八事興正寺マルシェと覚王山日泰寺縁日

風は強かったが晴天の今日
21日は八事マルシェの開催日
かみさんから「興正寺マルシェに行こう」とお誘い
実に珍しい
目的を聞けば「食べたいカレー」があるとの事、やはりそこか

歩いていないし、歩きで八事興正寺マルシェ行ってみよう、となった。

f:id:owari-nagoya55:20220121223629j:plain自宅から東部丘陵地の地味に続く上り下りをなんやかんやで1時間八事興正寺に到着。
マンボウ初日で人はいないと思いきや、意外に人の多い事。
出店数はかなり少ない様でした。

本来なら興正寺入口から本堂までの参道はアクセサリーやインテリア、キッチンカーに地域の特産物の店が並ぶ。

随分歯抜けが目立った。
かみさんが目指すカレーのキッチンカーは山門辺りに出店している、はずだった。
カレーがない!

f:id:owari-nagoya55:20220121223652j:plain山門をくぐり五重塔周辺も見て廻るが目指すキッチンカーはなかった。
WEBで調べて見れば「本日出店取りやめ」…とな
到着した12時には既に売り切った店は帰り支度、風も強くお参りして後にする。

納得できないのか今度は「日泰寺行ってみよう」という事になった。
開催しているかも確認せず地下鉄で覚王山に向かう。
マンボウ初日だよ、期待はしていなかった。

f:id:owari-nagoya55:20220121223713j:plain地上に出れば日泰寺参道には多くの人で賑わっていた。
露店は少ないようですが、地元の野菜やら日用雑貨、衣類、海産物などの店が開き多くの買い物客で賑わっていた。
それでも本来の縁日に比べれば半分くらいの人出。
月に一度の「覚王山四国八十八箇所巡り」や「もてなし処」も感染防止対策をして開かれていた。

f:id:owari-nagoya55:20220121223735j:plain随分ご無沙汰していた日泰寺
以前は21日しか開かなかった山門前の千躰地蔵堂など改修されていて驚いた。
やけに小奇麗になってるなとは感じましたが、堂入口に自動扉が付き常時開放されている様子。
堂内も明るく綺麗になり、安置されている地蔵さんの表情も良く見えるようになった。
ついでに鉈薬師(なたやくし)もよって見るかと思いましたが強風と寒さから断念。
そういえば昼ご飯…、歩くのやめると寒いし風がある、結局ここでも食べる事もなく参道を後にする。
歩きながら昼に何を食べるか話し合う。
ここまで来たら一山超えて千種区の「四川閣」で担々麺食べようとなり、再び歩き出す。
四川閣の担々麺はいつも五辛どまり。
店主には「五辛と六辛全然違う大丈夫?」といつも脅かされて手が出せなかった。
今日の寒さなら六辛いけるかも、という事で初めて六辛に挑んでみた。

f:id:owari-nagoya55:20220121223758j:plainランチ850円
六辛を頼むと例によって「六辛全然違う大丈夫?」と聞かれる。
「大丈夫」です、しばし待って出て来た六辛。
色は多少赤いような気がするが、恐る恐る麺をすすってみればむせる事無く食べれる。
大した事はない、七辛から50円増しになるので七辛以上が危険ゾーンなのかもしれない。
これ以上になると間違いなく担々麺の風味はなくなるかもしれない。
寒い日には六辛は体も温まっていけそうだ、ただし寒い時に食べると鼻水が出るのはおやじだけか?

カレーが担々麺に化けてしまったが体はポカポカ、これで再び歩いて帰る事に。
本日の総歩行数は17000歩あった。
一歩70㌢として…たくさん歩けた。
自宅に戻り鉈薬師(なたやくし)調べて見れば今日は閉じていたそうだ。
また明日からは家でDIYをやっておとなしくしていよう。
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常滑市 『神護山 相持院』知多四国六十五番札所

