社宮司神社

名古屋市東区芳野2
名鉄瀬戸線尼ケ坂」駅から高架沿いに東に10分程歩き、信号を右に曲がると市バス「杉村町」停があります

f:id:owari-nagoya55:20200809034404j:plain「社宮司神社」はこのバス停の前に鎮座しています。
名鉄瀬戸線だとこの辺りは「尼ケ坂」駅と「森下」駅の中間に位置し、どちらから来ても大差はない。
名鉄瀬戸線の前進は1905年に開通した瀬戸電機鉄道で1939年に名鉄(名古屋鉄道)と合併し現在に至っています。
かつてはここに「社宮祠」駅があり、駅名にあるように社宮司神社へのアクセスは非常に良かった。
往時のこの駅は参拝客の利用が見込めたのだろう。その駅も合併から5年ほどして廃駅の道を辿ったようです。現在の様に高架となったのは1990年と比較的日が浅い。

f:id:owari-nagoya55:20200809034430j:plain最寄り駅ができるほどだった「社宮司神社」さぞかし簡単にわかるだろうと高を括っていた。
ところが実際は義市稲荷を過ぎても神社らしき建物はなく、道行く方もいなかったので聞くに聞けず何度も行ったり来たり。
周囲は住宅ばかりでひょっとして社くらいは見えないか見渡してみる。
バス停の前のこんもり茂った木々の隙間を覗くと社の扉らしきものが。
鳥居も社号標もなく、民家の杜の中に社が鎮座していた。

f:id:owari-nagoya55:20200809034542j:plain

呼び鈴を鳴らしてもいいのだろうが、こうして訪れる側は初めてかも知れないが、住んでいる方にすれば正直「またかい?」と感じるはず。
賽銭を入れ、チャチャッと参拝させて頂いて引き下がる事に。
戻る際に車の陰に隠れるように石標があり、狭くて写真に納められなかったけれど見せて頂きました。
社号標と思いきや 「伊斯許理度売命」と彫られていた。

「いしこりどめのみこと」は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神、八咫鏡(やたのかがみ)を作った天糠戸(めのぬかど)の子とされる神。
古事記では伊斯許理度売命日本書紀には石凝姥命や石凝戸邊命と表記される、鉄鋼、金物業の守護神で延命長寿にもご利益があるという。

岩戸隠れでは、天照大御神が引きこもってしまい、それにより世の中は暗に包まれてしまう。
困った八百万の神々、引きこもりの天照を岩戸から外に連れ出そうと闇の中で天宇受売命の妖艶な踊りを始め賑やかに宴会を始め、天照の気を引こうと画策した。
顔を出した天照に八咫鏡(やたのかがみ)を差し出し、それに興味を抱いて顔を見せた天照を手力男命が一気に引っ張り出し、世の中は再び明るさを取り戻した。
世の中に光を取り戻すための重要なアイテムが八咫鏡

以前掲載した「日前神宮國懸神宮」​の御神体日像鏡日矛鏡」は八咫鏡に先立って鋳造されたものとされるそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20200809034657j:plain宮司神社の創建は不明。

写真は社宮司神社からひと区画ほど南の​義市稲荷。
この稲荷はここに屋敷を構えた名古屋藩付家老の竹腰正信の屋敷に祭祀されたのが始まりで、社宮司神社は屋敷の東北の鬼門に建てられたのではないかという。
当時をイメージさせる古図はないものか、探して見たけれど探しきれませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200809034719j:plain上は瀬戸電機鉄道時代の周辺と現在ですが、大正時代の当時ですらどの程度の伽藍だったのか、社地も特定できませんでした。
今は民家の庭の奥に鎮座する形ですが、現在よりは社地は大きかったと思われます。
もし鬼門として鎮座されたものであれば江戸時代まで遡る由緒ある神社。

宮司神社 
創建 / 不明
祭神 / 伊斯許理度売命
住所 / 名古屋市東区芳野2
公共交通機関アクセス / ​名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅から東に10分
関連記事 /  「日前神宮、國懸神宮」 ​義市稲荷社

