宇奈岐日女神社 (大分県由布市)

別府市を後に由布岳を回り込んで由布市湯布院町へ。

眼下に湯布院を望む狭霧台駐車場から由布岳を眺める。
 その姿は無意識のうちに、50肩であがらないはずの腕を上げ、写真に収めたくなる程雄大なのものだった。

JR由布院駅から2~3分程北東へ進む、湯布院町川上の五差路交差点、交通量はそこそこあり、人の大来も多い交差点ですが、信号はなくても円滑に流れている事に驚きを感じる。
 宇奈岐日女(うなぎひめ)神社の大鳥居はこの交差点に聳えている。
ここから南東15分程の所に宇奈岐日女神社が鎮座します。

往古の湯布院は湖だったされ、そこを切り開いたとされるのが宇奈岐日女。
 かつての湖は緑豊かな盆地となり、その南東の木綿山に宇奈岐日女神社の社叢が広がります。
樹々の間から鮮やかな朱色の本殿の姿が望めます。

宇奈岐日女神社社頭。
 左に参拝者駐車場も用意されていました。


 石の明神鳥居と「縣社宇奈岐日女神社」の扁額。

 鳥居右の記念碑の下にも旧の扁額「式内宇奈岐日女神社」が置かれています。

災害復旧記念碑、碑の後ろで待機していたボランティア解説員の猫。

平成3年の台風19号で神木や建造物はかってない災害を被ったにゃん。
 半壊 拝殿、神門、末社一社。
全壊 末社二社、神輿殿、神楽殿
 倒木 144本、約600立方㍍。
倒木は幹回り3㍍を越えるもの、にゃんと28本、樹高最長は55㍍、樹齢は600年。
 倒木の一部は神楽殿拝殿等に倒伏したものもあり、復旧には危険を伴ったにゃん。
と仰る。

解説猫の話を聞いて参道を進む、解説猫に気に入られたのかずっと後をついてきた。
 参道左の由緒。
「宇奈岐日女神社。
 鎮座地 湯布院町大字川上六所2220番地
祭神 国常立尊国狭槌尊彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、神倭磐余彦尊、神渟名川耳尊
 由緒
創祀は景行天皇の御宇、一二年冬十月。
 嘉祥二年(849)六月「従五位下」(続日本後紀)。
元慶七年(883)九月二日「正五位下」(三代実録)に叙されている。
 延長五年(927)「延喜式神明帳」に列記された式内社である。
明治六年(1873)郷社、大正一二年(1923)県社に列せられる。」

由緒に記されていないが江戸時代までは、ここから北へ徒歩15分程に鎮座する佛山寺(上)と習合していたそうだ。
 それも後の神仏分離により今の姿になったと云う。
宇奈岐日女神社は祭神の六柱から「六所宮」、鎮座地から「木綿ノ神社」とも呼ばれるようです。

由緒書きから参道を進む、左に手水舎と右に四方吹き抜けの神楽殿らしき建物があり、その先に四つ脚の神門がはっきりと見えてくる。

 解説猫も忙しいのかここでお別れ、再びもとのポジションへ戻っていった。

参道の先の狛犬と神門。

神門前で参道を守護する狛犬(吽形)。
 寄進年を見忘れたが、ふさふさとした尾と垂れ耳で愛嬌ある表情を持つもの。

同(阿形)。
 どちらも赤褐色の彩色が施されていたのか、一部にこうした色が残る。
写真ではサイズ感は伝わらないが結構大きな姿の狛犬です。

上品な美しさを持つ神門に程よく調和する大きな額。
 その先に社殿を望む。

神門から社殿域の眺め。

境内から見た神門。
 白壁で繋がり上品な朱で彩られた四つ脚の門、朱の扉には十六菊花の紋が金色に輝いている。

境内右に御神木の切株、手前に小さな狛犬が守護している。
 解説は以下。
「御神木の切株。
 平成3年9月27日、台風19号により参道、社殿に倒伏した杉。
140本やむなく伐採処理し切株の大なるものをここに残置する。
 幹回り 右(写真奥)が9㍍、中央が7㍍、左が7.5㍍。
樹高の最長は55㍍、樹齢は最高600年と推定される。」
 万物には神が宿り、自然を尊ぶ日本人の誇れる自然観がここに現れている。

この神社の始まりも往古は湖だったと云われる由布の町を、豊かな農地に変えたと伝わる宇奈岐(うなぎ)日女やその土壌を育み日々仰ぎ見るお山、由布岳に対する畏敬の念から起きているのでは。

