『藤岡神社』豊田市北一色町

前回は北一色町川原地内に鎮座する金剛寺を紹介しました
今回は同じく北一色町山洞地区に鎮座する藤岡神社を掲載します

鎮座地までは車で移動する必要もなく
金剛寺の前を横切る県道350号線を東に越えて、田んぼの中の農道を歩いて行けば社頭に至ります
県道から東を見ると鳥居の姿も見えるはずです
あの鳥居まで徒歩5分もあれば辿り着ける距離にあります
社殿は鳥居の先に見えている緑豊かな杜の中腹に鎮座します

杜の手前に靖国鳥居が建てられ、鳥居をくぐり飯野川に架かる神橋を進むと藤岡神社の社地になります

社頭から境内の眺め
鳥居右には「村社藤岡神社」社号標が立てられています

現在の藤岡神社は、かつて別の名前で呼ばれていた可能性があります
寄進年を確認するために社号標の表と裏を見る
上の写真は大正時代に寄進された社号標の「藤岡神社」と刻まれた表側
下の写真は社号標の裏側で社名は「八柱神社」と刻まれ社名が異なっています

新橋を渡ると杜の中に石段が現れ、その先に拝殿らしき姿が見えてきます
石段の左手に解説板らしき姿が見えます

解説板の内容は以下
「九等級 藤岡神社 旧指定村社
鎮座地
 藤岡町大字北一色字山洞40番地

祭神
 天照大神素戔嗚尊が天の誓約を為した時に生じた八柱の神
 即ち、日本書紀に拠れば、正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命
 天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命(以上天照大神の御子)
 田心姫、湍津姫命市杵島姫命(以上素戔嗚尊の御子)の八柱を祀る
由緒
 明徳4年(1393)、猿投「東の宮」の摂社「御子の宮」をこの地に遷す
 「東の宮」の神主 武田恒家供奉して「八王子の宮」と称し、猿投山東方の総鎮守「小猿投」とも呼ばれた
 明治五年八柱神社と改め村社となる
 明治45年(1907)指定社となる
 大正12年(1923)藤岡神社と改称
 昭和63年(1988)に神撰所、平成12年(2000)に社務所新築
社殿
 藤岡地区最古の神社本殿は二間社・流造・檜皮葺で希少性を誇っている
社殿等面積 64.77坪、境内坪数 1306坪
例大祭 毎年10月
神賑行事 飾献馬、棒の手演武、火縄銃奉納射撃、巫女舞
氏子数 208戸」とある

なるほど、社号標の社名の違いが腑に落ちた
それにしてもこの辺りの神社にはこうして詳細に書かれた由緒が多く、モヤモヤを晴らすのに調べる必要がなく個人的にありがたい

スッキリした所でこの石段を上る事にします

石段脇の常夜灯の寄進年は大正10年(1921)

石段を上り詰めると蕃塀のように拝殿が迫り、その先に社殿が見えています

拝殿右から境内に回り込むと棒の手顕彰碑が建てられています
碑文から一部抜粋した内容
・一色の棒の手は織田家臣の本田游無が創始した流派「見当流」
・天文年間中根城築城時に地元民に祝意を表すために棒術を披露し、地元に広めた
・「見当流」は名古屋市内を中心に広まり、熱田神宮へも奉納、品野をはじめ尾張三河にも広まっていった
豊田市八草・猿投町・足助町藤岡町一帯で「見当流」が栄えている
・北一色の棒の手は明治4年生田芳蔵他3名にはじまり、氏神様の藤岡神社の大祭では献馬と共に奉納されている

顕彰碑から社殿の眺め
拝殿正面から見通した境内は広さを感じなかったが、こうして見るとかなり広い境内を持つ神社です

社殿は左に社務所、正面の一段高く積まれた本殿域に神門・四方殿・祭文殿・本殿と連なり、社殿右の斜面には境内社が祀られています

境内左の手水鉢、本殿後方の裏山から湧き出る御神水が注がれている

境内左から拝殿から顕彰碑方向の眺め
拝殿と書いてはみたものの、この佇まいから岩倉神社の農村舞台にも似ている

拝殿内にも由緒が掛けられていますが、内容は石段脇のものと同じ内容のものでした

拝殿の築年代は分かりませんが、小屋組みは一本物の無垢材がふんだんに使われています

境内から神門・四方殿の眺め

神門前の狛犬(寄進年未確認)

