愛知県 知多四国巡礼 第13回: 番外札所 浄土寺

春日和となった2月28日、第十三回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。 

上が今回のルートです。
 スタートは名鉄知多新線内海駅。
駅前からバスに乗りバスで10kmほど先の小佐まで移動➡番外札所浄土寺➡35番札所成願寺➡上陸大師➡30番札所医王寺➡31番札所利生院➡32番札所宝乗院➡33番札所北室院➡34番札所性慶院➡29番札所正法寺➡鯛祭り広場からバスで内海駅に戻るもの。
 コース全長は約11km。アップダウンの多いコースでした。

駅から師崎方向に向け、海岸線を20分ほどバスに揺られ、南知多町大字豊浜字小佐郷の「うみっこバス小佐バス停」付近に到着。
 そこから道路沿いの​小佐郷『神明社』の路地を左に入れば最初の目的地番外札所浄土寺です。
境内入口に「新四国 手引大師 龍亀大菩薩」と「新四国 龍亀霊場」の石標。
 「龍亀」とはなんだろう?
調べたところ、小佐郷には亀にまつわる伝承が伝わり、その中心的存在が浄土寺なんだという。
余談だが、小佐には内海方向のバス停はあるものの、師崎方向のバス停は見当たらなかった。
 ここから先へバスで進む場合、反対車線側に立っていれば停まるのだろうか。
また、過去の巡拝ではかみさんの移動サポートで車でここに送り届け、自分は小佐郷『神明社』を含め近隣の神社を巡ったことはあるが、実際に歩くのは初めてだ。

浄土寺伽藍全景。
 この時期は梅が咲き誇り、境内に彩りを添えてくれる。
こちらの寺院は、この伽藍の他に右手の梅の影にある亀石と崖に掘られた岩窟も見どころ。

梅の後ろに左を向いた大きなウミガメの石像が安置され、後方の岩肌には岩窟が作られ、入口には龍亀燈と刻まれた灯籠が立てられています。
 ここが「龍亀」の核心部分なのだろう。
青泰山 浄土寺は曹洞宗の寺院で、本尊は薬師如来をお祀りする。

 創建は明治23年(1890)とされ、開基が天野兵左衛門、亀岳鶴翁大和尚により開山。
「龍亀」のいわれは以下。
『「わしの若い時ゃ小佐まで通ふた小佐の薬師堂で夜があけた」と古謡に歌われた小佐薬師の旧跡に建つといわれる浄土寺。
 お亀さんと親しまれています。
明治四十二年(1909)、開山 亀岳鶴翁大和尚が、霊亀が白髪の老人となり現れる夢を三晩見た後、小佐の海岸に打ち上げられた海亀を龍亀大菩薩として祀ったことに由来する。
 この亀の甲羅には「奉大海龍大神」の文字とともに、伊賀上野 谷村佐助と名前が書かれていました。
長年の病に苦しんでいたこの人物が、夢に現れた霊亀の「我を供養すれば平癒すべし」の託宣に従い、二見ケ浦で網にかかった亀を買い取り供養したところ病気が平癒し、感謝の後、甲羅に大書して再び海に放ったとのこと。
 別堂に祀られる龍亀大菩薩の脇には谷村氏の書状と亀の写真が額に掛けられている。』
漂着した海亀は境内のけやきの根本に葬られたという。

岩窟は奥行きこそ浅いが、正面の岩盤に石の祠が安置されていました。

正面の本堂と龍亀大菩薩を祀る別堂。 

本堂額は「浄土禅寺」

本堂内の眺め。

本堂に安置されている弘法大師。

別堂内の眺め。
 中央に額に収められた海亀の写真が安置されています。
南知多町誌によると漂着した海亀の甲羅には、「谷村佐助の他十一名の名が記されていた」とあります。
 その霊験が広まるや、龍亀大菩薩の霊験を授かろうと多くの参詣者が訪れるようになったという。

なみのね みのりのこえぞおさのみさき うかぶこころの かめぞまつれる

浄土寺の参拝を終え、水仙ロードを東に向かい、次の35番札所成願寺に向かいます。
 ルートは、知多半島を横断する形となるので、地味な登りが続く約4km、50分ほどのきつい区間に入ります。

第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 薬師如来
創建 / 明治23年(1890)
開基 / 天野兵左衛門
開山 / 亀岳鶴翁大和尚
札所 / 知多四国番外札所・知多百観音48番札所・南知多観音霊場16番札所
所在地 / 知多郡南知多町大字豊浜字小佐郷1
参拝日 / 2026/02/28
うみっこバス小佐停から浄土寺 / ​徒歩1分​​​ほど​​。
関連記事  
過去記事
・小佐郷 『神明社』