切株の前に佇む小さな狛犬
 平成に残置された切株と同時期に造られたものではないのかも知れない、風貌や年代はもはや分からい。

境内右手の朱の社は御年神社。

境内左手に注連縄の吊るされた建物があり、全ての扉を開け放つと神楽殿の様な気がしなくもないが用途は分からなかった。

拝殿に続く神橋の手前に六所様の湧水。
 写真左手に苔むした龍口が見えます。

社殿域の周囲を神池が堀の様に取り囲んでいますが、苔むした龍口は山がもたらす豊かな水を神池に注ぎこんでいます。

神橋から拝殿の眺め。
 神池に浮かぶ小島の上に社殿が建てられ、左右に石橋で繋がれた社が二社鎮座します。

拝殿左側に鎮座する改正(ただす)社。

拝殿の右側に鎮座するのは厳島神社
 豊かな緑に包まれ、絶え間なく注がれる水は澄み、静かな境内は龍口から流れ落ちる水音が心地いい。
とても居心地のいい空間でした。

拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と大きな向拝が付く。
 派手な意匠もなく、周囲の景観に溶け込むような落ち着いた佇まい。
拝殿額は「宇奈岐日女神社」
 神祇伯稚冨王書とあり、1700年代の神祇官長官の揮毫によるもの。

神池に浮かぶ社殿全景。

本殿は流造で緑の杜にあって白と朱の本殿の存在が浮き立っている。

本殿両脇の苔むした素朴な狛犬
 これも相当年季を重ねているのだろう、阿形はともなく吽形の顔は読み取れない。

拝殿から神門、社頭方向を眺める。
 多国語が飛び交う湯の坪街道の賑わいと比べ、ここは訪れる参拝者もまばらで、実に伸び伸びとしてリラックスできる神社です。

宇奈岐日女神社
 創建 / 景行天皇12年(82)
祭神 / 国常立尊国狭槌尊彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、神倭磐余彦尊、神渟名川耳尊
 境内社 / 御年神社、改正社、厳島神社
所在地 / 大分県由布市湯布院町川上2220
 参拝日 / 2022/10/27
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 八幡竈門神社から宇奈岐日女神社車ルート / ​移動時間約50分
大鳥居から社頭まで徒歩ルート / ​南東に15分程

​豊田市駒場町「駒場(こまんば)神明社」

豊田市駒場神明社

訪れたのは昨年の12/28。
毎年親戚が恒例の墓参りのついでに野菜を届けてくれていたが「野菜を自分で取りに来てくれ」の一言からだった。
やはり収穫応援はその付箋だったようだ。
二回目ながら今も方向感覚は怪しく、早い話が道に迷い出会ったのが駒場神明社だった。

鎮座地のすぐ南を流れる逢妻男川の右岸に位置し、北に流れる逢妻女川と挟まれており、北から東にかけ見通しの効く長閑な田畑が広がる。
駒場集落の北外れにあり、町内は対面通行の狭い生活道が続き、馴染みのない者が運転するに気が抜けない。

社頭は南西向きにあり、北に長い社地を持つ。
社頭から一見すると間口はさほど広くはないが、奥で大きく広がりゆとりすら感じられる。

鳥居から眺める境内。
正面に拝殿、左側に複数の境内社祀られています。

鳥居右側の由緒。
神明社
豊田市駒場町西埜中55番地鎮座。
祭神 天照大神
由緒 当社は延喜式外の旧社であって、大宝2年(702)10月持統天皇三河国を御巡幸の際勅使を得て氏神として鎮祭せられたという。
当部落は往古海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称した。
其の後部落名が駒場に変わったのは、第92代伏見天皇の御代と伝わるが、この地名の起源は部落が鎌倉街道沿線にあって人馬の往繁く、且つ燐村知立の馬市に進まる人馬の宿泊地となったからであろう。
いらい氏子の崇敬愈々篤く、常に祭祀を重んじ、社殿の修復に心掛ける等奉仕の真心を捧げた。
明治5年村社に列し、同40年10月26日神饌幣帛供進神社に指定された。
本神社例祭は古くは旧暦8月16日であったが農業事情の変化に依り改変あり現在10月に奉仕せらる。」
とある。

駒場となったのが由緒にある伏見天皇の御代(1287~1298年)とすると駒場の地名も随分と歴史がある。
地名はその地を語る写し鏡のようなもの。

徳川時代東海道が整備され池鯉鮒が宿場として栄え、歌川広重東海道五十三次にも多くの馬が描かれた光景が残りますが、伏見天皇の御代となると東海道が整備される以前の鎌倉街道時代から駒場はそうした場所だったのが窺える。神社も地名も誇るべき長い歴史を持っている。

鳥居をくぐった左に境内社、左から参拝して行きます。

末社の稲荷社。
「稲荷社(1766)
棟札に明治3年再建の棟札がある。
祭神 倉稲魂命
由緒
不詳なるも元西埜中の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

末社秋葉社(1836)。
天保7年(6かも?)再建の棟札が残る。
祭神 火之迦具土
由緒
不詳なるも元金山の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

末社の熊野社(1561)。
「永禄4年再建の棟札が残る。
祭神 速玉之男神 他
由緒
不詳なるも元平古の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