格子戸が閉ざされた神門の前で参拝となります
神門の前に建てられた四方殿の全体は見通せませんが、神楽殿や拝殿のような建物に見えます

境内右の境内社
手前の六社は左から金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社が祀られています
その後方の斜面には朱の社と石の社、石標が幾つか立てられています

上は殉国之碑、下は覚明霊神

更に斜面を登ると上の写真の大己貴大神少彦名大神と、石の祠がある
下は社名札がなく分からないが、この辺りは御嶽講の神域なんだろう
ここまで登ると本殿域を望めます

左が神門の先に建っているのが四方殿で、その先が祭文殿・本殿
何れも新しいもので近年補修されているようです
四方殿は入母屋瓦葺の四方吹き抜けで、床板や縁板、屋根を支える柱と梁にも真新しい肘木が付けられています
藤岡神社の四方殿・祭文殿・本殿は令和4年(2022)に大改修が行われたようです
その際に棟札が見つかり、寛文11年(1671)頃の熱田の大工で猿投神社の社殿も手掛けた藤原朝臣中尾勘右衛門が、当神社の四方殿・本殿を建てたと記されています
また、祭文殿(赤い屋根)から明治43年(1910)の棟札など見つかったようです
豊田市内に鎮座する神社本殿としては、室町時代中期の足助八幡宮本殿を除くと、寛文6年(1666)の熊野神社本殿(月原町)、元禄15年(1702)の川原宮謁磐神社本殿(御蔵町)に次ぐ古いものとなるようです

本殿は中央に柱のある二間社流造で、令和4年の修復時に檜皮葺から銅葺屋根に変えられたようです
詳細は見えませんが脇障子が付くようで、その前に白い狐の姿が見られます
山間の神社にありながら、八王子を祀るに相応しい立派な本殿です
接続する祭文殿は四方吹き抜けで入口側に格子戸が付いているようです

ここから拝殿と境内の眺め
鬱蒼とした杜に包まれていながら、陽射しが降り注ぐ明るい境内です

それにしても拝殿の趣は農村舞台のように見えてなりません
調べて見ると豊田市には約31カ所の農村舞台が現存するようです
しかしその中に当神社の名は見られない事から、やはり農村舞台ではないようです

参拝を済ませ石段の降り口から鳥居方向を見下ろす

鳥居の先には田んぼが広がり、前方に金剛寺も良く見える

藤岡神社
創建 / 明徳4年(1393)
祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社等
所在地 / 豊田市一色町山洞40
金剛寺から徒歩アクセス / 県道350号線を越え田圃の農道を北上​徒歩5分
参拝日 / 2024/03/07
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『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原

豊田市一色町向谷下の春埜山神社から、県道350号線を2分程​北上した北一色町川原地区
山間に田圃が広がる長閑な田舎の風景が広がります
今回は町内を南北に続く県道脇の高台に鎮座する菩提山金剛寺を掲載します

写真は県道東側の田圃から金剛寺と後方の猿投山を望む
小高い丘に鎮座する金剛寺、こうしてみると戦国時代の平山城か館の様な趣です
斜面には多くの樹々が植えられ、その多くが桜のようです
3月7日に訪れた時点では彩りはありませんでしたが、今頃はピンク一色に染まっているのではないでしょうか

県道から金剛寺門前を眺める
ウグイスのさえずりを聞きながら参道に向かう

菩提山金剛寺寺号標
石段の先にはフラットな参道が本堂へと続きます

境内の桜は枝垂れ桜が多いようです
左手の森の斜面に祠を見付けたのでそちらに向かて見ます

杜の斜面に作られた石祠
祠の両脇と天井は一枚岩、後方は小振りの石が積まれた壁になっていて
まるで横穴式の古墳のようにもみえてくる

祠の中には一体の石像が安置されていました
岩座に座り左手に巻物を持つこの姿は役行者なんだろうか

金剛寺伽藍
石垣が積まれその上に築地塀が築かれ境内を囲む
境内左に金剛寺を象徴する見事な枝振りの枝垂れ桜が聳えています
この桜が満開を迎えた時、金剛寺はさぞかし艶やかな姿になるのだろう
菩薩山金剛寺について大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌を調べたところ以下内容でした
「菩薩山 金剛寺 創建大永元年(1521) 境内反別四反三畝二七歩」
曹洞宗の寺院で本尊は分かりませんが釈迦牟尼仏だと思われます
またWIKIには天保期(1831-1845)から明治初期まで、金剛寺において寺子屋が開かれていたとも伝わるようで、享保19年(1734)に雲興寺の霊源陽沢和尚により開山とも云われ、雲興寺の末寺でもあるようです