『日本橋』東京都中央区

東京都中央区日本橋

f:id:owari-nagoya55:20200807182552j:plain桜が待ち遠しい時期でもあり、COVID19の足音が忍び寄ってきたころ、かみさんと日本橋を訪れた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182623j:plain仕事で訪れ、ここを通りかかっても、立ち止まって景色を眺める事などあまりなかった。
空を覆うように首都高が伸び、周囲はビルばかりで殺伐とした人工的な風景と色合いの広がる世界は、立ち止まる事より、とっと帰ろうとしか思えなかった。
かみさん主催「おのぼりさんツアー」の目的地の中に日本橋近くでおでんを食べるために改めて日本橋を眺めてみた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182700j:plain首都高につながれてそそり立つ柱。
「道路元標地点」と鋳印された柱は、家康が各地を結ぶ目的から整備を進めた五街道(東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道)、ここ日本橋は1604年(慶長9)にそれらの起点に定められた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182722j:plain二本の高速道路の高架に連結するように脚が付けられ、中央から柱が上に伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20200807182744j:plain日本橋の親柱の「麒麟
かみさんは東野圭吾の大ファン、ここに来たら「麒麟」は撮っておかなきゃいけないと教えられ一枚。
麒麟の翼」が映画化された時にこの「麒麟」像が登場したようです。
翼が付けられた麒麟、躍動感があり凛々しい姿です。
東京市の繁栄を願い麒麟が設置されたようですが、翼が付けられた麒麟の姿はここから世界に羽ばたこうとする願いもあるのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200807182810j:plain

明治に入り、橋の中央が全国の国道の起点と定められ、佐藤栄作により文字の刻まれたブロンズ製の元標が橋の中央の車道に埋め込まれています、車道のため実物は見れませんが橋を渡った橋詰にそのレプリカがあります。

ここから西へ国道1号線(旧東海道)が東北に国道4号線(日光街道奥州街道)が伸びていきます。
国道6号線(水戸街道)、国道14号線(千葉街道)、国道15号線国道17号線(中山道)、国道20号線(甲州街道)など、今も昔も要となる道路の起点は日本橋から始まっています。

上は江戸名所図会の日本橋の光景、日本橋川を行き交う船、そして人。
船は車に代わっても人の往来の多さは今も変わらないようです。

f:id:owari-nagoya55:20200807182842j:plain橋の手前に中央区教育委員会の解説板があり、それによれば
国指定重要文化財日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。
橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重歌川広重)の錦絵でも知られています。
現在の日本橋東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。
橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。
橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

f:id:owari-nagoya55:20200807182923j:plain今の時代にあって文化財にも指定されない古いものは取り壊され、無機質な新しいものに変えられていくそうした風潮には寂しいものがある。
空を覆う高速は東京が羽ばたいた証なんだろうが・・・・・
2020/2/20

日本橋
住所 / 東京都中央区日本橋室町1-1

「紀伊國一之宮 伊太祁曾神社」

和歌山県和歌山市伊太祈曽
伊太祈曽神社』の社頭を目の前にしてローカル線の遮断機が下りるとはなんて不幸な、運転主は内心そう思っていた。

f:id:owari-nagoya55:20200804173749j:plain 踏切の左に「わかやま電鉄貴志川線」の「伊太祈曽」駅があり神社の社名がそのまま駅名になっている。
姿を現したのは電車を擬人化したキャラクターが描かれたラビング車両。
このキャラクター「チャギントン」と云うらしい、トーマスくらいはついていけるが、チャギントンは全くついていけない・・・・。

白い車両に赤いキャラが描かれなかなかかわいい、停車中に思わず一枚。
なんでも、わかやま電鉄の親会社が岡山電気軌道で、親会社がチャギントンのラビング車両を展開し、そのPRのため、子会社のわかやま電鉄でもこの貴志川線にラッピング車両を走らせているとか。
以外とラッキーな出逢いだったのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200804173817j:plain 踏切を超え、県道9号線を南進する、和田川に架かる赤い常盤橋を越えると紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」の一ノ鳥居、右に社号標。
駐車場は参道を進んだ右に広大な駐車場あります。
なので社頭辺りはスルーすることになります。 

f:id:owari-nagoya55:20200804173840j:plain駐車場に車を停め、一ノ鳥居まで戻ってきました。
鳥居前の常夜灯は安永時代(1772~1781)の物。
左に紀伊國一之宮伊太祈曽神社の由緒書き。
祭神は木の神、五十猛命(いたけるのみこと)で、国土緑化の神ともされる。
妹神の大屋都比賣命(おおやつひめのみこと) 、都麻津比賣命(つまつひめのみこと)と共に全国の山々に木を植えて緑豊かな国土を造られた神。
脇殿にはその妹神が祀られています。
また、浮船を造り漁の技術を教えた事から漁業関係者の崇敬も篤いそうだ。
ここは五十猛命を祀る全国の神社の総社・一宮で林業・漁業のみならず厄除け祈願に訪れる方も多いようです。

