鹿児島県薩摩川内市『新田神社』

鹿児島県薩摩川内市『新田神社』
うねりながら平野に流れ出た川内川、その平野の右岸に亀の形をした里山があります。
平野の中にあって、その存在は恰も島のようにも見えなくもない。
「新亀山」と云われる小高い里山の頂に薩摩国一ノ宮 新田神社は鎮座していました。

f:id:owari-nagoya55:20210125212538j:plain土地勘もなく、不慣れなレンタカーでの運転、運転する者よりも高性能なナビゲーションを隣でそれを操作するかみさんの方が悪戦苦闘。その導きで辿り着いたのが県道44号線沿いのこの地。
御親切に駐車場のある一ノ鳥居まで導いてくれるではないか。(それがニノ鳥居だと知ったのは帰り際でした。)

f:id:owari-nagoya55:20210125212603j:plainニノ鳥居と新亀山、こうして見ると亀の甲羅の様に見えなくもない。
控え柱の付けられた朱塗りの明神鳥居、その先の石造りの太鼓橋を経て参道は石段となり杜に消えていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210125212630j:plain石段の左右には門守社もあるようです。
鹿児島に来て門守社はよく見かけるものです。

f:id:owari-nagoya55:20210125212655j:plain緩やかに弧を描く石造りの太鼓橋は「降来橋」と呼ばれるもので、この橋と擬宝珠は市の指定文化財に指定されていてるようです。
現在こうして見る降来橋は1892年(明治25)に架け替えられたもの。
全長は8㍍、幅5㍍と云うけれど、目の当たりに見る太鼓橋はひと回り大きく見える。
こうして見ると一つの橋に見えますが、その先にもう一つの小さな石橋が架けられています。

f:id:owari-nagoya55:20210125212718j:plain橋の袂に掲げられていた降来橋の解説。
由来は古く「三國名勝図絵」には、1290年(正応3)新田八幡宮の降来橋で雅楽が催された記録が残るという。
擬宝珠は1602年(慶長7)に島津義弘により神殿を修復した際、橋の欄干に刻銘入りの宝珠8個が付けられた。(実物は宝物殿に保管)

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右は新田神社の末社で豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)を祀る東門守神社。
左が西門守神社、祭神は櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210125212806j:plain門守神社から城壁の様な石垣となり、その間に石段が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210125212832j:plain石段の左に赤い社が三社並んで鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210125212856j:plain石段を登りきると社殿が現れるかと思いきや、境内は広がりますが、その先から再び石段が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210125212922j:plain左に見えていた三社は新田神社の末社
石段を踏みしめ参拝に訪れた者をここから見守るように佇んでいます。

f:id:owari-nagoya55:20210125212945j:plain門守神社をコピペでもしたように造も大きさもほぼ同じ、社名札が無ければ参拝していても分からないかもしれない。
右から高良神社 祭神は天鈿女命。
中央が中央神社で祭神は大山祇命
左が早風神社で級長津彦命、級長津姫神の二柱を祀る。


当社は、九州五所八幡宮(大分宮・千栗八幡宮・藤崎八幡宮・新田神社・鹿児島神宮)のうちのひとつとされ、江戸時代までは応神天皇神功皇后武内宿禰の八幡三神を祀っていたという。

f:id:owari-nagoya55:20210125213010j:plain石段の左で見かけた「がらっぱ大明神」。
いざなぎ河童といざなみ河童とあるけれど、読んでいてもよく分からない。
川内川にはがらっぱ(河童)が普通に生息しているらしい、しかも彼らは共和国まで築いているらしい。
建国式の当日、お祭り広場に2体の「がらっぱ像」が見世物として飾られていたそうです。
ガラッパ像はコンクリート造、制作者も担当者も知らぬ間に、用意されていた高台に入魂の儀まで終え鎮座していたのだとか。
河童の不思議なパワーなんだろうかねェ。
「がらっぱ様」の不思議なパワーは、参拝する者に開運、願望援受、魔除け、商売繁盛、災難逃れなどに御利益を授かる事ができる。ここは賽銭を奮発しておくべきところ。

f:id:owari-nagoya55:20210125213040j:plain最初の石段を上り詰めた先に広がる境内、そこから先に再び石段が続きその先に社殿が小さく見えてきます。
1173年(承安3)、新田神社は火災に見舞われ、新亀山中腹にあった社殿を焼失してしまったそうです。
この広い空間は焼失以前、ここに社殿があった名残ということでしょう。
それも朝廷や幕府の支援を受け1176年(安元2)、この石段の先の山頂に再興されたのが現在の『新田神社』。
以後も薩摩国歴代藩主から厚く崇敬され、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿の原形が造られました。

