『野田 秋葉神社』名古屋市中川区野田

中川区野田2「秋葉神社
前回掲載した三狐神社から西へ4分程の住宅街、そこの交差点の角地に鎮座するのが秋葉社

交差点の北西角に社地が与えられ、社殿はほぼ東向きに建てられています
高く築かれた本殿域は玉垣で囲われ、切妻造の大きな覆屋の下に社が祀られています

上は大正9年の当地の地図で赤枠が秋葉神社の鎮座地になります
この時代、ここに鳥居の印はなく、その後もここに印は描かれていなかった
野田集落の西外れにあたり、ここから西側は庄内川左岸に田んぼが広がる一帯だったことが分かります
地史から野田村の記述に目を通すも、秋葉社について語られておらず、大正から昭和にかけて世帯数の増加に伴い、災い除けの神が祀られるようになったのかも知れない

秋葉神社から西方向の眺め
庄内堤まで広がっていた田畑は姿を消し、今では古くからの建物は建て代わり、新しい住宅が広がる地域となっています

秋葉神社南側から社殿の眺め
玉垣の石柱や基壇の石組の色は綺麗で、覆屋も傷みはなく、覆屋の下に祀られる板宮造の社も綺麗なものです

覆屋に架けられた額は秋葉神社

秋葉神社本殿全景
玉垣の間にピッタリしつらえられた賽銭箱があり、住宅地の火伏の神に賽銭投入参拝

脱線しますが
人的・物的ともに甚大な被害を与えた能登半島地震
輪島の火災を見るにつけ、我家周辺の切り刻んだ宅地に人も通れないほど敷地一杯に建てた細長い木造家屋が林立する環境を思うと不安を覚える
そこから比較すると、このあたりの余裕のある家並みは羨ましく思う
なによりこうして見守る神さまがいる

 

秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土大神
境内社 / ・・・
所在地 / 名古屋市中川区野田2-176
三狐(さんこ)神社から秋葉社 / ​西へ5分
参拝日 / 2024/02/14
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『三狐(さんこ)神社』名古屋市中川区野田

前回は「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、中川区中郷の白山神社を訪れました。
本来のルートは県道29号線を西に向かうのですが、先を歩くかみさんは県道を越え、荒子川沿いを北上し高畑公園方向へ、高畑公園を過ぎたあたりから導かれるように西方向に歩いていく。

茨塚公園の南側で店舗を構えるプチ・ポンレヴェックnoda(中川区野田1-323)。
マップ上に赤〇で示しておきます。
某番組で紹介されたみたいで、ひらめき散歩を歩く動機付けのひとつとしてチェックしていたようだ。
最近開業した所謂パン屋さん、ひとつ〃のパンは小さく、一個幾らではなくgram売りなんだとか。
ここで彼女が買い物している間、ここから西へ3分程の場所に神社があったので訪れることにしました。

県道190号線沿いに鎮座する三狐神社。
周辺の建物の越えるほど育った大きな松が三狐神社の象徴かも知れない。

上は大正初期の鎮座地周辺、赤枠が三狐神社で二つの赤い星が野田村三社の鎮座地になります。
何れの神社も明治以前から野田村に鎮座しているのが記されていました。(赤〇はパン屋さんの位置)
ここまで来ると庄内川も目と鼻の先になります。

東向きに石の神明鳥居を構え、右側に「三狐神社」社標が立つ。
境内の樹々は適度に間引かれたものか、この時期は境内が良く見渡せ、手水舎、神馬像、拝殿の先の本殿まで一望できる。

社頭北側から眺める三狐神社。
右側が更地で、社地も白いフェンスで囲われているのもあり、すっきりとした印象を受ける神社。

鳥居から拝殿・本殿の眺め。
拝殿は梁間桁行き三間で四方吹き抜けの瓦葺切妻のもので妻壁などに彫飾りが施されています。
正面の本殿には5本の鰹木が載せられているのが見通せる。