境内のシダレザクラ
霊源陽沢和尚手植えによるものとされる樹齢300年の枝垂れ桜です
太い幹の大きなコブから伸びる枝は支柱なしでは姿を保てないほど四方に広がっています
満開の桜、一度見たいものです
例年は3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えるそうです、まだ間に合うかなぁ

豊田市指定文化財(天然記念物)
昭和49年2月に指定された樹高は10㍍のエドヒガン桜の一種という

本堂
伽藍は寄棟瓦葺の平入で右手の庫裏と繋がり、左に毘沙門天、本堂左の薬師堂が主な伽藍

本堂の金剛寺の額

地蔵堂毘沙門天堂、奥に見えているのが薬師堂になります

左から聖観世音菩薩、如意輪観音庚申塔、当山鎮守

毘沙門天

薬師堂

西加茂新四国八十八ケ所霊場の七十番札所になるようです

本堂の鬼には丸に立葵の紋が入っています

参道左側の車道から眺める金剛寺
この道の先は参拝者駐車場に至ります
満開のソメイヨシノが連なる光景は綺麗です
こうした山間の一本の桜が魅せる美しさも引けをとらないものがある
カタクリの開花に合わせて訪れたので桜はまだまだでしたが、来年はこの桜の開花に合わせて訪れてみよう

金剛寺
宗派 / 曹洞宗
山号 / 菩提山
開山 / 大永元年(1521)
本尊 / 不明
参拝日 / 2024/03/07
所在地 / 豊田市一色町川原278-3
春埜山神社から金剛寺、車アクセス / 県道350号線を​北上約2分
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『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷

春埜山(はるのさん)神社
鎮座地は、猿投山の東麗の矢作川支流飯野川の右岸の山間に伸びる県道350号線沿いに位置します

江戸時代には三河吉田藩の藩領で加茂郡一色村と呼ばれ、明治には北一色村に改称
その後、加茂郡西加茂郡東加茂郡に分割された際、当地は西加茂郡編入されます
その後も西加茂郡藤河村、藤岡村を経て現在の豊田市一色町向谷下(むこうやげ)となります


個人的に豊田市編入以降、矢作川周辺の住所だけ聞いても場所のイメージがつかなくなってしまった
しかし住所は変われど長閑な環境やランドマークは今も変わらない

神社は県道から西側に少し奥に入った先に社頭を構えています
車で走っていると気付かずに通り過ぎるかもしれない
社頭への幅員は狭く、社標右手の駐車場に入るには普通車だと厄介かもしれません


エンジンを切ると、春めき始めた木立からウグイスの声が聞こえてきます
今年初めて聞いたウグイスのさえずりはここ春埜山(はるのさん)神社だった

社頭全景
右手に社標、神明鳥居の先に拝殿とこぢんまりとした神社です

春埜山(はるのさん)神社社標は昭和60年(1985)健之のもの
右奥に見えているのが参拝者駐車場

春埜山(はるのさん)神社境内に由緒は見られず、情報として書くべきものが見当たりません
なので写真をもとに境内の紹介だけになります

境内から鳥居の眺め
鳥居の寄進年不明、拝殿右に一つの石仏が安置されていました

青面金剛だろうか
製作年代は未確認ですが、昨日今日寄進されたものではないようです

切妻造の木造平入拝殿
左側の社務所兼住居と思われる建物と廊下で繋がっているようです

拝殿額「春埜山神社」
春埜山と聞くと静岡県秋葉神社下社から東に小一時間ほど走り、天竜川左岸の山深い場所に鎮座する神仏習合の名残をとどめた大光寺を思い出します

その昔、山道を求め四駆で訪れたことがあり、興味深い寺だった事を記憶しています

行基が開いた古刹で、春埜山は秋葉山、光明山と並び、遠州三山と称され、大光寺のある春埜山と秋葉神社本宮のある秋葉山は対をなすものと云う
今ほど気軽に写真に残せる環境でもなかったので、改めて訪れて見たい所です
果してこの神社が春埜山大光寺と関りがあるのか根拠はなく、まったくの個人の妄想でしかない

