来来憲「大とんてき」

三重県四日市市松本2丁目7-24
国道477号線(湯ノ山街道)から松本街道を東へ 松本郵便局の前にある「まつもとの来来憲」

しごく普通の中華料理店の店構えでありながら、地元では知られた人気店だと云う。
 お昼時だった事もあるのだろう、店の前には長蛇の列ができ全景を撮りたいところですが無理。

ウェイティングボードに名を連ね取り敢えず呼ばれるのを待つ。
 ・・・先は長そう、神社はないかと探して見るが生憎見当たらない。

中華料理屋なのにとんてきが人気の店だけに店舗入り口のキャラクターはブタだ。
 退屈な時間ブ~ブ~言いながら待っていると待望の呼び出しがあり店内へ。

店内はいかにも中華屋さん。
 座敷とテーブル席があり足にハンデがあっても大丈夫。
上はテーブルに置かれたメニューの一部。
 ランチ時にオーダーされるのは中華ではなく「大とんてき」ばかり。
「チャーラー」を頼める雰囲気はない。
噂には聞いていたのでオーダーに迷いはない、大とんてき定食で決まり。
 その際「グローブotカット?」と尋ねられる、・・・・グローブ?。
知らぬは我が家だけ、聞けばカットはカット、グローブは一枚肉の端を一部カットしたものを指すらしい、その姿がグローブに似ているから専門用語で「グローブ」と称すようだ。

二人ともカットでお願いした。

250gの豚肩ロースのとんてきにライス・漬物・とん汁が付き1,760円なら妥当な価格か?
 定食だとライス・漬物・とん汁がお代わり自由。
とんてきはにんにく多めのオーダーも可能と云う。
 見た目は脂っこくて味付けも辛そうなんですが見た目に反しさっぱりとした油で甘みを感じるやさしい味付け。
付け合わせのキャベツとたれの相性が良く山盛りのキャベツも食べきれる。
 250gの豚肩ロースに圧倒されるが柔らかくさっぱりしているのでぺろりと食べきれる。
御飯もお代わり自由と云うが・・・食べきれない。
 これは現役世代にしてみれば有難いだろう、但し食後しばらくは仕事に復帰する気にはならないかも。
キャベツが美味しく頂けるのはとてもありがたい、キャベツお代わりはないのかもしれない。
 
 とは言っても、なんでも値上げの情勢下そこまでは期待はできないか?
現役で独身ならば月一には恋しくなる「大とんてき」かもしれない。
 それにしても豚とはいっても250gは強敵だ。

四日市を通りがかったら話のタネに一度味わってみては如何だろう。
 見た目ほど辛くなく、しつこい油じゃないので完食いける。
四日市とんてき、いろいろ店は多いようで究めて見たい気もするが初めての「とんてき」は我家的に五つ星評価で星3.5か。
 
 
「まつもとの来来憲」
TEL / 059-353-0748
営業時間 / (昼)11:00~14:00、(夜)17:00~20:00
定休日 / 月曜・火曜、祝日休業
車アクセス / 国道477号線(湯ノ山街道)から松本街道を東へ 松本郵便局の前
公共交通機関 / 近鉄「伊勢松本駅」から徒歩で3分

下は店舗裏に24時間営業の自動販売機が置かれていました。



岐阜県瑞浪市「水の木 秌葉神社」

瑞浪市寺河戸町「秋葉神社
 金刀比羅神社から下街道を西に進んだ三叉路の突き当りに鎮座する。

秋葉神社全景。
 左の秋葉常夜灯が鎮座地の目印になるのでは。
常夜灯は石垣が三段に積まれ、その上に台石が乗せられ、その上に常夜灯が乗っています。
 くびれた竿から宝珠まで高さはそれほどでもないが、下からの全高は見上げる高さ。
境内の大半はこの常夜灯が占めている、右に寄進者の名が刻まれた石標があり、秋葉神社はその奥に祀られています。

注連縄が張られた切妻の赤い屋根の小さな社。
 賽銭箱はなく扉の前に。
境内は清掃され、社も傷んだところもなく綺麗に保たれ、町内の方々の目が行き届いているようです。
 祭神の秋葉三尺大権現は本地観世音菩薩が俗界の世界に現れた姿とされ、修験を積み自在に空を飛ぶ技を会得、秋葉山へは白狐に乗り飛来し鎮座したという。
 後に圓通寺で火を操る奥義を会得した事から火伏の神として広く崇敬されている。