境内右の神馬像。
昭和60年(1985)に寄進されたもので、訪れた際には碑文に目を通すのもいいかもしれない。

拝殿左が手水舎。

三本の鋭い爪、長い髭を持つ堂々とした姿の龍。

拝殿前を守護する狛犬は、骨太でがっちりとした筋肉質の姿をしたもの。
境内に三狐神社の由緒はなく、詳細が分からず地史に目を通して見た。
尾張志、尾張徇行記、尾張名所図会など目を通すが注目する内容は以下のものでした。
尾張志(1844年)では
「野田村の氏神 神明社氏神社より東南に八王子社、氏神社より東にサグジノ社」と記されています。
三狐神社をサグジノ社とすると、氏神社の鎮座地からほゞ東に位置しており、三狐神社がここで云うサグジノ社のようです。
野田村三社の神明社は三狐神社から西の野田公園、八王子社は三狐神社から南へ5分程の場所に鎮座しており、何れも歩いて廻れる距離にあり、マップに示した赤い星が其々の鎮座地になります。

尾張徇行記(1822年)の一柳庄野田村に「三狐神社」として名が記されいました。
中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」と再建の時期が記されていた。

再建年度だけを捉えれば、かなり古くから鎮座している神社のようです。
愛知県神社庁にも紹介されていましたが、内容は祭神、祭礼日に留まっていた。
三狐神社の祭神は豊受大神を祀る神社です。
ここで尾張志の「サグジノ」が気になってきます。
サグジノと聞くと、万物に宿る自然神を崇敬するミシャグジ信仰を思い浮かべます。
三狐神社の前身がミシャグジ信仰から始まったのか?となると、それを示す記述や崇敬対象となるようなものを境内で見かける事はありませんでした。

この神社の見所は、拝殿妻壁をはじめ全周に施された彫飾りだろう。
人目を引く派手な飾り金具などの意匠はないけれど、正面の大きな二匹の龍からはじまり、蟇股の干支や木鼻の獅子などシックな佇まいの小さな拝殿ですが作り手の拘りを感じる意匠が施されています。
それらを見ていく前にまずは参拝。

大嫌いな蛇をはじめ全周に干支のキャラクターが施されている。

柔らかな鶏の尾羽も良く彫られている。

上は猪に犬だろうか、下の正面妻壁には宝珠を握りしめた龍、その上には兎の姿もある。

拝殿から本殿の眺め、本殿は板宮造りで、棟には外削ぎの置き千木が置かれています。
拝殿内正面に三狐神社の額と右側に昭和51年に奉納された白馬の奉納額が掛けられています。

三狐(さんこ)神社本殿、最初に三狐の社名から受けた印象は宇迦之御魂神をお祀りする稲荷かと勝手に想像していましたが、愛知県神社庁では「さんこ」とあり、境内からも稲荷社ではないようです。

本殿域を小さい体の二対の可愛い狛犬が守護しています。

寄進年は分かりませんが、手前の愛くるしい姿をした陶製狛犬は、左の阿形は前脚が欠け落ち台座に置かれており、玉乗りの吽形に至っては頭部が欠落した痛々しいもの。
結構古そうな台座の上に載せられた狛犬をよく見れば、鮮やかに色付けされ、細かな装飾が施されているだけに、寄進者や作者の思いが込められた造形物は、新しく変えようかというのもなんだか重い。
金継ぎとはいかないまでも元の姿に戻してやりたいものだ。

覆屋の下に祀られた本殿全景。
こちらでも寄進物の寄進年度は見忘れてしまった。

拝殿下り棟の鬼には三狐の文字が入る。
社殿全体は大きな傷みもなく、比較的最近補修されたようです。
境内も綺麗に手入れされ、居心地のいい神社でした。

『八百万神社・白山神社・秋葉神社』名古屋市中川区中郷

前回掲載した宝珠院の仁王門から南に伸びる道があります。
利家を巡るルートから外れますが、仁王門を出て南に進み、光明院を左手に見ながら、約1分の距離に中川区中郷(ちゅうごう)に鎮座する白山神社があります。