拝殿から本殿域の眺め
祭神は分かりませんがこちらで参拝させて頂きます

拝殿右側から本殿域を眺める
本殿は5本の鰹木、内削ぎの千木がつく神明造で、本殿の両脇に摂社が祀られています
本殿域右手に小さな池があり、本殿域周辺は石が組まれ、庭園の様に手入れされていました

神社についてなにも分かりませんが、昭和中期から後期の航空写真を見る限り、神社の姿は見られません
現在の社殿が建てられたのは、社標に刻まれていた昭和60年(1985)くらいのことかもしれません


春埜山(はるのさん)神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / 不明
例祭 / 不明
所在地 / 豊田市一色町向谷下851-3
参拝日 / 2024/03/07
香嵐渓臨時駐車場から春埜山神社まで車アクセス / 香嵐渓臨時駐車場から西へ力石交差点で右折、県道350号線を北上​約25分
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『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平

神宮山十王寺から国道420号線の足助八幡宮前信号を足助大橋方向へ
橋の手前に巴川左岸沿いに続く道があるので足助警察署方向に進みます
名古屋方向からだと足助大橋を渡ってすぐ右折です
今回掲載する「石清水八幡神社」は国道240号線南側の足助町宮平地区に鎮座します
因みにグーグルマップの石清水八幡神社の位置・所在地情報は間違っています

石清水八幡神社社頭全景
参拝者駐車場はなく、警察署も近いので路駐は避けるが得策
社地右側に宮町駐車場の立駐があるのでここに駐車して歩くのが賢明でしょう
神社は三叉路交差点付近に西向きに社頭を構えています
社地は杉の杜に包まれているのでこの時期は厄介か

脱線します
還暦を過ぎて人並みに花粉症になったみたい
相手の正体は分からないがどうかするとおかしくなる
長く続いたマスク生活で柄にもなくデリートな体質になったんだろうか

宮町駐車場と側道の間の三角形の社地に玉垣で囲った境内を持つ石清水八幡神社
鳥居や狛犬といったものはなく、一基の石灯籠と本殿、左側に石の祠が祀られ、社標は少し離れた西側に建てられています

苔生した境内全景
本殿は一間社流造で社名札もしっかりと架けられています

神社の創建・由緒・祭神について神社庁、地史どちらも情報は得られなかった
足助八幡宮も近い事もあり、境外社なんだろうかと妄想を膨らせたくなる
八幡神社と付くのだから祭神は恐らく……応神天皇
石清水八幡神社となると県内に石清水八幡神社は少なく、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡神社宮から勧請されたものなんだろう

境内右の石灯籠
玉垣、燈籠・社標などの寄進物は昭和のもので創建時期は意外と新しいのかも

本殿左奥の杉の根元に祀られている石の祠

文字が刻まれていますが読み取れず

巴川側道の社標の背面には昭和10年(1935)と刻まれている
足助トンネルができる以前、渋滞する国道を避けるため巴川沿いのこの道を利用したものです
かつてはこの側道沿いに大きな入浴施設(足助温泉だったナ)があり、スキーやキャンプの帰りに時間調整も出来ました
今はそんな時一休みしていく施設がないのが少し残念です

石清水八幡神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / 不明
例祭 / 不明
所在地 / 豊田市足助町宮平56-1
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平

紅葉の時期に足助町を通りかかると道路は渋滞
グリーロード入口の力石ICまでの道程の長いこと
ついつい足助町内を避けてしまいがちです、宿場町城下町でもある足助には、宿場の名残を留めた町並みや古くからの寺社など見所は多い

また紅葉やカタクリ、清流巴川が町内を流れ自然豊かな町でもあり、そうした中を歩く東海自然歩道も整備されています
今回掲載する十王寺は、先に掲載した足助八幡宮の両部鳥居の向かいに鎮座しています

