補陀洛(ふだらく)山寺、熊野三所大神社

補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社

「神蔵神社」から補陀洛(ふだらく)山寺へは、国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下します。
那智勝浦ICで降りて県道46号線、43号線を経て補陀洛山寺に至ります、移動時間は20分程。

f:id:owari-nagoya55:20210410130137j:plain駐車場は県道43号線沿いの左側にあります。
正面の交差点を左右に横切るのは国道42号線。

f:id:owari-nagoya55:20210410130153j:plain補陀洛山寺
県道43号線沿いに寺務所と右手に本堂と熊野三所大神社が鎮座します。
訪れたのが2月21日、この時期には県道沿いの河津桜が見頃、この桜の樹のところから駐車場に入れます。駐車場からは補陀洛(ふだらく)山寺と隣接する熊野三所大神社へ参拝が可能です。

f:id:owari-nagoya55:20210410130210j:plain駐車場から高床で大きな向拝が付く宝形造の本堂まではすぐ目の前。
補陀洛山寺は仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。1808年(文化5)の台風により諸堂塔が被災、その後、仮本堂を経て1990年(平成2)に室町時代の高床式四方流宝型の様式で再建されたのが現在の姿。
この寺は平安時代から江戸時代にかけ、小船で観音浄土である補陀洛山を目指した補陀洛渡海で知られ、境内にはその際に使われた小舟「渡海船」が復元・展示されています。

f:id:owari-nagoya55:20210410130225j:plain本堂左側の建屋に朱の鳥居が付けられた小さな小舟「渡海船」が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210410130241j:plainこんな小さな小舟で遥か南方海上にあるとされた補陀洛浄土を目指す。

f:id:owari-nagoya55:20210410130257j:plain捨身行、それは自らの死を覚悟して旅立つ究極の修行のことで、9世紀から18世紀までの間にそうした補陀洛浄土を目指す修業が各地で行われたそうです。
ここ補陀洛山寺だけでも20数回も帰らぬ旅へと船出を試みたとされる。
那智山曼荼羅」に描かれた「渡海船」を基に復元されたこの船は全長は6㍍程、入母屋造の帆船で四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯の鳥居がある。
この小さな空間に30日分の水と食料を積み乗り込む、船室は外部から閉じられるため外に出て自ら漕ぐことすら出来ない、沖まで曳航されそこで引き紐を解かれ、二度と戻れぬ補陀洛浄土へ潮任せの旅に出る。

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補陀洛浄土を目指して船出した25名の上人の名とその年が刻まれた碑。
住職が還暦前後になると、周囲から捨身行を行わざるをえない雰囲気が作られていった様でもある。

f:id:owari-nagoya55:20210410130335j:plain本殿前の観音像の先にその碑は建っています。
後にこうした捨身行は僧侶の遺骸を乗せ極楽浄土に送る形態に姿を変えていったようですが、凡人からみるとこれはもはや修行ではない。

f:id:owari-nagoya55:20210410130351j:plain寺号の補陀洛とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」が語源とされる。
創建は仁徳天皇時代(313年~399年)とされる天台宗の寺で本尊は千手千眼観世音菩薩。

f:id:owari-nagoya55:20210410130407j:plain補陀洛山寺は那智の七本願(御前庵主、大禅院、瀧庵主、那智阿弥、妙法山阿弥陀寺、理性院、補陀洛山寺)の一寺。
本願とよばれる寺院があり、本宮庵主・新宮庵主の各1ヶ寺と那智山の7ヶ寺の9ヶ寺で社殿の修復・勧進を行ない浄財を募り隆盛を極めるが、明治政府の神仏分離により廃寺となった寺院も多いらしい。

f:id:owari-nagoya55:20210410130423j:plain本堂右から参道は熊野三所大神社へ続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210410130437j:plain熊野三所大神社
杮葺きの三間社流造で4本の鰹木と内削ぎの千木が施された素木の相殿。
古くから熊野那智大社末社として補陀洛(ふだらく)山寺と共に神仏習合の形態で濱ノ宮村の産土神として崇敬されていた。