上は大正9年1920年当時の周辺地図。
先回訪れた宝珠院から少し南の寺脇集落の西外れに鎮座します。
当時の地図に神社の印は現れませんが、約300年前から寺脇集落に鎮座しているようです。

写真は白山社社頭を西側から見たもので、三叉路の角地に僅かな社地が与えられていました。

南向きの社頭には鹿島鳥居に似た木造鳥居があり、くぐるとすぐ先が本殿域になります。
小規模の神社で社号標も見当たりませんが、常夜灯、狛犬など整えられ、寺脇集落の鎮守の趣が漂う神社。

後方に見えている森は先程参拝した宝珠院の寺叢になります。

社頭左の解説板。秋葉山神社八百万神社白山神社
白山神社
光明院の森に鎮座、歯痛が治る神様。
豆腐をお供えして食べると不思議にも歯痛を忘れた様に治る霊験あらたかな神。
八百万神社
延宝2年創建(1674)と歴史に見え、八百万の神々をお祀り申し諸願成就息災延命の神。
秋葉山神社
火を防ぎ家難排除の守護の神」
とある、小さな見た目から想像できない歴史があり、八百万神社は300年以上前から集落を見守ってきた神社のようだ。

境内全景。
石積みの本殿域は大小三つの社が祀られています。

境内右は手水鉢だろうか。

本殿域全景、手前には小さな狛犬の姿が見える。

本殿域を守護する小さな狛犬。(寄進年は未確認)

解説の社名の並びから見ると左から秋葉山神社、八百万神社、白山神社となるが、Gマップでは白山社とあり、それからすれば中央が白山社となるのだろうが、三社に社名札はなく特定できません。
祭神についてもここでは不明としておき、ここは賽銭を投入し三社纏めて祈願するしかないようだ。
愛知県神社庁から住所で検索して見たが情報は得られず、神社解説によれば八百万神社の創建が延宝2年創建(1674)とあるので地史を見ていけば、白山神社秋葉山神社の創建時期も少し分かるのかもしれません。

社地東側から北側の眺め。
正面に宝珠院仁王門、手前右手の森は白山神社が鎮座していた光明院の寺叢。

いろいろ知りたいこともあり、人の姿を探すも近寄って来たのは恋の時期を迎えたこの猫達だけだった。


八百万神社
創建 / 延宝2年(1674)
祭神 / 不明
境内社 / 秋葉山神社(創建・祭神不明)、白山神社(創建・祭神不明)
所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11
参拝日 / 2024/02/14
宝珠院から白山神社 / ​仁王門から南へ徒歩1分程
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『如意山 宝珠院 常楽寺』名古屋市中川区荒子

如意山 宝珠院 常楽寺
前回掲載した冨士大権現 天満天神宮から​北西に徒歩15分程の県道29号線の南に鎮座する寺院。

上は大正初期の宝珠院鎮座地周辺。
当時の愛知郡荒子村大字中郷の高畑の西、寺脇集落の北の田畑の中に鎮座しています。

名古屋七福神巡りの大黒天のお寺として知られ、1月7日の七草の日までに、7つの幸福を与える7人の神々をお祀りしたお寺を参拝する事で福運が得られるものだそうです。
過去に一度七福神巡りで訪れた事がありますが、調べて見れば2017年と随分久し振りに訪れた。
今回は七福神ではなく、前田利家の所縁の地を巡るコースに含まれていた。

名古屋西部県税事務所の西側に宝珠院の仁王門、山門が連なっています。
「税」で「うすうす思い出した」が、確定申告まだ済ませていなかったなぁ、なんだかやる気がしない。