f:id:owari-nagoya55:20210125213105j:plain新たに建てられた社殿に向かう石段の登り口で守護を受け持つ狛犬
奉納年は見ていないけれど、鼻のあたりに愛嬌を感じるその容姿に隙はない。

f:id:owari-nagoya55:20210125213129j:plain阿形、見開いた眼は無表情に見えなくもない、鋭い犬歯が印象的な狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210125213152j:plain社殿に続く最後の石段、途中で足を止め一息入れる姿も見える、この石段甘く見てはいけない。
ゴールは見えているけれど長く感じる。

f:id:owari-nagoya55:20210125213215j:plain見あげる先に社殿と右手に注連縄が巻かれた大きな楠の樹が見えてきました、あと少し。

f:id:owari-nagoya55:20210125213243j:plain見あげる様に聳え立つ「新田神社の大楠」
根回りは13.3㍍、幹回りが9.9㍍と巨大なもので樹高は20㍍を越え、枝張りは約20㍍に及ぶ。
樹齢は2000年を超えると伝わるそうですが、年輪から推定すると650~800年とされる。
大楠の根元は空洞化し、更に「地上2mのところに大穴牟遅神の木造が彫刻されている」とありますが今一つよく分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210125213310j:plain大楠の右に社の屋根が見えたので寄り道、そこは駐車場で見えていたのは車祓所の社でした。

f:id:owari-nagoya55:20210125213341j:plain新田神社「勅使殿」
唐破風向拝が設けられ。細部に彫飾りと彩色が施された華麗な建物。
棟札から1784年(天明4)の造替とされるもの。

f:id:owari-nagoya55:20210125213407j:plain石段を上り詰めた両脇に独特の佇まいの狛犬がある。最初遠目に見た時はガマガエルの様に見えた。
「子だき狛犬(安産狛犬)」と呼ぶそうだ。
古くから安産に大変霊験のある狛犬で、安産を祈願する方はこの狛犬の頭を撫でるとよいというそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210125213434j:plainこの子抱狛犬、案内にある様に子を抱いているけれど、頭部が妙に押し潰されたような形が印象に残る。
こうして見る顔の表情は、かわいいようでどこか哀愁が漂ってくる。

f:id:owari-nagoya55:20210125213501j:plain新田神社「勅使殿」
「新田」という名の由来はその昔、瓊瓊杵尊はがらっぱの住むという川内川から水をひき、新たに水田を作ったことからその名が付いたといわれる。
創建は725年(神亀2)と云われますが定かではありません。
始まりは新亀山に瓊々杵尊のお墓を祀られたことに始まるようで、この山のほぼ全体が瓊々杵尊の陵墓とされ、可愛山陵(エノミササギ)と呼ばれるようです、新田神社はその陵墓に鎮座するものです。

f:id:owari-nagoya55:20210125213525j:plain唐破風向拝の透かし彫りの鳳凰?から始まり、蟇股に木鼻の獅子や象など細かな手間と彩色が施され、ここだけでも見応え十分。

f:id:owari-nagoya55:20210125213553j:plain祭神は瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天照大神(アマテラスオオカミ)、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
家内安全、事業繁栄、交通安全、商業繁栄、入試合格、漁業繁栄、心身健康などの御利益を授かる事が出来る。

f:id:owari-nagoya55:20210125213619j:plain参拝すると良く見えるのですが、この勅使殿は外部の華やかさ同様、内部の装飾も見事なものがあります。梁の彫飾りに彩色、天井に至っては格子天井の一枚〃に草花の絵が描かれ、参拝後しばらく足が止まります。程よく色褪し嫌みのない上品な華やかさ。

f:id:owari-nagoya55:20210125213645j:plain勅使殿から社務所方向の境内の眺め。
コロナ再燃の兆しのなか鹿児島に出向いたけれど、そうした事も影響があるのか参拝者の姿は皆無。

f:id:owari-nagoya55:20210125213715j:plain主務所側から勅使殿方向の境内の眺め。
社殿に対し境内は意外に狭い印象を受け、もう少し引いて本殿を含めた全体を見たいところですが、手持ちのカメラでは無理があるようです。

伽藍は勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が一直線に並び、本殿の両脇には摂社があり、それらは廻廊でつながっているという。