社殿の創立は明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』では「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』では「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。
本社古伝に依ると「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」と記され、社殿造営は棟札によると慶安元年(1648)の再建と伝えられる。

熊野詣が盛んな頃は浜の宮王子や渚宮王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路伊勢路の分岐点として那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って身を清めたといわれています。
隣接する補陀洛山寺は浜の宮王子の守護寺としての位置付けだったようです。

明治政府の神仏分離により1873年村社となり熊野三所大神社と改めたのは明治末年の話らしい。
創建は欽明天皇治世(540年~571年)の頃とされ、祭神は夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神 を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210410130455j:plain本殿左右に石の社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210410130513j:plain本殿左の社は摂社の三狐神
食物の神を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210410130532j:plain社殿正面から全景。
三つの鈴紐は全て巻き上げられ、こうした絵も時代を象徴しているのかもしれない。
紐がおろされるのはいつのことやら。

f:id:owari-nagoya55:20210410131037j:plain静かに参拝。

f:id:owari-nagoya55:20210410131101j:plain熊野三所大神社由緒

f:id:owari-nagoya55:20210410131124j:plain夕陽が差し込む本殿と右の摂社。

f:id:owari-nagoya55:20210410131141j:plain左の三狐神と同様の石の社だ。

f:id:owari-nagoya55:20210410131159j:plainこちらは丹敷戸畔命
地主の神を祀る。
ここから本殿後方に回り込む事が出来ます。

f:id:owari-nagoya55:20210410131217j:plainちらちらと見えていたこの切妻の建物はよく分からない、宝物殿なのかもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20210410131233j:plain後方から本殿の眺め。

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本殿の先の神門から鳥居方向の境内へ、そこには複数の石標があり、上は摩利支天王の石碑と左が庚申塔
境内右に公園も併設され、子供達には憩いの場になっているようで、神門から境内にかけて多くの子供たちが元気にサッカーを楽しんていたので写真に納められなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210410131309j:plain渚の森の解説板
渚の森と呼ばれ古来和歌にもよく読まれた名勝の森で昔の面影は今はない。

f:id:owari-nagoya55:20210410131325j:plain解説板の左の木々に包まれた一画に「神武天皇頓宮跡」
神武天皇祭の興隆と共に大正期に建てられたものという、熊野と神武天皇と縁の深さがここにも表れている。

f:id:owari-nagoya55:20210410131347j:plain鳥居脇の大楠
樹齢は800年を超えると云われ、根元から二手に別れていることから「夫婦楠」とも。
とにかく見事な幹回り、枝の張りです、渚の森の名残を伝えるシンボルだろう。
楠はなァ、間違っても庭に植えてはいかん、いつ見てもそう思う。

f:id:owari-nagoya55:20210410131410j:plain熊野三所大神社鳥居から神門、本殿方向の境内の眺め。
広々とした明るい印象の境内は子供達も集まるはずだ。

f:id:owari-nagoya55:20210410131431j:plain鳥居右側に「浜の宮王子跡」の解説板と石碑。
解説内容は以下
藤原宗忠の日記、『中右記』天仁二年(1109)十月二十七日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀落浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。
平家物語』には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀落浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。
那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀落渡海の様子が描かれています。

また浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風習がありました。
連書とは、熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。
応永三十四年(1427)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意が記しています。
三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)と称しています。
なお、隣の補陀落山寺は、千手堂あるいは補陀落寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。』

f:id:owari-nagoya55:20210410131449j:plain鳥居から国道42号線方向に向かい大楠と境内を眺めた一枚。

これでも楠の全景は入らないか。

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そのまま今夜の車中泊予定の「道の駅 なち」を偵察。
平成22年にオープンした事もあり設備も綺麗で入浴施設や周囲に食事処も多く絶好のロケーション。
しかし待てヨ、あまりに国道に近すぎる、過去に夜中に長距離トラック近くに停車、一晩中エンジンがかけていて寝れなかった事を思い出す。
ここは湯もあり自分としては捨てがたい・・・・・もう一つの候補地に変更とした。