末社厳島社(1838)。
こちらは残念ながら脱色が著しく読み取れなかった。
天保9年(8か?)再建の棟札が残る
祭神 市杵島姫命
?????」

立派な燈籠の先の拝殿。
入母屋瓦葺で千鳥破風の付くシックな拝殿です。
この日は丁度新年を迎える門松の準備で真っ最中だった。

額は神明社
江戸時代末期から大正時代の子爵三室戸和光(みむろど まさみつ)の揮毫によるもの。

拝殿左の御霊社。

御霊社の右から奥に参道は続き本殿後方の境内社に続く。
ここからだと神明造の本殿が見通せます、鰹木は6本、内削ぎ千木が付く。

本殿全景。
天照大神らしい陽射しで明るく照らされた本殿域。

参道を奥に進んだ本殿後方に四つの鳥居が並ぶ。
これらの境内社も周辺から遷座されたもの。
正面末社から手前に参拝して行きます。

末社 山神社 街道組(1756)
棟札に宝暦6年の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元下馬の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座
唯一コンクリート造りで淡いクリーム色社殿で棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付く。

末社 山神社 北組(1757)
棟札に宝暦7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元南土用林の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

末社 山神社 荒井組(1802)
棟札に享和2年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元雲目の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

末社 山神社 寺内組(1824)
棟札に文政7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元鐘塚の林中に鎮座、明治6年神明社境内に遷座

社名の下の西暦表記が創建なのか再建をさすものかよく分からなかったが、稲荷社以外の末社は再建時期を西暦表示したものと思われます。

周辺の地区で祀られていた社の氏子たちはここ神明社に集う。
いずれも創建は分からないにしても、再建時期の棟札が残り、元の鎮座地まで遡れる記録がある。
我家のあたりも嘗ては田んぼが広がり小さな集落が点在し、それぞれ小さな社があったのですが、遷座ではなく廃社の道を辿って行き、田舎臭い町名も耳当たりの良いものに変っていきました。
切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない。

神明社本殿後方から拝殿方向の眺め。

拝殿右の手水舎。
今は手持無沙汰の龍も間もなく大忙しか。
そういえば狛犬の顔ぶれを撮るのを忘れていたようです。

 

駒場(こまんば)神明社
創建 / 大宝2年(702)
祭神 / 天照大神
境内社 / 稲荷社、秋葉社、熊野社、厳島社、御霊社、山神社
参拝日 / 2022/12/28
所在地 / ​豊田市駒場町西埜中55
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日吉神社から車移動 / ​北西へ約10分

もういい加減道草もしてられん、青虫一杯の野菜を収穫しに行こう。
この後、野菜の他に跡取り不在の親戚の墓参りを頼まれる(やはりこれか)
…切り捨てるのは容易、先人の思いを存続させるのは容易な事ではない…。
我家の息子達にとってやがて寺や墓も負担になってしまうのか…

ツアーバスは出るのだろうか

越前方向を巡る日帰りバスツアーの予定を立てていますが、この寒波では催行中止だろうなぁ。

 

自分は雪の大瀧神社にナイフビレッジ、かみさんは手漉き和紙体験にせいこ釜飯、魅力的なんだが。

 

いまだ連絡はないので催行されるつもりではいるものの…

若い頃なら深夜の山道に出かけているだろう。
しかし日中の移動はリスクだらけ、周りが動かなかったり、スリップされれば巻き添えが関の山。

 

今年の冬は冬タイヤは絶対、そこにチェンとスコップ、寝袋はmustで積んでおいた方がいいのかも。

 

今回は連れて行ってもらうだけに、内心雪道が楽しみですが、催行側なら高速が止まれば中止にするだろう。
ただでさえ、現地は大変な目に遭っているだけに、不慣れな街の人は近づかない方が賢明なんだろう。

「日吉山王社」(知立市八橋町)

御鍬神社から逢妻男川方向の北へ車で5分程進み八橋町寺内地内に鎮座する「日吉山王社」へ。

伊勢物語にも詠われ、かきつばたで知られる無量寿寺の西隣が日吉山王社。
社頭右に日吉神社社号標があり、玉砂利の敷き詰められた境内の少し先に鳥居を構えています。
当日は八橋史跡保存館から境内奥に車を乗り入れ駐車させていただいた。

保存館付近の八橋かきつばた園の案内板。
自分だけかもしれないが、八橋と云えば無量寿寺とかきつばたとなりますが、この日吉山王社も長い歴史を誇る神社です。

社頭の八橋日吉山王社。
「御祭神 大山昨命
創立 慶雲元年(704)
 無量寿寺開祖の密園法師が寺の創建に際し、守護神として境内に勧請安置された。
以来、無量寿寺住職により代々奉仕されてきた。
 明治4年神仏分離により境内に境界を設け、町内氏子の氏神としてお祀りされてきた。
合祀社
 小舎 神明社、八朔社、八坂神社。
大舎 天神社、弁財天、山ノ神、明神社、八幡社、秋葉社、春埜山、白山社。
 稲荷社
例祭日 10月14日 (5月) 」

とある。
飛鳥時代無量寿寺創建にあたり、山門鎮護神として京都府宮津の日吉山王宮から勧請される。

明治6年に村内各処に祀られていた社を神社境内に遷座
明治34年知立皇大神を勧請する際に社殿新築。
昭和34年8月の伊勢湾台風で被災、拝殿を改築。
昭和43年に合祀殿を新築、末社11社を奉斎。