蟹江町蟹江新田鹿島『鹿嶋神社』

前回の廣覚寺が鎮座する愛西市から、再び日光川を渡り、来た道を戻り蟹江町へ。

尾張温泉で湯に浸かり、足の疲れを癒して帰途に着く。
 帰りも国道一号線で名古屋に戻ろうと、県道65号線を南に走り出す。
走り始めて直ぐ、国道に出る道案内を見落とし国道の上を通過してしまった。
 やむなく、新蟹江小東の交差点で左折し、その先から国道に入ろうと細い道に入り込む。
佐屋川に架かる夜寒橋を渡った左に鳥居の姿を見かけ立ち寄ってみた。

鎮座地は蟹江新田鹿島。
 佐屋川の左岸に南向きに社頭を構える神社は鹿嶋神社。
起伏の少ない土地柄で、大きな松を主とする社叢は鳥居以上に目立つ存在です。
 車は鳥居の右に僅かなスペースがあり、そちらに停めさせて頂いた。

社頭右の鹿嶋神社解説板。

『祭神 武甕槌命
由来 
 寛永十三年(1636)、蟹江新田の開発がはじまる以前は、当地は大きな川筋が入り組、潮の干満により干潟が現れる地域で、人々は自然堤防洲の葭山を開き定住し、漁業や農業を営んでいた。
 慶長十五年(1610)、この地に嵐で漂着した船の船神「鹿嶋大明神」祀ったのがはじまり。
尾張徇行記には、寛永十八年鹿嶋大神を勧請と記載されている。
 境内社には天照皇大神・秋葉社を祀る。
寛政十二年地蔵堂、文政十一年観音堂建立。
 明治四年、村社鹿嶋神社・祭神は武甕槌命となる。
昭和四十三年より境内に文学苑を整備、句碑26基が建てられている。

地名のいわれ
 蟹江新田は、「蟹江新田由緒」によると、寛永十三年(1636)より開墾、元禄七年(1694)に検地とされたとあるが、それより早く開墾されたともいわれる。
一村立ちの新田で、本郷は日光川の東西両岸にあり、枝郷として上芝切・下芝切・中川原・金野・西野新田の六ヶ村があった。
 蟹江新田の各字の地名の由来について、芝切村は小島で群生する芝を切りに行ったことから、大海用(おおみよ)は暴風雨の際に大きな溝(みよ)が切れたことからついたものとされる。

江戸時代末の「名区小景」に描かれている「夜寒橋」付近の鹿島という地名は、川島という小島のあとに寛永十八年(1610)鹿嶋神宮を迎え、以降鹿島島と名が付いた。

 蟹江新田村は風水害による堤防破壊・塩害に悩まされ、米・麦を中心に農業と河川や近海での漁業で生業を得ていた。
日光川改修後は大型船の着岸が可能となり、大海用地区を中心に商業を営むものもあった。
 江戸時代の蟹江新田村戸数及び人口。
寛文十一年(1671)戸数49戸・233名、寛政四年(1792)〃215戸・945名。』
と書かれています。

上は名区小景の夜寒橋。
 佐屋川左岸の朱の鳥居が鹿嶋神社、神社に訪れる際、佐屋川を渡った橋が夜寒橋になります。

愛知県神社名鑑(1992)は、当神社について以下のように記していました。
『十等級  鹿嶋神社 旧指定村社  
 鎮座地 海部郡蟹江町大字蟹江新田字鹿嶋185番地  
祭神 武甕槌神  
由緒 
 社伝に慶長十五年庚戌創建という。
  明治四年村社に列格する。昭和四年十一月五日、指定社となる。
 字鹿島を氏子区域とする。
  昭和三十九年五月十四日社名を鹿嶋社から鹿嶋神社に改称する。  
 例祭日 十月二十日
社殿 本殿流造・幣殿・拝殿・社務所・神庫』

鳥居から長い参道の眺め。
 佐屋川と蟹江川に挟まれた中洲のくびれに位置する鎮座地は、南北に150m程の社地を持ち、参道中ほどに車道が横切り、東側の鹿島集落のすぐ先は蟹江川が迫っています。