人は火を自在に扱う事を覚え、それにより進歩してきた。
 反面、当時の建物は茅葺や木造なので容易く火災に繋がり、火は有難いものであり恐怖そのものだったに違いない。
そうした事もあり火伏の神を祀る秋葉さんは人の集まる集落や寺の鎮護社などに祀られ、火伏と五穀豊穣など人々に浸透し崇敬されたのだろう。
 秋葉さんは集落の消防施設的な位置付けもあったのかもしれない。

ここ寺河戸町も下街道を挟み多くの民家が連なり、火災に対する意識は強いのだろう。

常夜灯。
 竿には1903年(明治36)建之と刻まれていた。
冒頭から秋葉と記載していますが、竿には「秌」葉神社と彫られています。
 秌葉神社の創建は分からない。
旧字体の秌が新漢字の秋に切り替わり始めた(1950年頃?)から竿に残る1903年くらいだろうか?
  それともさらに遡るのか?
何れにしても100年以上も前から地域で受け継がれてきた秌葉神社。
 火袋に灯される明りは電灯に変わり、夜の下街道でその存在を示すのだろう。

秋葉神社の南側は県道352号線の「水の木」交差点に繋がります。
 名古屋方面から車の場合「水の木」交差点を左折すれば社頭に出ますが駐車余地はありません。
下街道は車を諦め自分の足で廻るのが一番。

上は下街道周辺の地図にこれまで訪れた所をマーカーに落として見ました。
 まだまだ多くの寺社があり先は長い。 

水の木 秌葉神社
創建 / 不明(常夜灯は1903年(明治36)寄進)
祭神 / 秋葉三尺大権現
参拝日 / 2022/04/30
所在地 /  ​岐阜県瑞浪市寺河戸町1258-1
公共交通機関アクセス / JR中央線瑞浪駅下車 ​北東に徒歩5分
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栃木県日光市「華厳神社」

「華厳神社」
 日光二荒山神社中宮祠の参拝を終え、中禅寺湖沿いに続く国道120号線を大鳥居方向に歩く。
目的地の華厳神社と華厳滝観瀑台までは約20分ほど。

国道沿いの「日光自然博物館」の看板とツキノワグマのモニュメントが現れれば目的地は近い。
 ・周辺のクマ​目撃情報

周辺のマップ。
ここから余談になるけれど、標高1,269㍍に水を湛える中禅寺湖は日本一標高の高い湖とされる。

 山を登る方だと素直に受け入れにくくないかい、霊峰御嶽の二のは2,900㍍付近、みくりがですら2,400㍍はあるだろう。
今更だけど湖の定義を環境省のHPで調べて見た。

(1)湖沼及び河川の定義 
 「湖沼」及び「河川」は、法令上の定義が置かれている例はない、我が国では一般には以下の意に解されている。

ⅱ湖沼:「みずうみ」(四面を陸地でかこまれて中に水をたたえたもの。池・沼などより大きく中央部に沿岸植物の侵入を許さない深度(5~10 メートル以上)を持つもの)
 ・・・・・。とあった。
ニノ池は水深が足りないの? 水深のあるみくりが池は?火山湖だから・・・・・。
 因みに成立要因の頁には下の記載も。
人工湖は河川を堰き止めることにより造成したダム貯水池等や造成池に用水等を導入したため池等に区分される。
 人口のダム湖は池?・・・・・黒部池、中禅寺湖にも中禅寺ダムがあったりするが・・・・「法令上の定義が置かれていない」カオスな世界だ。

華厳第二駐車場付近で見かけた花。

 クリンソウの葉に似ているが花の付き方が違うような、調べて見たが分からなかった。
綺麗な花だ。

「華厳神社」
 華厳第二駐車場の西外れに鎮座し、真新しい赤い玉垣は駐車場からもよく目立つ。
それもそのはず「華厳神社」の創建は2020年6月、二荒山神社末社として神霊が祀られ新たに創建されたばかり。

 日光二荒山神社の境内地は華厳の滝いろは坂、日光連山を含む約3,400㌶と広大。
華厳滝観瀑台エレベーターや駐車場といった人が集まる場所でもあり、この一画に新たに末社が創建されても何ら違和感はない。
 新に参拝客を呼び込むには絶好のロケーションで御朱印(中宮にて頂ける)もある、なかなか上手くできている。

