創建とされる長い歴史を持つ神社です。
近代工法の綺麗な社から昔の姿は描けませんが、こうした流れは今時の金次郎像と同じなんだろう。

創建以来、亀甲山の頂から、氏子が住む亀首集落の五穀豊穣と無病息災を見守ってきたのが熊野神社です。
社頭の先の稲の出来具合はどうなんだろう。

亀首 熊野神社
創建 / 天平元年(729) 
祭神 / 速玉之男命伊弉冉命事解男命
境内社 / 御嶽神社天道神社、秋葉神社金比羅大神他
祭礼 / 10月18日
所在地 / 豊田市亀首町下向イ田
参拝日 / 2024/09/06
大鳥居 白山神社から車移動 / 豊田市消防団伊保詰所から北上、青木橋西交差点で左折、直進​​​​移動時間5分程​​​​。
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豊田市浄水町「開豊神社」
・大鳥居 白山神社

 

大鳥居 白山神社

豊田市伊保町大鳥居「白山神社」。

八幡神社から東へ4分程の伊保町下川原交差点北角、豊田市消防団伊保詰所の西隣に鎮座しています。
車でとても近い距離にありますが、県道沿いや鎮座地周辺に駐車余地はなく、結局最寄りのコンビニに引き返し、買い物を済ませ駐車の了解を得て歩いて向かうことにしました。

明治24年当時の地図で見ると、飯田街道を保見から下伊保集落を過ぎ、籠川を渡る手前から猿投神社に通じる道筋の入口に白山神社が鎮座します。
明治24年と現在の地図上(右)ではここに神社の記は見られません。

社頭から伊保町下川原交差点のある南側の眺め。
街道から白山神社社頭は自動車展示場の奥に参道がありますが、分かりにくいかもしれません。
伊保詰所の左から境内につながる裏参道があるのでそちらを目指した方が分かりやすいです。

街道からかなり奥まった位置に白山神社の鳥居があります。
地名の伊保町大鳥居の由来は定かではありませんが、白山神社のこの鳥居から付いたものか、街道から猿投神社に通じる入口でもあり、過去に大鳥居でもあったのかもしれませんね。

鳥居から先の境内。
大きな杉が聳え立つ境内には、左手に社務所があり、高木の樹々に包まれた杜の中に白山神社の覆屋あります。

白山神社由緒。
「祭神 白縫姫之命
創祀 仁寿元年十月 (西暦851年)
由緒 
 当社は一般には安産の神として尊神されてきました。
町内では別名「大鳥居神社」、「大鳥居さん」の名で知られ、婦人の方々の信仰を集めた神。
 これは古より村人たちが大鳥居の神に妊婦と子どもの安全を祈願してきた風俗に由来すると考えられます。
例祭 四月第一日曜日
 昭和58年」

猿投神社が現在地に創建されたのが仲哀天皇元年(192)とされますが、小さな白山神社ですが見た目から測り知れない歴史を持っているようです。
白山神社といえば祭神は菊理媛尊や伊邪那美命となりますが、由緒にある白縫姫之命は馴染みがなく、個人的に源為朝の妻のイメージしかない。
西加茂郡誌から白山神社を調べて見たが、記載はなく詳細は不明です。

境内右側から見る白山神社の全景。
中央の根元から二つに分かれて聳える杉は、注連縄こそ巻かれていないものの、御神木の雰囲気が漂います。

こんもりと盛られた頂の上に覆屋があり、その右側に結界が張られた石の社が祀られています。
このあたりは、6世紀中頃から後期に造られた古墳が複数確認されている土地柄なので、この雰囲気は古墳を想像してしまう。

結界が張られた石の社。
由緒にはこの社について記されておらず、新たに近隣から移されてきたものでしょうか、基壇だけが新しい。

社をひと回りしましたが、詳細は分かりませんでした。

覆屋へ続く参道の全景。
左手に手水鉢があり、石段の手前には昭和48年に寄進された一対の常夜灯が建てられています。

大きな屋根の覆屋の下、石の基壇の上に白山神社の社が祀られています。

社は外削ぎの載せ千木に4本の鰹木が載るもので、社名札は架けられていません。
覆屋は昭和48年に寄進されたものなので、社もその際に建て替えられたかも知れません。

昔は出産そのものが穢れとされ、今のように医療がなかった時代、出産は妊婦にとっては命がけでした、幸運に恵まれ、この世に生まれた子も無事に成長する事は少なかったでしょう。
仁寿元年(851)の創祀以来、この集落の女性の安産と子の成長を祈願する拠りどころを白山神社が担ってきました。