創建以来1300年の長きに渡り八橋の集落と無量寿寺を見護り続けてきた神社だ。

ここを訪れたのは畑仕事の応援で駆り出された2022/11/24。
花の時期に来たことはないが、この時期は訪れる参拝者もなく閑散とした静かな境内だった。
参道から眺める境内は正面の拝殿、右が無量寿寺本堂、左から手水舎、社務所、大舎と続き、拝殿左に小舎と稲荷社が主な伽藍。

手水舎と龍口。
 瓦葺のシンプルな手水舎の下では、この時期でも大忙しの龍がいた。
水を注ぐ龍の姿がいきいきとして見栄えがいいものです。

末社8社を祀る大舎。

大所帯故に大きな額です。
社名の横にしるされた月日は祭礼日なのかな。
賑やかな大舎一つお参りするだけでも、大概の無理難題を聞き入れてもらえそうだ。
鈴は鳴らせなかったがならしたつもりでパン〃。

拝殿と左の小舎、右の瓦葺の建物は無量寿寺本堂。
拝殿前には一対の狛犬が守護する。

小舎全景。
八坂神社、八朔社、神明社をお祀りする。

小舎の左には豊川稲荷社。

入母屋瓦葺の落ち着いた佇まいの拝殿。
軒丸瓦には神紋の双葉葵の紋が入る。

狛犬は大正10年に寄進と読めたが違うやも。
この日は雲一つない青い空が広がっていた。

拝殿額は日吉山王社。

無量寿寺境内から見る日吉山王社本殿。
 高い塀と垣根が寺と神社を隔て本殿の造りや本殿域を垣間見ることは出来なかった。
日吉山王社を訪れ、無量寿寺や杜若同様にもっと脚光を浴びてもいいのでは、そんな印象を受けました。

無量寿寺のこの時期は杜若も枯れ寂しい限りですが、境内で見かけた幾つかの碑もあり、改めて掲載する事にします。

日吉山王社
創建 / 慶雲元年(704)
祭神 / 大山昨命
境内社 / 神明社、八朔社、八坂神社、天神社、弁財天、山ノ神、明神社、八幡社、秋葉社、春埜山、白山社、稲荷社 

所在地 / 知立市八橋町寺内65-1
不乗森神社から御鍬神社👉八橋日吉山王社 / ​車移動で5分程
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参拝日 / 2022/11/24

三重県桑名市堤原「北桑名総社 北桑名神社」

桑名と云えば食べるものだと蛤と焼きたての安永餅が思い浮かびます。
東海道53次の41番目の宿場宮宿と42番目の桑名宿を結ぶ海上輸送の要衝、七里の渡しはよく耳にします。
船に揺られて辿り着くとそこが伊勢国の東の入口にあたります。

訪れたのは12/14、暖かい日が続いていたが、生憎と空はどんよりと鉛色で風が強く寒い日だった。

名駅から美濃街道を東に、七里の渡し方向に向かう道すがらのマンホールには桑名を象徴する様々なデザインが施されていて寒空を歩いていても楽しめる。

美濃街道が通る桑名市堤原7に写真の北桑名総社北桑名神社が鎮座します。
社頭右には地蔵堂があり、左に木造の神明鳥居が立ち、その奥に東を向いて社殿が並ぶ。

社頭全景。
鳥居の右に北桑名総社 北桑名神社の社標(大正11)、左に持統天皇御舊跡と刻まれた石標が立っています。
時の朝廷に対し大海人皇子(後の天武天皇)が決起した壬申の乱(672年)では、鸕野皇女(後の持統天皇)らを桑名に残し、大海人皇子は戦場の舞台となる不破関に向かったとされます。
その間、鸕野皇女が桑名の拠点としたのが北桑名神社とされ、ここから戦場の支援や決起が失敗した場合の逃走ルートとしたのかもしれない。

燈籠は文政8年(1825の寄進)と刻まれている。

社頭の北桑名総社北桑名神社由緒書、そこには以下のように記されている。

 

当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも、「今一色神明社」とも称された今一色の産土神
明治41年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「佐乃冨神社」を合祀、「北桑名総社北桑名神社」と改称。
昭和12年、社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成るも、おしくも先の大戦で全て焼失。
戦後、氏子、崇敬者の協賛により本殿、拝殿等逐次再建され、今日に至る。
御祭神 天照大神、鵜葦不含尊(神武天皇の父)、高水上命(伊勢の豪族)、須佐之男尊、天兒屋根尊、持統天皇大山祇命
祭日 大祭(8月15~16日)、小祭(敬老の日)、新嘗祭(11月23日)、元旦祭(1月1日)

(上は久波奈名所図会、この合祀した二社が描かれています)
三崎神明社
桑名の地は古代文書によれば、自凝洲崎、加艮洲崎、泡洲崎の三つの洲に分かれていた。
自凝洲崎に江ノ奥の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていた。
江戸時代の始め、慶長年中桑名藩による町割りや開発が行われ、時の城主本多忠政侯が神殿神舎を寄進、慶長19年8月現在地に遷宮
郷土史によれば、当社は踊りで有名で、江戸時代60年周期で「お陰参り」が盛んに行われた、それに伴い当社への参拝も多く、関東人群参の社であったと伝わる。