f:id:owari-nagoya55:20200804173905j:plain 社頭から一ノ鳥居の眺め。
訪れたのが2020年6月末だった事から天気は期待していなかったが、雲は多いものの汗ばむ陽気。

f:id:owari-nagoya55:20200804173932j:plain 鳥居をくぐったすぐ左に櫛磐間戸神社 。
櫛磐間戸命、豊磐間戸命を祀り、神社の入口の守護神で、親しみを込め「門神さん」として崇敬されているそうです。 

f:id:owari-nagoya55:20200804173955j:plain 一ノ鳥居から緩やかに上る参道を進む。
左手の小高い森は「伊太祁曾古墳」で丘の頂に続く道の入口に「ときわ山古墳」の看板。
古墳を分断するように切通があらわれます。
古墳まで20㍍とある。寄り道したいが、ここは神社に参拝し帰りに寄ろう。
ニノ鳥居はその右に建つ。

f:id:owari-nagoya55:20200804174018j:plainニノ鳥居から拝殿の眺め。
ここで狛犬に出逢う。

f:id:owari-nagoya55:20200804174038j:plainニノ鳥居で守護する柔らかい質感のある石で彫られた狛犬

f:id:owari-nagoya55:20200804174059j:plain 赤い橋の先に境内が広がり、城壁の様に積まれた石垣の上に拝殿が建っている。

f:id:owari-nagoya55:20200804174119j:plain 橋を渡った左に手水舎。
訪れた当時はまだ手水は開かれていました。

f:id:owari-nagoya55:20200804174142j:plain 大きな杉や檜を背にして建つ割拝殿。
外観はまるで城のイメージ。

f:id:owari-nagoya55:20200804174206j:plain 平らな石を多用し乱積みされていながら、長短交互に積まれた石段脇の角石など遠目から見ても綺麗な石垣で、石材も花崗岩に比べると少し青味のあるものが使われ温かみを感じる。

f:id:owari-nagoya55:20200804174230j:plain 割拝殿の石段を上ると正面に本殿。
本殿域は檜皮葺の透塀に囲まれ、本殿と脇殿に其々に拝所がある。

f:id:owari-nagoya55:20200804174252j:plain 拝所から本殿域を眺める。
右脇殿と本殿共に檜皮葺の流造のようで3本の鰹木と外削ぎの千木が見える。

f:id:owari-nagoya55:20200804174318j:plain 拝殿全景、内部にはチェーンソーで削り出された干支の置物や、「木俣くぐり」と呼ばれる大きな切株があり、その下をくぐる事で厄払いができると云う。

f:id:owari-nagoya55:20200804174345j:plain 本殿右の寄棟の建物。
すぐ脇に本殿域に繋がる門がある神饌所か?額もなく用途は不明。

f:id:owari-nagoya55:20200804174420j:plain 一番右の建物、なんとなくお寺の宿坊のような佇まい、有功殿と額はあるがこちらも用途は不明。
神宮遥拝所、冠木鳥居の先にはお伊勢さんという事です。

f:id:owari-nagoya55:20200804174447j:plainさて右脇殿から参拝していきます。
都麻津比賣命(つまつひめのみこと)を祀る社。

f:id:owari-nagoya55:20200804174515j:plain 本殿。
五十猛命(いたけるのみこと)を祀り、平成に入り手が掛けらています。
手前の小さな狛犬はその時に奉納されたものなのか新しいものに見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200804174542j:plain 左脇殿は屋都比賣命(おおやつひめのみこと)が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20200804174609j:plain 蛭子神社
境内左にある切妻平入の社、社の左に「おさる石」と呼ばれる霊石が安置されています。
この石を撫でれば首から上の病に霊験あらたかとされるそうです。
右には木彫りの龍が安置されている。

蛭子神社は明治の合祀令により、伊太祁曾神社の氏子区域内で祀られていた産土神をここに合祀したもの。二十二の神社がそれぞれの社名で祀られている。

f:id:owari-nagoya55:20200804174636j:plain 左脇拝殿の左に気生神社。
伊太祁曾神社の祭神である五十猛命の荒魂を祀った摂社がある。