相持院(そうじいん)
常滑市千代丘にある曹洞宗の寺。

f:id:owari-nagoya55:20220120114401j:plain大善院から北に続いた平坦な尾根が下り始めると、その先に見える丘が相持院の杜。
参道入口の大きな看板は目印になるでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20220120114424j:plain石段右側に知多四国六十五番札所の石標があり、そこから石段が続きます。
「石段はちょっと遠慮したい」そうした方は左の坂を上る事で本堂に辿り着けます。
20段ほどの石段の先にどっしりとした佇まいで唐破風の付いた四足門の山門が聳えている。
訪れた時期は11月20日、紅葉は早く彩りは今一つ、山門周辺には桜の樹があり、花の時期の山門は別の表情を見せてくれるのでは。

f:id:owari-nagoya55:20220120114443j:plainこの山門がなかなかのもの、彫飾りに手が掛けられていて作り手の気合のようなものが感じられる。
木鼻の飾りや龍の透かし彫りがそこかしこに彫られ、枓栱も見応えある門。

f:id:owari-nagoya55:20220120114503j:plain門の建築時期は古くはないようですが、山門には躍動感あふれる龍が迎えてくれる。
作者までは分からないが足を止め見上げてみるのもいいだろう。

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門から先は再び石段が続く、途中までは数えてみたが…50段はあったような。
山門扉に紋があつらえてあるが、りんどうくるまのようですが中央に二の文字が入り馴染みのない紋。

f:id:owari-nagoya55:20220120114623j:plain境内右手の手水鉢、立派な龍はいるものの、今一つ勢いはない。

f:id:owari-nagoya55:20220120182240j:plain正面が本堂で大きな香炉が印象に残る。
本堂右手に水子地蔵尊を挟む様に願掛六地蔵尊が横一列に祀られています。
それぞれの像には悟りを開き成熟していくうえで実践すべき、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの戒めが彫られている。

「延命の鐘」
100円で突くことが出来、一突きすると寿命が延びるそうだ。
吊られている梵鐘は知多半島でも最大級の大きさを誇るそうです。

f:id:owari-nagoya55:20220120182303j:plain本堂。
本堂に続く石段の中ほどに小さな陶製の狛犬が守護していますが色黒なので存在感がない。

石段左側の木陰に弘法大師像が安置されている。
願掛六地蔵尊、中央の立像が水子地蔵尊

f:id:owari-nagoya55:20220120182345j:plain寺に狛犬…?もとは仏教と共に大陸から伝わったもの、寺にだってこうして生息している。
色黒の狛犬は耳が垂れ、立派な口髭を蓄え、鋭い牙を持つ、凛々しいと云うより可愛い狛犬
御影石の冷たい質感に対し、陶製の色合いや質感は温もりがある。

f:id:owari-nagoya55:20220120182412j:plain香炉
立派な香炉だ、ここにも竜胆車の紋が入る。
両脇には阿吽の龍と中央に大きく口を開けた狛犬がこちらを睨んでいる。
納経所はこの右手になります。

堂内
本尊は1336年~1392年頃に作られたとされる延命地蔵尊。

常滑観光協会の相持院解説は以下として紹介されていました。
「当院は、草創は不詳だが、南北朝(1336年~1392年)の頃と思われる。
伊勢神宮の神宮寺である世義寺(せぎじ)の所領が、当地・世儀であった事から伊勢神宮の内宮・外宮の祭神を祭る神宮社(常滑市栄町)に付属して明治初年まで存続した。

当初は真言宗醍醐寺三宝院に属していたが、戦国期・永禄3年(1560年)に曹洞宗・天沢院(常滑市山方)の末寺となった。

明治初年、神明社と分離した後、隣寺・宝全寺(64番)と合併し跡地は学校として使われた。

明治35年、宝全寺から独立、三度の境内地の変還を経て、昭和23年(1948年)以降、現在地に移転する。
以降、本堂・鐘楼・山門等を整備した。
就中、鐘楼は北叡山の鐘楼をモデルに建立した。
梵鐘は、今なお知多半島随一の大きさである(1.99t)。

春は桜やサツキ、夏は緑陰、秋は紅葉と、移り変わる景観の中、柴山清風氏や片岡静観氏等の陶彫が境内に安置され陶都の趣を醸し出している。

毎年、二月第一日曜・午後二時半より、節分大般若会(せつぶんだいはんにゃえ)を修行。
厄難消滅、開運招福の御祈祷を行っている。」
とあった。
1903年(明治36)静岡県榛原郡の「西光寺」から寺号を譲り受け再興、その際札所も復活。
1921年(大正10)「相持院」へ改称されたようです。
その後は解説にあった1948年(昭和23)以降に現在地に移転したようです。
山門はじめ鐘楼など新しく見えるのはそうした経緯からの様です。