神宮山十王寺は愛知県豊田市足助町に鎮座する真宗大谷派の寺院
寺標の側面に「寛永8年石平道人正三和尚開基」とある
本堂は木造切妻瓦葺の平入で一間の向拝を持ったこぢんまりとした佇まい

国道沿いに境内入口はありますが、周囲が有料駐車場ばかりのなか、参拝駐車して良いものか定かではありません
因みに自分はずっと下流の無料駐車場から散策がてら歩いて訪れました

境内左の十王寺解説は以下のようなものでした

十王寺は寛永年間(1624~1645)、鈴木正三和尚により創建された
正三和尚は、天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として大坂夏の陣に戦功をあげた武将
42歳の時、家督を弟に譲り自らは出家
風飡無宿の禅僧となり宗教自由人として庶民に仏教の裾野を広げるため、仮名草子本(二人比丘尼、因菓物語)を書き、近世文学の基となったことでも評価の高い人物である
 
本堂に安置される木造阿弥陀如来立像(室町時代前半から中頃の制作)は別名「またたき如来」と呼ばれ、土地には伝説も伝わる
また、足助八幡宮境内にあった神宮寺の本尊、木造薬師如来座像は高さ90㌢と小さいが鎌倉期の優れた作品とされ、他に江戸時代初期のものとされる木造十王像を所蔵し何れも文化財の指定を受けている

因みに「またたき如来」の伝説とは以下のようなものらしい
「その昔、不届き者により如来像が盗難にあった
ある晩信者の夢枕に如来像が現れ、「京都にいるから迎えに来てくれ、来てくれたらまたたいて合図する」とのお告げがあったそうです
信者が京都に迎えに行ったところ、如来像がまたたいて合図され無事に足助にもどった」
と云うもの

当日は本堂の扉が閉じられ、人の気配もなく「またたき如来」の姿は見られなかった
運が良ければ拝むことができるのかも

境内左には解説板、右には古い石塔や石仏が並び小さな社が祀られています
遠目から霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社かなと思っていました、しかし山丸三の紋も見当たらず
どうやら御嶽神社ではなさそうです
どの石塔も年月が経っているようで、確認できたもので「三界万霊」と刻まれた塔に寛文2年(1662)の元号が見られました
先の解説から創建が寛永年間(1624~1645)とあるので、創建後ほどなく造られた「三界万霊塔」です

煩悩にまみれ、戦に明け暮れた戦国の武将から、風飡無宿の僧となった鈴木正三和尚
彼は欲界・色界・無色界の有情無情の精霊を供養するために、三界万霊塔を建てたものかもしれません

神宮山 十王寺
宗派 / 真宗大谷派
本尊 / 木造阿弥陀如来立像
創建 / 寛永8年
開基 / 石平道人正三和尚
所在地 / 豊田市足助町宮平41
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後

前回掲載した足助神社に続く今回は、西隣に鎮座する「足助八幡宮」を取り上げます

写真は国道420号線から東方向の足助八幡宮と足助神社の杜の眺め

足助八幡宮社頭全景
国道沿いに社頭を構え、木造両部鳥居のすぐ先に蕃塀と社殿がある
社頭右に「足助八幡宮」の社標と鳥居の前に個性的なフォルムの狛犬が見えます

その狛犬
台座に梅丸講と刻まれた狛犬
寄進年代は見ていませんが、素朴で愛嬌のある顔つきで、頭の上には丸みのある宝珠に近い角を持っています

鳥居の額は「八幡宮」三つ巴が社紋と見えます

鳥居をくぐった左のこの建物は神仏習合時の名残「八幡宮の鐘楼」
解説は以下
「この足助八幡宮は、明治初年まで境内に神宮寺があった
この鐘楼は神宮寺のあった名残りである
明治維新神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている
豊田市教育委員会」とある

神仏分離により多くの社寺がこうした道を辿りました
しかし、今も鳥居のある寺や多宝塔のある神社など、神仏習合の形態を残すものが存在します
その分かれ道が何だったのか、時々考えることがあります

足助八幡宮社殿全景
手前が拝殿、奥が社務所社務所で隠れていますがその奥には境内社があります
境内社はこの他に拝殿右側にも祀られています

控柱を備えた石の番塀
平成14年(2002)愛子様誕生記念として寄進されたもの

番塀横の境内社
4本の鰹木と外削ぎの置き千木がのる一間社流造の社
社名札がなく社名は不明

左手の杉の巨木
足助八幡宮のスギ
樹齢500年とも云われ、樹高45.5㍍の巨木で市指定文化財(天然記念物)に指定されている
境内にはこの他にもイチョウの巨木などが聳え、神社の歴史の長さを物語っている