補陀洛(ふだらく)山寺
宗派 / 天台宗
創建 / 仁徳天皇時代(313年~399年)
本尊 / 千手千眼観世音菩薩
開山 / 裸形上人
所在地 / ​和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348

熊野三所大神社
創建 / 欽明天皇御代
祭神 / 夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神
境内社 / 三狐神、丹敷戸畔命

神倉神社から車アクセス / 「神蔵神社」から国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下、那智勝浦ICを降り県道46号線43号線経由、​補陀洛山寺まで20分程
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2021/02/21

知多四国霊場二十七番札所 『誓海寺』

以前掲載した知多郡美浜町古布『津島神社
知多半島道路を挟んで西側にあたる場所に鎮座するのが知多四国霊場二十七番札所の『誓海寺』。
今回の知多四国霊場のゴール。
まずは津島神社から知多半島道路の下をくぐり、最初に左に入る道が見つかれば迷うことなく曲がってください。
それ程広い道ではなく、何となく民家の庭先に出てしまいそうな道ですが「左です」。
後続車がいる場合は諦めUターンして再度チャレンジです。

f:id:owari-nagoya55:20210409074517j:plain 民家へ続くような細い道の突き当りに写真の山門が現れます。
車はこの右手の方に駐車スペースが確保されています。
入母屋瓦葺の二層の山門(鐘楼門)、上層から突き紐が垂れ下がっています。
なかなか鐘楼を突く機会はないものですが参拝者は自由に突いてもいいようです。

f:id:owari-nagoya55:20210409074549j:plain 天龍山の額。
この寺を印象付ける一番の建造物かもしれません。
曹洞宗の寺で、正式には天龍山誓海寺と称します。

f:id:owari-nagoya55:20210409074612j:plain 地味な外観ですが写真の様に木鼻には拘りを感じる飾りが施されています。

f:id:owari-nagoya55:20210409074645j:plain 山門右には金色に輝く観音像と左に千手観音が安置されています。
傍でよく見るとこの像はコンクリート像の様だ。
コンクリートというと最初に浅野祥雲が思い浮かぶけれど、作者はどうもおやじに馴染みのない作家の様だ。本堂へは左のスロープを登っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210409074708j:plain 参道脇には見事なみかんが身を付けていて、殺風景な2月の景観の中にあってこの色合いは鮮やか。

f:id:owari-nagoya55:20210409074730j:plain 直ぐに石段が現れ、右に納経所、本堂や開山所などの伽藍は石段の上になります。

f:id:owari-nagoya55:20210409074751j:plain 石段を登ると右が本堂、正面が弘法・愛染堂、左に開山所の配置。

f:id:owari-nagoya55:20210409074812j:plain 本堂は入母屋造りの瓦葺で向拝が付く。
見た目にはそれほど古さを感じさせないが、開創は古く1555年(弘治元年)と伝わるようで、南知多三十三観音三番札所「信渓山 全忠寺」の末寺にあたる。

「誓海寺」の名が示すように、もとはここから2㌔程東の海を望む場所に鎮座していた。
津島神社』の由緒にも記載されていたように、きっかけとなったのが1944年(昭和19)の海軍河和航空隊の建設、それに伴い周辺の住居と津島神社、「誓海寺」が移転を余儀なくされたという。
その移転先が現在の鎮座地のようだ。
山の傾斜を切り開き、敷地を造成、解体された建物を組み直したという事です。

f:id:owari-nagoya55:20210409074834j:plain 本堂の額「御本尊 釈迦牟尼仏 第二十七番札所」
「誓海寺」は知多四国霊場開山所、南知多三十三観音霊場5番札所でもある。 

f:id:owari-nagoya55:20210409074855j:plain 本堂前で参道は二手に分かれ、正面の弘法・愛染堂、左の開山所と続く。

f:id:owari-nagoya55:20210409074915j:plain 弘法・愛染堂。

f:id:owari-nagoya55:20210409074936j:plain 堂内は二間続きで左の間の中央の厨子愛染明王が祀られている。
縁結びにご利益があるようで未婚女性の方々、或いはその母親らに崇敬されているようで、境内に祀られる子安観音は良縁を得た女性が安産祈願に訪れるという。 

f:id:owari-nagoya55:20210409074958j:plain 右の間中央に弘法大師が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210409075018j:plain 堂内に四国巡礼、善光寺礼記念の奉納額。年代は読み取れないが色は鮮やかに残っています。

f:id:owari-nagoya55:20210409075049j:plain 左
禅林堂、額には「新四国開創 禅林堂」とある。
知多四国開山所で本尊は子安観音。