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堂内左手に弘法大師像と聖観音像を安置。
本尊の前の陶製狛犬は全身白、鬣は金色で背筋を伸ばした凛々しい姿。

f:id:owari-nagoya55:20220120182524j:plain本堂左の稲荷社。
創建等の詳細は不明、二対の狐達も陶製だ。

稲荷社の西の路と相持院の境内は常滑「やきもの散歩道」のBコースに含まれることから、参拝目的以外に境内を訪れる人と出逢います。
レトロ感漂う常滑の町は映画(20世紀少年)のロケ地になり、相持院山門石段付近でも撮影され映画を見た者の聖地巡礼の場になっているようです。

ここから「やきもの散歩道」を歩き常滑中心街に入っていきます。

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2021/11/20

知多四国六十五番札所
曹洞宗 神護山 相持院
開創 / 不明
開山 / 興覚法印 
開基 / 養春上人
本尊 / 延命地蔵大菩薩
札所 / 知多四国霊場65番、常滑郷廿一大師17番、南知多七福神(布袋尊)、くるま六地蔵4番
所在地 / 常滑市千代丘4-66
大善院から徒歩ルート / ​北に10分前後​
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『甲城山 常福院』半田市岩滑中町

半田市岩滑中町「岩滑 八幡社」境内から西側に続く細い路地を1~2分程進む、右手に石垣が積まれ上には黒い簓子壁が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20220118170555j:plain壁が途切れ右側の視界が広がると正面に常福院本堂が現れます。
左に「西山浄土宗 甲城山 常福院」の寺号標が立っている。

f:id:owari-nagoya55:20220118170618j:plain境内左に「南吉のふるさと 常福院」解説。
こちらの寺もまた新美南吉と所縁があり、幼少期の南吉の遊び場だったようです。
境内で催される盆踊りで踊ったりしたなじみ深い寺だそうです。
本堂の北側は藪で、そこに棲む狸の親子を題材にして童話「ひよりげた」が生まれた。
現在も本堂の裏は鬱蒼とした藪が残り名残を留めています。

f:id:owari-nagoya55:20220118170641j:plain常福院は、永禄年間(1558~70)、家康の叔父で岩滑城主の中山勝時によって創建。
浄土宗西山派の寺院で山号は甲城山と号し、境内、西側一帯が岩滑城址だったという。
道沿いに続く石垣は周囲に対し明らかに高く、その上に築かれた境内が嘗て城だったと聞くとそんな雰囲気が漂ってくる。

上の写真では切れてしまいましたが、本堂右に複数の大きなソテツが植えられています、それは中山家の家老により植えられたものと云われ、市の天然記念物に指定されているそうです。
ソテツは寺の庭園で良く見かけると思います、個人的に和の庭に南国情緒満載のソテツはずっと違和感を感じ、ついつい切ってしまった、そんな年代に植えられたものだったとは。
そもそも蘇鉄が植えられ始めたのは室町時代のようで、江戸時代にはそれを庭に植えるのがトレンドとなったようです。 違和感あるなぁとずっと思っていたが、古くからの流行だったのか、見方を変えよう。


さて本堂は瓦葺の入母屋造りの平入で大きな向拝が付く。
本尊は阿弥陀如来で四国直伝弘法大師の23番札所になっている。

f:id:owari-nagoya55:20220118170712j:plain境内左に小さな堂と地蔵が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20220118170738j:plain絶妙に石を組み上げて造られた小さな祠、安置されているのは役行者だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20220118170803j:plainこちらは六地蔵
ゴールの矢勝川を目の前に気持ちが途切れたのか、見逃したところの多い常福院だ。

JR亀崎駅から13㌔程、当初は軽い足取りだった二人も疲労が足に来ている、体が鈍ってるのを実感する。

f:id:owari-nagoya55:20220118170826j:plain2021/9/24の矢勝川彼岸花
この時期では花のピークも過ぎているようです。
疲れもピークとなり新美南吉記念館で靴を脱いでじっくり休憩を取り家路に着く。
巣籠生活が体に及ぼす影響は、体力の衰えとして深刻な影響を与えているのを痛感した13㌔だった。
気兼ねなく出歩ける日が早く訪れて欲しいものです。

