​丹羽郡大口町『秋田 神明社』

前回掲載した金刀比羅社から東へ、一筋目を左折したその先に鎮座するのが秋田 神明社
金刀比羅社からだと2分程の場所になる。

写真は鎮座地南から北側の社地全景。
鎮座地周辺は田畑が多く残り、隣家とは余裕をもって建てられた民家が点在する長閑な住宅地。

明治から現在までの地図には秋田 神明社は一度も現れてこないが、Gマップ上では鎮座地は示されています。
祭神は天照大御神で、神社の由緒・創建時期など詳細は良く分からなかった。

社殿は南向きに建てられ、石の明神鳥居と左に木造の朱の鳥居を構えています。
前回に引き続き大口村史から秋田 神明社を探すと以下内容が確認できた。

神明社
大字秋田字宮東86番地。
 長桜の郷の端に鎮座し、祭神は天照大神
兵火にあい、勧請年月は詳らかではないが、当字鈴木鈴木一族10戸の氏神として崇敬が篤かったが、近来長桜字民全部の信仰するところとなり、昭和8年(1933)拝殿は改築された。
 正徳5年(1510)9月再建の棟札があるので、それ以前の創立であることが分かる。
氏子28戸。
 境内社は稲荷社。
祭神は猿田彦神、大宮比咩神。
 境内の建物 神明造亜鉛葺。
拝殿切妻瓦葺、二間に一間二尺」
とあり、稲荷社は創建時期は不明ですが、伏見稲荷の中社・上社の祭神が勧請されたようです。
 村史編纂当時の社殿配置から稲荷社の配置を見ると、現在拝殿の左にありますが、当時は右側にあったようです。
拝殿左の観音堂は当時から現在まで動いていないようです。
 村史の編纂時期が昭和37年(1962)なので、それ以降も一度手が入れられ、その際に現在の配置になったようです。

神社東側から見た神明社社殿。

手前の神明社は一対の狛犬が安置され、石組みで一段高く盛られた本殿域に板宮造りの社が祀られています。内削ぎの置千木と5本の鰹木が付く。

南向きの鳥居をくぐって木造の拝殿から本殿方向の眺め。
素朴な外観は、身近な村の神さまの趣が漂う。

狛犬(寄進年未確認)と本殿。

拝殿西から見る稲荷社(左)、神明社

稲荷社全景。
周囲に狐の姿は見かけられなかった。

拝殿左の観音堂
内部には一体の石の観音像が安置されていました。

像の光背右に不鮮明ですが寛政2年(1790)と刻まれていた。
当所から此処に祀られていたものか、周辺からこちらに祀られたものかは定かではないが、長い年月を経ていながら像に大きな傷みは見られません。

神明社
創建 / 正徳5年(1510)9月再建
祭神 / 天照大神
境内社 / 稲荷社
祭神 / 猿田彦神、大宮比咩神
所在地 / 愛知県丹羽郡大口町秋田3-69
参拝日 / 2024/01/26
金刀比羅社から神明社 / ​東に向かい一つ目を左折直進左側・徒歩2分
・​丹羽郡大口町『金刀比羅社』
・​丹羽郡大口町『八剱社』
丹羽郡​大口町『堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社』
丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

 

​丹羽郡大口町『金刀比羅社』

前回掲載した八剱社、その社頭の前を東西に続く生活道路を東へ約1㌔直進し、突き当りの三叉路を左に曲がった先の公園が今回の目的地、大口町秋田の金刀比羅社になります。

田畑の中を東に真っすぐに続く生活道路。
街から訪れた者にすれば、信号のない見通しのいい道路ですが、地元や農家の方にとっては生活道路であり農道。
金刀比羅社には参拝者駐車場はないので、堀尾跡公園に駐車して15分程散策するつもりで訪れるのがいいだろう。

上は鎮座地の明治24年頃とほゞ現在の比較。
田畑が広がっいた一帯、現在は民家や事業所が増えたとはいえ、見通しの効く光景が広がっています。
もう少し暖かくなれば土筆も見られるのではないだろうか。
赤枠が鎮座地で、現在は大口町秋田となりますが、町名表記以前は大口村大字河北字柿野。
明治の地図では秋田長桜集落の南外れに位置し、当時の地図には鳥居の表記は見当たりません。
鎮座地に鳥居が現れるのは大正9年以降、それをもって創建を明治以降とするには無理があるかもしれない。