薩摩国一ノ宮は先に掲載した枚聞神社と新田神社の二社がある。
何れも島津家の厚い庇護を受けてきた歴史のある神社。
社格を争うとこうなるのか、大人の事情なのか理由はよく分からないけれど、一ノ宮マップを塗り潰す事に燃えているかみさんには違和感はない様ですが、お供のおやじは「一つの國に二つの一ノ宮」や「社格」、もやもや感は今もすっきりしない。

f:id:owari-nagoya55:20210125213741j:plain勅使殿から先の本殿方向は拝めないものか、漸く廻廊とその先の社殿の姿を捉えるがそれが何なのかは良く分かりません。因みに現在の本殿は1850年(嘉永3)に造営されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210125213807j:plain二つ目の薩摩国一ノ宮『新田神社』の参拝を終え次の目的に向かう、長い下りの石段を下り、最初の石段までくると「降来橋」の先にニノ鳥居とその先には桜並木の真っすぐに伸びる参道が一望。

f:id:owari-nagoya55:20210125213833j:plain一ノ鳥居からニノ鳥居に続く長い参道は「八丁馬場」と称し、参道の両脇に植えられた桜は花見の名所。
嘗てこの長い参道には多くの寺院があり「新田神社一二坊」と称されたそうです。
霞んで分かりにくいけれど遥か先に一ノ鳥居が見えています、その先が川内川の堤という事です。
これが桜の時期であれば嘸かし見事なんだろう。
あまりに長い参道、今更「あそこまで行ってくるわ」とは言えない。

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薩摩国一ノ宮 新田神社
創建 / 725年(神亀2)
祭神 / 瓊々杵尊天照大神天忍穂耳命
境内社 / 東門守神社、西門守神社、高良神社、中央神社、早風神社等
住所 / ​鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
関連記事 / 薩摩国一ノ宮 枚聞神社

静岡県浜松市 『六所神社』

静岡県浜松市天竜区春野町領家
秋葉山本宮秋葉神社 下社の右に鎮座する『六所神社

f:id:owari-nagoya55:20210121135903j:plainそれ程大きくはない下社の境内、手水舎の右に『六所神社』と下社境内を繋ぐ参道があります。

f:id:owari-nagoya55:20210121135926j:plain参道を進むとすぐ左に『六所神社』の社殿が見えてきます。
ここから右に参道が伸び、鳥居を経て県道に続いているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210121135945j:plain秋葉神社下社の末社の様に見えますが、全く別のようで、六所明神と神社が鎮座する領家地域の六社を祀る地域の氏神さま。

六所明神はこの地域では犬居郷一宮と称えらる古社とされ、祭神は天照大神(伊勢神宮)、中筒男大神(住吉大社)、大山祇大神(大山祇神社)、誉田別命(八幡宮)、天児屋根大神(春日大社)、武甕槌大神(鹿島神宮)の六柱を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210121140005j:plain社殿全景。
切妻妻入りの拝殿には向拝が施され、本殿がおさまる鞘堂と一体となっています。
社殿右に大きな砲弾が安置されています。

江戸時代には石高一石三斗七升五合を拝領したという『六所神社』。
独身の頃は毎日2合ほど、お茶碗で4杯分の米を消費していたけれど、ほぼ2年分に相当する、それ程歴代領主から崇敬されてきた神社。

領家地域の六社とは、天王神社(素戔嗚命)、熊野神社(熊野大神)、八阪神社(素戔嗚命)、金山神社(金山彦神)、山野神社(野槌神)、若宮神社(天押雲根命)を指す様で、先の六柱と合わせるとこの小さな社に11柱が祀られる領家地域の守り神。
この領家という地名はもともと京都の公家の荘園があったことからきていると云い、秋葉山本宮を目指す参拝客の旅籠などが建ち賑わったようです。

領家地域と家康
武田軍との戦で劣勢に追い込まれた家康は退却を余儀なくされた際、この地域の村人は退却する家康に手助けした事から、後の江戸幕府から領家地域は手厚く保護されたとされます。

六所神社』の創建は定かではありませんが、古くから鎮座する六所神社の隣に利便性などから秋葉神社下社を建立したのかもしれません。

六所神社神職の常駐しない無人の神社のようですが、「問い合わせは秋葉山本宮秋葉神社まで」とある事から現在はそちらで管理されているのかも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20210121140032j:plain参道右に木造の神明鳥居。
下社から県道沿いの社頭に戻るのは諦め、県道が見えるところまで参道を下ってみました。

f:id:owari-nagoya55:20210121140051j:plain静かな杉木立の中に伸びる参道、その先に周囲と同化するように佇む素朴な社殿、特別な空気が漂う。

f:id:owari-nagoya55:20210121140113j:plain少し先に行くと視界の先に県道とその先に気田川が見えてくる、車を停めた駐車場は右手方向。
鳥居はなく社頭を見過ごしていたようで、参道はこの石段から社殿まで真っすぐに続いていきます。