荒魂は神の荒々しい側面の荒ぶる魂である。
昔の映画「大魔神」優しい姿から鬼の様な形相になり悪を懲らしめたあの状態。
和魂はその逆で優しく平和的な側面の魂で本殿にはこの和魂が祀られている。

こうした側面は誰しも持っていますよね。
我が家のかみさんの荒魂が現れると近付き難く、和魂に戻るには頭を垂れ、ひたすら拝むしかない。
当然禍の元は自分にある。

f:id:owari-nagoya55:20200804174702j:plainこのあたりは和歌山県の南東にあたり、周囲を山で囲まれた所謂盆地で山東盆地と呼ばれる緑が残る田園地帯で伊太祁曾神社はその西の丘陵地に鎮座します。
旧称は山東宮と呼ばれた紀伊國一之宮で社伝によれば古くは「日前宮」鎮座地に祀られていたとされる。

垂仁天皇16年に日前神・国懸神を同所で祀ることになり、その地を明け渡したとされ、その際、現在の鎮座地近くの「亥の杜」に遷座和銅6年(713年)に現在地に遷座したとされる。

杉や檜が取り囲む静かなこの空間、雑念まみれの自分の気持ちが妙に浄化されていくような気が。

f:id:owari-nagoya55:20200804174726j:plain 割拝殿から渡廊で続く常盤殿左の石垣脇に神明鳥居が建っています。
切通の先は水の神さまと井戸の神さまをお祀りする御井社に続く。
鳥居からは50㍍程下った左に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20200804174750j:plain 本殿の建つ頂の裏斜面を下り切ったあたり、ここから本殿は見上げる程の高低差があります。
御井社の前の井戸は「いのちの水」と呼ばれ、今も枯れる事無く水が湧いています。 

f:id:owari-nagoya55:20200804174817j:plain 「いのちの水」
飲むと活力を得ると伝えられ、飲料水や料理に使うため、汲みに来られるそうだ。
また、病にかかった人は元気が蘇る霊力を持つと信じられているそうです。
社に向かい手を合わせた後に「いのちの水」を頂く作法です。
御井
祭神は彌都波能売神(みずはのめのか)、御井神(みいのかみ)を祀ります。

f:id:owari-nagoya55:20200804174842j:plain 祇園神
御井社を後に鳥居まで戻り更に左に向かうと石段の先に祇園神社の明神鳥居があります。
ここは石段を登ります。

f:id:owari-nagoya55:20200804174910j:plain 石段途中の左に注連縄が張られた磐座がある。
解説によれば「須佐之男神と五十猛神高天原から天降る時、新羅(韓国)の曾尸茂梨(そしもり)に降り立ちますが「この国には居たくない」として船を造り東に渡り出雲の簸川上の鳥上峯に至ります。

後に須佐之男神は大蛇を退治、五十猛神は妹神と共に日本全国に木を植えて廻り全て青山となした。
日本書紀には五十猛神はその功績から有功之神と称えられ紀伊國にお鎮りになった。
この岩は奥出雲の鳥上峯(船通山)の磐座で、彼の地を拝む縁とするため祇園神社の社前に祀られたもの」

当初降り立った曾尸茂梨は今も定かではないようです。
その右の石段の先が祇園神社。

f:id:owari-nagoya55:20200804174935j:plain 樹々に囲まれた小高い丘の頂に鎮座する祇園神社。
ここも何か特別な空気が漂う空間です。

f:id:owari-nagoya55:20200804175000j:plain 祭神は五十猛命の父神である須佐之男命、天照大神、埴安姫神(はにやすひめのかみ)が祀られ、
神社合祀令により氏子区域内に祀られていた祇園社四社(塩ノ谷、明王子、山東中、奥須佐)も1902年に合祀されている。
流造の社殿は傷みもない、平成に入り手が掛けられたようです。
大きめの社とはいえ、多くの神が収まるには多少三密気味か?賑やかで逆にいいか?

f:id:owari-nagoya55:20200804175024j:plain常盤殿
参拝者駐車場から割拝殿方向に進むと最初に目につく建物。
和歌山県では結婚式に餅撒きを行うものらしく、ここの二階から訪れた参列に幸せのお裾分けを行うようです。