突き当りを左に曲がった道路右側に鎮座する金刀比羅社の社地全景。
周囲をフェンスに囲われた公園の一角に社殿は築かれています。

公園西側の入口には金刀比羅社社標、その先に南を向いて石の明神鳥居を構えています。
鬱蒼とした杜はなく、桜が植えられた明るい公園の印象。

入口左の桜の老木の脇に二体の地蔵が安置されています。
手前の地蔵は微笑むような表情で錫杖や宝玉など像容ははっきりし、石も綺麗で比較的新しものかもしれません。

後方の地蔵さんは光背は一部欠け落ち、石全体が風化し刻まれた像容も良く分からず、右手の石標に碑文が刻まれていたが写真から識別できたのは「小折新田」のみ、往古のこの辺りは尾張藩の領地だったとされ、当時のものであれば、かなり年代は古そうで外観からもそれは感じられます。
もう少ししっかり見ておけばよかった。

社殿全景、狛犬は見られないが鳥居と石灯籠、切妻瓦葺で妻入りの拝殿、後方に本殿と境内社が祀られています。
左の綺麗に剪定された一本の樹が御神木か。

鳥居から眺める社殿。
鳥居は平成元年(1989)に寄進されたもので、痛みのない社殿もその時期に改修されたのか。

鳥居に掲げられる金刀比羅社の額。

石灯籠は昭和55年(1980)寄進のもの。

参道左の手水石(寄進年未確認)も随分時間の流れを感じさせる。
石の縁の窪みはなにを意味するのか、祈願をこめて小石で打ち叩いた名残なのだろうか。

盃状穴とか呼ばれ、古い神社なとでよく見かけます、明治以降にはこうした風習は絶えて行ったようですが、動機は子供の健やかな成長や多様な禍に直面し、いい方向に向かえるように願いを込めて打ち叩いた人々の積み重ねがこの窪みとなったものという。
神仏にこれをするには恐れ多く、先人達の願いは境内の手水鉢や燈籠の台座に窪みとなって残る。

田畑が広がるこの一帯に海運を守護する金刀比羅社が祀られた背景は良く分からない。
神社の創建時など詳細は定かではなく、愛知県神社庁から調べると「祭神 大物主命、崇徳天皇、祭礼日旧暦10月10日」のみの解説で相変わらずの内容。
御祭神の大物主命の御神徳は海運に留まらず多くの開運を授けて頂ける。

大口村史を調べると流石地元だけにもう少ししっかりと記されていました。
「長桜の南端に老樹生い茂る森がある。
ここに鎮座するのは金刀比羅社。
祭神は大物主の命、崇徳天皇
由緒
創立年代は詳らかではないが、字笹田の土田彌十郎の勧請されたものと伝わる。
明治の始め頃から村人に継がれ、大字秋田一圓の氏子131戸から篤く崇敬されている。
境内社 白山社 祭神 菊理姫命、加具土命
社殿 神明造板葺
祭文殿 入母屋瓦葺
手洗 長さ4尺、巾1尺5寸」
とここまでは辿り着けました。

神社の由緒から脱線しますが、社地についてこんな話を見付けた。
金刀比羅社境内には明治10年(1877)から10年間ほど「秋田学校」が建っていたそうだ。
その後、長桜・替地・宗雲・伝右・八佐が合併し秋田村が成立します。
しかし、明治22年(1889)には秋田村、豊田村、大屋敷村が合併して太田村となり、太田尋常小学校に集約されしまうため、秋田学校は僅か10数年で姿を消したそうだ。
今は静かな金刀比羅社境内ですが、当時は秋田村の子供達の声で溢れたという。
明治の地図で見ると、当時の社地は現在より更に東に広がっていたようです。
今でも余裕のある境内と公園、学童クラブが建ちそうな広々とした空間が残されている。

社殿東側の境内社側から眺める本殿。
拝殿からは渡廊で一間社流造りの本殿と結ばれています。

見上げる高さに祀られた本殿の棟には3本の鰹木と外削ぎの千木が付く。

本殿右に板宮造りの境内社、飾られた注連縄の立派な事。

社名札がないので明確ではないが、大口村史からするとこれは白山社。

社殿西側から見る金刀比羅社本殿全景。
村史が記された当時は神明造りのでしたが、継がれていく間に現在の形になって行ったのでしょう。
この神社を勧請された土田彌十郎の姿を追いかけて見たが、定かにはならず、創建時期の推察は出来なかった。
一つ言えるのは地図に鳥居の印が描かれる以前、江戸末期には既に鎮座していたものと思われます。

境内西側から見るこぢんまりとした社殿の全景。
入母屋造の祭文殿も本殿同様に様変わりしていったようです。

拝殿から鳥居の眺め。
かつて子供達の声と姿が絶えなかった社地も今は静けさだけが漂っていた。
その昔は老樹生い茂る森も、今ではフェンスに囲われ、神さまや地蔵さんに見守られながら子供が遊ぶ良い場所に姿を変えています。

街中の住宅やビルに囲まれ窮屈そうに鎮座する神社にはない好きな神社の光景だ。

金刀比羅社
創建 / 不明
祭神 / 大物主命 崇徳天皇
境内社 / 白山社
所在地 / 丹羽郡大口町秋田3-233-1
参拝日 /2024/01/26
八剱社から徒歩で金刀比羅社 / 社頭前の通りを​東進17分程
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・​丹羽郡大口町『八剱社』
丹羽郡​大口町『堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社』
丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

