愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十番札所 宝珠山 医王寺

弘法大師が知多に上陸した聖崎から、国道を超えて西側の漁師町の趣漂う細い路地を進むと、三十番札所 宝珠山 医王寺が見えてきます。
 背後の小高い山は上ノ山と呼ばれ、大師像が建立された公園として整備されています。
今回は上陸大師含め9つの札所を巡りますが、内心、随分欲張った行程だと思っていましたが、実際に歩いてみてその理由がわかりました。
 三十番札所医王寺の鎮座地周辺100mの範囲に利生院(第31番)、宝乗院(第32番)、北室院(第33番)、性慶院(第34番)が纏まって鎮座します。
車で大井を訪れても、聖崎の駐車場に止めておけば、車で移動しなくても効率的に巡拝できる。

後方に上ノ山を控えた三十番札所 宝珠山 医王寺参道口から伽藍を眺める。 

医王寺は往古七堂伽藍十二坊を有した大寺院であったと記録が残ります。
 しかし現在の医王寺は無住の寺となり、主な建物は正面の本堂と鐘楼、参道脇の手水舎と観音堂が中心となります。
無住ということで、現地に納経所は設けられておらず、隣接する札所の利生院、宝乗院、北室院、性慶院が持ち回りで行っているという、当日はお隣の三十ニ番札所宝生院で頂きました

本堂は寄棟瓦葺で、平側に大きな向拝を持ち、木鼻や手挟みの意匠に拘りが見られます。
 無住寺院伽藍としては痛みもなく、築後間もない印象をうけます。
調べてみると現在の建物は平成24年(2012)に刷新されたものという。
医王寺の由緒について尾張志 知多郡(1893再版)やガイドブックは以下のように伝えています。
「由緒
 医王寺は、神亀二年(725)、行基菩薩が現在地の西方にある「仏山」に草庵を結び、薬師如来を安置して開基されたと伝えられます。
弘仁五年(814)には、三河から舟で知多半島に渡った弘法大師が、当寺で七日間の護摩を修法したと伝えられ、大師の開山とされています。
 当地に移されたのは建暦二年(1212)のことで、寺領百八十貫を拝領して、七堂伽藍十二坊を有する知多半島屈指の大寺院だった。
しかし兵火や寺領没収などから、寺勢は衰退し一山四坊が残る。
現在は無住の寺で、一山形式で配置される利生院(第31番)、宝乗院(第32番)、北室院(第33番)、性慶院(第34番)の真言宗豊山派四院が、交代で法灯をお守りする、大井五ヶ寺のひとつに数えられる。
境内には知多四国霊場開山の一人、武田安兵衛行者の墓がある」

尾張徇行記 第6巻(1976再版)から本尊・寺宝に関する記述を以下に抜粋。
 「本尊は薬師如来で、お前立の日光・月光菩薩と十二神将はいずれも行基の作とされ、弘法大師の真筆とされる画像一幅あり」と記されています。

 内部は三つの間に別れ、中央に本尊、左に弘法大師、右に千手観音を安置します。

御本尊。
厨子に安置されている本尊の秘仏薬師如来像と脇立の日光・月光菩薩・十二神将は行基作とされる。
 秘仏薬師如来像には、中世の兵乱で暴徒乱入の際に矢を受け、像の左脇に鏃の痕を留めているという。
ご利益は病魔退散、身代り、厄除の霊験ありと伝えられます。

右側の千手観音。

左側の弘法大師と右に聖徳太子像の姿もある。

本堂左側に鎮守社が祀られているが詳細は不明。

鐘楼と後方の小堂。

吊るされた梵鐘は昭和丗八年(四八かも)鋳造されたもので、池の間や草の間に仏画が描かれていた。

小堂に安置されている阿弥陀如来像。

本殿から境内の眺め、本開催のため実際は多くの人で溢れていました。

観音堂には34尊の石仏が安置されています。
 細かく見ていないが、なかなか巡拝できない西国三十三観音霊場の本尊だろうか。

おほいがた ぐぜいのふねに さおさして わたるもうれし のりのいわうじ

愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十番札所 宝珠山 医王寺
宗派 / 真言宗豊山派
本尊 / 薬師如来
創建 / 神亀二年(725)
開基 / 行基
開山 / 弘法大師
札所 / 知多四国 三十番札所、南知多観音 十番札所 
所在地 / 知多郡南知多町大井真向38
参拝日 / 2026/02/28
上陸大師から医王寺  / ​大井漁港の南岸壁を国道247号線に向かい、国道の向かいに見える師崎街道を直進、二筋目の路地を左折、100m先の路地で右折・直進左側。​1km・15分ほど​。
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愛知県 知多四国巡礼 第13回:聖跡上陸大師