甲城山 常福院
宗派 / 西山浄土宗
創建 / 永禄年間(1558~70)
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 愛知県半田市岩滑中町7-23
岩滑八幡社から徒歩ルート / ​境内西側より徒歩1~2分
JR亀崎駅名鉄河和線半田口駅 / ​当日徒歩ルート
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「國朝天女稲荷」「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」兵庫県豊岡市出石町

但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。

兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。
現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。
出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。
町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。

それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。
見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。

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上は出石城下の解説板、今回歩いたルートは点線部分。
出石町は但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍が垂仁天皇3年(BC27年)に渡来、但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。
古事記」「日本書紀」にも記される程の歴史のある町。
但馬文化発祥の地として、山名宗全一族の本拠地として二百年間の繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として繁華を極めました。
二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河の佇まいなど、 出石が但馬の小京都と呼ばれる由縁」

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出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。

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出石町のシンボル「辰鼓楼」
出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。
1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。

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八木通りを東から西方向に眺める。
出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。
写真右手に鳥居が見えます。

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社頭全景。

明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。

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社頭正面。
鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。
左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。

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社頭の解説板、祇園社由緒。
祇園さんは八坂神社の旧称。
祭神は建速須佐之男命である。
朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。
相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。
1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。
火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。
また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」
とある。

出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。
一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。
明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。
神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。

こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。
八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。
そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。

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鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。
幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。

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鞘堂前の狛犬
解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。
小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。

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境内から見る「祇園さん」の眺め。
切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。
創建等は不明。
祭神は建速須佐之男命
相殿神は袴幡千々姫命。
再建は1917年(大正6)
但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。

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境内左の祠。
祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。

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中には色が塗られた4体の石像が安置されています。
何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。
八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。
この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。
観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。
そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。

「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)
創建 / 不明
再建 / 1917年(大正6)
相殿神 / 袴幡千々姫命
例祭 / 7月9日

 

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祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。
その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。

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民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。
鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。

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狐の姿は微塵もないが稲荷社か?
台座に由緒が掲げられている。

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國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)
明治9年、出石に大火がありました。
約千軒が焼失しています。
それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)
現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。
この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。
祭礼は毎年十一月一五日」

明治の出石大火はここにも語り継がれていました。
この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。
稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。
出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。
祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。
女狐にお逢いしたかった。
城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。
二度と大火は起こさない。
但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。

現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。
辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。
そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。

國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)

創建 / 不明
再建 / 不明
祭神 / 不明
例祭 / 11月15日
所在地 / ​兵庫県豊岡市出石町魚屋53

2021/10/26

出石神社から出石市営西の丸駐車場 / 兵庫県豊岡市 出石町小人129-19

駐車場から祇園さん➡國朝天女稲荷 / ​徒歩10分程


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日出(ひので)神社

2022/1/9 今年の主要な課題でもある「積極的ボランティア参加」
最初のイベント説明会を聞きに白川公園付近を訪れました。
説明会終了後、白川公園南側の若宮大通り沿いを歩き「日出(ひので)神社」の前を通りがかり参拝してきました。

f:id:owari-nagoya55:20220113190015j:plain日頃から車で通りがかる事も多く「ここにも神社があるな」とは思いつつ、なかなか車では訪れにくい場所。

f:id:owari-nagoya55:20220114084111j:plain若宮大通沿いから見る社頭。
いかにも街中の神社。
幾度となく車窓からこの神明鳥居を眺めて来たが、意図したわけでもなく訪れる機会を得た。
ずっとこちらが正参道と信じ込んできたが、訪れて初めて知ったが正参道は東側にあり、車窓から見えていたこちらは脇参道だった。
鳥居右に社標が立っています、歩道を行き交う人はとっても多いが神社を訪れる姿は皆無だった。

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脇参道から境内へ、右手に手水舎、社殿。
北側以外の周囲はビルが取り囲み、この一画だけが時間の流れから取り残された様だ。
神域に聳える巨大な銀杏の樹がその歴史を語っているよう。
この神社が鎮座する場所は、遥か昔の5世紀から6世紀頃の古墳時代に築かれた古墳「日出神社古墳」の上に鎮座しています。
社殿はこんもりと盛られた高みに鎮座し、今の姿から形状は丸い形の円墳の様に見えますが、実は前方後円墳の後円部だといいます。
神社が鎮座するお陰で神域部分の後円部は開発を免れたようです。
発掘調査もされていないようで、教育委員会の解説も掲げられていなかった。