荒子公園前田利家・荒子梅苑の梅

2/14陽気に誘われ名古屋市中川区荒子公園にある前田利家荒子梅苑の梅を見に出かけてきました。
掲載するのが遅れ一週間前の開花状況になりますが掲載します。

そもそもこの日は名古屋市交通局の「駅から始まるヒラメキさんぽ」を歩いてきました。
名古屋市交通局の最寄り駅からスタートし、名所・旧跡を巡りながら指定されたバス停又は地下鉄駅をゴールとする5~6㌔のウオーキングイベント。
パンフレットに記されたコースを巡り、簡単な問題を解きながらコースを巡り、問題に正解すると抽選で豪華賞品が頂けるという。
籤運の悪い我家には縁がないはずだが、昨年のイベントで、かみさんに見事マナカチャージ券が当たった。
これに味を占めた訳ではないけれど、年が明けてから歩いていなかったかみさんの意向で出かけてきました。

スタートは地下鉄高畑駅からで、今回のウオーキングテーマは前田利家を訪ねるものでした。
写真は名鉄荒子駅西側出口に建てられた前田利家公初陣之像。
馬にまたがった若き利家と左は利家のかみさんおまつの方。
見送るこの姿はドラマの1シーンでも見ているようだ。

今年初めて咲き誇る梅と香りを感じる。
なるほど、このコース選択の趣旨には見頃を迎えつつある梅を感じてもらいたいようだ。

前田利家公初陣之像から南西に歩く事10分強で荒子公園に到着。
あまり歩いた事のないこの辺り、初めて公園を訪れたが公園には富士山もあったりする。
温かい陽気に誘われ日向ぼっこを楽しむ人も多かった。

荒子公園南側の「前田利家 荒子梅苑」の石標。

梅の花の色合いと香りは、寒い冬も間もなく終わり、春が来たぞと感じさせてくれるものだ。
園内には枝垂れ梅を始め紅梅など多様な種類の梅が見られます。

園内枝垂れ梅の開花状況。
こうして見ると当日は満開にはほど遠かったかな。

前田利家の家紋として知られる花ですね。
この梅が満開を迎えるのはいつ頃だろうか。
地元の方の会話から「梅祭りの頃には終わってないか」の声が聞こえて来た。

荒子公園では毎年梅祭りが開催されているようで、今年の梅まつりは3月2・3日で開催され、当日はキッチンカーや色々なイベントが行われるようです。
ただ、花より団子なら別だが、花はどうだろうかねぇ。

あれから一週間、暖かかったり、寒かったりの日が続いているだけに、今頃が見頃なのかもしれないね。
今年も地球沸騰化にともない、梅に限らず全てのものが早い盛期を迎えているだけに、花見のイベント開催日は悩ましい所だと思う。
余談ですが五条川の桜まつりは今年開催されるとか、久し振りに花より団子で訪れてみようかな。

前田利家公初陣之像
所在地 / 中川区吉良町138-2

前田利家荒子梅苑
所在地 / 名古屋市中川区荒子2-193-2
訪問日 / 2024/02/14
公共交通機関 / 地下鉄東山線高畑駅から​徒歩約20分

丹羽郡大口町『八剱社』

裁断橋と姥堂堀尾吉晴邸跡・堀尾社・若宮八幡社に続く今回は、裁断橋の南側に鎮座する八剱社。
裁断橋を渡った先の堀尾跡公園にも北参道があり、社殿西側を経て社頭に向かう事も出来ます。

社頭全景。
右に社標、一ノ鳥居は石造神明造(1935)で、左に手水舎があります。
豊かな杜に包まれた参道の左には境内社、右側に神馬、神楽殿があり、拝所に続く。
更に右に堀尾吉晴邸跡や若宮八幡社と繋がり、それら含めた社地は実に広大。

所在地が大口町堀尾跡とあるように、この町域全体が嘗ての堀尾一族の邸宅があった場所。
此の地は鎌倉時代末期に堀尾氏が移り住み、熱田神宮別宮八剱宮から御分霊を勧請し守護神として祀った事が神社創建のはじまりで、代々熱田神宮へ神饌米を奉納していたことから御供所村と云われていた。

社頭左の手水舎と古井戸。

歳を重ね貫禄が漂う風貌の龍。

神橋から境内の眺め。
若宮八幡社から神橋の下には水を湛えた掘りが巡らされ、手水舎後方の小さな小池に繋がっており、嘗ての堀跡の趣が漂う。
境内には大きな石灯籠(1998)、五七桐紋が入った神馬像、その後方に神楽殿があります。