前回掲載した稗田 神明社から、国道247号線沿いに1.1kmほど北上した大井漁港に向かいます。
 今回の目的地は弘法大師が三河から船出し、知多半島の土を踏みしめた最初の地・聖崎です。

大井漁港の入口に、海風を遮るように聳える小高い丘が聖崎。
 聖崎の港側から堤防沿いに進むと、目的の上陸大師像が沖に立てられています。
コースは、なぜか聖崎の頂きまで登り、聖崎公園を経て眼下の大師像に下るルート。

「回り込めばいいんじゃない」などと内心ブツブツ言いながら階段を登り、頂に立つ。
 頂からの三河湾の眺望と、見頃を迎えた河津桜はなかなかのもので、敢えてここをルートに選んだ理由も分からなくはない。

個人で上陸大師像を見に訪れるなら、迷わず大井漁港側から訪れるだろう。 

聖崎の東端に下る散策道から、眼下の上陸大師像の眺め。
 弘仁5年(814)、三河での修行を終えた弘法大師は、船で当地の双子岩に辿り着き、聖崎から知多に上陸したという。
この像は大師上陸の言い伝えを元に、昭和59年に建立されたもの。

散策路を降り、堤防から沖合の双子岩の上に立つ弘法大師像の眺め。
 潮の満ち引きで大師像まで地続きとなり、歩いて間近から仰ぎ見ることができる。
この地に第一歩を踏みしめた弘法大師は、景観が四国に似ていることから「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん 」と詠われたという。
 その後、聖崎から成願寺を経て山海の岩屋寺に留錫、護摩修法された後、野間を経由し、陸路北上し伊勢路に向かったとされる。
この聖崎には、宝暦のころまで大師上陸の第一歩を印されたとされる僧形の大石が立ち、村人たちは礼拝を続けていたとされ、時とともに波に削られいつしか海中に没したということです。

三河湾の左手に西浦を望み、右手に浮かぶ島は佐久島。
 弘法大師縁の地を巡る知多四国、沖に浮かぶ篠島や日間賀島にも札所は及び、八十八寺の札所と開山所三寺、番外札所七寺を含め九十八寺を巡りますが、上陸大師は特別番外として位置づけられており、今回のルートで巡拝する三十三番札所北室院で御朱印が頂けます。

聖跡上陸大師 尾張巡錫第一歩。

当日は聖崎公園の河津桜が見頃、公園駐車場にキッチンカーも出ており、花見団子など買い求め、しばし花見を楽しんでから次の札所を目指すことにした。愛知県 知多四国巡礼 第13回:稗田 神明社

愛知県 知多四国巡礼 第13回:聖跡上陸大師
建立 / 昭和59年
所在地 / 知多郡南知多町大字大井字聖崎5−4
参拝日 / 2026/02/28
稗田 神明社から聖崎 上陸大師 / ​国道247号線沿いに1.1kmほど北上、​徒歩15分ほど​​​​。
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愛知県 知多四国巡礼 第13回:稗田 神明社

成願寺の東隣に隣接する稗田 神明社、今回はこちらを掲載します。
 鎮座地は知多町片名稗田(ひえだ)、成願寺に隣接するように鎮座します。

社頭の眺め。
 社号標は「村社 式外 神明社」とある。

参道中ほどの二ノ鳥居と右手に三棟の建物。
 外見は袴腰の鐘楼のようでもあり、常夜灯のようでもある。
それぞれ電源が引き込まれているので常夜灯か?、近づいて確認しなかったのが悔やまれる。