緑豊かな水田地帯、小高い山に鎮座する紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」、日常の雑念から解き放ってくれる、静かで落ち着いた佇まいの神社。

f:id:owari-nagoya55:20200804175050j:plain
 紀伊國一之宮「伊太祁曾神社
祭神 / 五十猛命(いたけるのみこと)
左脇殿 / 大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)
右脇殿 /  都麻津比賣命(つまつひめのみこと)
創建 / 和銅6年(713年)
境内社 / 櫛磐間戸神社 (櫛磐間戸命、豊磐間戸命)、蛭子神社、気生神社(五十猛命荒魂)、御井
(都波能売神、御井神)、祇園神社(須佐之男命、天照大神、埴安姫神祇園社四社)
住所 / 和歌山県和歌山市伊太祈曽

関連記事 / 紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮 / 紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡り、紀三井寺の秘仏特別御開帳 

公共交通機関アクセス / JR大阪駅から紀州路快速「和歌山」駅下車→和歌山電鐵貴志川線伊太祈曽」駅で下車

願いを叶える七尾の亀 『七尾神社』

東区白壁2  

f:id:owari-nagoya55:20200801104424j:plain東にマンション、西に高校、周囲は閑静な住宅街の続く白壁の街に鎮座する 七尾神社。

f:id:owari-nagoya55:20200801104446j:plain社頭入口の神社解説板、ここは東区の史跡散策路の一つになつているようです。

「亀尾天満宮、七尾天満、七尾天神とも呼ばれ、菅原道真を祭神とする。
1501~04年(文亀年中)、七尾の亀が道真の木像をここに運んだという伝説があり、社名の由来となっている。
1504~21年(永生年中)社殿が造営された。
桜天神と共に学問の神さまとして崇敬が厚い。
1909年(明治42)7月の火災で木像、その他宝物を焼失した。 名古屋市教育委員会

・・・・・とあります、創建は那古野城築城以前ということだ。

f:id:owari-nagoya55:20200801104511j:plain

尾張名所図解を開いてみる、七尾天神として当時の様子が描かれていた。
周囲は木々が生い茂るだけの寂しい環境の中に妻入り拝殿と本殿があり、右には稲荷、もう一つ社が描かれている。

f:id:owari-nagoya55:20200801104533j:plain七尾神社社頭全景。
尾張名所図解で描かれた当時と比べ伽藍は随分とこぢんまりとしている。
1872年(明治5)に七尾天神から現在の七尾神社に名を改め、第二次世界大戦では名古屋城の近くでもあり、空襲により伽藍も宝物も焼かれてしまい、その後に入って再建されたものが現在の姿。

f:id:owari-nagoya55:20200801104615j:plain境内左に手水舎、参道石畳の先に神明鳥居と狛犬、臥せ牛があり、その先が拝殿となっています。

f:id:owari-nagoya55:20200801104637j:plain手水舎全景。

f:id:owari-nagoya55:20200801104708j:plain自然石の手水鉢に龍がいます。
その後方には瓢箪型の小さな池があります。
弁天様でも祀られているのかと思いきや、どうやら違うようです。

f:id:owari-nagoya55:20200801104736j:plain七尾の亀
小池の中央に亀の象、その尻尾は七つに割れています。
この亀の甲羅に七度水を掛けて願を掛けると願いは叶うとされ、合格祈願、厄除け、生育祈願にご利益があるとされる。

f:id:owari-nagoya55:20200801104802j:plainこの七尾の亀については『尾張名所図会』にも描かれていました。
そこには「七尾天神出現の図」として七尾の亀が背中に道真像を乗せ、修行僧と出逢うシーンが描かれています。 
七尾天満宮亀尾山永正寺として以下の様に記されている。
「志水の西、成瀬家の中屋敷の内にあり。
真言宗長久寺、永正年中の建立にして天満宮社僧なり、菅神の霊像は文亀年中七尾ある亀に乗り給ひて、此側なる山林の石上に出現ありしかば、永正改元の頃社を建て安置せしよし。
当寺縁起に見えたり、本地十一面観音は行基の作・・・・・」とある。