六所神社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神、中筒男大神、大山祇大神誉田別命、天児屋根大神、武甕槌大神
合祀六社 / 天王神社熊野神社八阪神社金山神社、山野神社、若宮神社
住所 / ​静岡県浜松市天竜区春野町領家327​ 
関連記事 / 秋葉山本宮秋葉神社 下社

小牧市北外山 「城嶋稲荷と北外山砦址」

以前掲載した「外山神社」。
そこから10分程北に「城嶋稲荷」が鎮座する。
以前は田畑が広がっていた一帯も宅地化・区画整理が進み、今やそんな面影はなくなってきた。
城嶋稲荷に辿り着くための大きな目標は「小牧市南部コミュニケーションセンター」を目標にするといいかもしれない。センター北側の通りから一本北筋の住宅街の一角に「城嶋稲荷」は鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210120182157j:plainこの筋沿いを西に進むと右側に稲荷がありますが、社地は少し中にあるので赤い稲荷の鳥居を目標にしても見通しは利きません。

f:id:owari-nagoya55:20210120182218j:plain道路沿いに防火水槽があり、その奥に赤い鳥居と幟の建つ小さな「城嶋稲荷」があります。
右手のごみ収集ステーションの横から境内に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210120182236j:plain社地の前に「北外山城(砦)址」の解説板。
そこには
「北外山砦天正十二年(1584)の「小牧・長久手の合戦」で廃城となっていた織田興四郎の居城を利用して築かれた砦で本多忠勝松平家忠らが守った。
東西49㍍、南北36㍍の広さで、四方に高さ1.8㍍の土塁があったと伝わる。
現在では「城島」「城前」というこの辺りの小字名が城跡の名残を留めている。
ここにある「北外山城址」の碑は、ここから50㍍北側の民家敷地内から移設したものである。
平成二十五年三月 小牧市教育委員会」 とある。

境内に城址碑があるようです。
織田興四郎
岩倉城を本拠とした織田伊勢守家の一族とされ、清州城を拠点とした織田大和守家に威勢を示し、後に信長により伊勢守家は滅ぼされることになるようですが、織田興四郎の人物像はよく分からない。
北外山城もそれに伴い廃城の道を辿っていったのでしょう、それも小牧・長久手の合戦で織田・徳川勢の本陣小牧城を中心とした戦略拠点として整備され、秀吉と対峙したようですが合戦以降再び荒廃していったようです。小牧城の南にあたるこの一帯には蟹清水砦や宇田津砦、城址など点在しますが多くは碑のみです。

f:id:owari-nagoya55:20210120182257j:plain境内全景。
左手に板宮造りの社、手前に石の社だろうか、その他複数の石碑があるけれど、どれが城址碑なのかはここからでは分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20210120182317j:plain雲はあるものの青い空を背景に鳥居と額の朱が映える。

f:id:owari-nagoya55:20210120182335j:plain正面に城嶋稲荷の社と左は社ではなく観音様が彫られているようだ。
鳥居前には「子孫繁栄祈願」「家内安全祈願」と書かれた奉納幟が立ち、地元のお稲荷さんの雰囲気が漂う。

f:id:owari-nagoya55:20210120182357j:plain自然石の台座の上に祀られる社、その前には小さな狛狐も安置されている。
左の観音像の石仏は右に神社仏閣、左に谷汲山と刻まれています。
西国三十三所観音霊場の結願・満願の地、華厳寺に関連して祀られているのだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210120182414j:plain左の石標が「北外山城址
碑のみ移設されてきたものなので、この場所で遺構や面影を見る事は出来ません。

境内北側にも石碑があり、一つは小川芳次郎顕彰碑と稲荷移設記念碑があり、移設記念碑の裏には「平成24年12月」とある。城址碑同様こちらの城嶋稲荷も同じ時期に周辺から遷座されてきたようですが、残念ながら城嶋稲荷の由緒を伝えるものは見当たらず、元の鎮座地ははっきりしませんでした。
周囲の環境変化を考えれば移転や集約も自然の流れでしょうが、こうして纏められた一画が邪魔もの扱いされないといいのだが。
2021/1/19

「城嶋稲荷と北外山砦址」
城嶋稲荷
祭神・創建 / 不明、2012年近隣から移設

北外山城(砦)跡
状況 / 近隣から碑のみ移設
築城主 / 織田与四郎
築城年・廃城年 / 不明

住所 / 小牧市北外山1142
関連記事 / ​「外山神社」​ ​「南外山天神社」

「おにぎり」

​昨年末からDIYでやってきたトイレのイメチェン、仕上げに使うモールを買うために尾張旭市のホームセンターに行ってきました。

かみさんの希望で出掛けたものの、単にそれだけではなかったようだ。
道沿いのドーナツ屋にも魅かれていたようですが、聞くとすぐになくなるドーナツがあるらしい。
その思いはかみさんだけではないようで店舗の前には行列。
「モール見に行こう」、さすがにその列に参加するのは諦めたようだ。