華厳神社全景。

 令和に入り創建された新しい神社だけにピカピカです。
神社後方の断崖の先が華厳の滝の滝口になる。

華厳神社
御祭神 / 二荒山大神華厳滝大神、水の神
御利益 / 開運・悩み解消
例祭日 / 6月21日午前10時

「華厳とは、ヤシオの華が岩壁美しく咲き誇る様をいい、そこから流れ落ちる滝を「華厳の滝」と云う様になった。(一説には「華厳経」から名付けられたとも云われる)
 古くより、この地域は二荒山神社の御神域として守られております。
令和を寿ぎ、華厳の滝と並び神宿る滝と称え神社を創建。
 神域である清浄なる滝を拝し幸運をお祈りください」

因みにヤシオとは、春頃になると華厳の滝周辺などで白やピンクの花を付けるヤシオツツジというツツジの事。
 ここから有料の華厳滝エレベーターで降下、長いトンネルを抜けると絶景が広がる。

観瀑台の右側は柱状節理の断崖が迫る、そこはイワツバメの天国でもある。

滝口。
ここから一気に97㍍の高さを流れ落ちる。
 滝口右側に一株のヤシオの姿があるが、時期が早いのか滝全体にヤシオのピンクは目立たなかった。

中禅寺湖から中禅寺ダムを経て唯一流れ出る川の名はここまでが大尻川、滝から下流は大谷川、更に下流で鬼怒川に名を変える。
 ダムで水量調整された滝とも云え、観瀑台には滝から流れ落ちる毎分流量が表示されています。

巨大な岩盤から流れ落ちる滝、そればかりか岩盤の隙間からも湧き出している。

 遥か昔、深刻な干ばつに見舞われた事があったという、その時日光開山の祖とされる勝道上人が江尻滝で雨乞いを祈願し雨を降らしたと云う、それが華厳の滝だとも云われるようです。
 勝道上人が初めて滝と出会った時、自然が作り出した圧倒的な光景に神の存在を感じたのも分かるような気がしてくる。

二荒山神社末社「華厳神社」
創建 / 2020年
祭神 / 二荒山大神華厳滝大神、水の神
所在地 / 栃木県日光市中宮祠2479-2​​
参拝日 / 2022/05/25
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日光二荒山神社 中宮祠から徒歩ルート / ​国道120号線沿いに華厳滝観瀑台方面へ20分程

「穴葉稲荷、陸奥稲荷神社」

愛媛・広島を一泊二日の車中泊で訪れた最終日。
 阿伏兎観音から県道47号線を鞆の浦方面に向け走らせる、広島県鞆町鍛冶駐車場までの移動時間は15分程。

瀬戸内海国立公園鞆の浦
 鞆の浦はいろは丸事件でもよく知られ、歴史好き、ドラマ好きには魅力的な町だろう、寺社好きにとってもそれは同じ。
観光案内に紹介される知名度の高い寺社以外にも小さな町内の狭い路地には多くの神社が鎮座する。
 今回掲載する陸奥稲荷神社もその一つ。

鞆と云えばやはり鞆の港に立つ常夜灯か、駐車場から海岸沿いを南下し港に向かう。
 途中には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際に宿舎となった対潮楼やいろは丸事件の際に紀州藩が宿舎として使用した圓福寺などが鎮座している。
写真は圓福寺が鎮座する岬の西側にある大波止から鞆の浦と常夜灯方向の眺め。

写真は大波止から船番所、圓福寺方向の眺め、岬の先端に見える赤い鳥居が穴葉稲荷、陸奥稲荷神社の鎮座地。
 圓福寺が鎮座する岬は往古は大可島と呼ばれた小島で、鞆の浦を行き交う舟や鞆の港に出入りする舟の監視が効く立地から村上水軍の砦が築かれ、大可島城も築かれた。
現在は陸続きとなった大可島に嘗ての面影を感じる事は少ないかもしれない。

水産加工場の敷地を通り抜けると正面に赤い鳥居が立てられている。
 社頭には稲荷神の使い狛狐が一対、鳥居に額はあるが文字は退色し読み取れなかった。
護岸沿いに奥に長い境内で、左側にも鳥居が二つあり、その先に社殿、更に奥に進むと鳥居を構えた境内社が祀られています。