佐乃富神社・中臣神社
両社とも延喜式内の古社(「延喜神名帳」に記載されている全国の由緒ある神社)で代々の桑名城主の崇敬があり、寛永20年松平定綱侯が神殿神舎を建立。
壬申の乱(672)が起こり大海人皇子(後の天武天皇)は一族を連れて桑名郡家に着き、妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子桑名郡家に残し戦場となる不破へと向かい、戦いは大海人軍が勝利、桑名の地にもどられました。
この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えらる。
蒐野皇女に対する奉仕と功労により蒐野皇女より「硯と鏡」を賜り、社宝として当社に伝承されてきた。

五霊神社
当社の境内神社で明治41年合祀の際、この地に点在していた小祀を一社に統合、奉斉。
「赤神様」とも呼ばれ、桑名藩主の御命により防火の神八天宮(火産御霊神)を祀り災害がないことを祈った。
御祭神 火産御霊神、宇迦御霊神、大物主神神功皇后菅原道真

現在の北桑名神社の社殿は戦災後の昭和44年に本殿が竣工し、今の姿に至っている。
上は当地の明治24年(1891)頃と右は現在の河川の比較、僅か100年少々前ですら流れが大きく変えられた事に改めて驚く。
七里の渡し跡はほぼ中央に位置し、海路で伊勢を訪れる参拝客はここで伊勢の地を踏みしめる事になる、当然ながらそこには城(桑名城)も築かれた。
残念ながら明治24年の地図には鳥居は示されていなかった。

神門。
切妻瓦葺の四脚門。
参道左に手水舎があり、参道はこの先から右に折れ社殿へ続く。

手水舎。

拝殿前の狛犬(寄進年未確認)。
大きな口を開け、一部彩色され化粧が施されている。

拝殿全景。
切妻瓦葺で唐破風向拝が付く。

拝殿額は北桑名神社。

拝殿から屋根が設けられ神明造の本殿へ繋がる。
鰹木は4本、内削ぎの千木が付く。

本殿前の小さな狛犬
 拝殿前の狛犬に比べるとこちらは少し年季が入っていそう。

拝殿左に八天宮、稲荷大明神金刀比羅宮、天神社、船魂社を祀る五霊神社。

祭神は八天宮(火産御霊神)、稲荷大明神(宇迦御魂神)、金刀比羅宮(大物主神)、天神社(菅原道真)、船魂社(神功皇后)。

北桑名総社北桑名神社全景。
空襲で向拝した戦後の当地に氏子、崇敬者らの思いから再興された神社だ。

帖付地蔵尊
調べて見たが謂れや年代等見付けられなかったが、堂内には赤い前掛けを付けてもらった石の地蔵が一体安置されています。
 
北桑名総社 北桑名神
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神、鵜葦不合尊、高水上命須佐之男命、天兒屋根尊、持統天皇大山祇命
境内社 / 五霊社
参拝日 / 2022/12/14
所在地 / ​​三重県桑名市堤原7

名駅から徒歩ルート / 東へ​徒歩10分程
参拝日 / 2022/12/14
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『東福寺』(京都市東山区)

京都市東山区本町に鎮座する東福寺
東寺から市バスで東福寺バス停を降車し、目の前の県道143号線を越え南に10分程の場所にあります。
訪れたのは2022/11/24、この時期は臥雲橋や通天橋から紅葉を望むスポットとして知られます。

 

東福寺の拝観は瑠璃光院の様に予約制ではないので、紅葉のピーク時は身動きが取れない程の混雑を見せ、お目当ての臥雲橋や通天橋から眺める紅葉は写真撮影も制限され、立ち止まる事すらできないと云う。
バス停から東福寺日下門が近づくにつれ、人波は徐々に増え、「つい2、3日前は少し早いかと思っていたら一気ですわ」そんな声が盛んに聞こえて来た。
こうして見上げる紅葉もピークを過ぎ、散るばかりの状態。

善慧院などの塔頭寺院が立ち並ぶ小路を南に向かうと、道幅一杯に広がっていた人波は対面通行の臥雲橋で一気に集中する。
これでも少ない方なんだろう、当日は写真撮影や立ち止まる等の制限の呼びかけはされていなかった。

臥雲橋入口。

写真は通天橋から臥雲橋と東福寺方丈の紅葉。
この上流側の偃月橋と合わせ三つの木造橋廊が架かり、紅葉の見え方は其々の美しさを持っている。

臥雲橋を渡り東福寺日下門。
 ここから東福寺境内へ。
観光バスの入りのタイミングに遭遇すると一時的に人波が増え、広い境内に入ればそれも緩和するのだが波が引くまでは思うに任せない状態になる、特に困るのは女性トイレで長蛇の列が伸びていた。