直ぐ近くのホームセンターの資材館はガラガラ、彼女が希望するモールが見つかり買い求める。
店舗ガラガラなのでレジもスムーズ。
これで帰途に着くのかなと思いきや「おにぎりを買いに行く」とのこと。
ホームセンターのすぐ西にあるスーパーへ。

スーパー「やまひこ尾張旭店」、ここは以前TVで見たぞ。
10時開店の5分前なのに店舗入り口には数十人の列ができている。
惣菜やらフルーツサンド、おにぎりなどが人気の様でこの列はそれを買い求めるための列。

今日は「おにぎりの日」らしい。
そもそもがこのお店、インスタグラムのみの告知でチラシは入れないようで、具沢山のおにぎりが今日の目玉だったようだ。

30名ずつ一区切りで店内に入れる、入店調整をしているようです。
ソーシャルディスタンスを保ち一列に並んで待っていたものが、店内に入ると一列だったものが2列、3列と一気に乱れる。
おやじ的にはなぜ一列で流れないのか不思議に感じる。密になっている。
陳列ケースの前を一列に制御してしまえばいいと思うのだが。

普段買い物に行かない者から見ると、今のご時世「おにぎり買うのも覚悟が必要なのか」と思い知らされる。一人5個限定のおにぎりと食材を買い求めるが、毎日買い物に出かけているかみさん曰く「かわいいものよ」とのこと。

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 今日の戦果、秋刀魚、鯖、カキとエリンギ、サーモンの298円の具沢山おにぎり。
おにぎりの上に大きな具が乗せられて大葉のアクセントもあって美味しく頂いた。
素材のおいしさ以上に、人波を気にしながら買い求めた、限定5個の満足感の方が上回っていた。
「先着何名様限定」や行列が苦手なおやじ、・・・・・かみさんに感謝するしかない。

「やまひこ尾張旭店」
尾張旭市狩宿町4-59

静岡県浜松市 『秋葉山本宮秋葉神社 下社』

 


静岡県浜松市春野町領家『秋葉山本宮秋葉神社 下社』
赤石山脈遠州平野に突出した南端に位置し、天竜川上流の秋葉山の南東麓に下社、山頂の上社からなる「秋葉山本宮秋葉神社」と呼び、普段良く見かける秋葉神社の総本山。

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国道362号線から県道286号線を経由、気田川右岸沿いにある秋葉神社前キャンプ場の入口に参拝者駐車場があります。社頭は駐車場の真向かいにある。

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県道を渡ると常夜灯と石段が杜に消えていく。
秋葉山を崇める山岳信仰と修験の場が融合した秋葉権現の発祥の地。
修験の場ということで下社とはいえ、さぞかし過酷な参道が続くのだろう。

一般的に上社は素朴で下社は大きくて豪華、そんな印象をもって訪れています。
大きくて豪華なイメージとは裏腹に参拝者駐車場はガラガラ。
コロナの「影響かな」と勝手に思い込んでいた。
そもそも訪れたのは12/24、街中はともかく、こんな日に好き好んで山には来ないか?

f:id:owari-nagoya55:20210119090906j:plain社頭脇の解説。

祭神 / 火之迦具土大神伊弉諾伊弉冉の子で火の主宰神
創建 / 709年(和銅2)
社号 / 上古は「岐陛保神ノ社」と称し、中世は「秋葉大権現」と称した。
後の神仏分離により「秋葉神社」と改め、昭和に入り「秋葉山本宮秋葉神社」へと改称した。
神徳 / 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除き、火防開運の神。 

もともと江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が境内にある神仏混淆として成り立っていたようですが、1872年(明治5)の神仏分離により秋葉神社に改め祭神を火之迦具土大神として、三尺坊を仏教の秋葉寺に分離した。
この秋葉神社下社は戦時中の1943年(昭和18)、麓から発生した火災の延焼により、現在の上社の本殿東側にある山門を除き全ての建物を焼失したようで、容易に再建ができなかったことから、祭祀を継続するため麓に作られたのが下社だといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210119090933j:plain参道に入ると赤い欄干の神橋があり、そこから先は石段に変ります。

ここから過酷な石段の参道が続く?と思いきや伽藍らしき建物が見えている。

f:id:owari-nagoya55:20210119090953j:plain参道の周囲は杉が生い茂り、角の取れた石が積まれた石段は、さほど急な勾配ではなく登りやすい。