街道から少し高くなった境内から南の眺め。
境内は遊具もあり、子供たちの遊び場になっていました。

白山神社
創建 / 仁寿元年(851) 
祭神 / 白縫姫之命
境内社 / 不明社1社
所在地 / 豊田市伊保町大鳥居
参拝日 / 2024/09/06
八幡神社から車移動 / 伊保町的場交差点を右折、県道58号線伊保町下川原交差点を左折、80㍍直進した左側。​​​移動時間4分程​​​。

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豊田市浄水町「開豊神社」

豊田市伊保町『八幡社』 

豊田市伊保町宮本鎮座「八幡社」
前回掲載した豊開神社から北進し、県道58号線(飯田街道)を右折し東に進み伊保町的場交差点で右折、1本目の道を右折直進すると今回の八幡社に至ります。

上は明治24年(1891)当時と現在の比較地図。
神社は街道沿いに出来た下伊保集落の南側に位置し、南に伊保川が流れ、すぐ東に籠川が合流する田園地帯に鎮座します。
古くから要衝として開け、天正19年(1591)に原長頼により検地が行われ、延宝8年(1680)、当時の殿貝津陣屋の支配に置かれていた。
八幡社の創建も古い様で当時の地図に既に描かれています。

社地全景。
細い道を西に進むと伊保町区民会館に至り、その脇に南北に長い社地を持つ「八幡神社」の社頭に出ます。
右に昭和12年寄進の「村社 八幡神社」の社号標が立ち、その先に社殿が広がります。

社頭全景。
西から南にかけて田んぼが広がり、周囲に高い建物もなく開放感のある社地。

昭和62年健之の石造明神鳥居と八幡神社の額。

鳥居から先の境内。
左に手水舎、中央の拝殿・本殿、右手の境内社が主な建物。

手水舎から田んぼの先のお助け地蔵や開豊神社が鎮座する浄水町方向の眺め。
周囲の田んぼは概ね稲の収穫を終えるころでした。

八幡神社の龍口。

手水舎右手の社記。
「社記
社名 八幡神社
所在地 豊田市伊保町宮本20番地
祭神 誉田別命(応神天皇)
由緒 創設は応安2年(1369)8月15日、京都府石清水八幡宮の分社として勧請
   旧下伊保の氏神として奉斎し村民の尊崇極めて厚く今日に至っている
   明治5年10月村社に列せられる
   昭和14年10月18日神饌幣帛料供進神社に指定される
例大祭 10月10日
境内末社 
   【神明社】 祭神 天照皇大御神、【津島社】 祭神 素戔嗚尊、【秋葉社】 祭神 加具土命、
   【天神社】 祭神 天満天神、【金毘羅社】 祭神 大物主命、【風神社】 祭神 不詳、【御嶽神社】 祭神 伊佐波登美命
境内 1991㎡
氏子 134戸
崇敬者 76戸
昭和62年5月吉日」

西加茂郡誌に目を通しましたが、内容は社記に及ばぬものでした。

舞殿。
入母屋妻入りで四方吹き抜けのもので、昭和62年の寄進物が多いのでこの時期に改修されたのだろうか、全体に社殿は綺麗に保たれていました。

舞殿右から社殿全景の眺め。

舞殿から拝殿方向の眺め。

拝殿全景。

昭和62年寄進の狛犬

拝殿額。

拝殿内。

拝殿左から流造の本殿。
外削ぎの置き千木で鰹木は3本、鬼板の紋は左三つ巴の紋が入る。

境内右の境内社
社記によれば神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社があるとあったが、境内で他の社が祀られている様子もなく、この社に全て合祀されていると思われます。

社前の狛犬
狛犬、常夜灯共に寄進年を見忘れましたが、昭和初期に寄進されたもののようです。

蟇股の龍。
この社、彫には相当拘って作られています。

向拝柱木鼻の獏。

海老虹梁の波と肘木の牡丹の彫。

脇障子にも手の込んだ彫が施されていますが、この部分は後付けか?
小さな社ですが、よく見れば随所に拘りが詰め込まれています。

拝殿から社頭方向の眺め、綺麗に手入れされた居心地のいい神社です。

車を停めさせて頂いた伊保町区民会館から南の眺め。
あの頂からかつては多くの若い世代が飛び立っていった、その空にアキアカネが飛び交っていた。

八幡神社
創建 / 応安2年(1369) 
祭神 / 誉田別命(応神天皇)
境内社 / 神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社
所在地 / 豊田市伊保町宮本20
参拝日 / 2024/09/06
開豊神社から車移動 / 開豊神社から浄水町原山東交差点左折・直進、貝津町蓑輪交差点を右折し県道58号線へ、500㍍直進し右折、伊保町区民会館方向へ。
移動時間7分程​。