まず東福寺の始まりは鎌倉時代に遡り、当時の摂政九條道家が、南都最大の規模だった東大寺につぎ、教行は興福寺にならうという意味から、「東」と「福」の字を取り、北都最大の大伽藍を造営させたのが慧日山東福寺の始まり。
嘉禎2年(1236)から建長7年(1255)の19年を費やし完成され、開山は日本最初の国師聖一国師で、当初は天台宗真言宗禅宗の三宗兼学の寺として巨大な伽藍を誇ったとされます。
その伽藍も鎌倉末期初め火災により幾度か伽藍を焼失、直近では明治14年(1881)の火災で本堂、法堂、庫裏など焼失、都度再建され現在の姿になったと云う。
臨済宗東福寺派大本山の寺院で山号は慧日山。本尊は釈迦如来をお祀りする寺院。

禅堂。
日下門から境内に入った右側の建物で、裳階の付いた単層切妻造で白壁と華頭窓の美しい建物。
貞和3年(1347)に再建された我国最大、最古の座禅道場と云う。

本堂(仏殿兼法堂)
当初は新大仏と呼ばれ、南都の大佛を彷彿とさせる釈迦如来像が安置されていたされ、元応元年(1319)の火災によって当初の釈迦仏像は焼失、その後明治の大火で大仏は一部を残し焼け落ち、昭和9年(1934)に再建された重層入母屋造の本堂内には、三聖寺の釈迦如来万寿寺から移された迦葉阿難立像をお祀りしているという。

本堂正面の眺めは大仏殿の趣を感じる威風堂々とした外観の巨大な建築物。
昭和の木造建築物では最大のものだそうだ。
扁額には「毘盧宝殿」とあり賀陽宮恒憲王の揮毫。

三門(国宝)
室町初期に再建された二層の門で有料拝観ですが、上層に安置される釈迦三尊、十六羅漢像を拝観でき、内部の天井や柱には明兆と弟子の手による彩色画が施されており、階段は急ですが上る価値はある。

思遠池から三門正面の眺め。
蓮が植えられ暑い夏の早朝、三門に蓮の花が彩りを添えてくれそうです。
秋同様に混むのかなぁ、いやぁやはり混むのだろう…ここは京都だ。

三門扁額「玅雲閣」、足利義持の揮毫。

思遠池の右から五社成就宮(五社大明神)へ。
ここは東福寺にあって意外に訪れる人は少なく、本来の静かな境内が続く。

東福寺の鎮守で石清水八幡、賀茂神社伏見稲荷春日大社日吉大社の五社が祀られています。


参道左側の魔王石(右)。
魔王石には鞍馬山の魔王が降臨したといわれるそうだ。
十三重の石塔(左)
九条道家東福寺創立を祈願し創立した十三重の石塔で一番下に梵字が刻まれていた。


五社成就宮(五社大明神)は藤原忠平が延長3年(925)に創建され、安土桃山時代には廃絶した法性寺の鎮守だったとされます。
寛元元年(1241)東福寺の鎮守として社殿が建立されたが、文明11年(1479)には焼失、後に再建されたもの。

石段の先で拝殿を守護する狛犬
年代を見忘れましたが、小さいながら肉付きの良い姿で、歯を剥き出しにした吽形は今にも飛び掛かってきそうな勢いがある。

唐屋根の拝所内の扁額。
石清水八幡、賀茂神社伏見稲荷春日大社日吉大社の御祭神。
稲荷の使い、狐の姿がある。

本殿は檜皮葺の一間社流造。
下の境内は人で溢れているが、こちらを訪れる方は殆どいないようです。

江戸時代に建てられた切妻瓦葺屋根の鐘楼。
梵鐘に年号は刻まれていたが元号が読み取れなかった。


鐘楼後方に石碑と地蔵郡。

その左側の荒熊大神。

石の明神鳥居の先に祀られる荒熊大神の祠。
三門を眺める高台に鎮座する五社成就宮には神仏習合の名残が残る、東福寺境内の人波をしばし避けるにはお勧めのスポットかもしれない。

庫裏全景。
この左に方丈と方丈庭園があり、庭園拝観券や御朱印はこちらで頂ける。
方丈は僧侶(方丈さま)の住居や執務室、書院、訪れた者と応接するための建物で、ある意味寺の顔と云ってもいいかもしれない。
現在の建物は明治14年の火災により焼失し、明治23年(1890)に再建されたものだされます。

恩賜門。
方丈再建に伴い昭憲皇太后より下賜された向唐破風の門で方丈への表門。
檜皮葺で門の扉に大きな菊花紋の彫りが施され、門全体に細かな彫りが施されている。

方丈庭園南庭。
方丈そのものが明治に入り再建されており、その後の昭和14年に作庭家・重森三玲により作庭されたもので、方丈を中心に東西南北と庭園を持つのは他に類を見ないという。
作庭にあたっては、本坊内にあった材料は廃棄することなく再利用し、禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」という教えに従う条件が与えられたという。
そうして出来上がったのが方丈庭園で最初に見えるのが南庭。
一面白川砂が敷かれ、砂紋の中に石組と奥に苔に包まれた築山があり、京都五山を表現したものと云う。
2014年に「国指定名勝」に登録されている。

西庭。
白川砂の庭にサツキと葛石で伝統的な市松模様を描いたもので、本坊の廃材、敷石の縁石を再利用したもの。
晩秋の西庭は白と緑の市松模様に紅葉の赤も加わり、雲一つない?青空を背景に鮮やかさを増している。