宝珠院仁王門。
この通りを左進むと山門が建っています。
コースに宝珠院が組み込まれたのは、仁王門右にある歌碑を読み取り、問題の空白を埋め完成させるもの。
かみさんはこの歌碑を見つけられず境内を彷徨い、お寺の方に歌碑の場所を教えて頂いた。
その際「最近この碑を見に訪れる方が多いがなんなの?」と質問されたとか、どうやらイベント側とチェックポイントに選定された場所とは事前に共有されていない印象。

仁王門から本堂の眺め。

左右の間に安置されている仁王像。
宝珠院の開創は古く、奈良時代天平元年(729)に泰澄大師が開創した古刹。
寄木造の二体の像もかなり年季の入った風貌のもので、随所に補修が加えられていますが、なぜか市・県の文化財一覧に挙げられておらず、制作年代や作者など詳細は不明です。

仁王門から眺める本堂全景。
入母屋瓦葺で千鳥破風、軒唐破風の付く堂々とした建物で、堂内には本尊の薬師如来はじめ、大黒天、弘法大師、泰澄大師像、五大明王像、弁財天が安置されています。

境内右の仏足石と百度石。
宝珠院は弘法大師誓願道場「名古屋二十一大師霊場巡り」の第十一番札所。

本堂左の水かけ不動尊(左)と亀の甲羅の上の七福神

水かけ不動尊は、体の病んだ部分に水をかけ、祈願する事で改善されると言われています。
歳を重ねるとかける箇所も増え、全身かけたくなってくる。

本堂破風の連なり。

本堂の寺号額。

宝珠院の先に書いたように奈良時代天平元年(729)に泰澄大師が開創したと伝わります。
往時は6坊を有したが、文和年中(1352~1356)の火災で三坊を焼失、後に宝珠院、東蔵院、光明院を再建するも、明暦年中(1655~1658)に再び火災に遭い、東蔵院は廃絶となり、ここ宝珠院と南に鎮座する光明院のみとなる。
泰澄大師といえば加賀白山を開山したことで良く知られます。

宝珠院について尾張名所図会、尾張誌、名古屋市史で調べてみたが詳細な記述は見つけられなかった。
中川区史跡散策路の宝珠院解説は以下のものでした。
奈良時代天平元年(729年)に泰澄大師が開創した郷土の古刹である。
伊勢湾台風の被害を受けているが仁王像は鎌倉時代の作と言われており、歴史を感じる。
境内は名古屋市の保存樹である五葉松の大樹などの庭園を含め特別緑地保全地区に指定されており、四季折々、鳥のさえずる憩いの寺でもある」

これによれば仁王門の像の制作年代は鎌倉時代(1185~1333)とあり、文和年中の火災以降に彫られたものだろうか。

楠の一木造りの大黒天、じつにいい表情でこうありたいものです。(2017年撮影)

…そうありたいんだがねぇ、これを書きながら国会中継を聞いていますがついつい目は△になってくる。

本堂左から客殿に続く中門と左の鐘楼。

建立年代は詳らかではありませんが、2017年当時と比較して大きな違いはないようです。
また、手入れの行き届いた庭園も当時と何ら変わっていない。

温かい陽射しを受けて横になる寝弘法。
庭園には他に修行大師、摩尼車など安置されています。

境内北側の寄棟瓦葺の客殿全景、大棟の金色に輝く鴟尾(しび)が印象的な建物です。
鴟尾は鯱や鬼瓦の原形ともいわれ、鴟尾そのものも意匠は時代により様々なようです。
建物を自然災害から守る目的から棟に飾られたもので、一説によれば鳳凰の羽を模したものから始まり、意匠が変化していったとも云われるようです。