参道左側に古びた恵比寿と大黒さまらしき石像が安置されていました。
 海と山が迫り、漁業と農業を営む片名の土地柄を物語っている。

社殿全景。
 拝殿は神饌所と思われる建物とひと続きになっており、拝殿左に境内社、後方の本殿域に複数の境内社が祀られています。

境内では由緒は見当たらず、愛知県神社名鑑(1992)より当社由緒を引用。
『十二等級 神明社 旧指定村社  
 鎮座地 知多郡南知多町大字片名字稗田一番地 
祭神 豊受大神  
 由緒 創建は明らかでないが、應永三十一年(1424)建替云々の棟札がある。
明治五年、村社に列格、大正十二年十月五日、供進指定となる。
 例祭日 旧九月十五日 
社殿 本殿:神明造、幣殿、拝殿、社務所、覆殿、神庫』
尾張徇行記(1976復刻版)には境内社について記されていた。
『一社三区、覚書二 社内五畝廿歩 神明 山神 荒神前々除 〇祠官 磯部新助書上ニ 神明社内東西十間 南北二十間山神 東西五間 南北十間 三孤神社内 東西五間 南北五間 荒神社内 東西五間 南北十間共二前々除、四社共ニ勧請ノ年紀ハ 不伝覚書ヨリモ書上一社多シ』

拝殿正面の眺め、三方の戸は閉じられ、内部は見通せなかった。

拝殿額は「神明宮」。

拝殿左の境内社。
 右手は津島社、左手が秋葉神社、この奥の本殿左にも相殿の社が祀られています。

拝殿右側から幣殿・鞘殿の眺め。
 手前に一社、鞘殿の横に相殿の社が祀られていますが、社名はわからなかった。
左手に狛犬の姿もあるが近寄れなかった。

境内右側の山よりに一社だけ離れて祀られた社がある、雰囲気としては山の神だろうか。

境内から社頭の眺め。
 右手は成願寺境内で、尾張徇行記の双方の内容から、かつては神仏習合の関係にあり、神明社は片名集落の氏神として崇敬されている。

さて次は鳥居から左に向かい、弘法大師上陸の地とされる聖崎に向かいます。
愛知県 知多四国巡礼 第13回:稗田 神明社
創建 / 不詳(應永三十一年建替)
祭神 / 豊受大神
境内社 / 津島社、秋葉神社、その他
氏子域 / 南知多町片名
例祭 / 旧9月15日
所在地 / 知多郡南知多町片名稗田1
参拝日 / 2026/02/28
成願寺から稗田 神明社 / ​成願寺右隣​​​。
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愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十五番札所 神光山 成願寺

前回の番外札所浄土寺から、水仙ロードを東に向かい、次の35番札所成願寺に向かいます。

 ルートは、知多半島を横断する形となり、県道7号線までは地味な登りが続く約4km、50分ほどとコース中では一番きつい区間に入ります。

峠を越え、片名集落に続く里道の途中に35番札所 神光山 成願寺の参道が現れます。
 北側の山を背にして成願寺、その右には稗田 神明社が並んで鎮座する。

南知多三十三観音霊場の幟がはためく参道から、寺標と山門を望む。
 当寺の由緒について知多郡史など幾つか目を通したが、詳細は不明でガイドブックに記載された由緒を下に掲載します。
 「曹洞宗 神光山 成願寺
本尊 阿弥陀如来
 開基 龍喜参公和尚
開山 笑山恵誾大和尚
 由緒
左手に海を眺めながら、国道247号線を知多半島の先端、師崎に向かう道すがら、「この門をよけて通れよ風神、とおりに姿のあらん限りは」と成願寺の参道入口を示す石碑が建てられています。
 この歌を詠んだ弘法大師は、知多半島に上陸した弘仁五年(814)悪病が流行っていた片名の地を訪ね、当寺は天台宗だったといわれる当寺で、厄除けの法を修行しました。
 やがて大師の加持祈祷によって救われた村人は、大師の霊跡として別堂に修行大師像をまつりました。
時は下って、元和元年(1615)笑山恵誾大和尚がこの霊跡の荒廃を惜しみ、堂宇を再興して曹洞宗に改宗しました。
 平成七年に本堂の瓦を葺き替えるなどの全面改修が行なわれ、境内には、先の本堂にあった鬼瓦が「風吹不動」として残されています。」