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社殿正面全景。
左右の燈籠は1880年(明治13)に寄進されたもので、柔らかい曲線を描く竿が印象的。
鳥居は神明鳥居で鳥居後方の左右に旧社標が残されています。
右に神明社、左に愛宕神社といろいろな事情がありそうだ。
境内から拝殿周囲に回り込めず本殿を見ることが出来なかったが、拝殿をこうして見ると後円部の高さがよく分かります。

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拝所から見上げる社殿。
古墳の上に神社が鎮座する姿は特に珍しいものではない。
個人的にそれらは代々語り継がれた伝承などから意図して建てたもので、「ここが高いぞ、ここに決めた」的な安直な考えで動くのはおやじくらいなもの…と思いたい。
この古墳を守るように鎮座する「日出神社」、その創建がいつ頃か気になるところ。

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拝殿は切妻平入で手前に狛犬が守護し、拝殿の額は「日出神社」と記されている。
石段に続く扉が閉ざされ狛犬の表情などこれ以上寄れなかったが、狛犬の視線は空に向けられているようにも見える。

社頭の由緒書きには「もとは愛宕社と称し、1879年(明治12)に日出町38番に鎮座した神明社(旧称天道宮)及び境内の宗像社、白髭社、香良須社合殿の二社を合祀し日出神社に改めた」とあった。
更に愛宕神社神明社(旧称天道宮)は清州(朝日)から遷座したものだと云う。
時期は1610年(慶長15)、家康による清州越しだ。
清州越し以前の古墳があるこの地は?となると由緒には記されていない。
尾張史や尾張名所図会など目を通して見るも由緒にある「清州越し」に結びつく記述は見つからなかった。清州越し以前の古墳の状況は分からない。
ただ言えるのは、変貌著しい激変の時代から古墳を守ってきたのがこの神社なのは間違いない。

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境内左が社務所、こんもりの上の拝殿も十分高いが、境内の樹々は周辺のビルに引けを取らない。
日出神社の社殿は1909年(明治42)に改修され、1945年(昭和20)空襲により焼失。
1959年(昭和34)に本殿、1970年(昭和45)に拝殿が復興されたもの。
境内の燈籠や正参道の狛犬などは空襲を掻い潜ってきた戦争の目撃者と云う事だ。

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こちらに遷座した頃の愛宕神社の祭神は「愛宕大権現」、それもあの神仏分離により、祭神を「軻具突知命」としています。
正参道を守護する狛犬は1922年(大正11)に寄進されたもの、びっくり眼でふくよかな容姿は可愛いものがある。
可愛い彼らもここで空襲を実際に経験している、燈籠もそうだったが一部にすすのような黒ずみが見える。
欠損はないものの、人の愚かさとそれがもたらす悲惨な結果に驚きを隠せない、そんな眼をしているように見えてならない。
境内に「國威宣揚」の石柱もあるが敢えてここには載せません。
そうしたものを立てなくてもいい世界でいてほしい、黒ずんだ狛犬は何かを訴えている。

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正参道入口の由緒書き。
「祭神 軻遇突智命天照大御神、月夜見命、宗像大神、猿田彦命、稚日女命
由緒 本神社はもと愛宕社と称し、明治12年日出町鎮座の神明社(旧称天道宮)及び同一境内宗像社、白髭社、香良須社合殿の二社を合祀して日出神社と改めた。
愛宕神社は天道宮と共に清州に鎮座したが慶長15年、名古屋城築城の際、現地に移された。
例祭 10月15日
五柱 社祭神 素戔嗚尊応神天皇、宗像大神、加茂大神、軻遇突智命
吉備 社祭神 吉備真備
日出神社」

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境内東側から社頭全景。
こうして見る日出神社、ビル群の一画にあってタイムマシンの様に昔の面影を留めている。