金堂から眺める山門と十三重石塔

重厚な山門の正面全景。

山門の山号額。

道路から山門・客殿の眺め。
7世紀以上の歴史を誇り、幾多の自然災害を乗り越えて今も続く古刹なので、利家もひょっとして訪れているやもしれない。

山門左には札所の石標。

宝珠院
宗派 / 真言宗智山派
創建 / 天平元年(729)
開基 / 泰澄大師
山号 / 如意山
寺号 / 常楽寺
院号 / 宝珠院
本尊 / 薬師如来
札所 / 名古屋二十一大師11番札所、東海三十六不動尊霊場13番札所、名古屋三弘法第一番札所、名古屋七福神(大黒天)
所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11
参拝日 / 2024/02/14
冨士大権現 天満天神宮から宝珠院 / ​北西に15分程
公共交通機関 / 地下鉄東山線「高畑」から​西へ徒歩10分
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『冨士大権現 天満天神宮』名古屋市中川区荒子

荒子観音寺を後にして次は冨士大権現 天満天神宮を目指します。
神社が鎮座する権現公園に向け南へ約10分程の移動時間。
「まつと共に過ごした荒子城界隈と前田利家ゆかりの地を巡る」ヒラメキ散歩コースに従って巡っています。
行きたいとこリストもかみさんと共有していたが、問題を解くのが最優先のようだ。

写真は権現公園南側に面した道路から冨士大権現 天満天神宮の杜の眺め。

上は大正初期の荒子村周辺地図で村の真ん中から少し西よりに位置しています。
前田利家所縁の地を巡るこのコース、冨士大権現 天満天神宮をチェックポイントにしたのには理由がある訳で、この場所に荒子城が築城されていたことによる。

海東郡荒子村の地を収めた前田利昌は、この地から西の庄内川右岸の前田城を拠点にしていたが、天文13年(1544年)にこの地に荒子城を築き拠点にしたと云われます。
その利昌の四男として生まれたのが前田利家で、ここ荒子城が前田利家の誕生之地とされます。
コースには前田城も含まれており、そちらの由緒によれば、利家は前田城で生まれたともあり、諸説あるようです。
いずれにせよ、加賀百万石の礎を築いた前田利家がこの尾張から誕生した事に違いはありません。

冨士大権現 天満天神宮境内の眺め。
大きな楠と松が聳え、適度に間引かれた明るい杜で、この時期は境内に植えられた梅が咲き誇っていた。
社頭の参道に、梅鉢紋の入った赤い幟が風に揺れている。
加賀藩前田家の梅鉢紋は知られるところで、一説に前田家のルーツは菅原道真とも云われるようで、彼が好んだ梅をモチーフにした梅鉢紋を使っていたのかな。

ほゞ南向きに社頭を構え、正面の拝殿まで石畳が続いています。
社頭は右側に「冨士大権現 天満天神宮」の社標が立てられ、左に由緒・荒子城解説が立てられています。
鳥居は石造の明神鳥居で、その先に一対の常夜灯と左側に手水舎があります。

由緒・荒子城跡解説。
荒子城解説は以下の様に解説されています。
荒子城跡
天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝わる。
その子利久、利家、利家の子利長が相継いで居城。
天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地へ移り荒子城廃城。
『尾陽雜記』『古城志』などによると、城は東西約68m、南北約50mで一重堀を巡らしていた。
名古屋市教育委員会
このことから、現在の権現公園と社地を含めた敷地面積が城の規模とイメージできますが、現状では城が合った痕跡は見られません。
越前国府中に領地を与えられた利家は、天正4年(1576)菩提寺である荒子観音寺の本堂を再建し、越前府中の統制に注力していった。
利長が府中に移った後、荒子城は廃城となったようですが、城内鎮守の冨士大権現天満天神宮は村人により護られていったようです。

左の富士社 天満社由緒記
・亦名「冨士権現天満宮
・御祭神は、木花開那媛尊、菅原道真
・創建の詳細は不明
荒子城主前田氏の城内鎮守として勧請され、弘治元年(1555)「前田利家再興」の棟札がある。
・前田氏の祖は菅原氏とも云われ菅原道真を祀る。
天正4年(1576)越前に移りし後も村民・氏子から篤く崇敬されている。
・昭和63年(1988)社殿再建。