参道の先は提灯櫓と明治11年(1878)に寄進されたニノ鳥居を構え拝所に繋がる。
この辺りの神社の社殿としてはかなりの規模で、普段社格は気に留めないが、東参道の社標に「村社」とあったのを思い出す。
少し興味が湧いて愛知県神社庁を調べて見た。
そこには祭神と丹羽郡大口町の御供所、豊田、奈良子、堀尾跡の氏神とだけしか記されておらず、相変わらずつれない回答だ。
記録を調べるしかないようだが、最近視力も衰えそうしたものに目を通す根気がなくなってきた。

上知我麻社。
参道左に鳥居と狛犬を構え、正面に三社祀られている。

鳥居をくぐった先から社殿の眺め。

薄化粧した小柄な狛犬

一間社流造の社殿。
左から事代主大神を祀る事代主社、乎止與命を祀る上知我麻社、大国主大神を祀る大国主社。
八剱社が熱田神宮から勧請した事もあり、同様に勧請されたもの。

太夫社の縁起は以下。
「源太夫社は、別名上知我麻社と呼ばれ、正二位上知我麻明神を祀っている。
本宮は熱田神宮の式内にあり、八剱宮が祀られた同時期に祀られたもの。
昔から歯痛に効果があるとされ、近隣地域から絶えず参拝者が訪れます。
また、知恵の文殊の神として、学生や若者たちの参拝も多い。
又、熱田本宮では、新生児の命名や子供たちの幸せな成長を祈る祈祷が昔から変わらず行われています」

因みに、堀尾吉晴熱田神宮よりこの地に八剱社を勧請したのが永徳2年(1383)とされる。

更に拝所に向け参道を進むと左側に二社祀られています。
小さな狛犬が本殿前を守護しています。

左から天照大神を祀る神明社、津島社の御祭神は建速須佐之男命か。
由緒については語られておらず詳細は不明。

参道右側の神楽殿
桁行・梁間ともに三間の切妻銅葺屋根で四方吹き抜けのもの、妻壁には手の込んだ龍や彫物が施されています。

時間帯が思わしくなくコントラストが強くて、ひと回りして何枚か収めたがなんとか見れるのはこれ一枚。
建物は神楽殿と思い込んでいたが、文化財の解説によればこれは「拝殿」になるようだ。
なので前記した神楽殿は「拝殿」に読み替えてください。
解説は以下のようなもの。
大口町指定文化財 八剱社拝殿
幕末にあたる文久3年(1863)に再建されたもので、明治35年(1902)に修理を受けている。
当所の部材を比較的よく残し、彫刻の状態も良好である。
彫刻は妻側に龍と唐獅子、桁側に狩猟図や騎旅図など、何かの故事・物語に取材した情景が展開されている」
とある、作者は不明ですがなかなかのものです。

ニノ鳥居から拝所本殿方向の眺め。
堀尾跡公園にある八剱社の概説には以下のように解説されています。
「堀尾氏は鎌倉時代の終わり頃、御供所に本拠を構えた終わり屈指の名族で、八剱社はその邸宅跡である。
この八剱社は堀尾帯刀が熱田宮の八剱宮を勧請して、永徳2年(1383)に創建、以来再建を繰り返し今日に至る」と掲げられています。
改築改修の履歴の中で直近は昭和7~10年に及ぶ昭和の大修理が行われている。
寄進物の中にこの年代のものがあるのは昭和の大修理時に寄進されたのだろう。
祭神は日本武尊天照大神菊理姫尊。

拝所の前を守護する狛犬(1936)は背筋を伸ばし胸を張った凛々しい姿のもの。

拝所となる神門には社殿域全周を囲う透塀が一体となり、その先の祭文殿は透塀が連なって本殿域を取り囲む。

神門の「八剱宮」の額。

拝所から先は広い中庭になっており、一対の大きな常夜灯が立てられている。
そこから一段上がって狛犬が守護する祭文殿と本殿域を囲う透塀がある。

神門は木造銅葺屋根の切妻で、門柱の前後に二本の控え柱が付く四脚門。

神門右に石碑が立てられ、文字が刻まれているのだが読み取れなかった。
ただ、上まで上がると中庭が良く見渡せます。

ここから眺めると社殿域を囲む透塀と祭文殿の透塀が見渡せます。
ここから狛犬を収めようとするも自分のカメラでは望遠がないとこれ以上は寄れない。

祭文殿は入母屋銅葺屋根で、桁行三間の平入で梁間までは分からないが、二間に分かれ手前は高欄の付く舞殿の様に見えます。

ここから透塀沿いに本殿方向へ。

透塀の間から望む本殿。
創建が南北朝時代とされることから、一間社流造の本殿の装飾も控え目なんだろうか。

巨岩が組まれた本殿域後方から祭文殿方向の眺め。
この辺りに来たらなぜだか鼻水が止まらない、花粉には強いはずなんだが。

青い空を背景に祭文殿の鬼を見上げる。
神紋は見られなかったが、杜の杉にはしっかりと花粉の入ったオレンジ色の花粉錐がある。
ひょっとして花粉症かぁ、聞く所によれば突然スイッチが入るとも聞く。
敏感な方にはこの時期に杜の中に入らない方が賢明かもしれない。