境内に入った左に手水舎と神馬像、境内社が祀られている

御足宮
「当宮に伝わる縁起には足腰の病や様々な霊験が記されている
足助は信州への中継地として栄えた宿場町
行き来する人々は、この先の険しい街道を前に旅の安全を祈願、また安全にここまでこれたことにたことに感謝を捧げた
足・交通・健康など御神徳顕著な神社として崇敬されている」
草鞋の上に足神の石標が立てられている

手水鉢の龍と蛙

足助八幡宮概説
天武天皇の白鳳2年(673)創建と伝える古い神社
神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している
八幡神社本殿>
文正元年(1466)十一月の再建で、桧皮葺三間社流造である
妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいで珍しいとされる
この地方では規模も大きく、稀に見る神社である
<扁額 鉄砲的打図板額>
慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである
八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている
鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか現存しないものである」
…ここでは祭神や境内社についての具体的な解説は省略されています

拝殿正面全景

切妻平入で平側の三間の向拝に唐破風が付く、拝殿と左の社務所、右の建物は渡廊で繋がっています

唐破風の下に梵天と竹竿の先端に藁で作られた斧のようなものが飾られている
呼称は分からないがこれも梵天なんだろうか
拝殿脇に祭神、創建の概要が記された案内板がありその内容は以下
「足助八幡宮
御創建 天武天皇白鳳2年(673)
御祭神 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱
本殿 文正元年(1466)再建・重文」 とあった

拝殿前の石灯籠から社務所方向の眺め、燈籠の寄進年は読み取れなかった

拝殿軒下に金的を射抜いた多数の猛者の名が記された額が掛けられている

拝殿右の境内社
手間から津島社、御鍬社、稲荷社

津島社から足助神社拝殿左方向を進むと足助八幡宮本殿側面を良く見渡せる場所があります
そこに下の解説が立てられています

足助八幡宮本殿
「足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳2年(673)と伝わる
現在の本殿は文正元年(1466)11月に再建されたもの
屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びる神社の建築様式)の本殿で、室町時代の特色をよく示している
愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなもの」
とある
檜皮葺や茅葺の苔むした屋根は趣があって個人的に好きですが、こうして見るとそろそろ葺き替えの時期が迫っているような

手水舎の脇にあった概説の「妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示し、向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異」と記されていたが、ここからその特徴を見る事は出来ません

拝殿全景

社務所から右の境内社全景

左の入母屋妻入りで一間向拝が付くこの鞘殿は金毘羅社
中の社は見通せなかった

その右に祀られる三社
左から流造の塩窯社、中央の6本の鰹木、内削ぎの千木が付く神明造の社が秋葉社
その右の流造の社は天満宮、いずれも創建時期は不明

境内南側に県指定文化財「足助の棒の手」の記念碑
足助の棒の手は近岡町、富岡町の二つの地区が江戸時代、明治時代に継承された五反田地区の三つがあるようで、流派は其々違うようですが、いずれも10月の足助祭りで足助八幡宮に奉納されるようです
この祭りでは山車や火縄銃の空砲撃ちなど見られるようです

足助八幡宮
創建 / 白鳳2年(673)
祭神 / 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱
境内社 / 不明社、御足宮、津島社、御鍬社、稲荷社、金毘羅社、塩窯社、秋葉社天満宮
例祭 / 10月第2日曜
氏子地域 / 足助町
所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​約50分
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『足助神社』豊田市足助町宮ノ後

足助神社は香嵐渓で知られる足助町の巴川左岸沿いに鎮座します
この区間は以前国道153号線と国道420号線の重複区間で、足助バイパス完成後は香嵐渓の入口とも云える足助大橋を渡ると国道420号線となります

以前は混雑する区間でしたが、バイパスの完成によりスムーズに町内を通り抜けられるようになった
写真は巴橋から西方向の眺めで、国道右に続く玉垣と社叢は足助神社、足助八幡宮の鎮座地になります
一つの社地に足助神社、足助八幡宮が横並びに鎮座し、国道沿いにそれぞれの社頭を構えていますが、境内に入れば二社を隔てるものはありません