由緒について尾張志(1844年)に目を通しました。
「富士天満天神相殿社 高畑村中脇と云う所にあり」に留まり、それ以上の情報は得られなかった。

境内左の手水舎、西側の権現公園と境内は遮るものはなにもありません。

龍は絶え間なく清水を注いでくれていました。
この日は先を目指すあまり、神社の歴史を綴る寄進物の年代は見ておらず心残り。

拝殿正面全景。
切妻瓦葺の四方吹き抜けの木造拝殿で、妻側に格子戸、軒側は縦格子の腰壁が付くもの、拝殿と本殿は渡廊で結ばれています。

狛犬は子持ち毬持ちのもの。

拝殿から本殿方向の眺め。
妻壁に黄金色に輝く梅鉢紋がアクセントになり、賽銭箱には金色の五七の桐と梅鉢紋が入る。
派手な装飾の無いシックな佇まいをしている。

拝殿から本殿を結ぶ渡廊と本殿域。

本殿は一間社流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
祭神は木花開那媛尊、菅原道真公。

大きな社ではありませんが、脇障子や虹梁など手の込んだ彫が見られます。

拝殿左の前田利家荒子城の解説から一部抜粋。
「加賀百万石の藩祖、前田利家は1537年(天文6)(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。
幼名は犬千代。
15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。
22歳のとき、10歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。
この頃、又左衛門利家と名を改めています。
若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。
桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍。
33歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。
利家39歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。
その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。
荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。
規模は狭い平地に簡単な棚と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。
城内には、富士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。
また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。
利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。
時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。」 

生誕地など諸説あるようですが、いずれにせよ郷土が生んだ一大武将であることに違いはなく、地元の誇りとして前田利家発信隊が結成され愛されている。

本殿域左に聳え立つ「前田利家卿誕生之遺址」の石碑。

馬にまたがった若き利家と初陣を見送るまつの姿。(名鉄荒子駅西出口の前田利家公初陣之像)

利家がまつと夫婦になったのが22歳の時とされ、まつは12歳、この初陣之像だけ捉えれば利家の初陣が14歳の時とされるので、まつの姿は4歳....
まつは生涯に11人の子を出産したと云う。
因みに2023年の出生率は1.2という結果のようです。

冨士大権 現天満天神宮
創建 / 不明(弘治元年(1555)の棟札が残る)
祭神 / 木花開那媛尊、菅原道真
境内社 / ……
例祭日 / 10月第一日曜日
所在地 / 名古屋市中川区荒子4
参拝日 / 2024/02/14
荒子観音寺から冨士大権現 天満宮へ徒歩 / 門前通りを​南へ徒歩7分
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から​​南へ徒歩10分​​
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『荒子観音寺・宮窓 神明社』 中川区荒子町宮窓
荒子公園前田利家・荒子梅苑の梅

『荒子観音寺・宮窓 神明社』 中川区荒子町宮窓

「駅から始まるヒラメキさんぽ」で中川区を訪れ、荒子町宮窓の荒子観音寺を通りかかりました。

今回は、前田利家荒子梅苑から南に徒歩数分の場所に鎮座する荒子観音寺と境内東に隣接する宮窓の神明社の現況を掲載します。

荒子観音の名で知られますが、正式名称を浄海山 圓龍院 観音寺と称する天台宗の寺院。
歴史は古く天文元年(729)年泰澄和尚が開祖。
円空と縁があり、多くの円空仏を所蔵する事でも知られています。
荒子観音は、現在の富士大権現天満天神宮の鎮座地に築城された荒子城の城主前田家の菩提寺で、特に当地出身の前田利家から庇護を受けるなど利家と所縁の深い土地柄。

上は山門南に立てられた解説板で昭和39年、荒子観音の鐘つき堂竣工の際に馬の塔を奉納した際の画像で、山門前の賑わいが窺われます。
この馬の塔の馬道具を献上したのも利家で、それが今も受け継がれているという。