鳥居の先の参道脇には複数の石灯籠と句碑が続きます。

社地中程の二ノ鳥居。
 鳥居の右に鹿嶋神社の社標と、すぐ脇に観音堂が建てられています。

二ノ鳥居から社殿の眺め。
 右手に手水舎、正面の社殿は拝殿・幣殿・本殿が主なもので、社殿左側に皇大神宮、秋葉社の境内社が祀られています。

切妻銅葺の四方吹き抜けの拝殿で、妻壁の大きな拝殿額が印象的。

妻壁の額と装飾、意匠は控え目のようだ。

拝殿の先には一対の狛犬が幣殿を守護する。

左側から眺める社殿全景。

幣殿。

狛犬は小型ですが、立派な歯が特徴的。

本殿域。
 本殿の手前にも狛犬の姿が見られます。

本殿域側面の眺め、流造の本殿以外に社は祀られていないようです。

本殿左の境内社。

秋葉社(左)、天照皇大神。

本殿後方から拝殿方向の眺め。
 風や陽光がよく届く、明るい印象の境内です。

拝殿から社頭の眺め。
 はるばる茨城からこの地にやって来た鹿島集落の氏神様です。

蟹江町蟹江新田鹿島『鹿嶋神社』
祭神 / 武甕槌神
創建 / 慶長十五年(1610)
境内社 / 天照皇大神、秋葉社
例祭 / 10月第2日曜日 
氏子域 / 蟹江新田
所在地 / 海部郡蟹江町蟹江新田鹿島185
参拝日 / 2026/02/14  
廣覚寺から車アクセス / 尾張温泉東海センターから東へ、県道65号線学戸交差点右折直進、新蟹江小東交差点左折、佐屋川を超えて左折。​3.6km・約10分​​​​
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・愛西市大野町郷裏 『大野神社』 
・愛西市大野町郷西 『海東山 廣覚寺』

墨俣一夜城に春の苦味を求めて

2026/03/12
 前日から「明日は風がなければ、つくしを探しに行こう」と話していた。
期待どおり、当日の朝は風もなく、やわらかな陽ざしが差し込む春らしい一日の始まりだった。
 通勤車両が増える前に市内を抜け、渋滞に巻き込まれないうちに長良川の堤防へ向かう。
名古屋の朝の運転マナーは相変わらず、無灯火の割り込みや無意味な車線変更、信号無視など、気の抜けない時間帯だ。
 通勤時間帯の取り締まりや公共交通機関の利用促進が進まない限り、あるいは税金投入なしでリッター200円にでもならない限り、道路が整然と流れる日は遠いのだろう。

ガソリン値上げの報せもあったが、この日の朝の市内のレギュラー価格は最安で149円を見かけた。
 しかし帰宅の際には見事に180円台に跳ね上がっていた。
原油輸入量が減り、食品や加工品の値上がりに拍車がかかる中で、無駄な浪費だけは相変わらずだ。
 マイカーへの給油制限は考えるべきだろう。トイレットペーパーが消えた第一次オイルショックを知らない世代も増えたが、過去にそうした措置は実際に行われた。あの頃は愛車を休眠させ、デート以外はチャリや電車で通った時もある。
そんな時代が再び訪れようとはねぇ。

東側から眺める伊吹山は美しい姿を見せているが、西側からの眺めは採掘により痛々しい姿を曝け出している。

訪れたのは長良川に注ぐ犀川右岸のさい川さくら公園。
 これから桜が咲く時期になると花見客で賑わうようになる。
今日の目的は桜ではなく、春の山野菜つくしだ。
 春になると毎年摘みに出かけるが、造成が進み、僅かに残った緑地も犬の散歩コースとなってしまい、今年はここまで足を延ばした。 

駐車場(桜まつり期間以外は無料)から対岸の眺め。
 対岸に鎮座する神社は神明神社。

下流に目を転じれば墨俣一夜城、1993年に鉄筋コンクリート造で建てられた歴史資料館。
 大河ドラマで稲葉山城攻略に墨俣一夜城が出てきたばかりですが、実際のところ写真のような天守はなく、複数の簡素な櫓だという資料や、一夜城そのものが存在しなかったとする説もあり幻の城といってもいい。
このあたりは鎌倉街道、美濃街道が通り、ここから少し南に墨俣宿跡や脇本陣もあり、水運・陸路の要であったことは事実だろう。

まだ冬の装いの犀川護岸、草むらの中を注視すると写真のように芽吹いたつくしが頭を出していた。
 既に穂先の開いたものが多いが、少ない雨でも次の準備を整えている。
穂の開いていないものを選んで摘んでも、一回分の春の苦味を味わうには十分な量を摘むことができた。
 原油から作られた肥料を与えられ、温室で育てられた訳でもない、自然の息吹は実に力強い。
それに比べて人の営みは脆弱だ、トランプとネタニアフが起こした混乱は長引くだろう。
 備蓄放出・税金から補填も結構だが、個人的には商用目的・過疎地以外の支援は不要と考える。
消費者もこれまでのような使い方を改める必要に迫られている。
 オイルショック当時はテレワークなんてものはなく、もれなく出社だった。
通勤も距離によって公共交通機関へシフトされた。
 暫定税率がなくなり、燃費のいい車に買い替え、これで一ノ宮めぐりも行きやすくなると期待していたが、今後は公共交通機関で行かざるを得なくなるだろう。
因みにこの日の走行距離は103km、燃費は28.1km、3.6リッターを消費した。