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三重の地酒 ほろよい列車「観光列車つどい」

観光列車「つどい」で行く「三重の地酒 ほろよい列車「観光列車つどい」」の続きとなる今回は、当日の様子を掲載します。
当日は曇天。
折り畳み傘と缶ビール・つまみをリュックに入れ近鉄名古屋駅に集合。
10:06発のつどいを待つ。

近鉄のイメージカラーに近い車体色のメタリックレッドの「ひのとり」
ホームに入ってくると、写真に収める人の多い車両。

ポップなカラーリングの「つどい」がホームに入ってくる。

なにやら風変わりな車両が入ってきて、車内を覗き込む人も多い。
いろいろなイベントで使われる「つどい」、自分自身初めての乗車なので興味は尽きない。
今回は三重の日本酒を堪能する「ほろ酔い列車」として鳥羽までの約2時間、三重県産食材を詰め込んだお弁当をつまみながら、県内七蔵のお酒を堪能し蔵元の説明が聞けるもの。

当日の七蔵のお酒。
どれも三重のイベントでは良く目にしますが、後藤酒造と早川酒造部のお酒とは縁がなかったので楽しみにしていました。

各席に用意されたのが、地元駄菓子ベビースターラーメンと地元の食材を使用した「あて」、お猪口と樹脂カップが用意され、みえの水まで用意されていました。
事前に飲み放題ではないとあったので、色々と持ってきましたが、結論は全く不要。
酒は何度もお代わりができ、二時間では十分すぎる「あて」もあり、とても満足できお値打ちなイベントでした。
各蔵、持ち時間の中で酒蔵のPRと酒造りの拘り、そして代表銘柄の試飲が行われます。
どの蔵元も甲乙付け難いお酒ばかりでした。

上。
最初はガラスのお猪口で後藤酒造の颯で乾杯。
我家の好みに合っていたお酒。
下。
伊藤酒造の鈿女。
天鈿女が描かれたラベルが印象に残る。

上。
清水清三郎商店「柞」と大田酒造の「半蔵」
これはもう知名度が高く、比較的容易に手に入るようなり、有難味は薄れたが味わいは流石。

上。
天一の銘柄で知られる早川酒造部の「magic hour」。
田光の銘柄で知られる早川酒造があり、同じ蔵元と誤解していましたが、どちらも別物で血縁関係にあるようです。
其々味わいに特徴を持つお酒を生み出しています。
下。
丸彦酒造の「三重の寒梅」。
四日市のお酒は美味しいと教えてくれた酒蔵。
飲む機会もあり、どの銘柄でも安心して飲めるお酒。

上。
河武醸造。代表銘柄は鉾杉で名は以前から知っていたが、「式 mellow」初めて飲むお酒。
ラベルの色違いで4種類あり、今回試飲できたのが青ラベルのmellow。
これも今回試飲した中で、我家の好みに合っていたお酒。

七蔵ともに社内で即売すれば買っていきたいお酒ばかり、残念ながら即売はない。
捜すというのも楽しみですが、次回その点をなんとかしてもらえると有難いなぁ。

2時間30分のほろ酔い列車も海が見えてくれば終着駅の鳥羽も近い。
終わりが見えてくると、各蔵元の在庫一掃と云わんばかりに注ぎに来てくれ、カップはフル稼働。
一杯だけかと想定していただけに、嬉しい誤算、これでお楽しみ抽選会で当たれば最高なんだが、くじ運のない我が家は想定通り二人とも外れたが、それでもお得感満載のほろ酔い列車でした。

予定時刻通りに12:37に鳥羽駅到着。
当所は駅近くの鳥羽さざえストリートで海産物を食べて帰る予定でしたが、宇治山田駅にとんぼ返りし、伊勢神宮外宮近くのお店に寄る事となった。
鳥羽の振興と趣旨が外れるが三重県の振興には逸れてはいないはず。