北庭。
こちらの素材も勅使門から方丈にかけて敷かれていた切石を再利用してできたもので、西庭の大きな市松模様に対し、苔の緑と石の白さで小市松模様を描いている。
一面苔庭にはない、苔の美しさが見られ、四庭のなかでは一番のお気に入り。
混んでなければ座り込んでじっと眺めていられる。

東庭。
白川砂と円柱、奥の苔庭と生垣、これらを全てで夜空に輝く北斗七星を表しているという。
白川洲の中に立つ七本の円柱も廃材とされてしまう礎石が再利用されている。
禅の教えを貫き、廃棄されるものに新たな息吹を与え人を感動させる、それが方丈庭園。

方丈から通天橋拝観受付方向の眺め。
受付や通天橋(右)方向を行き交う人は随分と少なくなったので券を買い求め通天橋方向に向かいます。
後方の方型屋根の建物は経堂。

通天橋
天授6年(1380)、春屋妙葩により本堂と開山堂を結び、洗玉澗を渡る橋廊として架けたとされます。
橋の入口には通天の額が掛けられている。

通天橋入口付近の紅葉。

通天橋から右手の方丈の眺め。

ここから眺める渓谷・洗玉潤の紅葉は絶景そのもの。黄金色に染める三ツ葉楓は聖一国師(円爾)が宋から伝えた唐楓だと云う。
円爾は34歳で宋へ留学、40歳で帰国し教え以外にもお茶や水車を用いて蕎麦を曳く技術など様々なものを日本に伝承した。
この通天橋を渡ると東福寺の建立を円爾が見守った開山堂(常楽庵)に続く。


通天橋から廻廊を上ると楼門へと続く。

開山堂(常楽庵)。
円爾は開山堂に隣接する普門寺(普門院)に居住し、弘安3年(1280)、79歳で入定した地。
正面の開山堂上部の伝衣(でんね)閣には阿弥陀如来立像、布袋和尚坐像、薬師如来坐像が祀られ、聖一国師(円爾)を祀る。
現在の建物は文政2年(1819)に焼失後に再建されたもので、広い庭を囲むように普門院と開山堂の伽藍が配置されています。

愛染堂。
開山堂伽藍の西に建ち、杮葺で朱塗りの八角堂。
南北朝時代の建築とされ、江戸時代まで東福寺北隣にあった塔頭三聖寺の愛染堂で、昭和9年室戸台風で倒壊し、この地に移転、修理されたもの。
堂内に宝塔形の厨子を安置し、鎌倉時代のものとされる愛染明王坐像が安置されている。
諸々の苦悩から救い、愛と尊敬の心を与え、悪縁を絶ち、全ての人に安寧を授け、女性には良縁を授けて頂けると云う。
ここを訪れる若い衆の姿が少ないのは、満たされているのだろうか。

京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、近代に入り規模は縮小したとはいえ、東福寺は今も塔頭25寺を誇る大寺院である。

東福寺
山号 / 慧日山
宗派 / 臨済宗東福寺派
創建 / 嘉禎2年(1236)
開基 / 九条道家
開山 / 円爾
本尊 / 釈迦如来
所在地 / 京都府京都市東山区本町15-778
東寺からバス👉徒歩 / ​​南へ徒歩10分程
参拝日 / 2022/11/24
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名古屋市中区錦 『泥江縣神社』

名古屋市中区錦1「泥江(ひじえ)縣神社」、個人的にとても思い出深い神社。
 若い頃、先輩や同僚と「料亭でたらふく飲み食いしてみよう」なる暴挙を催した。
相場も知らない若造がバブルに浮かれ常軌を逸していた時期ならでは事。
案の定、帰りの電車賃も使い果たし、ひたすら歩いて家路を目指した事がある。
今思えば笑い話でしかないけれど、家に着いた頃の朝陽が綺麗だったことを覚えている。

その時こちら泥江(ひじえ)縣神社の社頭で若造4人が座り込み、休憩させて頂いたのは間違いない。
当時と何か変わったのかと自分に問うと・・・よく覚えていない、ただ堀川を越え東を向いて歩いた道路左の神社だった。
以後、馬車馬のように働き(働かされ)、二度と訪れる余裕はなかったが、そんな時代も卒業し、こうして訪れる機会が得られたことは当時が懐かしくもあり、再訪できたことがありがたくも思える。

本題に戻らないといけない。

由緒
祭神 三女神、応神天皇神功皇后
当社は尾張本国帳に従三位泥江(ひじえ)縣天神とあり。
清和天皇 貞観元年(859)豊前の國(大分県)の宇佐八幡宮から勧請された。
当時の境内は八丁(1丁=約109㍍)四方あり、応永26年(1419)修繕、遷宮
社殿は古社寺保護建築物に指定されている。
 
徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く、広井の八幡と称し親しまれ、大祭には豪華な神輿をはじめ、氏子、各町の笠鉾車が出て白山神社への神輿渡御武者行列などあり、名古屋の名物だった。
昭和20年3月19日の戦災で焼失するも復興されるも、昭和41年不審火により再度焼失した。
二度の火災でも御神体は焼失を免れ、社殿は再興され現在に至る。