こちらは大丈夫、綺麗な緑だね。

拝所から社頭の眺め。
ここに邸宅があった当時は一面田畑が広がっていたのだろ、金助と母親はここから裁断橋に向かっていった。

西陽の加減だよなぁ、景色がなんとなく黄色いような気がするのは…

八剱社
創建 / 永徳2年(1383)
祭神 / 日本武尊天照大神菊理姫
境内社
上知我麻社
創建 / 八剱社勧請と同時期か
祭神 / 乎止與命
事代主社
創建 / 八剱社勧請と同時期か
祭神 / 事代主大神
創建 / 八剱社勧請と同時期か
祭神 / 大国主大神
津島社
創建 / 不明
神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神

所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-67​
車アクセス / ​名古屋から一般道で約50分
参拝日 / 2024/01/26
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丹羽郡​大口町『堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社』
丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

 

丹羽郡​大口町『堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社』

前回掲載した大口町の裁断橋から八剱社社地沿いに南側に向かう。

写真は八剱社南側の社頭の眺め。
写真左が八剱社の参道で、右側が今回掲載する堀尾吉晴邸跡と若宮八幡社に続く参道になります。

上は八剱社社頭脇の堀尾氏邸宅跡の解説。
内容は以下
大口町指定文化財 堀尾氏邸宅跡
八剱社境内は、のちの松江城堀尾吉晴を生んだ堀尾家累代の邸宅跡と伝えられている。
堀尾氏は、鎌倉時代の終わり頃、この地に移り住んだと思われ、『寛文村々覚書』にも堀尾家の居館があったことが記されている。
また裁断橋物語の堀尾金助も一族の一人である」
とある。

堀尾家の先祖を辿っていくと、第40代天武天皇を祖とする高階氏であり、応永年間(1394~1427)から尾張国御供所村(現在の堀尾跡)に居住したといわれ、国宝として知られる松江城を築城した堀尾忠氏の父が当地出身の武将堀尾吉晴になる。
堀尾吉晴は1543年に生まれ、16歳で戦で敵の首を討ち取るなど、その勇敢さで知られましたが、1611年に没しています。


八剱社一帯は現在も田畑が広がり、戦国時代は堀尾吉晴はじめ、堀尾氏一族の邸宅跡があったとされますが、後に家系は途絶え現在は境内の一角に石碑類が建つのみ。
遺構として鳥居南側にある堀が、当時の居館の名残とされ、境内西側に五条川と並行するように区画溝や建物跡、柱穴跡など居館があったと想定する遺構が見つかっているそうで、規模は八剱社東側から境内を含め裁断橋下流の橋あたりまでと広大だったようです。

その遺構と思われる小さな掘りに架けられた神橋と参道。
正面の神明鳥居は若宮八幡社のもので参道左側は八剱社に繋がっています。
鳥居の手前右側が堀尾吉晴邸跡として、裁断橋の昔話の主人公堀尾金助とその母の銅像が立てられています。
邸趾には「愛知県の堀尾吉晴邸趾」の石標と「金助とその母」の石碑の他にひとつの社が祀られています。

左が堀尾金助とその母。
鬼の茂助・仏の茂助と称され、数々の武功をあげた父吉晴の背中を見て育ち、小田原攻めに18歳で出陣し、武功をあげる事無く戦場で病死(諸説あり)し、凱旋することなく没した金助と息子の武運を願い裁断橋で見送った母の姿がここにある。

堀尾吉晴邸趾。
左が「金助とその母」の石碑、一間社流造の社、史蹟の石標。

石標と堀尾社。
比較的新しいこの社、現地で調べて見たが良く分からなかった。

ただひとつ裁断橋の南側の公園に「堀尾吉晴邸趾・金助とその母・堀尾社」の看板があり、そこから察するにこの社は堀尾社ということになるが、創建時期や祭神については定かではない。