この神社の創建等詳細を調べて見たが定かにはならなかった。
 狛狐の台座に刻まれた「明治10年(1877)玉光講」が創建に繋がる唯一のものだった。

境内に入ると赤い鳥居が二つ並んでいます。
 Gマップでは穴葉神社とあったが裏付けが見つからずここでは不明社としておきます。
鳥居の先の二社は屋根の傷みは少ないけれど躯体は朽ち果てお札は納められていない。
 既に廃社されたものだろうか。

その右にも赤い鳥居がある。
 鳥居の柱にはロープが張られ、綺麗に積まれた石垣の上にはあるべきはずの社の姿がない。
石標や玉垣などに神社を特定するものは刻まれておらず、社が祀られていたであろう台座の正面に稲荷玉が見られるので恐らく稲荷社・・・だった?

陸奥稲荷神社全景。
 入母屋妻入り鞘堂に切妻の拝所が付くもので、建替られたのは比較的新しいように見受けられます。
拝所や鞘堂の内部の様子は窺えなかったが拝所の鬼瓦に稲荷玉が施されている事から陸奥稲荷神社で間違いないだろう。
 稲荷神は五穀豊穣の神として崇められ農耕のイメージが強いけれど、商工業や航海の安全なども司る事から港を見守るこの場所に祀られたものかもしれない。
地元からは「あなばさん」と呼ばれて大切にされているようで、社殿改修に伴い寄進された方々の家紋が天井に描かれているという。
 広島県沼隈郡誌から穴葉神社と陸奥稲荷神社を調べて見たが創建や祭神など記されていなかった。
狛狐の台座か明治初期だった事を思うと遡っても江戸時代までだろうか。

陸奥稲荷神社の右の不明社。
 三社相殿の社が左右に祀られているが、社名札はなく扉は閉ざされ今もお札が祀られているのか外観からは分からなかった。
中央の銅板葺の小さな社、そこには小さな狛狐が安置されていた。
 陸奥稲荷神社含めて祭神は宇迦之御魂大神と思われます。

この一画には何匹の狐が住んでいるのだろうか?
 境内はここで終わり、この先は岩礁帯になる。

陸奥稲荷神社常夜灯の火袋から淀姫神社方向の眺め。
 鞆の港に出入りする舟が良く見える、現在の舟に風待ち潮待ちは無縁だ。

穴葉稲荷、陸奥稲荷神社
創建 / 不明
祭神 / 宇迦之御魂大神
境内社 / 不明社複数
所在地 / 広島県福山市鞆町
参拝日 / 2022/04/20
阿伏兎観音から広島県鞆町鍛冶駐車場 / ​県道47号線を鞆の浦方面に15分程
鞆町鍛冶駐車場から陸奥稲荷神社まで徒歩ルート / ​15分程
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長野県飯田市 元善光寺 御開帳

5月24日~25日 
長野県飯田市元善光寺の御開帳を見に車を走らせました。

 前日は近くの妙琴キャンプ場で昨年の乗鞍以来となる久し振りのキャンプ泊を楽しみ朝一番で参拝に訪れた。
 日帰りで全然行って帰れる距離なんですが、軽にキャンプ用品一式積み込んでどんな感じか試してみようという目的もあった。
軽で車中泊は流石にきつい、コンパクトで快適にキャンプが出来ればキャンプで遠征も出来る。
 肥大化した用品の中で何がダイエットできるのか不用品チェックも兼ねていた。

快適なキャンプを楽しみ朝一番に撤収、キャンプ場から東に20分程の元善光寺へ。

元善光寺無料駐車場には9:00を少し回ったころに到着、元善光寺の拝観時間が9:00からなので丁度いい感じ。
 既に参拝者の車が見られましたが、余裕で正面駐車場に駐車できました。
ここに至る途中で複数の観光バスに遭遇、嫌な予感がしたが見事に外れた。
 団体客がいない分落ち着いて参拝できる。

駐車場から境内に続く石段。
 まず目にするのが立葵の紋で、良く知られる長野市善光寺の紋と似ているが元善光寺立葵は丸で囲まれています。
 この紋は善光寺元善光寺を開いた飛鳥時代の人物「本多善光」の家紋。