弘法大師が上陸したとされる聖崎は、ここから15分ほどの距離になります。

入母屋造の本堂と切妻造の大師堂(左)の眺め。
 境内に聳える一本のヤマモモの樹が成願寺のシンボルかもしれない。
尾張徇行記(1976)では以下のように記されています。
『成願寺、府志曰、在同村、号神光山、曹洞宗、属師崎延命寺
 ◯覚書二寺内 五畝歩前々除
 ◯当寺書上二境内一反七畝歩備前検除、此寺ハ 龍喜誉公ノ開基ニテ 正保二乙酉八月廿二日没ストナリ
 ◯境内鎮主白山社 聖徳太子堂アリ又村中寺控 秋葉社内六間四方村除、役行者堂 境内四間四方村除』
ここに書かれている鎮守社について、境内を見渡してみたが見つけられないものもありました。

ヤマモモの樹の手前に祀られる大峯山役行者と水子地蔵(左)。

その後方に安置されている恩推観音。
 年代は読み取れなかったが、穏やかな表情で瞑想にふける姿が印象に残る。

阿弥陀如来を祀る本堂内の眺め、左の間に弘法大師が安置されています。
 成願寺の寺宝に延宝四年(1676)に円空が彫ったとされる「善女竜王像」があります。
像高約90センチほどで、胸のところに宝珠を口で支えた登り龍の体や角、髭が衣文の中に透けるように彫られており、背面に「竜王献宝珠之像 黙室胆礼謹認」の墨書があり、当寺三世胆礼の筆とされている。
 町指定文化財に指定されており、有料拝観が可能。
当寺は知多四国第35番札所・南知多観音霊場第11番札所ですが、近年、円空に所縁のある成願寺「善女竜王像」・如意輪寺「薬師如来像」・慈光寺「弁財天」の三寺で南知多円空三佛霊場を立ち上げたとのこと。

堂内の大師像。

本堂左手の大師堂に安置されている修行大師像。
 悪病除け・災難除けに霊験があり、「修行大師厄除御札」を授かることができる。
弘法大師は「我が姿を門口に貼り置かば、その家悪病災難なからしめん」と大師自らの誓願があったといわれ、いただいた御札は家の門口に貼ります。

堂内の聖徳太子像。
 知多四国の寺には聖徳太子開基とされる寺や太子像を見かけることが多い。

厄除け御札の先に、左手でしっかり子を抱えた子安大師像が安置されています。

慈悲深き 弥陀をと頼む成願寺 利益をうけよ思ふまにまに

さて次回はお隣の稗田 神明社を訪れます。

愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十五番札所 神光山 成願寺
宗派 / 曹洞宗
創建 / 不詳
本尊 / 阿弥陀如来
開祖 / 龍喜参公和尚
開山 / 笑山恵誾大和尚
札所 / 知多四国第35番札所・南知多観音霊場第11番札所・南知多円空三佛霊場
所在地 / 知多郡南知多町片名稗田9
参拝日 / 2026/02/28
浄土寺から成願寺 / ​水仙ロードを東に向かい約50分ほど​​​。
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愛知県 知多四国巡礼 第13回: 番外札所 浄土寺

春日和となった2月28日、第十三回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。 

上が今回のルートです。
 スタートは名鉄知多新線内海駅。
駅前からバスに乗りバスで10kmほど先の小佐まで移動➡番外札所浄土寺➡35番札所成願寺➡上陸大師➡30番札所医王寺➡31番札所利生院➡32番札所宝乗院➡33番札所北室院➡34番札所性慶院➡29番札所正法寺➡鯛祭り広場からバスで内海駅に戻るもの。
 コース全長は約11km。アップダウンの多いコースでした。

駅から師崎方向に向け、海岸線を20分ほどバスに揺られ、南知多町大字豊浜字小佐郷の「うみっこバス小佐バス停」付近に到着。
 そこから道路沿いの​小佐郷『神明社』の路地を左に入れば最初の目的地番外札所浄土寺です。
境内入口に「新四国 手引大師 龍亀大菩薩」と「新四国 龍亀霊場」の石標。
 「龍亀」とはなんだろう?
調べたところ、小佐郷には亀にまつわる伝承が伝わり、その中心的存在が浄土寺なんだという。
余談だが、小佐には内海方向のバス停はあるものの、師崎方向のバス停は見当たらなかった。
 ここから先へバスで進む場合、反対車線側に立っていれば停まるのだろうか。
また、過去の巡拝ではかみさんの移動サポートで車でここに送り届け、自分は小佐郷『神明社』を含め近隣の神社を巡ったことはあるが、実際に歩くのは初めてだ。