地元野菜の調達と昼食を済ませ、道の駅 クレール平田に立ち寄った際、トイレで見かけたポップを見て落胆した。
「〇月〇日トイレットペーパーが盗まれました」「〇月〇日水栓器具が盗まれました」

墨俣一夜城
所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1

日本三名泉草津の湯と善光寺参道

2026/02/23~24、かみさんが予てから行きたいと言っていた草津温泉に行ってきた。
 白根山の南麓や西麓までは何度か行く機会はあっても、東麓の草津温泉までは縁遠かったが、今回は一泊二日のバスツアーで草津温泉を訪れた。
 ツアーは初日の午後に草津温泉のホテルに直行、翌日までフリータイム。
翌日は、ホテルから長野善光寺を訪れ名古屋に戻る至ってシンプルなもの。
 それにしても名古屋から草津温泉まで約5時間はじつに遠く、一泊二日では温泉三昧といかないかもしれない。

写真は宿泊先の草津温泉ホテルヴィレッジ。
 草津温泉街から少し東外れの森に包まれたロケーションに建てられていた。
こちらに荷物を預け、温泉街を散策に向かう。
 ホテルから1.5km離れた湯畑まで、送迎バスが運行されているので足の心配はない。
私たちは約30分ほど歩き湯畑・温泉街・西の河原に向かう。
 途中、いくつも入浴施設があり、湯巡りもいいだろうが、なにぶん時間が足りない。

ホテルから15分ほどで草津温泉湯畑到着。
 草津温泉といえばこの湯畑、ここを取り巻くようにホテルや飲食店が連なり多くの観光客がここに集まる。
ここでコンビニに寄り、缶ビールを買おうとしたが、ここも大渋滞でレジまでには遠い道のりだった。
 草津温泉のもうひとつの名物は、最寄りの熱乃湯で行われている湯もみショー。
当初は見る予定でいたが長蛇の列で諦め、先に進むことにした。

松むら饅頭。
 湯畑から「西の河原通り」沿いに店を構える「松むら饅頭」。
かみさんは迷うことなく店に吸い込まれていった。
 目的は写真の饅頭で、ほんのりと温かい素朴なものでした。
古い歴史を持つ草津温泉、当地の饅頭の歴史は比較的新しく、「松むら饅頭」の創業は昭和20年(1945)ということだ。
 群馬県吾妻郡草津町草津389。

草津穴守稲荷神社。
 西の河原の入口付近に鎮座する稲荷社で創建は比較的新しく、明治40年(1907)で湯治に訪れ病気平癒のお礼に穴守稲荷を分霊したもので、祭神は豊受姫命。
 群馬県吾妻郡草津町草津

西の河原公園。
 河原のいたるところから湧出し、川全体が足湯といってもいいだろう。
写真は西の河原不動滝と不動明王、滝の上流は西の河原露天風呂。
 群馬県吾妻郡草津町草津。

地蔵堂(目洗い地蔵尊)。
 顔湯の正面に鎮座する堂で、地蔵堂は文化5年(1808)に創建されたもの。
草津温泉を支配した湯本氏の一族・細野氏と深い関係を持ち、かつては「常楽院」と称した修験寺院で、 白根山修験や山号の「葛城山」から、金峯山寺(蔵王権現)との関係も推測される。
 本尊の石地蔵(像高25cm)は木曾義仲の護持仏と伝えられ、草津周辺には義仲にまつわる落人伝説も残る。
寺勢が盛んだった頃は堂宇が多く、門前も賑わったが、明治初期の神仏分離と修験道廃止により衰退し、大日堂は解体、不動堂は光泉寺へ移された。
 境内の湯畑前には「目洗い地蔵」があり、安政期に徳兵衛という人物が夢のお告げに従って目を洗い眼病が治ったことから、その功徳を讃えて建立されたとされる。

 除菌効果のある温泉の湯気を浴びる顔湯は、保湿や美肌効果が期待できるとある。
傍らにコロナ不活化率の比較データがあり、水道水と比較して30倍の効果があるという。
 自分も試してみた、確かに保湿効果はありそうだった。
群馬県吾妻郡草津町草津3