右手は豊田市役所足助支所の有料車駐車場

駐車場前の足助周辺観光マップ
周辺には紅葉以外にも香積寺や足助宿の趣が残る町並みはじめ、飯盛城や足助城など複数の城跡が残る歴史の町

紅葉やカタクリの群生が見られる飯盛山には、鎌倉末期の武将足助次郎重範の本城もあった
(写真は2024/3/7のもので見頃となったのは3/24でした)

国道から足助神社社頭の眺め
右に足助神社社標があり正面の神明鳥居の先が足助神社社殿

境内に入ってすぐ右側に雁塚と呼ばれる一つの石と石塚の由来が解説されています
「牛吉さんが、置き忘れた弓で矢を放ったところ、的を外れて田圃にいた雁の雄を殺してしまった
その翌日から田圃には雌の雁が訪れ、雄がいない悲しさから鳴き続けたという
夜には殺された雁が枕元に現れるようになり、雁の呪いから逃れるため僧となり、庵を結んで雁の菩提を弔う日々を送った
雁を射殺してから23年を経た9月23日、辞世の句「先だちし雁や浄土の道しるべ」残し急死したという
奇しくもその日は牛吉さんが雁を射殺した日だったという」
雁は一度つがいになると一生添い遂げ、一方が死んでも新たに相手を迎える事はないという

足助神社境内全景
石造神明鳥居と一対の狛犬、常夜灯があり、右側に手水舎があります

足助神社の創建は新しく明治35年(1902)で祭神は足助次郎重範を祀る神社

カタクリの群落や紅葉で知られる飯盛山には、足助七城のひとつ飯盛山城があった
鎌倉時代、足助重秀が築城した城で尾張三河信濃を結ぶ交通の要衝に建てられた足助氏の本城で、七代足助重範の死後は足助氏の勢力は衰退し全国に散っていったという
後に尾張三河を目指した甲斐の信玄もこの道筋も選択肢に入っていただろう
事実、この道を進んだ根羽村の少し先には信玄坂や信玄塚などが残る

足助神社建立の発端は明治24年(1891)に明治天皇から正四位を贈られたことにあるようです
明治26年(1893)に熱田神宮が神明造に建て替えられた際に摂社の一つを譲り受けた
明治35年(1902)に東加茂郡の郡社として神社が創建された
昭和8年(1933)に従三位を追贈され、顕彰運動も活発化し、縣社、別格官幣社に昇格させる計画もあったという
昭和18年(1943)には新たな社殿の造営も行なわれたが、敗戦に伴い造営は中断し運動も立ち消え、元の場所に遷座したという

鳥居の手前左で足助八幡宮と繋がっています

拝殿を守護する狛犬

猫足の台座には昭和9年(1934)の寄進年が刻まれていました

境内は年輪を重ねた大杉や大楠が聳え、背後には巴川が流れています

手水舎と懸命に働く龍の姿

足助神社
「元弘の変(元弘元年-1331)に後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将となった足助次郎重範公を祀っている
重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている
落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀られるようになった 豊田市教育委員会

社殿全景
切妻妻入り拝殿に翼殿が付いたもので翼殿から透塀が本殿を囲むもの

棟の鬼の紋は遠目に桐や葵の様に見えるが三河蔦と思われます
意匠を控え、白壁と木の色合いだけの落ち着きのあるシックな佇まい

足助神社拝殿額

拝殿から本殿域の眺め
拝殿の先は屋根の付きの土間が本殿に続く、土間と云うより幣殿と呼んでもいいだろう
本殿は神明造とされるが、棟持ち柱が見られないので後に建て替えられていそうです

拝殿左側から忠臣足助氏の碑と本殿の眺め

本殿は一間社流造のようで、外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載せられています
大棟には三河蔦の紋が入れられています

足助重範が鎮まる本殿全景
拝殿同様装飾を控えた落ち着いた外観の本殿

拝殿から社頭の眺め
鳥居は大正4年(1915)寄進のもの

足助神社
創建 / 明治35年(1902)
祭神 / 足助重範
境内社 / 
例祭 / 4月第2日曜
氏子地域 / 

所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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