浄土寺伽藍全景。
 この時期は梅が咲き誇り、境内に彩りを添えてくれる。
こちらの寺院は、この伽藍の他に右手の梅の影にある亀石と崖に掘られた岩窟も見どころ。

梅の後ろに左を向いた大きなウミガメの石像が安置され、後方の岩肌には岩窟が作られ、入口には龍亀燈と刻まれた灯籠が立てられています。
 ここが「龍亀」の核心部分なのだろう。
青泰山 浄土寺は曹洞宗の寺院で、本尊は薬師如来をお祀りする。

 創建は明治23年(1890)とされ、開基が天野兵左衛門、亀岳鶴翁大和尚により開山。
「龍亀」のいわれは以下。
『「わしの若い時ゃ小佐まで通ふた小佐の薬師堂で夜があけた」と古謡に歌われた小佐薬師の旧跡に建つといわれる浄土寺。
 お亀さんと親しまれています。
明治四十二年(1909)、開山 亀岳鶴翁大和尚が、霊亀が白髪の老人となり現れる夢を三晩見た後、小佐の海岸に打ち上げられた海亀を龍亀大菩薩として祀ったことに由来する。
 この亀の甲羅には「奉大海龍大神」の文字とともに、伊賀上野 谷村佐助と名前が書かれていました。
長年の病に苦しんでいたこの人物が、夢に現れた霊亀の「我を供養すれば平癒すべし」の託宣に従い、二見ケ浦で網にかかった亀を買い取り供養したところ病気が平癒し、感謝の後、甲羅に大書して再び海に放ったとのこと。
 別堂に祀られる龍亀大菩薩の脇には谷村氏の書状と亀の写真が額に掛けられている。』
漂着した海亀は境内のけやきの根本に葬られたという。

岩窟は奥行きこそ浅いが、正面の岩盤に石の祠が安置されていました。

正面の本堂と龍亀大菩薩を祀る別堂。 

本堂額は「浄土禅寺」

本堂内の眺め。

本堂に安置されている弘法大師。

別堂内の眺め。
 中央に額に収められた海亀の写真が安置されています。
南知多町誌によると漂着した海亀の甲羅には、「谷村佐助の他十一名の名が記されていた」とあります。
 その霊験が広まるや、龍亀大菩薩の霊験を授かろうと多くの参詣者が訪れるようになったという。

なみのね みのりのこえぞおさのみさき うかぶこころの かめぞまつれる

浄土寺の参拝を終え、水仙ロードを東に向かい、次の35番札所成願寺に向かいます。
 ルートは、知多半島を横断する形となるので、地味な登りが続く約4km、50分ほどのきつい区間に入ります。

第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 薬師如来
創建 / 明治23年(1890)
開基 / 天野兵左衛門
開山 / 亀岳鶴翁大和尚
札所 / 知多四国番外札所・知多百観音48番札所・南知多観音霊場16番札所
所在地 / 知多郡南知多町大字豊浜字小佐郷1
参拝日 / 2026/02/28
うみっこバス小佐停から浄土寺 / ​徒歩1分​​​ほど​​。
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過去記事
・小佐郷 『神明社』

蟹江町蟹江新田鹿島『鹿嶋神社』

前回の廣覚寺が鎮座する愛西市から、再び日光川を渡り、来た道を戻り蟹江町へ。

尾張温泉で湯に浸かり、足の疲れを癒して帰途に着く。
 帰りも国道一号線で名古屋に戻ろうと、県道65号線を南に走り出す。
走り始めて直ぐ、国道に出る道案内を見落とし国道の上を通過してしまった。
 やむなく、新蟹江小東の交差点で左折し、その先から国道に入ろうと細い道に入り込む。
佐屋川に架かる夜寒橋を渡った左に鳥居の姿を見かけ立ち寄ってみた。

鎮座地は蟹江新田鹿島。
 佐屋川の左岸に南向きに社頭を構える神社は鹿嶋神社。
起伏の少ない土地柄で、大きな松を主とする社叢は鳥居以上に目立つ存在です。
 車は鳥居の右に僅かなスペースがあり、そちらに停めさせて頂いた。