新四国開創の三人の祖の一人で岡戸半蔵を称えるための堂。
岡戸半蔵は1752年、知多郡福住村(阿久比町)で生まれた江戸時代後期の人物で、妻子に先立たれたの機に諸国巡礼の旅へ。
そこで妙楽寺住職の亮玄阿闍梨に出会い、霊場開創の思いに感銘、私財を投じて開創に尽力、後に出会う武田安兵衛らと共に現在の知多四国霊場の礎を築いた人物。1824年移転前の誓海寺禅林堂で亡くなる。

f:id:owari-nagoya55:20210409075118j:plain 中央左の供養塔は岡戸半蔵が1816年に建立した「乗妙典六十六部供養塔」、右が行者像は岡戸半蔵を模したものかも知れない。

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かつては海も見通せただろう誓海寺、戦争に翻弄されこの地に落ち着き、今では山寺の趣すら感じられる。

曹洞宗 天龍山 誓海寺』
開創 / 1555年(弘治元年)
本尊 /    釈迦如来
霊場 / 知多四国霊場二十七番札所、知多四国霊場開山所、南知多三十三観音霊場五番札所
所在地 /  ​知多郡美浜町古布善切20-63 ​ 
『知多四国開山所 禅林堂』
本尊 /    子安観音

関連記事 / 『十二神社・山之神社・北方稲荷社』​  ​『津島神社』​ 
車アクセス / ​津島神社から県道279号線で知多半島自動車道の高架をくぐり左折

納経印
因みにこちらの御朱印は絵が描かれ、その筋の方には好評の様です。
かみさん、あれだけ集めながら最近は冷めたのか頂かなかったようだ。
誓海寺HP

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「白美龍神(羽白美衣龍神)」

牧野ヶ池緑地
名古屋市名東区にある牧野池を中心に緑地と公園があり、近隣住民の憩いの場にもなっています。

f:id:owari-nagoya55:20210406150905j:plainこの時期は園内の桜は美しい時期を迎え、竹の小径も散策するには良いところです。

f:id:owari-nagoya55:20210406150927j:plain上は緑地の案内図。
緑地西側は国道302号線が伸び、国道から容易に駐車場にアクセスでき、利便性もいい。
この緑地の南側はゴルフコースが隣接し、境界となっていて「白美龍神(羽白美衣龍神)」は眼下に五合上池が良く望められる高台に鎮座しています。
グーグルマップの羽白美衣龍神の位置は信用しない方がいいでしょう、もう携帯は電源OFFです。
これ脇参道です(でした)。
駐車場から真っすぐ南のグランウンド方向に向かい。そこから左に進む石段と森に続く怪しい小道

f:id:owari-nagoya55:20210406150956j:plainそこから先は何か出そうな鬱蒼とした山に続いています。
こんな道に敢えて立ち入る動機は入口に立つ白い幟、それが目的地に導いてくれるはず。

f:id:owari-nagoya55:20210406151016j:plain参道(山道)脇に咲くスミレの花。
周辺には山つつじの紫も彩りを添えてくれている。
それでも何かが出そうな予感に変わりはない、ウリ坊?はたまた長いもの?