13:20宇治山田駅到着。
酔い覚ましに最寄りの神社を経由しながら、外宮を参拝し目的地に向かう。

上。
駅ターミナルのすぐ前の赤い鳥居の伊勢豊受稲荷神社へ参拝。
下。
伊勢豊受稲荷神社社頭右の明倫商店街、アーケドが付く昭和レトロな趣が残る商店街で、右手奥に続いています。
シャッターを下ろした店舗が多く寂しい限りだが、今の若い世代なら再び活気のある通りになるやもしれない。

上。
伊勢豊受稲荷神社から西に10分程の豊川茜神社、ここから勾玉池沿いに火除橋方向の伊勢神宮外宮へ。

伊勢神宮外宮、豊受大神宮
主祭神豊受大御神は、内宮の天照大御神の食事を司る神で、衣食住、産業の守り神として崇敬されており、今回は豊受大神宮を参拝し、外宮参道を伊勢市駅方向に向かう。

伊勢角屋麦酒 外宮前店。
今回、ここのビールと隣の若松屋 外宮前店の伊勢ひりょうずが食べたいとの事で宇治山田に戻って来た。

写真は4種飲み比べセット(@1200)。
ベルギービールに通じるフルーティーで女性好みのビール、飲みたかったかみさんにして「少しやりすぎ」という感想。
どっしりとしたビールが好きな自分にはあまり合わなかった。
所在地 / 伊勢市本町13番6号

松屋 外宮前店。
ひりょうずと練り物にチーズが入った揚げ物、いずれも揚げたてで、つまみには最高ですね。

豚捨 外宮前店。
テイクアウト専用受付があり、そちらで豚捨コロッケ(@120)を購入。
こちらも出来立てで、先ほどまで散々飲み食いしていながら、こうしたものは別腹のようで、どうしても吸い寄せられる。
どちらも素朴の味でビールともよく合う。
所在地 / 伊勢市岩渕1-1

伊勢角屋麦酒から徒歩5分程歩けば伊勢市駅
16時過ぎの電車に乗り名古屋に戻る。
今日一日、電車に揺られ、美味しいお酒や食事を味わい、それなりにウオーキングも出来て満足のイベントでした。
後は電車に揺られひと眠りして帰ろう、乗り越す事はない。

初めてのつどい乗車の感想。
走行中あまり動き回れず良く見ていないが、景色を楽しむため窓際に設けられたテーブル席、椅子も良かったが、車窓の景色が・・・・
長良川鉄道の「ながら」と比較すると内装の造りは若干負けてるかな。
2024/09/28、​伊勢市徘徊ルート
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人生最後の車選び シエンタに決定

問題児ハスラーとの決別の続きとなる今回はデリカの下取り価格と次の車となる予定のフリードとシエンタの商談について。
そもそもこの二車選択に当たって、実家の両親の乗降性、万が一にもかみさんが運転する場合を想定すると、4駆の大きな車体とコラムシフトの運転は難しい。
しかも自分やかみさんも、高い座席へ上るのに「よっコラショ」の声が出るようになった。

上は某デーラーの下取り価格算定根拠として出してきたもの。
ハスラーは71万で既に売却済み。
残るは21年間乗ったデリカの下取りとなる、20万とのこと。
ここで、ハスラー同様に一括見積に出したところ、下はこの20万から上は某社の41万と20万の差がでた、しかもその業者はこの先さらに走り込んでも下落する事は少ないと出た。
所謂付加価値と希少性が評価されているようだ。

ならばこの下取り額を指標にメーカーと交渉するが、なかなか40万までは届かない。

現行フリードは2024年のモデルチェンジで最新のもので、候補はクロススターHEVモデル。
試乗もしましたが、セカンドシートをフラットにした場合、荷室はフラットになるものの、後席座面が全席後方に立って残り室内長が狭められる、後部荷室とシートの隙間を埋めるためのボードを付けなければならず、完全なフラットではない。
気になる点
車椅子の収納を念頭に入れているため、床が低くリアゲートの開口が大きく、慣れないと体にあたる。
良い点
荷室のボード下の床面に窪みがあり、テントやタープくらいなら縦に収容できる空間がある。
装備としては最新式のため電子サイドブレーキが運転席中央に付くので、万一の時は助手席で車が止められる。

outdoorをイメージさせるネーミングとCM作りですが、荒れたキャンプ場など気を遣うので普通の乗用車と見るべきだろう。
クロススターは3ナンバー登録となり、その要因はフェンダー周りの樹脂ガードの影響だけで、室内的にはなんらメリットはない。