この筋はまず車で通る事はないだけに、この姿を知らないのは当然と云えば当然か、次回大須を徘徊する際はこちらから訪れる事にしよう。
2022/01/09
 
日出神社
創建 / 不明(1610年(慶長15)清州より遷座)
祭神 / 軻遇突智命天照大御神、月夜見命、宗像大神、猿田彦命、稚日女命
所在地 / ​名古屋市中区大須2-3-17​
公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線​「大須観音駅」2番出口から徒歩約7分​
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知多四国六十三番札所 『補陀洛山 大善院』

高讃寺から国道247号線を北上奥条7丁目交差点を左に向かいます。
目的地の知多四国六十三番札所 『補陀洛山 大善院』は右手の丘陵地に鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20220112134926j:plain奥条6丁目の信号を右に進めば丘陵地の南垂れ斜面に鎮座する大善院に至ります。
門前から眺める境内、そこには一本の大きな樹が聳えている。
大善院のシンボルツリーともいえる。

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入口に大善院、補陀洛山の石柱門が建つ。
山号の補陀洛山(ふだらくせん)
遥か南海の果てにあると信じられ、観音様が降臨する伝説の山「補陀洛山」
和歌山県の補陀洛寺などは、その補陀洛浄土を目指し二度と戻れぬ補陀落渡海が行われていた。
海に接した立地でもない大善院でそうした事実はないだろうが、こうした捨身行は1900年頃まで行われていたという。

伽藍は石段正面の本堂、右に大師堂、庫裏、本堂左に赤い幟が山の頂に向かって立ち並ぶ補陀洛山中宮の伽藍。

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境内に右側が手水舎、清水を注ぐ龍はなく、ここでは亀が清水を注いでいる。

f:id:owari-nagoya55:20220112135030j:plain遥か遠くからでもその存在を示す大きな樹、「大善院のイブキ」
境内を覆い尽くさんばかりの見事な枝振りの大樹。
樹齢600年と云われ樹高は15.6㍍で根回りは5㍍を越える見事な樹だ。
こうした巨木を間近で見ると、ここには何かの存在を考えたくもなる。
イブキの前には小さな社もまつられている。
今は勢いのある樹ですが、一時は樹勢が衰え、根接ぎや土壌改良により回復し現在の姿を取り戻したようです。この地のシンボルツリーとして、県指定文化財として大切にされているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20220112135057j:plain本堂
知多四国を巡り感じるのが伽藍の維持管理が上手く(けっして実情は違うのだろうが)進んでいる寺とそうでない寺のギャップが大きい事を痛感する。
檀家の減小など背景にあるだろう、その中で時流を捉え上手に振舞う寺とそうでない寺で差は歴然としている気がする。
従来の寺のイメージから一歩踏み出す柔軟性が寺の存続に影響する時代になったのかもしれない。

大善院観音堂(大師堂)の開山は古く、白鳳時代(683年)に遡るとされます。
常滑郷南部の阿野村御嶽山一帯に天武天皇勅願寺七堂伽藍、三百坊を有する僧院の本坊として創建されるも、次第に荒廃、養春上人により一坊の本尊十一面観音や不動明王毘沙門天の三尊を大善院に移したという。
知多郷を巡錫した空海上人(弘法大師)も滞在し自作の見護弘法大師を残しているという。

また、大善院に隣接する補陀洛山中宮牛頭天王は、常滑城城主水野家の氏神として崇められていたとされ、常滑城の鬼門を守護して来た。

そんな長い歴史を持つ大善院ですが、現状の伽藍全体が本堂同様に劣化が進み痛々しい姿を曝け出している。納経印や御朱印、賽銭で賄えるものではないだいろう、クラウドファンディングも視野に、現況を外に向けて発信する事も選択肢としてあるような気がする。
某本山で見かけた高級車で坊を巡る光景はそれはそれで…と感じたりもするが。
常滑と云えば名の知れた企業が名を連ねている、利益の僅かでもそうした方向に還元されれば現状の復旧も早いと感じるが…

f:id:owari-nagoya55:20220112135117j:plain本堂と大師堂の中ほどの厄除大師。

f:id:owari-nagoya55:20220112135137j:plain大師堂全景。
お寺で顔出しパネルは珍しい「大樹(イブキ)の下でほとけさま、知多四国六十三番見守大師と知多四国十四番十一面観音」