f:id:owari-nagoya55:20210406151036j:plain山道を5分程登ると参道は三叉路となり右に導く表示板がある、それを信じ右に進みます。
右です。
前日の雨で粘土質の地面は滑りやすく、この辺りはぬかるんでいました。

f:id:owari-nagoya55:20210406151100j:plain右に進むと尾根道に変り南へ続きます。
この時期なので森は木漏れ日が射し明るいので心強い。

f:id:owari-nagoya55:20210406151123j:plain入口から10分程で尾根道は先が開け視界が広がる。
その先の陽射しに照らされた開けた空間が現れ、鳥居と社殿が見えてきます。
「白美龍神(羽白美衣龍神)」到着です。

f:id:owari-nagoya55:20210406151145j:plain境内全景。
社殿の前に山桜の古木があり、訪れた頃は少し遅めですが白い花を付けていました。
境内には幟が立ち、この左手にはゴルフコースも広がり、ウリ坊?長いもの?なにそれ。
ここまでの心細い道のりから一気に解放されるような気がします。

f:id:owari-nagoya55:20210406151206j:plain社殿全景。
一段高い位置に一間流造のしっかり作られた社が鎮座しています。
グーグルマップの羽白美衣龍神や白美龍神はここの事です。
何故にスポットとして何カ所も現れるのか、元は白美龍神遷座50年で改修された際に、羽白美衣龍神に改称したもので、一社しか存在しません。
スポット登録時の呼称や登録位置のズレから二社あるような表示として現れているのでは?
紛らわしいのでそうした理由から携帯の電源はOFFしました。

f:id:owari-nagoya55:20210406151229j:plain社殿にはいろいろなものが祀られています。
その前に参拝を済ませます。

f:id:owari-nagoya55:20210406151249j:plain社殿上部に掲げられている長いものの抜け殻。
以前はこの殻を財布に入れておくと金運が良いと云われ入れていた事があった。
それが効果がなく結局自分次第なのねと悟ってからは抜け殻に有難さを感じなくなった。
世の中そんなに甘くはないものだ。
二つの抜け殻がありますが右側の抜け殻は妙に白い。

下は由緒、その他に新聞の切り抜きが掲示されています。
ゴルフコース建設のためこの森を拓いていた際、森の中にある池の水面を泳ぐ大きな白蛇を多くの方が目撃した、人々は恐怖に慄き白蛇(龍神)を鎮めるために祀ったのがこの神社の始まり。
創建年は1953年(昭和28)、龍神信仰の始まりです。
ただこの発端は大勢の人が同時に目撃している事、新聞にも取り上げられている事から、何か長いもの(飼育しきれなくなったペット?)、あるいは正に龍神だったかもしれない、なにかかいた事は事実だと思います。

f:id:owari-nagoya55:20210406151316j:plainほら、ここにもいます。
軽石です、個人的にはこの形態の重軽石は試さない事にしています。

f:id:owari-nagoya55:20210406151339j:plain
軽石の占い方、アルコールも用意されています。

毎月巳の日にお金がらみの願い事をすると使いの蛇が弁財天に願いを届けてくれると云う。

f:id:owari-nagoya55:20210406151406j:plain社殿西側からの眺め。
社殿は五合上池方向を向き鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210406151428j:plain少し離れて境内全景。
右の桜は新緑が眩しく、名残の花も付けていた、今は明るい境内です。

f:id:owari-nagoya55:20210406151451j:plain境内から南を眺めると正面に五合上池が見える、ここの水面を何かが泳いでいった。
森の守り神の大蛇はゴルフ場造営にともない新たな居場所を求め立ち去ったか?
或いは今もこの杜のどこかに潜んでいるのか?不思議な空間がここにある。
今にも手前の斜面から社に戻ってくる大きな大蛇が現れそうな。

f:id:owari-nagoya55:20210406151516j:plain森の守り神の龍神を参拝し来た道を戻る事に、粘土質の参道は滑りやすい、気を抜かず戻る事にします。
帰りは例の三叉路を真っすぐに進むことにします。

f:id:owari-nagoya55:20210406151541j:plain尾根道を進み三叉路を真っすぐに進む、やがて下りとなり遥か先に明るい下界と手前に鳥居が見えてきた。
鳥居はないものだと思い込んでいたけれど、どうやらこちらが正参道。
全く逆から参道を進んできたようです。
こちらから参拝に向かえば多少足元はしっかりしている気がします。
鳥居へは駐車場から「わいわい広場」方向に舗装された歩道を進めば、この鳥居と山の中に続く参道が視界に入るはずです。