 お肌もすべすべになり、昼間の散策はここまでとして、送迎バスに乗りホテルに戻りチェックインを済ませ、草津の湯を堪能しよう。

ホテルで夕食を済ませ、再びバスで湯畑のライトアップを見に出かける。
 気温も下がり、一面湯気に包まれた湯畑は昼間とは違う幻想的な表情を魅せていた。
クリスマスイルミネーションもこの日が最後ということでフォトスポットとして賑わっていた。
 その夜景の中で、ライトアップされた山門と五重塔が目に止まり足を向けてみた。

光泉寺。
 湯畑を見下ろす高台に鎮座する真言宗豊山派 草津山 光泉寺の寺院。
地蔵堂にあった不動堂が移された寺院でもある。

石段中程の仁王門。

両の間に安置されている仁王像、ライトアップされ昼間とはまた違う威厳を感じさせる表情を魅せていた。

仁王門から先の境内。

手水舎右奥に鎮座するのが不動堂。 

弘法大師像の先が本堂。

光泉寺の開山は養老五年(721)、行基菩薩が草津温泉を発見し、薬師堂を建立したことにはじまる。
 本尊は薬師如来像で有馬・道後と共に日本三大薬師といわれる。

光泉寺は白根明神の別当寺として、正治2年(1200)に草津領主・湯本氏によって再建されたと伝わる真言密教寺院である。
 鎌倉幕府からは地頭職と白根庄の寺領を与えられ、強い勢力を持っていた。
鎌倉幕府滅亡後は南朝方に属し、僧兵を率いて合戦に参加し、護良親王・新田義貞・楠木正成・名和長年・北畠親房ら南朝の重臣が白根大明神に神礼を奉納している。
 その後、南朝衰退に伴い北朝に帰属し、文明13年(1481)には近衛道興の斡旋で勅願寺となり、後花園天皇の勅額や柏原天皇の震翰を賜った。
また宗祇・宗長・近衛龍山らが草津湯治の際に逗留した寺としても知られ、戦国期には光泉寺僧職・草津氏が猿ヶ京合戦で功を立て、上杉輝虎から感状を受けている。

堂内の本尊薬師如来像。
 個人的に寺院の夜間拝観はあまり好まないが、ここまで明るければ忌み嫌う必要はないかもしれない。

本堂左の五重塔。
 建立は令和5年と新しいもので、湯畑からライトアップされたこの姿はよく見え、ランドマーク的な存在だ。

釈迦堂。
 元禄十六年、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願によって建立され、施主は草津村湯本 弥五右衛門。
この本尊は奈良東大寺公慶上人の作。
東大寺大仏修造に貢献のあった玄賀に、上人が大仏内腹の骨木から二体の釈迦像をつくり、その一体を賜ったという。
 玄賀は夢に「藁屋二間四面の堂に安置せよ」とのお告げから、十五年を経て光泉寺境内に建立した。
安置されている像は遅咲き如来と呼ばれている。
草津山 光泉寺
群馬県吾妻郡草津町草津甲446

夜間の拝観を終え、酒のつまみを買い求め、バスでホテルに戻る。

翌朝のホテル周辺の眺め。
 湯けむりの上がる付近が湯畑だろうか。
ここ草津温泉をもって日本三名泉はコンプリートだ。

草津温泉ホテルヴィレッジ
群馬県吾妻郡草津町草津618番地
草津温泉街​散策ルート
二日目は草津から2時間ほど西の長野市の善光寺に向け走り出す。

善光寺 山門。
 キャンプや温泉、ご開帳などで長野を訪れ、おなじみのお寺という感がある。
参拝を済ませ、そそくさと昼食がてら表参道周辺の散策に向かう。
長野県長野市長野元善町492

善光寺参道の一筋西で酒蔵を見つけ吸い寄せられるよう入っていった。

善光寺では土産に酒を買おうと決めていたが、どうかするとお決まりの銘柄になってしまい、散策がてら酒蔵を探していた。
 古い酒蔵を抜けた先は洗練された外観の建物が建っていた。
寛永年間創業のよしのや、代表銘柄は「西之門」。
 飲んだ経験がなく、さりとて試飲もせずに買うのはなかなかできないもの。 

ところがこちらの「西之門よしのや」は、平日ながら試飲ブースではほぼ全種類が試飲できました。
 買う気満々の者にとってはとてもありがたい。
試飲するだけで帰りにくいと思うかもしれないが、それを振り払えば参道のコインで利き酒できるところより、ある意味楽しめる。
 味の好みは人それぞれ、我が家的にはどんな食事にも合う飲みやすいお酒ということで西之門を土産として買い求めた。
にごりの試飲もできたのでこちらも購入。