邸跡の「金助とその母」の石碑。
内容は裁断橋で記載したように、18歳にして小田原攻めに出陣する金助とそれを見送った母の物語が刻まれています。

邸跡東に掲げられている堀尾吉晴郅趾碑陰記。
尾州丹羽郡大口村御供所は、堀尾氏代々の領土であり、その邸趾は今も尚残っています。
 系図を辿ると、堀尾の元祖は天武天皇の皇子親王から出ています。
親王は6世の孫、右中井峯緒に高階真人の姓を賜りました。
 峯緒17世の孫、修理大夫邦経が始めてこの村を領し、以来尾張の名族となりました。
邦経11世の孫、泰晴は織田信長に仕え、泰晴の子吉晴は豊臣秀吉に仕えました。
 いわゆる堀尾茂助はこの人であります。
山城・賤ケ嶽・長久手・小田原の諸戦役にはそれぞれ大きな功労があり、浜松に封ぜられ12万石を領した。
 秀吉が五大老・三中老・五奉行を置いたとき、吉晴は中老を命ぜられました。
幾ばくもなくして秀吉が亡くなりましたが、吉晴は五大老・三中老・五奉行の間にあって紛争の難問題を解決しました。
 隠居してから府中におりましたので、子の忠氏が後を継ぎ、関ケ原の役後、功に依り出雲、隠岐の二州23万5千石の大守となりました。
忠氏は早く死に子の忠晴が幼かったので、吉晴が代って之を治めました。
 慶長16年6月17日病のために69歳で世を去り、忠晴があとを継ぎました。
吉晴の人となりは情け深く、おとなしかったので、吉晴は人々から慕われました。
 しかし、一旦戦場にのぞむと、怒った虎のように万人が恐れましたが、平常は戦の手柄を問うものがいても謙遜し自慢しなかったから、戦国時代にあっても友人間に人望が高かった。
忠晴に子がなかったので、家は断絶し堀尾氏の正しい系統は途絶えてしまいました。
 大正天皇即位の年、愛知県が名勝古蹟を調査する計画をたて、その系統の大略を後世に伝えました。
昭和41丙午年10月」

金助から見ると吉晴の背中は大きなものに見えたことだろう。

邸趾から先の若宮八幡社
石の神明造の鳥居の参道の先には木造の蕃塀がある。

参道右の手水舎があり、蕃塀の右に「若宮八幡社」の社標がある。

こちらの長い髭を持つ龍はお休みのようだ。

番塀は二間の間には連子窓が施されたもの、右の建物は獅子屋形倉庫とある。

若宮八幡社全景。
二段に盛られた社地に、一対の狛犬とその先に唐破風屋根の社が祀られている。

社前の小柄の狛犬(寄進年未確認)
狛犬の左右には庚申塔や山神、水神が祀られています。

若宮八幡社本殿。
村中安全と刻まれた玉垣昭和4年に寄進されたもの。
一間社流造の軒唐破風、脇障子が付くもので、さほど大きな物ではないが木鼻はじめ丁寧な彫が施されています。
創建等詳細は不明、祭神は恐らく武神として知られる応神天皇

若宮八幡社の右は八剱社の神楽殿
八剱社については後日掲載する事として一旦境外に出てすぐ東隣の桂林寺へ。

社頭から東に1~2分の場所に鎮座する大香山桂林寺、曹洞宗のお寺で本尊は聖観世音菩薩。
開基など調べていませんが、元禄11年(1624)の銘が入る梵鐘があり、この辺りでは大きな伽藍を持っています。

今回は境内に訪れていませんが、山門の先に見える二層の本堂の左に堀尾吉晴、金助、その母の供養塔があると云う。
今回は先の予定もあり別の機会に桂林寺を掲載します。

堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社
堀尾社
創建・祭神 / 不明
若宮八幡社
創建 / 不明
祭神 / 不明(応神天皇)
所在地 / 愛知県丹羽郡​大口町堀尾跡2-28
大香山 桂林寺
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 聖観世音菩薩
開基 / 不明(1624年(元禄11年)の銘が入る梵鐘あり)

所在地 / 愛知県丹羽郡​大口町堀尾跡2-16
車アクセス / ​名古屋から一般道で約50分
参拝日 / 2024/01/26
関連記事 / 丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

裁断橋…と聞くと、名古屋在住の者からすると熱田区伝馬町の裁断橋を思い浮かべる。
ここ丹羽郡大口町堀尾跡にも裁断橋は現存します。
そもそも尾張名所図会に描かれた裁断橋は前途した伝馬町のこと、そこから25㌔程北の丹羽郡大口町になぜ裁断橋があるのだろう。
そこには戦国時代の若き武将堀尾金助とその母に由来する母と子の悲しい実話からはじまる。
その舞台が熱田区伝馬町であり、遠く離れた大口町に裁断橋が復元された理由には、この地に堀尾一族の屋敷があったことによる。

名古屋から下道で小一時間程の丹羽郡大口町堀尾跡公園駐車場。
所要で大口町を訪れた帰り、ここの駐車場を起点にして近隣を徘徊することにした。
桜の名所五条川右岸にある公園で普段は訪れる人も少なく、そこそこ広い駐車場は閑散としているが、桜の時期ともなるとそうはいかない。
正面に見えている寄棟の建物が尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元された姥堂