フリードクロススターHEV見積。(下取りはハスラー金額)
この車とにかく後付けするものが多く、それら部品代・取付工賃がプラスされるので合計金額は400万近くの車になる。
課長クラス対応の値引きは一声3万。
ここに先程のハスラー下取り50万が加わり、それでも330万の出費となる。
ハスラーは既に買い取り業者に71万で売却済みなので、デリカを下取りとした場合360万となる。

結論として価格に見合う程、外観・内装に優位さがなく、値引きも渋いので、しばらく待った方がいい。

現行シエンタは2022年のモデルチェンジ。
そろそろこなれて不具合は抽出された車と思われ、グレードは3グレードあり、上級グレードZ、G、Xがあり、街中でもよく見られ大半がZグレードのようだ。
我が家は中間グレードのG・HEVを候補にしています。
ZとGのどちらを選択するかは、外観のフロントのキラキラやテールランプのデザインを好むかどうかだと思います。
かみさんはそれら受け入れられないのでGグレードで交渉。
アルミホイールのデザインも好みでないのでノーマルホイールとした。

シエンタの良い点
セカンドシートがフラットに収納されるので凸凹は少ない事。
荷室は若干狭くなるが、全席と荷室に余裕があるので、その空間を板等で埋めれば就寝スペースが広がる。
全車は5ナンバー登録となります。

気になる点
前席のドア開閉ノブが使いづらそう、オプションのカーテンが後席以外マジックテープ。
サイドブレーキが今もフット式。
余程整備されたキャンプ場でなければ行けないかもしれない。
落石ゴロゴロの林道も相当気を遣いそうな車。

両車に通じるマイナスポイントがスペアタイヤなし、最低地上高が低い、あと2センチ高いと有難い。
評価できるのは、女性を対象とするためか両車ともに運転もしやすく、ハンドル操作はどちらも軽く、特にフリードは軽すぎる印象すらあった。
街乗りではなんら不満はないと思う。

結論として、マイチェンの噂もあり(その際電子サイドブレーキになるとも)、値引きもそこそこ期待できる。
拘りが無く二車を選択するなら、シエンタかと思います。

一方のシエンタは同じ内容を求めた場合、既に標準で付いているものもあり、取り付けるものは減る。
値引きは一声53000円、2年経過しているが強気の価格だ。
一般営業職の値引き枠上限は10万で線が引かれています。
見積当時の値引きが5万。
ここに同じデリカ下取り20万の相場価格が加わる事になり。
総額は約260万となる。
車両総額でフリードとはざっくり100万の差がある。

そうして見ると外観からクロススターにその差があるかと言えば、値段の割にチープに感じてしまうのは自分だけか。
値引きの渋いクロススターは今しばらく待った方がいいのかもしれない。
購入候補としてクロススターはここで対象外となり、シエンタ1本で交渉を行い、最終的に下取り値引き込みで50万を車両総額から割り引いてもらいシエンタG・HEVで契約しました。
因みに同クラスの中古車価格が250万前後なので頑張ってくれたと思います。

長年ノントラブルでどんなところでも連れて行ってくれたデリカ。
スタックする車を助けた台数は2台。
そんな相棒ともあと少しの付き合いとなり、20年の出来事が浮かんでくる。

納期は来年春、その間はデリカで野山に出かけられる。
本音はまだ〃乗りたいが、部品供給も難しくなり、長年乗るなと云わんばかり、ストックで買っておいたパーツを最後の御奉公で交換してやるかな。
今の税制や部品供給体制は長年乗らず、買い替えろと云わんばかり。
脱炭素・エコと称して大陸の安価なEVにまで補助金を垂れ流し買換えを促すが、EVはまだ未成熟。
車が変わると、キャンプや山岳路、雪道では意識を改めないと痛い目に遭いそうですが、20代から続いた4駆とオフロードも卒業する時がきた。

二回に別けて記載しましたが、この二車の新車を選択している方、愛車を手放す方、なにかの参考になれば幸いかと。

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豊田市浄水町「開豊神社」

豊田市浄水町原山『開豊神社・神風特別攻撃隊 草薙隊之碑・十三塚』
長いタイトルで恐縮です。
この神社は先に掲載した日守神社から、南に続く上り坂を上り切った右側の浄水町区民会館の東隣に鎮座する神社。
すぐ北側には愛知少年院があり、昭和37年のお助け地蔵復興を支援した。