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正面に五鈷杵、左に仏足跡が安置され、正面に弘法大師の姿が見える。
後方の厨子の中に見護弘法大師が安置されている。
住職が描かれているのか、顔出しパネルから始まり、堂内の絵画や御朱印など絵画に造詣が深く、多くの作品が置かれています。
右には法螺貝が幾つか見受けられます、その昔経験したことがあるが素人には簡単に吹けなかった事を思い出す。

f:id:owari-nagoya55:20220112135250j:plain本堂西側「冬花庵観音堂
寂れた印象のある大善院の中に綺麗な堂が建てられている。
京都の日本画家「橋本関雪」の宝塚の旧別邸のアトリエを移築したものという。
ここでは絵画展示や演奏会等を開催するスペースとして使用され、お寺と創造の融合が冬花庵?
新たな取り組みの一つかもしれない。
若い頃JAZZ喫茶が氾濫した時期があった、それもやがて淘汰されそうした機会は減ったように感じる。
訪れた時は彫刻家「花井探麗展」が開催されていた。

お寺で仏像を眺めながらしっとりとしたJAZZライブ…罰当たりと云われそうだ。

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冬花庵の右手、本堂の左側に「四国八十八箇所御砂踏霊場
タイルには各霊場の砂が入れられ、ここでお参りすれば八十八箇所全てをここで巡礼できる。
今とは違い交通手段も発達していなかった頃、こうした御砂踏霊場は身近に巡礼ができる存在だった。
ぐるっと本堂後方まで各霊場の写し仏が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20220112135440j:plain境内西側の「常滑大善院総鎮守 中の宮」
牛頭天王」の赤い幟が連なり、けっこう急な石段を上った先に鎮座する。
上り口に縁起を記した石標があり概要は以下。
「補陀洛山 中の宮
 御祭神 素戔嗚尊本地仏 牛頭天王
尾張常滑郷瀬木千代之峯の総社で祀られていた。
1494年(明応3)高宮(常石神社)、西宮(神明社)、当地奥条の中宮の三社に分祀
中の宮は、常滑城の鬼門除祈願所補陀洛山観蓮寺本坊大善院に鎮守として勧請された。
素戔嗚尊は荒ぶる神、神仏同体の牛頭天王と信仰され疾病を祓う。
夏の土用は村民あげて、神前の茅の輪くぐりなどの祭が執り行われ、一念信力を結べば夏病みせず除災の利益が得られる」

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中の宮全景。
中央の赤い社が本殿、いかにもの赤一色。

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1494年(明応3)の勧請以前は栞に記載がなく詳細は分からなかった。
陶器のブロックで囲われ、玉垣常滑らしく常滑焼の焼酎便で作られている。
その神域の左右には複数の石碑が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20220112135542j:plain左側に役行者神変大菩薩像、白山妙理大権現。
役行者のご利益の一つ縁結びにあやかってか、中央に赤いハートがある、そこに向かって賽銭を投げ入れ上手く入れば願いは叶う?
よく作法が分からなかったが試しに硬貨を投げて見る、見事にハートの外へ意外に難しい。
既婚者の願いは叶わないようだ。
縁を結びたい方、念を込めて挑戦してみてはどうだろう、かわいい中の宮の御朱印も頂けるようです。

f:id:owari-nagoya55:20220112135604j:plain右に天照皇大神宮、春日大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神の石碑が祀られています。

赤く塗られた鳥居、2020年に素木の鳥居を改めて赤く塗装したものだそうだ、この年境内は一新され現在の姿になっているようです。
ここから南を眺めると奥条の町が一望できる。禍から町を守護する中の宮だ。
2021/11/20

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知多四国六十三番札所
真言宗 補陀洛山 大善院
創建 / 不明
開山 / 興覚法印 
開基 / 養春上人
本尊 / 十一面観世音菩薩
所在地 / ​常滑市奥条5-20
高讃寺から徒歩ルート /   国道247号線を北上、奥条7丁目交差点で左へ、​所要時間約40分​
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最後の目的地知多四国六十六番札所 神護山 相持院へは大善院東の丘陵地を上り、「とこなめ陶の森資料館」を右手に見ながら尾根沿いを歩けば15分程で到着です。

「岩滑 八幡社」半田市岩滑中町

半田市岩滑中町「岩滑 八幡社」
岩滑と書いて「やなべ」と読むそうで、岩滑八幡社はここ「やなべ」の氏神様。
前回記載した「新美南吉生家と秋葉社」から目と鼻の先に社頭がある。