西之門 よしのや
長野県長野市​西之門町941

左 : いろは堂 おやき
右 : おかき処 寺子屋本舗 ぬれおかき七味唐辛子

参道に店を構える滝屋本店。
 コインを買い求め日本酒やワインの利き酒ができる。
口コミやセールストークで何度も裏切られているだけに、味わって納得したうえで買えるのはありがたい。
長野県長野市​長野元善町482

大切なお酒達をリュックに収め、ほろ酔い気分で集合場所に向かい、名古屋に向かう。
訪問日2026/2/23・24。

旅行から随分時間が経ってしまい、記憶が薄れる前に写真を纏めようとしていて気がついた。
 長野善光寺の過去の記録がまったく残されておらず、それどころか現PCの写真データにも残っていない。
おそらく人の映り込みが多くて見送ったものと思いますが、写真を探し出し今更ながら纏めないとまずい。

五条川の桜とやまむら・もみじ

桜も盛りを迎えた3月27日、用事もあって岩倉の五条川へ花見に出かけてきました。
 この日は風もなく、暑いくらいの陽気。用事を済ませたあと、五条川をのんびりと散策しました。
かみさんは屋台へ、おやじはビールを探し求め、腰を据えて花見と決め込んだ。

物価高の影響で屋台の商品は軒並み1000円札が飛んでいく。
 そんな中、神明太一社の東隣にある地域交流センター「お祭り広場」の屋台は良心的だった。
屋台の缶ビールが600円に対し、こちらでは生のカップが600円、缶なら400円。
 生ビールとつまみを買い求め、腰を落ち着けて今年の桜をしっかり目に焼き付けた。

五条川の桜も老木が増え、枝の伐採も進んでいることから、川面を覆い尽くした往時の姿とは少しずつ変わりつつあるようだ。
 平日ではあったが、堤には円安の追い風を受けた大陸からの観光客が多く、至る所でポーズを取る姿が見られた。
このあと名古屋城の桜も見ていこうということで、名古屋へ向かう。

浅間町に降り立ち、名古屋城へ向かう道すがら、かつて訪れた屋根神さまが町並みから姿を消していた。
 ホテルも様変わりし、周辺の町並みも少しずつ移り変わっている。
関連記事
樋の口町と城西の屋根神様
名古屋城外濠の小社 (3/3) 「樋の口町1 屋根神」

久しぶりの名古屋城。
 とうに姿を消すはずの天守も、いまもなお聳え続けていた。
ここは五条川以上に観光客が多い。
 桜に加え、天守や本丸御殿など、海外観光客に受ける素材が揃っていることもある。

内堀に生息する「やまむら」と「もみじ」の二頭も元気そうだった。
 よその鹿を移送し放獣する話もあったが、妙な理由から中止となり、大阪で捕獲され受け入れ先を探していた奈良の迷い鹿を迎えるかと思いきや、名古屋は手を挙げず、新しい仲間はやってこなかった。
一方で名古屋東部丘陵地では、鹿は普通に害獣として生息している。
 内堀に限らず、鬱蒼とした外堀などに何頭か放してやればいいと思うのだが。
やまむら・もみじは寂しいだろうが、仲間は増えそうにない。
桜が咲き誇る名古屋城を訪れ、豪華絢爛な本丸御殿や特別公開の西南隅櫓も拝観した。
 しかし、おやじには、やまむら・もみじの姿のほうが強く印象に残った。

愛西市大野町郷西 『海東山 廣覚寺』

前回掲載した愛西市大野町の大野神社。
 今回は日光川左岸の蟹江町を超えないつもりでいたが、対岸の愛西市の大野神社まで足を伸ばした。

写真は大野神社の社頭。
 その参道右側に見えている寄棟造の建物が今回取り上げる廣覚寺の本堂になります。
蟹江に戻る道すがら立ち寄ってみた。

社頭から本堂方向に向かうと、そのまま境内に入れ、優美な屋根の勾配を魅せる本堂が現れる。

境内右側に手水舎と鐘楼があり、その背後に山門を構えます。

手水鉢の側面には「寛政七年(1795)」と刻まれていました。
 境内に由緒の掲示はなく、『佐屋町史』や『尾張志』などを調べたところ、かなり古くから続く寺院であることが分かりました。

『佐屋町史 史料編』(1989)には、廣覚寺(大野字郷裏四三)について次のようにまとめられています。

 ■『尾張志』は広覚寺について「大野村にありて海東山といふ。
参州野寺 本証寺の末寺なり。
 文禄年中 (1592~1596) 僧 定善中興す。
もとは古瀬村(現佐織町古瀬)にありしを明暦年中 (1655~1658) ここに移す。
 本尊は阿弥陀如来の木佛像なり」としています。