「白美龍神(羽白美衣龍神)」
創建 /    1953年(昭和28)、2003年(平成15)遷座50周年に合わせ建て替え。
祭神 / 不明
所在地 / ​名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中
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稲置街道 羽黒八幡宮・八幡林古戦場跡

「羽黒新田の観音堂」 から羽黒八幡宮(八幡林古戦場跡)を目指し稲置街道を歩いて北上。

f:id:owari-nagoya55:20210405105915j:plain五条川沿いの「尾北自然歩道」を遡りそこから羽黒小学校東側を南下すると左に杜が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210405105935j:plain稲置街道から東に曲がりそびれ、五条川まで来てしまい遠回りしたけれど、なんとか目的地の「羽黒八幡宮」到着。

f:id:owari-nagoya55:20210405110128j:plain羽黒小学校東側の通りから見る杜、この杜の東は名鉄小牧線が南北に伸びています。
神社の入り口は通りに拝殿に繋がる脇参道がありますが、もう少し南側から左に入ると常夜灯のある参道が現れます。
鳥居を構えるわけでもなく、参道の南側は住宅地が有りそこで遮断されています。
以前は更に南に参道は伸びていた様子。

f:id:owari-nagoya55:20210405110151j:plain常夜灯から境内の眺め
正面に蕃塀があり、拝殿、本殿、拝殿右側に石の鳥居が見て取れる。
蕃塀の先の左に手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20210405110211j:plain拝殿全景。
切妻の瓦葺で四方吹き抜けの拝殿です。

f:id:owari-nagoya55:20210405110232j:plain本殿全景。
7本の鰹木と外削ぎの千木の本殿、本殿域は鉄の柵と鉄の鳥居で囲われている。
祭神は品陀和気命(応神天皇)
創建はよく分からない、現在は羽黒八幡宮と呼ばれるようですが、以前は羽黒成海神社と称し鳥鳴海神を祭祀していたようで、経緯の詳細もよく分からなかった。
市の情報では現在は羽黒八幡宮、祭神は応神天皇とある。

f:id:owari-nagoya55:20210405110256j:plain拝殿右の石鳥居は忠魂社のもの。
今日の平和への感謝を伝える場。
きな臭い状況なってきた今、平和が当たり前で緊張感や危機意識があまり感じられない昨今をどう感じているだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210405110318j:plain拝殿左から神社後方の全景。
杜は杉を主として広葉樹の混じる。
「羽黒八幡宮」の辺り一帯は1584年(天正12)、北から攻める豊臣秀吉と南から受けて立つ徳川家康織田信雄が一戦を交えた八幡林古戦場跡。
この戦いは小牧・長久手の合戦の前哨戦ともいえ、秀吉側の森長可と家康側の酒井忠次らの刃を交え、負け戦となった長可を逃がすため犠牲となった野呂助左衛門の供養塔「野呂塚」が残る。

f:id:owari-nagoya55:20210405110339j:plain杜の北外れに掲げられている古戦場の解説板。
野呂塚はここから名鉄小牧線歩行者用踏切を渡ると慰霊碑が建てらられています。

f:id:owari-nagoya55:20210405110403j:plain羽黒八幡宮から来た道を戻り、五条川を渡り羽黒駅方向へ
街並みに一際目を引く古い建物があり足を止める。
1907年頃の旧加茂郡銀行羽黒支店で現在の県道27号線沿いに建っていたものをここに復元移築されたもの。
当時の日本の様式に西洋の香りを織り交ぜた「擬洋風」と呼ばれる様式。
洋の香りを漂わせながら唐破風が施された姿はどことなく銭湯をイメージさせる。
名古屋では随分解体され姿が少なくなってしまった佇まいですが、時を経て逆に斬新にも思える。
何でもそうかもしれないけれど流行は巡っている。
古いものは煙たがられ取り壊し、新しいものに姿を変える、日本でよくある流れだ。
こうして残したマインドに救いを感じる。