創建時は真言宗の寺で亀尾山永正寺と称し、江戸前期は成瀬家の祈願所であったようです。
では永正寺はどうしたというと、現在周辺に寺はなく神仏分離により廃寺となり七尾天神社のみが残ったのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200801104836j:plain鳥居から先の境内。
街中にあって短いけれど真っすぐに続く石畳は気持ちいい。
周囲のマンションに囲まれ、樹々が少ない境内に切妻のシャープな拝殿が佇む姿に違和感はない。
右手に絵馬掛けと小さな鳥居が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200801104901j:plain参道の狛犬
御影石で立耳の見慣れた姿ではなく、砂岩から彫られた垂れ耳で日焼けしたねりで、質感が温かくフォルムが滑らかで好みの姿です。

f:id:owari-nagoya55:20200801104927j:plain次は伏せ牛(奉納大正14年)。
道真と云えば彼らはつきものです。
体調がすぐれなければその部分を撫でる、しっかり撫でてお参りすれば願いは叶う。
もちろん努力も求められる・・・・・賽銭の金額で彼らは忖度されない、頑張る姿を彼らは見ている。

f:id:owari-nagoya55:20200801104950j:plain軒下に飾られた奉納絵馬と木うそ。
道真と鷽(うそ)はつきもので、諸説あるけれど「菅原道真が蜂の大群に襲われた時、鷽の群れが蜂を食べ尽くして道真を救った」とか言われ、天神社や天満社では嘘が真になるという嘘変え神事が行われるようになったと云われます。また、狛鷽もあるようで、この禍が落ち着いた暁には尋ねて見たいものです。

f:id:owari-nagoya55:20200801105017j:plain拝殿内の眺め。
梅の紋が咲き誇っています。

f:id:owari-nagoya55:20200801105045j:plain拝殿右に梅紋の入った賽銭箱。

f:id:owari-nagoya55:20200801105113j:plain提灯には筆塚社とあり、その先に筆の形の石柱が建っている。
右には皇居遥拝所の石標。
なのでこちらが東になる、まさか西という事はないだろう。
最近地下鉄から地上に出たり、細く入り組んだ道を歩いていると方向感覚が狂う時がある。
まともに太陽を拝んでいない事もあるのだろう、梅雨の間はコンパスが離せなくなってきました。

筆塚の奥から本殿は見られますが、本殿裏手の北側の小道に回り込むと内削ぎの千木と鰹木が飾られた神明造の本殿を見ることができます。

f:id:owari-nagoya55:20200801105136j:plain境内右手の紫陽花の陰に古い手水鉢が残されていた、年代は見ていないけれど「七尾天・・神?」と推測できます、天神社になる以前に使われていたものだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200801105200j:plain拝殿から社頭の眺め。
今はすっかり景観も変わってしまったけれど、道真を載せた七尾の亀は今も健在。

七尾神社
創建 / 1504~21年(永生年中)
祭神 / 菅原道真 
住所 / ​名古屋市東区白壁2-28-19
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「市役所」駅から北方向へ徒歩約15分程

吉田城址

吉田城址


f:id:owari-nagoya55:20200730142256j:plain 春日井市下条町の八幡社で吉田城址を公園整備中複数の大きな石が見つかり、神社に一つ移されたとあったことから訪ねて見ました。
八幡社から北に向かい王子町の交差点で西方向に向かいます。

この周辺で遠景写真を撮ると必ず写り込んでくる製紙会社の赤白の煙突。
ここまで来ると見上げる高さに迫ってきます。春日井のランドマークと云っても過言じゃない。

この工場が稼働を始めたのは昭和27年頃、当時は田畑が多く長閑な景観だっただろう。
名古屋のベットタウンとして宅地化が進み、現在は工場を取り囲む様に住宅が広がっています。

f:id:owari-nagoya55:20200730142319j:plain 上は1894年(明治24)頃と現在のこの辺り移り変わり。
現在の下条公園が赤のマーカーになります。
明治の頃にして既に地図上に城の痕跡はないようです。
以前訪れた上条城址には石積みなどの遺構を見ることができましたが、吉田城址に遺構らしきものは皆無。

f:id:owari-nagoya55:20200730142346j:plain 下条公園から北の眺め、この正面に施錠された石碑がありますが、それは公園の竣工碑。
竣工碑、柵で囲って施錠までするんだ。
という事で城址の碑はどこよ。

f:id:owari-nagoya55:20200730142409j:plain 吉田城址の碑は公園の南側の東角に建てられていました。
囲いもなく、間近で見ることができます。
とはいえ碑だけしかないのですが。

f:id:owari-nagoya55:20200730142433j:plainこの碑の台座になっている大きな石、根拠はないけれどこれも公園整備で見つかった岩が使われているのかな。
吉田城
室町時代に築城された日本の城(平城)。
但馬国で出生した小坂吉政(1466年(文正元年)~ 1517年(永正14))が但馬から、応仁の乱の頃に京都に入り織田敏定の家臣となり尾張国に入った。
当初奉行所として館を建てた事が城の始まりのようで、やがて土塁や堀を築かれ、当初は柏井城と呼ばれていたらしい。
その後吉政が吉田孫四郎吉政と改名したので吉田城と名乗るようになった。