また、廣覚寺縁起も記載されており、要約すると以下のようになります。
 ■『尾張国海東郡富吉庄大野村にある海東山広覚教寺は、もとは同郡古瀬村にあったが、後に現在の地へ移された寺である。
以来、住職は代々受け継がれ、法灯は絶えることなく、浄土真宗東派の寺院として発展してきた。
 
 七世善龍師は延宝年間(1673〜1681)に本堂を建立したが、時を経て建物は老朽化し、屋根は雨漏りし、堂内も荒廃していた。
これを憂えた当時の住職・香厳権律師は再建を志し、門徒に呼びかけたところ、多くの賛同を得た。
 嘉永二年(1849)、再建事業が始まり、斧入れの儀を経て工事が進められた。
旧堂で報恩の法会を営んだのち取り壊し、新たに基礎を築き、名工の手によって堂宇は完成した。
 同年十一月には新堂において供養と報恩講が盛大に営まれ、寺は再びその威容を整えた。
この再建は、仏祖の加護と住職・門徒の尽力によるものであり、
 今後ますます寺運は栄え、教えも広まっていくであろう。
本記録は、その由来を後世に伝えるために記されたものである。』

■廣覚寺のあゆみ(略年表)
・文禄年間(1592〜1596)僧・定善により中興
・明暦年間(1655〜1658)古瀬村より現在地へ移転
・延宝3年(1675)頃 七世・善龍師により本堂建立
・天保9年(1838)香厳権律師、本堂再建を発願
・嘉永2年(1849)本堂再建(9月完成)・11月供養および報恩講

写真の手水鉢は延宝3年本堂再建後に建立されたもの。
 
■文中の本寺「三州野寺 本証寺」とは、現在の愛知県安城市野寺町にある、建永元年(1206)創建の古刹である。
当初は天台宗の寺院であったが、後に浄土真宗へ改宗し、真宗本願寺派の有力寺院として隆盛した。
上宮寺・勝鬘寺とともに三河三ヶ寺に数えられ、三河真宗の中心的存在であった。
境内は二重の堀と土塁に囲まれた城郭伽藍として整備され、永禄六年(1563)の三河一向一揆では本願寺方の拠点となるなど、戦国期の地域史にも深く関わった寺院である。

上は佐屋町史 史料編に添えられていた弘化4年 (1848) 当時の村絵図(右)と町史編纂時の鎮座地の比較。
 絵図からは大野神社、廣覚寺は読み取れなかった。

■現在では島の印象は薄い土地柄ですが、このあたり一帯は、戦国時代に織田信長と一向一揆が争った長島一向一揆(1570~1574)の舞台にも近く、当時の緊張した歴史の空気を今に伝えている。
 廣覚寺もまた、そうした歴史の中で地域とともに歩んできた寺院である。

本堂正面全景。
 軒先に向け伸び伸びと下る勾配は寄棟造の醍醐味かもしれない。

山門側から眺める入母屋造の鐘楼と本堂。
 梵鐘は見ていないが、年代物かもしれない。
現在の伽藍がいつ整備されたのか定かではないが、氏子や檀家の減少が進む今どきの社寺事情からみると絆は強そうだ。  

山門は切妻瓦葺きの薬医門、右手に「海東山 廣覚寺」の寺標が立つ。 

愛西市大野町郷西 『海東山 廣覚寺』
宗派 / 真宗大谷派
本尊 / 阿弥陀如来
創建 / 不詳
中興 / 文禄年中、明暦年中現在地へ
所在地 / 愛西市大野町郷西256 
参拝日 / 2026/02/14  
大野神社から徒歩アクセス / ​​大野神社社頭東隣​​​
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・愛西市大野町郷裏 『大野神社』 

愛西市大野町郷裏 『大野神社』 

前回の風之宮社から日光川堤を上流の​観音寺橋を渡り、対岸の大野神社に向かいます。
 今回は日光川左岸を境にしていましたが、移動時間は徒歩15分、距離にして約1.0kmほどと近いので足を伸ばして見ました。

日光川に架かる観音寺橋からJR関西本線の眺め。
 水と空の色は随分春めいてきた。

日光川を越え、県道29号線を300m程西に向かい、そこで左に進むと大野神社に辿り着きます。
 社地には目標となる大きな樹々はありませんが、周辺は見通しが効くので神社の存在はすぐに分かる。
写真は常夜灯から境内全景の眺め、ここから100mほど南に鳥居を構えている。