先に見える建物まではたいした距離はない。
登り切れば境内が広がり大きな社殿が現れるか、更に石段が続くものなのか、初めて訪れるので先は見えない。

f:id:owari-nagoya55:20210119091010j:plain視界は広がりここが秋葉神社下社の社殿の様だ、正式には遥斎殿と呼ぶそうだ。

思い描いていた姿とはかけ離れ、静かで素朴な佇まいの小さな社殿。

f:id:owari-nagoya55:20210119091030j:plain境内の右に手水舎、左手に社務所、その右手に周囲の樹々とは明らかに大きさの違う御神木が聳えています。

f:id:owari-nagoya55:20210119091048j:plain境内の右、手前は休憩所と奥に高床式で切妻の建物、神楽殿だろうか?

f:id:owari-nagoya55:20210119091113j:plain札所(右)と社務所

全国の秋葉神社の本社となる秋葉神社の下社とは思えないこぢんまりとしたもの。
落ち着いた外観の社殿と静寂に包まれた空間は穏やかな気持ちにしてくれる。

f:id:owari-nagoya55:20210119091134j:plain

拝殿左の御神木の前に巨大なスコップと火箸が吊るされています。

スコップは「十能」というそうで、技術向上、作業安全を祈願し戦時中から度々奉納されたようです。
炭を運ぶ際に用いる道具だそうで、戦時中はそうしたものも悉く供出され、現在のものはその後に奉納されたもので、大きさは日本一だといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210119091155j:plainさて、下社参拝。

切妻平入で素木の拝殿は、飾りも少ないシンプルなもの。

f:id:owari-nagoya55:20210119091230j:plain神紋は「七葉もみじ」

建立は1943年と一世紀を経ていないけれど、趣には年月以上の風格が漂う。
社殿の飾りのなさは、戦時中の限られた資材や時間の中で建立された事もあるのだろう。
個人的には煌びやかな社殿より、飾り気のない質素な姿の方が信者の復興に対する思いが伝わってきて好感が持てる。

f:id:owari-nagoya55:20210119091253j:plain拝殿から幣殿・本殿方向の眺め。

実際にはもう少し薄暗いけれど、拝所からは正面の鏡が鈍く輝いている。
1943年(昭和18)の建立から上社が再建される1986年(昭和61)まで信者の崇敬を一心に担ってきた。
上社が再建され、車でも容易に訪れることが出来る事から、地味な下社を訪れる参拝者は少ないのかもしれない。

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井伊の赤備発祥の地

井伊家が今川家の支配下にあった時代、当主不在となった井伊家を継いだ娘の直虎は、後に直政を養子として迎え育てたのが井伊直政
後に徳川方となり徳川四天王の一人として活躍しますが、その背景には、滅亡した武田方の精鋭部隊を徳川方に取り込んだ直政の活躍があったとされます。
直政は赤一色の精鋭を率い井伊の赤鬼として活躍したとされ、起請文を取り交わした場所が秋葉山山頂のようです。

f:id:owari-nagoya55:20210119091337j:plain社殿全景。

拝殿と幣殿が一体となり本殿まで繋がっているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210119091435j:plain本殿に近づいてみましたが流造の様に見えますが見通す事はできません。

見慣れた上社と下社のイメージと秋葉神社下社の建立の経緯はあまりに違っていました。
焼失した社殿再建まで、火伏の神の祭祀を継続するという役割は、ある意味終えたのかもしれませんが、混乱の時期に下社の建立に携わり、拠り所とされた方々から見れば、訪れる方の少ない下社は秋葉神社そのものかも知れない。

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参道から社頭の眺め、参拝者の姿は意外なほど少なかった。
2020/12/24

秋葉山本宮秋葉神社 下社
祭神 / 火之迦具土大神
創建 / 709年(和銅2)
下社建立 / 1943年(昭和18)
住所 / ​静岡県浜松市天竜区春野町領家328ー1

下社社殿の右に隣接するように六所神社が鎮座しますが、改めて掲載する事にします。

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気分転換

緊急事態宣言は発出されたものの、大きな数値の変化はないようだ。
バレンタインデーも近づくと、かみさんの話題は「あそこ」の事ばかり、いかにも行きたそうだが、彼女なりに我慢しているのが見え見えだ。

感染予防や防止などの個人の意識は様々です、人の密集する街に自ら好んで足を向ける気は更々ない。

それでも家に籠ってばかりでは息も詰まるし体も訛る、密集しない場所をピックアップしてかみさんと外出してきました。血中酸素濃度は99%、体温良し、マスク良し、アルコールスプレー良し。