普段静かな門前通りですが、節分の恵方にあたる時には多くの人で賑わい、毎月第1日曜日に行われる朝市も多くの参拝客が訪れます。

上は大正初期の荒子村の地図。
下側の東西に延びるのが百曲街道、熱田新田北側の干拓堤防沿いに東海道と接続するため自然にできた街道で、名の通り曲がりくねった道が続くことからこの名がついた。


前田利家出生の地でもあるので、利家にゆかりのある名所旧跡が多く残る。

浄海山 圓龍院 観音寺(荒子観音山門全景)


尾張名所図会から浄海山観音寺園龍院を一部抜粋。
荒子村にあり天台宗野田村密蔵院末寺。
天平元年(729)、泰澄和尚開基。
・同13年(742)開山僧自性建立。
・永禄8年(1565)尾張四観音の一寺に。
・元禄年中(1688~1704)、円空が訪れ、多数の仏像・彫刻を残す。
・本尊聖観音菩薩。
天正4年前田利家により本堂再建。

荒子観音はもとは現在の鎮座地から少し北西の高畑町あたりに鎮座していました。
信長の比叡山焼き打ち(1571)の煽りから焼失するも、1576年前田利家により再建され、その後の太閤検地で寺領を没収されるなど衰退期を経て、後の尾張徳川藩から庇護を受け現在の地に落ち着いたようです。

この寺を訪れた円空は多くの作品を残し、その中で山門の左右の間に安置されている仁王像は円空最大の作品とされるようです。

左の杮葺きの多宝塔は天文5年(1536)の再建で市内に残る多宝塔では最古の建築物とされ、平成13年(2001)に解体修理を受けた。
中央の三間一戸、入母屋瓦葺の山門は大正15年(1926)再建されたもの。

慶長14年(1609)、家康が築城した名古屋城の鬼門封じと定めた尾張四観音(荒子観音龍泉寺観音、笠寺観音甚目寺観音)の一寺で、当時はこれらを結ぶ四観音道も整備され、千種区日泰寺西側にはその面影が見られ、北側には尾張四観音道道標も残ります。

本堂全景。
往古の荒子観音は七堂伽藍に十二坊の塔頭を誇っていたという、現在の本堂は平成6年(1994)に焼失後、同9年に再建されたもの。

境内右側の鐘楼と六角堂。

六角堂後方の瓦葺建物が宮窓 神明社で、境内に寺と神社を隔てる壁はなく、神仏習合時代の面影が残ります。

上は尾張名所図会(1844)にある「荒子観音寺」の挿絵。
現在地に移転された後に描かれているため、現在の伽藍と比較して、鐘楼や六角堂を除き大きな違いは見られず、境内右手に鳥居を構える宮窓 神明社の姿もある。

6年振りに荒子観音を訪れましたが、伽藍の建替など当時と違いは見られなかった。

荒子観音寺東隣に隣接する宮窓 神明社社頭全景。
社号標には「村社 神明社」と刻まれています。
愛知縣神社名鑑では、文化9年(1812)に荒子観音の守護神として鎮祭とあり。
天保2年(1831)に社殿の修復が行われたようで、祭神は天照皇大神武甕槌命を祀る。

明治政府の神仏分離令にともない荒子観音から切り離され、明治5年村社に列格した。
尾張誌には神明社の他、末社に鹿島社、天王社、白山社、辨才天社、風の宮社の名が記されている。

鳥居から社殿全景の眺め。

拝殿前の狛犬
狛犬や石灯籠など寄進物の多くは昭和・大正・明治のものでした。

入母屋茅葺の覆屋の大棟は竹を組み合わせ作られ、内削ぎの千木が乗せられたもので、茅の入手しやすい地域でこうした造りは見かけますが、市内で見かけるのは宮窓 神明社の他に記憶がありません。