南北に長い社地の右側に写真の手水舎がある。

水は張られていなかったが、大きな龍がいる。

碑文
『大野神社は、鎮守の神・五穀豊穣の神として古くから崇められ、親しまれてきたが、度重なる大地震や伊勢湾台風等、未曾有の大災害に加え、長年の風雪により腐食・老朽化から放置できぬ状態になったため、平成十六年に修復委員会を設置し本殿、祭文殿、拝殿、神楽堂等を新築・造営した。』

碑文には、大野神社への深い感謝と、大野町の発展、氏子の繁栄を願う気持ちが刻まれ、地域の人々の思いが形になった一枚の石碑です。

境内由緒。
『十三等級社 大野神社 由緒
 鎮座地 海部郡佐屋町大字大野字郷裏四五二番地
御祭神 
 神明社 天照皇大神
 八幡社 誉田別命(応神天皇)
 秋葉社 迦具土神
由緒
 創建はあきらかではないが、神明社棟札に、「明和六年(1769)」とある。
八幡社棟札に、「元禄七年(1694)」とある。

 府志に「八幡祠 神明祠 倶在 大野新田村」の記載がある。

明治五年村社に列せられる。
 大正三年、八幡社 神明社、秋葉社の三社を合祀、神明社から大野神社に改称。
天照皇大神は皇室の祖神、国民の総祖神として崇め祀られる。
 誉田別命は護国の神として伊勢神宮と並び二所宗廟と称され、母子神として海人の住むこの地の守護神として祀られた。
迦具土神は火の神、火は水と共に万物生成の霊力を持ち、農耕守護として虫送り等の田の神と火の守護神として祀られた。 
社殿
 本殿・神明造、拝殿、幣殿、神庫。
祭礼
 元旦祭 一月三日
 春祭 二月第一日曜日
 湯立祭 五月十日
 例大祭 十月第二月曜日
 月並祭 毎月十日』

愛知県神社名鑑(1992)は由緒同様の記述でした、由緒の記述が充実しており割愛します。

社殿の全景。
 手前の拝殿と幣殿、神明造の本殿が主な建物で、本殿左に神庫がある。
平成に入り社殿が刷新されたことから、外観は至って綺麗で、整備された境内と相まってすっきりした印象を受けます。

拝殿正面全景。
 拝殿前には一対の狛犬が守護しています。

鎮座地を明治の地図でみると、当時は南側の大野集落の北外れに位置し、ここから北は関西線を越えて水田が広がる眺望が広がっていた。

垂れた大きな耳と、鼻に特徴がある狛犬。

妻壁を見上げる。
 木造瓦葺の切妻造で妻壁の拝殿額は「大野神社」。
妻壁には鳳凰や波などの装飾が見られ、破風を飾る懸魚の鰭も波の意匠が彫られています。

懸魚は外観のデザインポイントでもあり、多様な種類がありますが、大きな目的のひとつは破風板同様躯体の保護の目的で付けられます。
 もうひとつの目的は建物の火除けとしてのまじないの意味もあります。
岐阜の神社には、この部分に魚の装飾を施し、文字通りの魚を懸けた懸魚もあります。
 中心の六葉から突き出た棒(樽の口)にも火伏せの意味があり、樽酒の栓のように水を注ぎだすの意味があり、大棟の鯱や鬼瓦、水と書いた板が載せられるのも同じ思いが込められています。

本殿後方から社殿の眺め。
 神明造の本殿には天照皇大神、誉田別命、迦具土神の三柱が祀られています。

境内から鳥居が立つ参道の眺め、向かってみるか。

社頭から社殿に続く参道の眺め。
 右に見える寄棟の建物は、真宗大谷派の寺院 海東山 広覚寺になります。

大野にはかつて蟹江合戦(1584)の舞台となった大野城があり、ここから南東1kmほどの日光川右岸に城址碑が立てられていますが遺構などは残っていません。
 今回は日光川左岸の風之宮社を境としていただけに、これ以上西に進むのは別の機会にします。
来た道を戻り、尾張温泉で湯に浸かることにします。

愛西市大野町郷裏 『大野神社』
祭神 / 天照皇大神、誉田別命、迦具土神
創建 / 不詳(旧社名の神明社棟札に1769年と記される)
境内社 / ・・・
例祭 / 10月第2日曜日
氏子域 / 大野町
所在地 / 愛西市大野町郷裏452番地
参拝日 / 2026/02/14  
風之宮社から徒歩アクセス / ​西に向かい、​観音寺橋で日光川を渡り、大野神社まで約1.0km、徒歩15分​​
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