1554年(天文23)の清洲攻めの際、当時の城主であった小坂正氏が清洲城の南西で討死。
跡継ぎのいない正氏死後、城は放置されていた、織田信長は前野宗吉の母の生家だった、小坂家と城を継がせ、小坂孫九郎尉雄吉と名を改めた。
こうして小坂雄吉は、ここ吉田城と上条城の城主になっていった。
信長亡き後の1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いに於いて羽柴秀吉が休戦と引き換えに官職を解き、吉田城や上条城、小牧にある諸城の取り壊しを命じられ廃城になった。
現在はそれを伝えるこの石碑のみがかつてここに城があった事を伝えています。

小坂雄吉のその後についてはよく分からない。

吉田城の絵が欲しいところですが生憎見つけきれません。
「勝川郷土資料館」に古い地籍図などが展示されているようなのでこちらを訪ねると城の痕跡が見られるかも知れません。

吉田城址

築城 / 室町時代
初代城主 / 小坂吉政
遺構 / なし

住所 / ​春日井市下条町3-10-4
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅から南西に徒歩30分
下条 八幡社からのアクセス / ​八幡社から北へ王子町の交差点を西に
関連記事 / ​春日井市下条町 八幡社​  『上条城址』春日井市上条町

春日井市下条町 『八幡社』

春日井市下条町795
八幡社

f:id:owari-nagoya55:20200729012954j:plain

 県道30号線を春日井方向に向かい、中切町交差点から次の信号機のある交差点が目的地「八幡神社」の社頭。
交差点の角から北に向かい参道が続くけれど、県道から少し奥まった場所に社号標と鳥居があるので、車で訪れると分かり辛いかもしれない。
徒歩だとJR中央線春日井駅から南西の下条町に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20200729013016j:plain 参道両脇はこの様に並木が出来ていて、その先には蕃塀が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20200729013040j:plain 並木を過ぎると公道の先に境内が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20200729013102j:plain 境内の西方向の眺め。
社地の一部が公園になっていて、その先にお堂のような建物も見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200729013127j:plain 境内は左が社務所、中央に蕃塀があり、拝殿の屋根しか見る事は出来ません。

f:id:owari-nagoya55:20200729013155j:plain 石段右の石像
風化により輪郭がはっきりしませんが、役行者の様に見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200729013217j:plain 蕃塀
社殿の容姿は番塀が遮り見通しは利きません。

f:id:owari-nagoya55:20200729013245j:plain 社殿全景
伽藍は瓦葺妻入の四方吹き抜け拝殿と一段高くなり幣殿、本殿。

f:id:owari-nagoya55:20200729013312j:plain 参拝の前に伽藍を見て行きます。
まずは拝殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200729013333j:plain 幣殿前の狛犬

f:id:owari-nagoya55:20200729013354j:plain 幣殿。

f:id:owari-nagoya55:20200729013415j:plain 渡廊から続く本殿は流造。
祭神は應神天王。
左右に脇社が祀られ、右の板宮造の赤い社は天王社だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20200729013440j:plain 左に神明造の脇社。
こちらも社名札がなく特定はできませんでした。

八幡社の境内をひと回りしましたが、創建年度や由緒等の記載は見当たらず詳細は不詳。

f:id:owari-nagoya55:20200729013507j:plain 拝殿の外観はシンプルですが、各所に彫飾りが施されています。
特に妻の部分に彫られた龍の飾りは手間がかかっています。

f:id:owari-nagoya55:20200729013528j:plain 上から龍の視線を感じながら参拝させてもらいます。

f:id:owari-nagoya55:20200729013553j:plain 境内西側から見た社殿の眺め。
左側に玉垣で囲われた一画、その奥の杜の中に屋根が見えます。
境内の拝殿前などには大きな岩が置かれています。

ここから西に下条公園がありますが、ここに吉田城(現在は碑のみ)があり、遺構などは残ってはいませんが、公園の辺りは本丸が築かれていたそうです。
跡地を公園に整備する際の工事で跡地から大きな石が数個見つかったそうです。
そのうちの一つが八幡社にあると云う。
それらしい岩は確かにあるけれど、残念ながら由緒や解説がなくどれがその石なのかまではよく分かりませんでした

f:id:owari-nagoya55:20200729013618j:plain
玉垣で囲われた一画の中央に黒地に白の模様が入った岩が祀られています、磐座なのだろうか。
それとも吉田城から移された石がこれなのか、 玉垣で囲うだろうか?