元善光寺の栞の縁起には以下のように書かれています。 
お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現された阿弥陀如来様は、今からおよそ千四百年前、欽明天皇の御代に百済国から日本へ渡ってこられました。 
 しかし、物部氏蘇我氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。


 その後、推古天皇十年(602年)に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
 
その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御誓願を残されました。

 善光公は山中にて授かった霊木をもとにして自ら一刀三札の、御本尊様と同じ大きさの御尊像を彫られたのが元善光寺の御本尊となりました。

そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。
 
 御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。

 約1,400年前の出来事、お告げでこの地に持参した阿弥陀三尊像は自宅の一室に臼を台座として置き、そこに阿弥陀三尊像をお祀りしていたという。
やがて再びのお告げから本尊は善光寺に移され、本尊を失った台座の臼からは不思議な光が放たれていたとされる、「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺創建時に霊宝として今も受け継がれています。
 ここは善光寺の発祥の地。

長野市善光寺御開帳は全国的な知名度も高く、満員電車に乗っているようで何ともならない程混みます。
 それと比較すると元善光寺の御開帳にあの混雑は見られない。
「一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは片参り」の由来には、ほかの意味も込められているような気がしてならない。

石段右の元善光寺の寺標。
 善光寺発祥の地ながら至って質素な大きさのもの。

境内へ続く石段は御開帳の幟がはためき、その先には山門が見えている。

山門。

 小高い丘陵地の中ほどに築かれた石垣と瓦葺の薬医門の佇まいはどこか城門に通じるものがある。

「定額山 元善光寺 境内図」
 山門左に矢場があり、山門をくぐり一段上がった境内左から客殿、本堂、裏門とあり、更に上には宝物殿、平和殿、稲荷閣の伽藍。
善光寺と比較するとコンパクトな伽藍。

山門から矢場方向の眺め。

矢場。
1906年(明治39)に境内を整備し造られ、現在の建物は2016年(平成28)に射場を改修、2018年(平成30)に的場を更新したようです。
 元善光寺で3月の春分の日と9月の秋分の日の年に2回、射会が開催されるという。

山門右には複数の供養塔がある。

山門扉に御開帳のポスター。

 期間・令和4年4月3日~6月29日
行事日程・開闢大法要4月3日中日大法要5月1日、結願大法要6月29日
 蓮華座の上で光り輝く「座光の臼」が描かれている。

御開帳とは
 七年に一度秘蔵の仏像を納めた厨子仏舎利の扉を開け、帳を上げて法会を行うもので、元善光寺の御開帳は長野善光寺と同じく七年毎に一度行われ、丑年と未年に行われます。
往古の御開帳は今の様に明確に定まっていなかったようです。
 現在は十二支を丑年で二つに分けると裏は未年、「丑に引かれて善光寺参り」で覚えておくといいかもしれない。
元善光寺の御本尊様「一光三尊阿弥陀如来」は、一つの光背の中に中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三体の仏様が並ぶもので、善光寺仏独特の形をしています。
 御開帳となった前立本尊の手に金糸が結ばれ、五色の綱となり回向柱に繋がっています。
回向柱に触れる事で直接仏と繋がり御利益を授かるとされています。

元善光寺本堂、正面には回向柱が立っています。

回向柱から続く五色の綱はここから本堂の本尊の手に繋がります。
 長野善光寺の御開帳では回向柱へもなかなか辿り着けなかった記憶もあるが・・・
回向柱に触れる前の消毒、触った後にも消毒、禍で学んだ新しい手水の習慣だ。
 時間も早い事もあるのだろう、同じ善光寺とは思えない御開帳の光景だった。


本堂左の「元善光寺宝物の紹介。
・「座光の臼」
・涅槃像、元善光寺には二体の涅槃像が安置され一体は飯田市文化財に指定。
・薬師三尊像、薬師如来と脇侍の日光菩薩月光菩薩の三像はこの地域では最大の物。
・他に仏像、仏画など80点程が宝物殿に収蔵。

伊那出身の日夏耿之介の歌碑。
「花散る夕 心経を誦して 俟ち給へ」「魚一寸 草三寸のかすみかな」
境内にはこの句碑はじめ、裏門付近には芭蕉の句碑など複数見られる。