姥堂へ向かう前に公園に入ってすぐ左の歩道に架けられた小さな木橋に向かいます。
平成4年に熱田の裁断橋が撤去され、その際保存会により保管されていた親柱、高欄を使用して修築された橋で、明治37年(1904)に改築された裁断橋の親柱4本と、その後使用されていた高欄の一部を再利用している。
右手の親柱には明治の元号が刻まれています。

こちらには裁断橋の文字も残る。

木橋の先に雅宴舞會と刻まれた石標が立つ、ここは屋外ステージとして使用する目的で作られたもののようです。
後方は右が姥堂で、その先は五条川に架けられた裁断橋に続く、左に見えている森は、この地を納めた掘尾氏が守護神として崇めるため創建した八剱社の杜で、境内の東外れに掘尾氏邸があったとされる。

掘尾氏邸跡には二体の銅像が立てられています。
裁断橋架け替えの主人公となる二人、左の若武者が堀尾金助で左がその母。
架け替えに至る悲しい物語は後程。

姥堂全景、平成6年から7年にかけて、公園と共に尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元されたもの。

桁行3間、梁間2間の寄棟瓦葺の木造建築で、開け放たれた堂の先に復元された裁断橋が架けられている。

軒下に架けられた額、熱田の姥堂の額の書体とは随分印象が違います。

堂内から望む裁断橋と八剱社の杜。
橋の上には先日降った雪で子供らが作ったのか大きな雪玉が残っていた。

裁断橋の袂から見る姥堂

姥堂の正面に架かる橋が復元された裁断橋。
裁断橋に纏わる物語は以下のようなもの。

天正18年(1590)2月18日、堀尾金助は父の方奉が病気のため、叔父の泰次に伴われてこの地、御供所を出発し、従兄にあたる堀尾吉晴に従い小田原征伐に加わりました、金助はこの時十八才で初陣しました。
金助の母は日頃信仰している熱田様に祈願をかねて、熱田神宮付近にあった裁断橋まで金助を見送りましたが、その願いむなしくその年の6月、金助は凱旋することなく病死してしまいました。
この由を看病し臨終まで立ち会った西照寺の僧淳誓が、金助の遺品と共に戦陣中の金助の動静や病気の模様を母に伝えましたが、この戦で泰次も病死し、父の方奉も病死してしまい、金助の母は天涯孤独の身となったのです。

金助の死に嘆き悲しんだ母は、金助の死を無駄にすまいとの志から、武運つたなく功名もなく若い身で死んだ不学と愛情の情を、せめて世間の多くの人々の心にとどめたいと念じ、金助との最後の別れの場となった裁断橋が古くなっていたので、修築すれば人々の助けになり金助の供養にもなると、その改修のために私財をなげうつことを決心しました。天正19年(1591)のことでした。

母は元和8年(1622)にも二回目の改修工事に取り組みましたが、その完成を見ることなく元和7年(1621)永眠しました。
その後、幾度も架け替えが行われた末、川の埋め立てにともなって橋は取り壊されました。
昭和28年(1953)には三分の一の大きさで復元されましたが、平成4年(1992)にはそれも撤去されました。
そして平成8年(1996)、金助の母が二回目に建立した裁断橋を百年以上の時を経て、尾張名所図会をもとにして、母子の出生地・大口町に忠実に再現されたもの。

尾張名所図会に記されている裁断橋と右手が姥堂
挿絵と実際の配置は多少違うように見えますが、寄棟瓦葺の姥堂や橋の姿は良く再現されている。

裁断橋が記録が現れるのは永正6年(1509)「熱田講式」とされる。
架橋の沿革は以下。
天正18年(1590)金助出陣、同年戦没
天正19年(1591)金助の母、裁断橋を架け替え
元和7年(1621)金助の三十三回忌にあたり、母二度目の架け替えに着手するが、同年御供所にて没
元和8年(1622)金助の母の養子安藤類石衛門が遺志を継いで完成。擬宝珠に母の銘を刻む
寛文9年(1669)裁断橋架け替え。その後、不明の期間をはさんで数度にわたり架け替えが行われる
大正15年(1926)裁断橋が架かっていた精進川埋め立て。擬宝珠を残して橋は取り壊される
昭和28年(1953)裁断橋を三分の一の大きさで復元
昭和48年(1973)擬宝珠、名古屋市文化財に指定
平成4年(1992)裁断橋を撤去
平成8年(1996)大口町堀尾跡公園に、二度目に架け替えた裁断橋が復元される 

尾張名所図会は江戸後期に編纂されたもので、上の沿革から見ると挿絵は二回目の架け替え後の姿と思われます。

名古屋市の裁断橋解説は以下内容
「大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。
また、精進川を三途の川と見立て、橋の袂には死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。
橋の名の由来には、閻魔大王が死者を裁断する場という説もあります。
1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。
そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。」

擬宝珠に刻まれた我が子への母の想いは以下。
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也」
この銘は、成尋阿闍梨母、じゃがたら文と並んで、日本女性三名文のひとつとして名高い。