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社頭から八幡社拝殿方向を眺める。
右に「村社 八幡社」の社号標、左に由緒書きがあり、石の神明鳥居から奥に参道が続きます。

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「八幡社」
祭神 應神天皇田心姫命湍津姫命市杵島姫命
祭典 祈年祭2月、例祭4月、神明社祭9月、新嘗祭11月下旬、月次祭毎月15日」

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参道を進むと石の神明鳥居のニノ鳥居、そこから先の境内は左右に広がり、鳥居正面の拝殿と右に小さな社殿があり、その右が社務所の伽藍、更に右に稲荷鳥居があります。

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ニノ鳥居左の「岩滑地区祭礼」解説

岩滑地区の春の八幡社祭礼に義烈組八幡車、西組御福車の二輛が曳きだされる。
祭り前日の朝、八幡神社前に曳きだされ、神楽を奉納してから秋葉社、山の神社、高山社へ奉納を終えると岩滑の町内に曳き回される。
宵宮では山車に提灯を灯し巫女の舞い「八幡車、御福車」が奉納された後、再び夜の町を曳き回す。
本祭りの当日も同様に巫女の舞が奉納され、他に祝い込みなどが行われる。

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天明(1781~1788)以前から山車の曳き回しが行われていたが、現在の山車は大正年間に造り変えられたもので出羽看龍・新美常次郎らの彫刻が施されている。
左が義烈組八幡車、建造は寛永五年(1852)、大正七年(1918)に改造。
右は西組御福車で建造は寛永二年(1849)、大正八年(1919)に改造。
何れも市の指定有形文化財(山車)に指定されるもので、岩滑の町が先人から綿々と受け継いできたもの。
広い境内の左に二輛を保管する背の高い保管庫が併設されています。

祭りの華ともいえる山車、半田の町に多く受け継がれてきた背景を知る由はないけれど、市内全域には今も30輌を越える山車が存在し、次の世代に受け継がれている。
見る者は「伝統」や「習わし」で形容しがちですが、そこには「重荷」や「煩わしさ」も存在する。
繋がる土地柄に改めて感心する。

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八幡社と新美南吉

戦国時代の岩滑の領主中山氏が應神天皇を祀り八幡社としたが元々は神明社だったという。
その名残が境内の神明鳥居と拝殿横の小さな社殿「神明社」として残る。

新美南吉は生家と離れを行き来するのに八幡社の境内を通るのが日課だったようです。
八幡社の四月の祭礼で山車が曳かれる情景は南吉の作品にも描かれているという。

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左の入母屋瓦葺の建物が八幡社拝殿、右の社務所との間に小さな神明社が鎮座します。
狛犬が横並びで建っているのもそのため。
八幡社の棟札で最古のものは1616年(元和2)まで遡るとされます。

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社務所右に豐川吒枳尼眞天。

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行儀よく横一列に並ぶ狛犬
その先に八幡車と御福車の収納庫がある。

f:id:owari-nagoya55:20220110173921j:plain神明社
1618年(元和4)の棟札が残るとされる。
狛犬がいなければ神明社の存在に気付かないかも知れない。

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社殿左からの眺め、八幡社本殿の姿は杜が囲い見届ける事は出来ません。

左に境内社が祀られています。

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境内社全景。
ここからだと八幡社本殿が僅かに見ることが出来る。

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左が知立神社、右は熱田神社
「岩滑地区祭礼」解説にあった秋葉社はともかく、他の山の神社、高山社の所在がよく分からなかった。
てっきりここかに祀られているものと思っていたが…本殿域だろうか。

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明治中頃の岩滑、集落は町になり水田も随分宅地化され光景は変わって来たけれど、新美南吉のふるさとの面影や古来から受け継がれて来た山車は今も残っている。
2021/9/24

岩滑 八幡社
創建 / 不明
祭神 / 應神天皇田心姫命湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 神明社(天照皇大神)、知立神社、熱田神社、豐川吒枳尼眞天
祭典 祈年祭2月、例祭4月、神明社祭9月、新嘗祭11月下旬、月次祭毎月15日
所在地 / ​​半田市岩滑中町7-80
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