かみさんが選んだのは西尾市の抹茶パフェと一色町の鰻を食べに行こうというもの。
普段は大勢人が並ぶ店なんだけれど、この時期ならば人は少ないだろうという都合のいい読み、当然並んでいればパス。おやじは天井絵と流造の社が見たくて吉良町の神社参拝をリクエスト。

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上段左は西尾市上町上屋敷7の「茶房 AOI」
お茶屋さんの二階にある抹茶好きにはたまらない抹茶スイーツパラダイス。
かみさんはお目当てだった「大人ゼリー」とやらを堪能し満足したようです。
写真はおやじオーダーの「抹茶フレンチトースト」抹茶風味漂う、溶けるような口当たり。
入店システムは扉の前で呼び鈴をならし、扉を開けてもらい手の滅菌と検温。
店内に2組ほど先客が見えましたが席はしっかりと離してくれたし、対面席は使用禁止としていました。
また、使用したお手拭きは専用の袋に入れて退席し、スタッフが直接触れない対応をとっていた。
いい対応だと思います。

上段右は西尾市一色町坂田新田西江の「三水亭」
鰻重や鰻丼「美味しそう」なんですが、気力と現実のギャップは随分分かってきた、二人にとって御飯の量は多すぎる。おやじは長蒲焼と御飯セット、かみさんは白蒲焼のセット。
炭の香りがほんのり漂い、皮パリパリでふわっとした肉質の一色産の鰻、美味しい。
ゴムのような大陸産との違いは明らか(格付けの様に出され違いを問われると果たしてどうなんだか)。

入店システムは一般的、アルコール滅菌で入店、混んでいれば名前を書いて店の前にある広大な庭園で順番を待つ。
コロナ禍の影響は深刻だ、広大な駐車場はガラガラ、店内は閑散として以前の賑わいとは程遠い。

中段の龍の天井絵。
西尾市平坂町熊野45に鎮座する「平坂熊野神社
2014年に150年ぶりに本殿遷座祭が執り行われ、新しい拝殿の天井中央に龍と熊野神社の使い八咫烏が隠し絵として描かれています。若い宮司さんはとても気さくな方で拝所から眺めていたのですが「中からしっかり見て下さい」と扉まで開けて頂けました。ありがとうございました。

下段左は西尾市一色町一色東前新田の「一色まなびの館」に展示してある、「三河一色大提灯」のレプリカ。
一色町諏訪神社で約450年の歴史を持つ祭礼の際に境内に吊るされる大提灯(5㍍×10㍍)。
この巨大な提灯が12張吊るされる姿は壮観なものがある。年々大きさを競い合った結果「こんなになった」てしまったようだ。

下段右は西尾市吉良町宮崎宮前の「幡頭神社」
702年(大宝2)に創建され建稲種命を祀る神社。三河湾を一望する高台に鎮座する。
三間流造の本殿や左右の熊野社、神明社を間近に見ることが出来る。

参拝後「吉良ワイキキビーチ」や吉良温泉街を歩いてみるが、季節が季節だけに広いビーチには人影はなく、釣り人が数人、ホテル街も閑散としている。
今は時代遅れとなった「慰安旅行」で訪れていたころの活気のある温泉街とはかけ離れた光景はここだけではないのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210117131851j:plain久し振りに眺める海と潮の香り、たまには外にでて思いっきり深呼吸する事も必要だ。
2021/1/15

薩摩國 一之宮 枚聞神社

薩摩國一之宮 枚聞神社
北に池田湖と南に薩摩の名山開聞岳を間近に望む開聞十町に鎮座。

f:id:owari-nagoya55:20210116203040j:plain 手前の池田湖から開聞岳の眺め。
この池田湖は約5500年前の火山活動で陥没してできた、水深233㍍と非常に深い九州最大の湖です。
それだけにここには不思議なこともあるようで、1978年怪しい生物が湖面を泳ぐ姿を多くの方が目撃し、以降「イッシー」と呼ばれる一帯は盛り上がったそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210116203105j:plain 後方に優美な姿の開聞岳が迫る社頭の眺め。
右の道路は県道28号線で指宿枕崎線開聞駅方向に続きます。
枚聞神社は開聞岳御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には奥宮も鎮座するといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203124j:plain 朱塗りの一ノ鳥居は明神鳥居、そこから境内の眺め、ニノ鳥居、社殿まで見通せます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203144j:plain 鳥居には十六菊の門が入る。

f:id:owari-nagoya55:20210116203203j:plain 境内は広大で、左に小さな鳥居と手前は養生された土俵だろうか。
11月も終わろうとしている時期だけど、南国ムード漂うブーゲンビリアの濃いピンクが境内に彩りを添えていました。