境内右の鐘楼と手前に手水鉢。
 梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれ、元々の梵鐘は戦時中に供出されたという。
敗戦後の昭和25年に平和を祈願し新たに鋳造されたものがこの「平和の鐘」
 二度と同じ道を歩まないように後に語り継ぐ思いが込められた梵鐘ともいえる。
・・・・・きな臭い世の中になったものだ。 

鐘楼の建立年度は不明ですが、格子天井には龍が描かれ鋭い目つきで下を睨んでいます。

手水鉢。
 鉢一杯にガラス玉が敷き詰められ陽ざしを受けて光り輝く光景は実に綺麗。
映えが必須ともいえる昨今、花手水とは一味違う映えを求めて訪れるのはどうだろう。

映え後方の仲睦まじい道祖神


裏門横に芭蕉の句碑、「うらやまし 浮世の北の 山桜」
 車もない時代、よくぞ全国各地歩いて廻ったものだ。

本堂脇の元善光寺由来。
 手前の馬頭観音1838年(天保8)に寄進されたもののようだ。

棟の鬼瓦に輝く寺紋は善光寺同様の立葵

元善光寺は1788年(天明8)火災に見舞われ、現在の建物は後に再建されたもののようです。
 入母屋瓦葺の妻入り本堂で垂木など部分的に補修の手が入れられている。
奥に写り込んでいるのは客殿。

五色の綱に導かれ本堂に進む。

本堂に掲げられた額「元善光寺

外陣でまず目にするのは大きく赤い奉納提灯、その先の内陣入口に掲げられた額には「本多善光誕生霊地」とある。

本堂内で参拝と御朱印を頂き、外陣右側のびんずる尊者像の横から戒壇巡りへ。
 ソーシャルティスタンスを取るのが目的だろう、入口に用意された砂時計の砂が落ち切ってから戒壇に下りていくルール。

明るい世界から徐々に暗闇に包まれた仏の胎内に入っていきます、一寸先も見えなくなり頼りは手摺のみ。
 暗闇の中、極楽往生・開運の錠前を探し求め手探りで前に進む、仏と深い縁を結ぶため本尊直下にある錠前に触れる、目的はただそれだけだ。
長い暗闇の先の前方に外光が差し込み、少しずつ現実世界に立ち戻る。
 戒壇巡りは明日をも知れぬ今を生きていく縮図そのものかもしれない。
長野善光寺戒壇巡りでは、暗闇に怯える息子達を導くのが精一杯、錠前に触れることすら出来なかったが今回はしっかりと錠前に触れることが出来た。
 ここ元善光寺戒壇巡りにお布施は不要、有難いことだ。

暗闇から眩いばかりの境内に舞い戻る。

 まだ本堂後方に宝物殿、平和殿などありますが次の目的地に向かうため今回は拝観は見送りました、
栞によれば平和殿(拝観料500円)では西国三十三番の札所の観音像や霊場の御砂踏みが出来るらしい。

元善光寺御開帳は6月29日まで。 

元善光寺
宗派 / 天台宗
山号 / 定額山
創建 / 伝・ 602年(推古天皇10年)
開基 / 本多善光
本尊 / 善光寺如来
境内社 / 稲荷閣
参拝日 / 2022/05/25
車アクセス / ​中央自動車道飯田ICから20分
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西区枇杷島 「秋葉神社」

名古屋市西区枇杷島4の神明社から東に5分程。
 白菊公園の西の住宅街、建物に挟まれた奥まった場所にひっそりと「秋葉神社」が佇む。

道筋に掲げられた「秋葉神社 白川二部町内会」の看板を見逃すと恐らく気が付かないだろう。

秋葉神社正面の眺め。
 社は左の民家の奥まった場所に祀られているようだ。

近付いて見て初めて分かる、身の丈程の高さに櫓が組まれ、その上に覆屋が設けられている。

覆屋を支える高さのある櫓の下はかがり火台が置かれるなど、奥行きを有効に生かすための策なのかもしれない。
 入口の扉は施錠されていないものの気が引ける雰囲気がある。