神社は南を向いて鎮座し、石の明神鳥居と拝殿・覆屋が一続きとなったもので、境内右側には開拓碑や神風特別攻撃隊 草薙隊之碑と十三塚が立てられています。
近年境内整備・社殿改修されたものと見え、境内・社殿は至って綺麗な状態です。

明治頃の鎮座地は伊保川右岸の丘陵地で樹林や荒れ地ばかりの一帯で、民家や神社の記は見られません。
この地が開かれたのは昭和に入ってからのこと、そのきっかけになったのが、旧海軍名古屋航空隊伊保原飛行場建設により変貌がはじまり、終戦後飛行場用地は払下げ、戦後の食糧難を補うため開墾し農地に開拓されて来た町で、神社も飛行場の跡地に鎮座します。
神社の南側に東西に真っすぐに伸びる道路が滑走路の名残を留め、境内には巨大な砲弾や錨が置かれ、訪れる者に戦争の愚かさを伝えています。

社地に兵器が安置されているため、神社は戦争と関りがあるように見えますがそうではないようです。
愛知県神社庁西加茂郡誌、猿投町史など目を通すが社名はなく、開豊神社の創建時期、祭神について定かにならなかった。
戦争というより、「開豊」の名からこの地の開墾事業に伴い祀られた神社かと思われます。

社頭正面全景。

昭和44年寄進の鳥居に架かる額は「開豊神社」。

境内から見る社殿の全景。
参道左に手水鉢と一対の白い狛犬があり、入母屋妻入りの拝殿と切妻平入の覆屋が連なっています。

手水鉢と龍口。

拝殿前の狛犬は昭和44年に寄進されたもの。

平成29年(2017)の拝殿額。
戦後の昭和21年(1946)、この地に入植した人々により、伊勢神宮から分霊し伊保原神社を造営した事にはじまり、昭和44年(1949)に「開豊神社」に改称した神社のようです。
昭和44年の寄進物が多いのは改称時に合わせ寄進されたからでしょう。
額の平成29年は現社殿の改修年度かもしれない。

本殿は神明造で鰹木が6本、内削ぎ千木が付くもの。
祭神は天照大神と思われます。

かつて特攻機が飛び立っていった滑走路のあった社頭の眺め。

社頭右手の開拓碑。

碑文は以下。
「沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。
昭和21年7月多くの人達によって開拓事業が始められた。
 県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。
同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。
 この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。
鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。
 屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し26年漸く電灯がひかれた。
その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。
 30年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先、伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。
なお、33年和田ヶ池、36年愛知用水の完成により水田17ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。
 漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積170ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。
これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和46年12月吉日建立之  伊保原開拓農業協同組合

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑。
碑の前には日進日露戦争で活躍した巡洋艦三景の32㌢砲弾が置かれている。

砲弾の解説。

碑の傍らに名古屋海軍航空隊を語る碑が立っています。
「此の地は昭和17年4月1日開隊、昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり
昭和20年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 4月5日・12日の両日各20機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水一号二号四号作戦に参加
 同月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還28機、戦死56
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり 志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日 豊田海友会」

草薙隊之碑後方に置かれている錨と消火栓。

「特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。
特攻花は見ていました。
 みんな二十前後の元気な若者でした。
飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。
 今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 
慰霊50年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。
 和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。  平成七年四月 草薙隊之碑保存会」

因みにオオキンケイ菊とはこの花です。
堤防などで良く見られる花で、群落を作り綺麗いなものです、人の都合から法面緑化で植えられらながら、繁殖力が強いから特定外来生物だそうです、都合のいい話です。

右の五省の碑と十三塚の石碑。

「十三塚のいわれ
 室町時代末期のものと推定される
径4㍍程と1㍍程の大小13個の塚より
 ある先年其の内の一つから永正の頃と思われる
経筒を発掘した(郡誌)大正8年に銅経筒と仏光背一つが出土したという。」
発見された経筒はその後行方不明となったようですが、「猿投町史」か「豊田市史」に目を通していた際に白黒写真で紹介されていました。


開豊神社
創建 / 昭和21年(1946)
祭神 / 天照大神(推定)
境内社 / ・・・
所在地 / 豊田市浄水町原山
参拝日 / 2024/09/06
日守神社から車移動 / ​​​​​日守神社から車で南進・1.2分
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