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加茂郡銀行羽黒支店復元施設前の解説板。
支店は東濃銀行、大垣共立銀行羽黒支店を経て1930年に廃止。
その後個人住宅として購入され「愛北病院羽黒診療所」として利用されるが解体の必要性が迫っていたのを機に犬山市の羽黒まちづくり拠点施設としてここに移築・復元された施設。
2013年有形文化財に登録された。
現在は「小弓の庄」として羽黒地域の街づくりの拠点として利用されています。
漆喰の白い外観は洋、唐破風の飾りなどは和そのものです。

羽黒周辺の案内図。

f:id:owari-nagoya55:20210405110515j:plain小弓の庄から目と鼻の先の羽黒駅
駅前の某コンビニの裏手で見かけた小社。
かみさんは足を止める事無く快調に歩いて行く、置いて行かれるぞ。
ここは詳細不明です。

「羽黒八幡宮
創建 / 不明
祭神 / ​応神天皇
所在地 / 犬山市羽黒八幡東3 
公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「羽黒」降車し南へ、五条川を越え工程10分程
羽黒観音堂➡羽黒八幡宮徒歩ルート / ​稲置街道を北上徒歩約10分


小弓の庄
所在地 / 犬山市羽黒古市場5
小社
所在地 / 犬山市羽黒古市場7
羽黒八幡宮➡小弓の庄➡小社 徒歩ルート / ​徒歩約10分

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owari-nagoya55.hatenablog.com

五条川の桜

0404五条川の桜
随分川面がピンク色に染まり始めまています
その後ほぼ一日中雨が降り続く

f:id:owari-nagoya55:20210405082310j:plain今日はいい天気、しかし風が強い
今頃川面はピンクに染まっているかもしれない、季節は動いている

・・・今朝の地震、嫌な感じ、あっちこっちが動いている

あの日の首里城の姿が蘇る

失くしたと思っていた沖縄のデータが見つかった 

2019/10/31 、 沖縄県民の象徴ともいえる首里城、その正殿、北殿、南殿が焼け落ちるというTVの映像は今も記憶に新しいところ。
県民のみならず、訪れた事のある本土の者からしてあの映像は衝撃と悲しみしかなかった。
あの時以来、焼失前の首里城の写真を探していたりしたけれど、自分のデータを探すのを諦めていたら見つかった。
しかも子供らに渡していたカメラの映像だ。
人様にお見せできるようなものでもなく、「何これ?」と思う画像ばかり。
その中に彼らなりに焼失前の首里城を見て感銘を受け、画像として捉えたデータが残っていた。
焼失前、観光客で賑わう当時の画像を見ていてとても懐かしく思えた。 
COVIDなんちゃらと云う得体の知れないものが訪れる以前だ。
早いもので、あれから10年が過ぎているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210404140541j:plain

 焼失以降、今も着々と復旧に向け工事は進んでいる。
この復旧費用の極々僅かながら、復旧の支援に役立ったと思うと嬉しいものがある。
当時を思えば、10年後にこんな世の中になるとは誰も思ってはいなかっただろう。
ましてや焼失するとは、このデータが出てきて妙にうれしい気持ちになった。
我家の中の首里城はいつでもあの日のままだ。
おやじの画像は何処に行った事やら、それにしても子供の視点は面白いものです。

滋賀県長浜市 長浜城の桜

滋賀県長浜市 長浜城(長浜城歴史博物館)

今年も息子から地元長浜の桜の写真が送られてきました。
長浜の開花は名古屋がピークを越えた頃が見頃になる印象があります。
下は長浜城豊公園の桜。

f:id:owari-nagoya55:20210402194804j:plain琵琶湖東の湖畔に建つこの御城、1983年に犬山城伏見城のデザインを基に模擬復元されたもので、中は長浜城歴史博物館になっています。
個人的には長浜の景観に佇む城、その姿を楽しむところ。
琵琶湖を高い位置から眺めるにはいいかもしれません。
秀吉が初めて築城した城は出世城と呼ばれる様ですが、1615年(元和元年)に廃城、石垣などが遺構として残る。桜と城もなかなか見応えのあるものです。

所在地 / ​滋賀県長浜市公園町10-10