精一杯寄った社は鰹木が4本、内削ぎの千木が付く神明造のように見えます。

 社名札は見当たらないが「秋葉神社」とあるので火之迦具土大神を祀るものと思われます。

いつ頃祀られたものか調べて見るも定かにはならない。
 左が明治26年頃の枇杷島周辺、美濃路沿いに集落が連なり、秋葉神社の鎮座地は美濃路の北外れにあたり、当時まだ町割りもされていない事から遡っても大正、昭和に入ってからかもしれない。
 何れの時期にしても、ここに集落が集まりだし火伏の神が必要だったのだろう。
高い場所に祀られた社ですが綺麗に手入れされ、今も町内で神社当番を回しているのだろう。

白菊公園付近で見かけた白菊町の謂れ。

 過去に瑞穂区『嶋川稲荷』で白菊の琵琶と枇杷島の由来について触れたことがあります。
藤原師長は1138年(保延4)藤原頼長の次男として生を受け、保元の乱のあと土佐に配流された
 後に白河院政のもとで太政大臣従一位となるも、1179年(治承3)平清盛のクーデターで当地に配流された
配流後の龍泉寺で理覚と改め出家、仏門に入る。
 箏、琵琶の演奏に優れた才能を発揮、彼の琵琶は「白菊の琵琶」と呼ばれ、1181年(治承5)清盛の死後、京へ召還となります
師長に仕えた村長の横江氏の娘に白菊の琵琶を形見として残します
 娘は現在の枇杷島まで師長を見送り、悲しみから琵琶と共に身を投じました。
それと共に師宣の琵琶は幻の琵琶となります。(後に白菊の琵琶は宮内庁所蔵と判明)
 1192年(建久3)55歳死去。法名は理覚、号は妙音院。
妙音通、師長町、枇杷島の町名や神社から南の山崎川に架かる「師長小橋」などこれらは藤原師長にちなんだものと云われます。」
 この地が分かれの場となった場所と言い、一部に残る白菊の名はこの白菊の琵琶から来ているもの。


秋葉社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土大神
参拝日 / 2022/06/03
所在地 / ​名古屋市西区枇杷島3-17-18
公共交通機関アクセス / 地下鉄​鶴舞線浄心」降車​西に徒歩25分前後
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岐阜県瑞浪市 金刀比羅宮

岐阜県瑞浪市寺河戸町「金刀比羅宮
 耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程歩いた右側の個人住宅の一画と思われる片隅に鎮座する。

金刀比羅宮と刻まれた常夜灯が立てられ、縦長の敷地に縦に4社の石祠が祀られていました。
 それらに合わせる様に奥に長い覆屋が建てられている。

詳細を語る看板などは見当たらなかった。
 4つの祠が綺麗に一直線に祀られている。
山里で海の神様金刀比羅宮が祀られるのは特に珍しい事ではないかもしれない。
 祭神の御神徳が開拓の守護、五穀豊穣、農業、漁業の守護、航海安全、厄除開運、勝利祈願など幅広い。
漁業や航海は場違いな印象を持つけれど、目の前は土岐川が流れているので何ら不自然でもない。
 祀られた動機がそれらの一部、或いは全ての守護を祈願して祀ったものか分からないがここに必要だったのだろう。

さて、金刀比羅宮の祠はどれ?、一つずつ見て廻る。
 先頭は小さな狐が安置されているので稲荷社で良いだろう、二番目の祠は文字も確認できず不明。

三番目の石標は二十二或いは二十三と刻まれているように見える月待塔か?
 下に大神と読めるので月待講の二十三大神かもしれない。
最後尾の一際大きな石標が金刀比羅宮となります。

金刀比羅宮がいつから祀られたのか定かにはならなかった。
 当日健之年度まで見ておらず、今になってコントラストを変え何とか明治廿弐まで読めるようになった。
明治12だとすると1789年、随分古いものです。
 その年に讃岐國金刀比羅神社より勧請された、ともいえないので江戸時代にまで遡るのだろうか。

我が町では家すら継がれることなく一代で廃屋になっていく、今ではアライグマや韓国イタチが世帯主となっている。
 金刀比羅宮が地域で護られてきたものか、個人なのか定かではないけれど、何代に渡って綿々と継がれきた。
今の姿を見るとこれからも先人の思いは継がれていくのだろう。

 
我家はどうなることだろう・・・見てるかい息子達

金刀比羅宮
創建 / 不明
祭神 / 大名持命
境内社 / 稲荷社、二十三大神、不明社
参拝日 / 2022/04/30
所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1262
徒歩ルート / ​耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程
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