杜の中の祠
祠の中には小さな社と複数の石が安置されているものの、詳細は分からなかった。

f:id:owari-nagoya55:20200729013644j:plain 杜の中から磐座、蕃塀方向の眺め。
社殿を取り囲む様に杜が作られ、それは鬱蒼とした杜ではなく風も通り解放感を感じる。
社地の一画は公園になっていることもあり広くて解放感を感じます。
梅雨のこの時期、僅かに自生する苔の緑が鮮やかです。

f:id:owari-nagoya55:20200729013706j:plain 公園の外れにある下条観音堂
西国三十三所巡礼の証として祀らた観音像が多数安置され、大正時代の物も見受けられます。

f:id:owari-nagoya55:20200729013733j:plain 鳥居(1916年建之)から国道を眺める。
この周辺には他にも複数の八幡社等の寺社や城址点在し、寄り道が多くなる地域。

八幡社
創建 / 不明
祭神 / 應神天皇
住所 / ​春日井市下条町795
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」から​南西に徒歩で約30分

主税町 屋根神さま

主税町筋を国道19号方向の東に進むと、城下町の名残を留める棟続きの建物が僅かに残る区域があります。
国道19号線からなら平田町北交差点を西に入ったあたりになります。

f:id:owari-nagoya55:20200725082347j:plain 「主税町」なんて読むんだぁ?と思った方もいると思います、これで「ちからまち」と読みます。
町名の由来は尾張藩士の野呂瀬 主税助(ちからのすけ)が屋敷を構えたことから付いたとされます。

f:id:owari-nagoya55:20200725082408j:plainこうした趣のある町並みには雨が似合う。
街中にあって静かな通りはしっとりとした落ち着いた雰囲気が漂います。
こうした道筋には軒の神さまとの出逢いがあったりして歩く楽しみにもなり、ついつい軒下に視線が行きがちになります。

f:id:owari-nagoya55:20200725082433j:plain 東区主税町4丁目来ると以前は軒下に祀られていたであろう屋根神さまが一階軒下に祀られています。
地上から高く積まれた台座の上に祀られた社、その中には提灯も吊られ今も現役の様子。

f:id:owari-nagoya55:20200725082456j:plainこの社がこの状態で祀られるようになったのかは定かではありませんが、棟続きの住宅が立ち並んでいた頃には、町内の災い除けとして見通しの良い二階の軒下から町内を見守っていたと思います。

そうした光景も時の移り変わりと共に、棟続きの住宅は歯抜けになり廃社になったり、社の手入れをされる方の高齢化に伴い、梯子を使ってお世話をするのも難しくなる。
住環境の向上を図れば、屋根神さまの居場所は変わっていく。
そうして見ると、ここ主税町4丁目の屋根神さまは恵まれているのかも知れない。

地に下りた屋根神さまは人目に付く、社の前を通りがかった際に小さな我が子から「これなに?」と聞かれたら説明も必要だろう。
その内容によっては、子供なりにこの箱の捉え方が違ったものになるのかもしれない。

余談になりますが、昨年諏訪湖周辺を訪れた時の事、集団登校の小さなグループを見かけました。
道端のお地蔵様の前でペコッとお辞儀をしていく光景を見かけ、それが今も印象に残っている。
親や地域の人から、彼らがそうしたくなる上手な説明がされているのだろう。
さあ、この箱を子供に尋ねられたらどう回答しようか? 

f:id:owari-nagoya55:20200725082519j:plain 話を戻して、こうして住宅が集まると、地域の厄除けとして津島神社、火伏の秋葉神社、地域の氏神様を祀り、屋根神さまを中心に神社当番の様な町内の人の結びつきが生まれていきます。

f:id:owari-nagoya55:20200725082539j:plain

 何かを中心に住民のコミュニケーションが取れている間はいいけれど、それがなくなると意外にご近所様の顔や名前も分からなくなるのは早いものです。

姿を消す屋根神さまが多い中、ここはそんな心配は当分なさそうです。

主税町 屋根神さま
創建 / 不明
祭神 / 秋葉社熱田神宮、津島社
住所 / ​名古屋市東区主税町4丁目​   ​屋根神から5分
関連記事 / 屋根神さま