f:id:owari-nagoya55:20210116203225j:plain 小さな鳥居の先は「頌徳碑(シュウトク)」
明治維新戊辰戦争から太平洋戦争による戦没者や郷土の発展に大きく貢献された方々を祀るもの。

f:id:owari-nagoya55:20210116203249j:plain 国道沿いの駐車場には日清日ロ戦争で出征した兵士を迎えた「凱旋門」が保存されています。
神社で出征祈願し国のため戦地に向かい、再びこの門を通り無事に戻れた事に感謝する。
凱旋門、未来永劫増やしてはいけない。

f:id:owari-nagoya55:20210116203307j:plain 境内からニノ鳥居から社殿の眺め。
朱塗りのニノ鳥居の両脇に御門神社(みかど)と左に手水舎があります。
右手に聳える太い幹の楠木の巨木が一際目を引く。

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 「枚聞神社のクスノキ
楠木の成長には目を見張るものがあります。
ここの楠木は樹齢800年を超すとされ、解説によれば幹回り7.9~9.5㍍、樹高18.0~21.0㍍とある。
広大な境内には千年を超す老木もあると云われ、こうした杜と開聞岳は神社の歴史そのものかもしれない。
今は静かな開聞岳ですが貞観年間(859~877年)の噴火では、枚聞神社は指宿市の揖宿神社に一時避難を余儀なくされた様で、その後に開聞岳北麓の現在地に遷座されたといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203358j:plain 御門神社と両部鳥居のニノ鳥居、勅使殿が良く見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210116203423j:plain 参道右に「宝物殿」と四つ割菊の紋が入る神馬像。

f:id:owari-nagoya55:20210116203503j:plain 社殿は正面に唐破風向拝のついた勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。

社伝によれば鎮座年代は遠く神代の創祀という。
古来薩摩国一宮として代々朝廷の尊崇厚く、特に島津氏入国の後は厚く崇敬され、1200年(正治2)の社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等行われてきた。
琉球とのつながりも深く、琉球王の名によって航海安全の神徳を奉謝して献納された額面が保存されているという。

鎌倉時代以降は新田神社と薩摩国一宮の地位を競った、戦国時代に島津氏家臣の頴娃(エイヒ)氏の庇護下にあったが、1571年(元亀2)の頴娃家の争乱「証恩寺崩れ」の巻き添えとなり社殿を焼失したが、神社は島津氏の庇護を受けてすぐに再興されたという。
島津氏は枚聞神社のクジにより様々な作戦を決めたとも云われ、現在の社殿は1610年(慶長15)に島津義弘が寄進、1787年(天明7)に島津重豪による改築を受けるなど島津氏の厚い崇敬を受けていた。

f:id:owari-nagoya55:20210116203447j:plain 本殿方向くと、本殿の屋根の上に御神体開聞岳を眺める構造になっています。
朱塗りを多用した社殿は、周囲の杜の中で強烈な存在感を魅せています。

f:id:owari-nagoya55:20210116203536j:plain 勅使殿
拝殿はこの先にあり、こうした建物は勅使殿といい、勅使門が変じたもので鹿児島県独特のものだという。
朱で塗られた社殿の中で勅使殿の唐破風向拝の木鼻や斗栱、蟇股など煌びやかな彩色とともに装飾は手が込んでいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203556j:plain 勅使殿天井に描かれた草花の絵も視線を引き付けます。
勅使殿から拝殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210116203616j:plain 拝殿後方に本殿の千木が見えるものの、入母屋造妻入とされるその姿は見られません。
本殿裏には玉垣で囲まれた「清所」と呼ばれている一角があり、中には地面に大小様々な大きさの石が敷き詰められているといいます。言い伝えでは豊玉姫の御陵だといわれているようです。

主祭神は大日霎貴命、その他に天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命を合祀。
航行の安全や漁業守護、交通安全の御神徳のみならず、この地を離れて暮らす親族の安泰を祈願するそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210116203639j:plain 勅使殿の左右に回り廻廊、長庁と呼ぶのだそうだ。右の長庁の先に小さな社があったが詳細は分からなかった。

開聞岳御神体として南麓に鎮座した山岳信仰から始まり、山の営みとともに北嶺の現在地に鎮座する枚聞神社。島津家の絶大な庇護のもと開聞岳を背に鎮座する姿は、薩摩國一之宮に相応しい佇まいを見せてくれます。

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2020/11/25
薩摩國 一之宮 枚聞神社
祭神 /   天照大御神
配神 /   天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命
創建 /   不明、社記708年(和銅元年)
住所 / ​鹿児島県指宿市開聞十町1366
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