息子の供養のため、二度にわたり裁断橋の架け替えを行った金助の母。
いろいろ調べて見たが「金助の母」と表記されるのみで、その名は分からなかった。

熱田の精進川にかかる裁断橋は、橋はおろか川自体が埋め立てられ、嘗てを感じさせるものはあまり残っていません。
金助の屋敷がある大口町がそれを惜しみ、屋敷の北側を公園として整備し、桜の名所として知られる五条川に裁断橋を復元したのがこの木造橋。

夕方ともなれば燈籠に灯りもともされ、裁断橋と姥堂はしっとりとした表情に変わります。
もう少しすれば堤の桜がこの光景に彩りを添えてくれるたろう。

あの世とこの世の境とも云われる裁断橋、ここには閻魔様も奪衣婆もいないが、嘗ての裁断橋や堀尾一族の若き武将とその母の物語を体感するには良い場所である。
また、八剣社境内の堀尾吉晴邸跡から東へ徒歩2分程先には堀尾吉晴と堀尾金助、その母の供養塔のある桂林寺があります。

桜の時期に堀尾跡公園を訪れた事はないのでなんとも言えないが、公園前の駐車場は混みあうのかもしれない。
渋滞や人混みが苦手な自分には、しっとりとしたこの時期の裁断橋が丁度いい。

裁断橋
建造 / 平成8年(1996)
所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-61
訪問日 / 2024/01/26
車アクセス / ​名古屋から一般道で約50分
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「豊幡町 髭題目塔」名古屋市中村区豊幡町

油江天神から本陣駅に向かう道すがら、中村公園の北付近の中村区豊幡町を歩いていた際に髭題目塔を見かけ立ち寄ってみました。

写真は豊国神社北側の中村公園入口。
この西側は名古屋競輪場になり、髭題目塔はここから中村公園北口交差点に向かう途中に立てられています。

題目塔は、かつて日比津界隈を徘徊した際に幾つか見かけましたが、日比津集落から少し南のこの辺りで見かけるのは意外な気がしたが、上の明治時代の地図を見ると離れているとはいえ、日比津村は目と鼻の先。
豊幡町を調べて見ると、昭和22年(1947)に日比津町字南諏訪野、字中諏訪野、字河原屋敷、字高畑、字待屋、字河原の一部から豊幡町は成立したとあり、明治のこの辺りは日比津村の出村とだったと見え、そうして見れば題目塔が建てられていても違和感はないのか。

日比津界隈に限らず、古い街並みや街道を歩いていると、こうした石塔以外にも様々な形状のものを目にすることがある、呼称も題目塔、題目碑、題目石など様々のようです。
それらに共通するのは正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、「法」の字以外の文字が特徴のある書体で、筆端は髭のように延びる独特のもので、その形態から髭題目とも呼ばれるそうだ。
光明点書法と呼ばれ、筆端が髭のように延びるのは、日蓮上人の筆跡をまねたものとされ、仏の慈悲が人々に分け隔てなく、平等に届く様を表しているという。
造立年代も江戸時代中期の元号が刻まれたもの、明治の元号など立てられた時代も様々。
そうした題目塔を集落に建立した動機や場所の選定は未だ自身でも良く分かっていない。

写真の髭題目塔は、中村公園から北に2分程進んだ左側に立てられており、写真は題目塔の東から西方向を眺めています。
角地のほぼ中央に題目塔が立てられ、前後に石標が立てられている。
手前は常燈明の石柱で、後方の石柱は昭和4年に立てられた「奉修宗祖日蓮大菩薩六百五拾遠忌報恩」と刻まれている。

髭題目塔正面。
筆端が髭のように延びた書体で「南無妙法蓮華経」と刻まれています。

北側から見る髭題目塔。
住宅が広がる一帯にあって、この一角だけは時が止まったような景観が残されている。

塔正面と「本結大縁寂光為土」と刻まれた左側面。

右側面に「南無日蓮大菩薩」、後方には「明治12年(1879)5月13日 日凞謹書」とある。
この一帯には延文5年(1360年)に創建された長秋山定徳寺をはじめ、日蓮宗の寺院が複数鎮座しており、当時の日凞という住職方が造立したものと思われますが、日比津界隈で自分で見たり、写真に収めた中では造立年代が一番新しいもの。

この先、庄内川に向け徘徊する機会もあるので、改めて写真に収めていこうと思う。
取り敢えず、今回は足取りも重くなり、本陣駅まで歩き地下鉄に乗って帰ろう。

豊幡町 髭題目塔
造立 / 明治12年(1879)
境内社 / ……
所在地 / 名古屋市中村区豊幡町82
参拝日 / 2024/01/09
油江天神社から豊幡町 髭題目塔 / 社頭から北西の中村公園東園方向へ​約10分​。 ​
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髭題目塔