覆屋内。
南向きに三社と東向きに一社祀られています。
何れも社名札はなく、中央の千木・鰹木が付く社が神明社本殿と思われますが、両脇の社は不明。
恐らく神仏分離により荒子観音境内に祀られていたものが神明社に纏められたものと思います。
しかし尾張誌に記されたどの社なのか写真から特定は出来なかった。
唯一はっきりしているのは、辨才天社は荒子観音寺境内北側に鎮座していることか。

唯一東を向いて祀られる社、扉が一部開けられ中の神札が見えていましたが、どうやっても文字までは読み取れなかった。

拝殿鬼には荒子観音山門の鬼と同じ五三桐の紋が入る。

荒子観音
山号・正式名 / 浄海山圓龍院観音寺 
宗派 / 天台宗
開基 / 泰澄
創建 / 天平元年(729) 
本尊 / 聖観世音

宮窓 神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神 武甕槌命
氏子域 / 荒子荒子町、小城町、小塚町、細米町、的場町、若山町
境内社 / 不明社三社
例祭日 / 10月第二日曜日
所在地 / 名古屋市中川区荒子町宮窓134
参拝日 / 2024/02/14
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から​東方へ徒歩10分
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豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

3月07日
ここ数日の風雨もおさまり、一転して春の陽気となり
豊田市足助町香嵐渓にある飯盛山カタクリ群生地を訪れてきました。

普段は土筆が頭を出す光景を見かけるようになり、春がきたなぁと感じるようになりました。
車でひとっ走りした香嵐渓まで来てみると、紅葉の時期に賑わう待月橋には人影もなく、この辺りが春めくのはもう少し先のようです。
この時期は山里に一足早く春を告げるカタクリが咲き始める時期。
左手の飯盛山にはカタクリの群生があり、タイミングが良ければ淡い紫のカタクリが一面に咲く光景が見られます。

毎年やってくるものの、遅かったり、早かったりと、最盛期に訪れたことがない。
写真は群生地入口から飯盛山斜面の眺め。
遠目にカタクリの葉は見られますが、そこに紫の花は見られなかった。
今年も早かったようです。

群生地のカタクリ解説。

太子堂付近から斜面の眺め。
主役はまだカタクリの葉の緑。

日当たりのよい群生の中央でちらほら咲きだしているものの、望遠がなければ寄れない。
盛期と比較するとまだまだ、そんな印象でした。
じゃあ訪れるならいつだろう。
個人的な推測ですが少なくとも今週末ではなく、来週の土日であれば手元でも見られると思います。

ポツン〃と咲いているのでどうしても寄るしかない。
取り敢えず春の妖精を撮る事ができた。

訪れた時間帯が午後という事で、花弁はこれ以上反りかえれない感じです。

薄紫の春の妖精、まだ少ないけれど蕾も控えています。

寒かった冬の終わりを告げる小さな花ですが、冬枯れた山の斜面にこの色は一際映える。
カタクリがこうして薄紫の花を付けるまで7年程かかるといい、いち早く花を咲かせ、花期も短いことから春の妖精と呼ばれる由縁です。
花言葉は「初恋」「寂しさに耐える」という事らしい。
山肌にポツンと花を咲かせる姿は「寂しさに耐える」は的を得ている。
寒い冬をじっと耐えこうして鮮やかに花開く。
なんだか人にも言えることかもしれない。

散策路から太子堂方向の眺め。
来週になれば緑の斜面も紫の花がはっきり見えるようになるだろう。

花だけを目的にした場合、開花状況は駐車場から分からないので、1㌔程歩きますが下流の多目的駐車場が当日は無料でした。

駐車場は待月橋周辺、散策路前に有料駐車場があり、相場は500円が多く、300円から上は1000円の看板も見かけました。

撮影日 / 2024/03/07
飯盛山カタクリ群生地 / ​愛知県豊田市足助町飯盛