社頭右の鹿嶋神社解説板。

『祭神 武甕槌命
由来 
 寛永十三年(1636)、蟹江新田の開発がはじまる以前は、当地は大きな川筋が入り組、潮の干満により干潟が現れる地域で、人々は自然堤防洲の葭山を開き定住し、漁業や農業を営んでいた。
 慶長十五年(1610)、この地に嵐で漂着した船の船神「鹿嶋大明神」祀ったのがはじまり。
尾張徇行記には、寛永十八年鹿嶋大神を勧請と記載されている。
 境内社には天照皇大神・秋葉社を祀る。
寛政十二年地蔵堂、文政十一年観音堂建立。
 明治四年、村社鹿嶋神社・祭神は武甕槌命となる。
昭和四十三年より境内に文学苑を整備、句碑26基が建てられている。

地名のいわれ
 蟹江新田は、「蟹江新田由緒」によると、寛永十三年(1636)より開墾、元禄七年(1694)に検地とされたとあるが、それより早く開墾されたともいわれる。
一村立ちの新田で、本郷は日光川の東西両岸にあり、枝郷として上芝切・下芝切・中川原・金野・西野新田の六ヶ村があった。
 蟹江新田の各字の地名の由来について、芝切村は小島で群生する芝を切りに行ったことから、大海用(おおみよ)は暴風雨の際に大きな溝(みよ)が切れたことからついたものとされる。

江戸時代末の「名区小景」に描かれている「夜寒橋」付近の鹿島という地名は、川島という小島のあとに寛永十八年(1610)鹿嶋神宮を迎え、以降鹿島島と名が付いた。

 蟹江新田村は風水害による堤防破壊・塩害に悩まされ、米・麦を中心に農業と河川や近海での漁業で生業を得ていた。
日光川改修後は大型船の着岸が可能となり、大海用地区を中心に商業を営むものもあった。
 江戸時代の蟹江新田村戸数及び人口。
寛文十一年(1671)戸数49戸・233名、寛政四年(1792)〃215戸・945名。』
と書かれています。

上は名区小景の夜寒橋。
 佐屋川左岸の朱の鳥居が鹿嶋神社、神社に訪れる際、佐屋川を渡った橋が夜寒橋になります。

愛知県神社名鑑(1992)は、当神社について以下のように記していました。
『十等級  鹿嶋神社 旧指定村社  
 鎮座地 海部郡蟹江町大字蟹江新田字鹿嶋185番地  
祭神 武甕槌神  
由緒 
 社伝に慶長十五年庚戌創建という。
  明治四年村社に列格する。昭和四年十一月五日、指定社となる。
 字鹿島を氏子区域とする。
  昭和三十九年五月十四日社名を鹿嶋社から鹿嶋神社に改称する。  
 例祭日 十月二十日
社殿 本殿流造・幣殿・拝殿・社務所・神庫』

鳥居から長い参道の眺め。
 佐屋川と蟹江川に挟まれた中洲のくびれに位置する鎮座地は、南北に150m程の社地を持ち、参道中ほどに車道が横切り、東側の鹿島集落のすぐ先は蟹江川が迫っています。

鳥居の先の参道脇には複数の石灯籠と句碑が続きます。

社地中程の二ノ鳥居。
 鳥居の右に鹿嶋神社の社標と、すぐ脇に観音堂が建てられています。

二ノ鳥居から社殿の眺め。
 右手に手水舎、正面の社殿は拝殿・幣殿・本殿が主なもので、社殿左側に皇大神宮、秋葉社の境内社が祀られています。

切妻銅葺の四方吹き抜けの拝殿で、妻壁の大きな拝殿額が印象的。

妻壁の額と装飾、意匠は控え目のようだ。

拝殿の先には一対の狛犬が幣殿を守護する。

左側から眺める社殿全景。

幣殿。

狛犬は小型ですが、立派な歯が特徴的。

本殿域。
 本殿の手前にも狛犬の姿が見られます。

本殿域側面の眺め、流造の本殿以外に社は祀られていないようです。

本殿左の境内社。

秋葉社(左)、天照皇大神。

本殿後方から拝殿方向の眺め。
 風や陽光がよく届く、明るい印象の境内です。

拝殿から社頭の眺め。
 はるばる茨城からこの地にやって来た鹿島集落の氏神様です。

蟹江町蟹江新田鹿島『鹿嶋神社』
祭神 / 武甕槌神
創建 / 慶長十五年(1610)
境内社 / 天照皇大神、秋葉社
例祭 / 10月第2日曜日 
氏子域 / 蟹江新田
所在地 / 海部郡蟹江町蟹江新田鹿島185
参拝日 / 2026/02/14  
廣覚寺から車アクセス / 尾張温泉東海センターから東へ、県道65号線学戸交差点右折直進、新蟹江小東交差点左折、佐屋川を超えて左折。​3.6km・約10分​​​​
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墨俣一夜城に春の苦味を求めて