また、市教育委員会解説に境内縮小の経緯について触れられていた。
「慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少。例祭日は神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという、七代藩主・宗春の頃には、境内に芝居小屋も作られた」とあった。

上は尾張名所図会巻之二に廣井八幡宮として現在の泥江縣神社の挿絵が記されていた。

由緒にある様に当時の伽藍の大きさと本殿左の相殿を始はじめ、多くの境内社が祀られていた事が挿絵からも見て取れ、記述にも「末社神明社、熊野社、熱田社、洲原社、三狐神社、浅間社、兒御前社、恵比須社、その他に小祠が多し」とある。
以前掲載した白山神社(中区丸の内1)は応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。

また、由緒に記されていた神輿渡御武者行列の様子も描かれ、ここにはその山車も享保9年(1724)焼失した事も記されていた。

創建は貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請されたのが起り。
祭神は三女神(田心姫神湍津姫神市杵島姫神)、応神天皇神功皇后
応永26年(1419)修繕、遷宮
検地、町割、戦後の道路整備等で境内規模を縮小。
昭和20年戦災で焼失再建。
昭和41年不審火で焼失再建。

まず社頭は桜通りと錦通りの間にある袋町通り。
ビルの谷間に挟まれ、南を向いて鎮座している。
石鳥居と右に社標が立ち、参道の直ぐ先に赤い拝殿が見えています。

鳥居をくぐった境内の眺め。
ビルの森の中にイチョウの樹をはじめ緑豊かなリアルな杜が残されています。

参道右の手水舎。

長い髭を持つ龍口。
水を自在に操る事から手水鉢に龍はつきもの。
想像上のもので角は鹿、耳は牛、頭はラクダ、目はうさぎ、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、腹は蛟、項は蛇
をモチーフにデザインされるそうで、天井に描かれる龍もそうした意匠で描かれているという。
それぞれ個性があり、滑稽なものや、この龍の様に凛々しいものもあり面白い。

ただ、最近こうした物を1gramの価値として捉え、持ち去る輩がいると聞く。
神社で龍を眺めていると疑われるやもしれない。

参道左の石、謂れはよく分からなかった。

拝殿正面全景。
連子窓の緑に朱と白、境内のイチョウの黄色と鮮やか。

拝殿前の狛犬は昭和24年(1949)、戦災で焼失後に寄進されたもの。

神紋は橘。

拝殿額は八幡宮
八のモチーフは八幡神の使いとされる鳩がモチーフになっているのは良く知られています。

拝殿から本殿方向の眺め。

拝殿左から流造の本殿の眺め。

本殿左の錦稲荷社。

こちらは稲荷神の使い、巻物と球を咥えた狐。
錦稲荷社の詳細は分からなかった。

錦稲荷社の左に御神木の大きな公孫樹が聳え、その前に小さな祠が祀られています。
座布団の上に、恰も大きな口を開けた鰐のような岩が祀られています。
持ち上げていいものか、撫でるものなのか詳細は分からないが、水や御神酒はかけてはいけない作法のようで、賽銭を供えいつものお願いをして拝んでみた。

拝殿右の境内社
間口の狭い社頭から見ると社殿域は狭い印象を持ちますが、拝殿右に広がりを持ち、二つの鳥居と二つの相殿と中央に蛭子社が鎮座します。
ビルの谷間の緑のオアシスのようだ。

参道右の手水鉢、年代は不明。
左後方には昇竜見返り之楠と呼ばれる大楠が聳えている。

境内社
右の相殿は左から五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社。
中央の流造の社が蛭子社。
左の相殿には菅原天神社、秋葉社、住吉社が祀られています。

鳥居から先の蛭子社。

蛭子社の前にあるつんぼ蛭子の話。
参拝者はこの社に詣でる前に社殿後方に廻り、社殿の腰板を小石か拳を持ってトン〃と叩いて音を立ててから正面に廻り願い事を述べる。
こちらの神さまはつんぼでなので参拝者の願い事がよく聞き取れない事から、こちらから神さまに気付いてもらい拝む風習が生まれたと云う。
戦後教育の中で何事も理詰めの思想を尊重する傾向にあるが、空想性に結びついた情と云うものが、人に潤いを与える上に重要な心的要素と捉えると、この話は貴いもの。

現在は吊るされている小槌で版木をトン〃と叩いた後に願言葉を唱えると願い事が成就する。
このご利益にあやかるため県内、県外からも参拝に訪れる。

黒い魚梆を見れば塗装も剥がれ多くの願いを叶えて来たことが伺われます。

蛭子社の黒ずんだ小さな狛犬は大正10年(1921)に寄進されたもの。
戦災以降二度の火災を見てきたはずだ。

泥江(ひじえ)縣神社
創建 / 貞観元年(859)
祭神 / 三女神、応神天皇神功皇后
境内社 / 錦稲荷社、五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社、蛭子社、菅原天神社、秋葉社、住吉社。
所在地 / 名古屋市中区錦1-7-29
参拝日 / 2022/12/08
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​公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線6番出口から徒歩10分程