2026/03/12
 前日から「明日は風がなければ、つくしを探しに行こう」と話していた。
期待どおり、当日の朝は風もなく、やわらかな陽ざしが差し込む春らしい一日の始まりだった。
 通勤車両が増える前に市内を抜け、渋滞に巻き込まれないうちに長良川の堤防へ向かう。
名古屋の朝の運転マナーは相変わらず、無灯火の割り込みや無意味な車線変更、信号無視など、気の抜けない時間帯だ。
 通勤時間帯の取り締まりや公共交通機関の利用促進が進まない限り、あるいは税金投入なしでリッター200円にでもならない限り、道路が整然と流れる日は遠いのだろう。

ガソリン値上げの報せもあったが、この日の朝の市内のレギュラー価格は最安で149円を見かけた。
 しかし帰宅の際には見事に180円台に跳ね上がっていた。
原油輸入量が減り、食品や加工品の値上がりに拍車がかかる中で、無駄な浪費だけは相変わらずだ。
 マイカーへの給油制限は考えるべきだろう。トイレットペーパーが消えた第一次オイルショックを知らない世代も増えたが、過去にそうした措置は実際に行われた。あの頃は愛車を休眠させ、デート以外はチャリや電車で通った時もある。
そんな時代が再び訪れようとはねぇ。

東側から眺める伊吹山は美しい姿を見せているが、西側からの眺めは採掘により痛々しい姿を曝け出している。

訪れたのは長良川に注ぐ犀川右岸のさい川さくら公園。
 これから桜が咲く時期になると花見客で賑わうようになる。
今日の目的は桜ではなく、春の山野菜つくしだ。
 春になると毎年摘みに出かけるが、造成が進み、僅かに残った緑地も犬の散歩コースとなってしまい、今年はここまで足を延ばした。 

駐車場(桜まつり期間以外は無料)から対岸の眺め。
 対岸に鎮座する神社は神明神社。

下流に目を転じれば墨俣一夜城、1993年に鉄筋コンクリート造で建てられた歴史資料館。
 大河ドラマで稲葉山城攻略に墨俣一夜城が出てきたばかりですが、実際のところ写真のような天守はなく、複数の簡素な櫓だという資料や、一夜城そのものが存在しなかったとする説もあり幻の城といってもいい。
このあたりは鎌倉街道、美濃街道が通り、ここから少し南に墨俣宿跡や脇本陣もあり、水運・陸路の要であったことは事実だろう。

まだ冬の装いの犀川護岸、草むらの中を注視すると写真のように芽吹いたつくしが頭を出していた。
 既に穂先の開いたものが多いが、少ない雨でも次の準備を整えている。
穂の開いていないものを選んで摘んでも、一回分の春の苦味を味わうには十分な量を摘むことができた。
 原油から作られた肥料を与えられ、温室で育てられた訳でもない、自然の息吹は実に力強い。
それに比べて人の営みは脆弱だ、トランプとネタニアフが起こした混乱は長引くだろう。
 備蓄放出・税金から補填も結構だが、個人的には商用目的・過疎地以外の支援は不要と考える。
消費者もこれまでのような使い方を改める必要に迫られている。
 オイルショック当時はテレワークなんてものはなく、もれなく出社だった。
通勤も距離によって公共交通機関へシフトされた。
 暫定税率がなくなり、燃費のいい車に買い替え、これで一ノ宮めぐりも行きやすくなると期待していたが、今後は公共交通機関で行かざるを得なくなるだろう。
因みにこの日の走行距離は103km、燃費は28.1km、3.6リッターを消費した。

地元野菜の調達と昼食を済ませ、道の駅 クレール平田に立ち寄った際、トイレで見かけたポップを見て落胆した。
「〇月〇日トイレットペーパーが盗まれました」「〇月〇日水栓器具が盗まれました」

墨俣一夜城
所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1