愛知県 知多四国巡礼 第14回: 七十六番札所 雨宝山 如意寺

春にしては温かすぎる3月28日、第十四回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。

上が今回のルートです。
 スタートは名鉄常滑線朝倉駅。
駅前から南東の佐布里池方面へ4.5kmひたすら進み76番札所如意寺に向かいます➡74番札所密厳寺➡75番札所誕生堂➡73番札所正法印➡77番札所浄蓮寺➡80番札所栖光院➡81番札所龍蔵寺➡ゴールの名鉄常滑線寺本駅に向かう約10km、七つの札所を巡る比較的平坦なコースです。
 スタートから4.5kmを歩きますが、如意寺に着きさえすれば、佐布里5カ寺と称される五つの札所が隣接しています。
そこから先の札所はゴールの寺本駅付近になるので、再び同じ距離を歩くことになります。

朝倉駅から1時間強、知多市佐布里西之脇の地蔵脇地内の入口に到着。
 3月末の当地は、里山が佐布里5カ寺の周囲を取り囲み、寺だけが鎮座する地蔵脇地内は桜の見頃を迎える時期となり、時代から取り残されたような空間が広がっています。
最初の札所如意寺はこの道の突き当りに鎮座します。

左に77番札所浄蓮寺を眺めながら奥に進みます。

右側の竹藪の中に石地蔵と78番札所福生寺へ導く丁石が立てられていた。

少し進むと正面に76番札所如意寺の山門と本堂が視界に入ってくる。

76番札所如意寺山門から境内の眺め。
 如意寺に庫裏のない無住寺院、境内には本堂の他に十王堂と朱に塗られた四脚門がある。
元々76番は一山八坊の一つ実相坊(實相坊)が選定されていたが、明治初めに廃寺となり、如意寺に札所本尊の弘法大師を奉安して76番札所となった。正式には雨宝如意寺正法院と称する真言宗の寺院。

境内に入ったすぐ左が十王堂。
 昭和63年(1988)の火災で焼失し平成16年(2004)に再建されたもの。
普段無住の如意寺ですが、イベントの時は境内で納経印を頂くことができる。
 左後方に見えているのが74番札所密厳寺で、佐布里5カ寺はこれくらいの距離感で隣接しています。

十王堂右の観音堂。

本堂全景。
 入母屋瓦葺妻入りの本殿は昭和63年(1988)の火災で焼失し、平成6年(1994)に再建されたもの。
軒下に左から「興教大師」、中央に山号額、右側に「弘法大師」の額が掛けられています。
由緒。
 如意寺は、後鳥羽天皇(1180-1239)の勅願寺として創建されたと伝わり、往時は、一山八坊の本堂をはじめ、御供田数百畝におよぶ寺領を有し、隆盛を極めたと伝えられる真言宗の寺院。
応永十五年(1408)、風害により大破した伽藍を憲誉法印が再建し、中興開山の祖となりました。
 しかし、戦国時代に兵火に遭い、伽藍や寺宝のほとんどを焼失、一山八坊の唯一本堂だけが焼失を免れ、法灯をつないできたが、知多市内最古の建物とされた本堂も昭和63年の火災で失われてしまった。
後の平成6年に本堂が再建され、同16年には十王堂が建立されるなど、佐布里の南に位置し、宝山一山四坊の最奥にあって、風格を漂わせている。本尊は「雨乞い本尊」と称される地蔵菩薩を祀る。


史料により由緒は表記の揺れや変遷が見られます。
知多郡誌(1893)3巻では以下のように伝えられている。
『雨寶山如意寺正法院。
 佐布里村字地蔵脇に在り。
境内三百九十二坪、真言宗、中島郡長野村萬徳寺末たり。
 創建年月詳ならず。
往古後鳥羽天皇(1180-1239)の勅願所にして、初め天台宗なりしを、應永年中(1394-1428)憲誉法印再興の後今の宗となす。
 累年の兵火に由り諸堂宇多く焼失して唯だ地蔵堂(此堂もと当院の本堂たり、本尊地藏は運慶の作なり、今当寺境外に在り故に官将に〇せしめんとす、僧徒等之を遺憾とし、官に請して一寺となし別に雨宝山如意寺と称し当院の末寺とす。
時に明治十五年壬午一月三十日なり)一宇を存するのみなりしを、後漸く密院を焉すに至れり。
 もと一山八坊あり、法性坊、松本坊、法蔵坊、成就坊、泉蔵坊(此の坊明治6年癸酉三月まで在す)、實相坊(同上)、密嚴坊、浄蓮坊と曰く、今存するもの密嚴・浄蓮の二坊宇のみ。
古鰐口(地蔵堂)にあり、銘に曰く明應七年戊牛五月十日檀那平朝臣宗宣と其他寺宝数多あり。』
というもの。

本堂左の寺宝解説。

本尊は雨乞いに霊験あらたかな地蔵菩薩を本尊とする。
 堂内は左に興教大師、右に弘法大師、中央に運慶作とされる地蔵菩薩を安置する。

朱塗りの四脚門の山門は、昭和63年の火事で唯一焼失を免れたもの。

ありがたや ろくどうのうげじぞうそん しょぶつにまさる じしんきとし

愛知県 知多四国巡礼 第14回: 七十六番札所 雨宝山 如意寺
宗派 / 真言宗
本尊 / 地蔵菩薩
創建 / 不詳 (元暦元年(1184)ともされる)
開基 / 不明
開山 / 憲誉法印
札所 / 知多四国 七十六番札所
所在地 / 知多市佐布里地蔵脇13-1
参拝日 / 2026/03/28
朝倉駅から如意寺 / 駅から佐布里池方向の​南東へ4.5km、約一時間ほど​。
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大垣市墨俣町 『白髭神社・豊国神社』

白髭神社。
 神明神社から犀川左岸堤を下流の墨俣一夜城で知られる墨俣歴史資料館に向かいます。

墨俣歴史資料館全景。
 犀川と天王川に挟まれた中洲に建てられ、二つの川はひとつとなり東側の長良川に合流する立地で、古くは美濃街道と鎌倉街道が交わり、陸上・水運の交通の要衝となった場所。

信長の美濃攻めの拠点ともなり、秀吉により三日三晩で建てられたとされるのが墨俣一夜城。
 実際の一夜城は、この姿とは程遠く高櫓を備えた簡素な砦だったようです。
当時は犀川や五六川などが複雑に流れ込み、荒れた湿潤な土地で、荒方とも呼ばれていた。
 そんな場所に突如砦が現れればさぞかし脅威に感じた事だろう。
こうして眺める墨俣歴史資料館は、大垣城の天守を模して平成3年(1991)に建てられたものです。

今回の白髭神社は墨俣歴史資料館の建っている中洲の北側に鎮座します。

資料館の入口には秀吉像や周囲に秀吉にあやかって、太閤秀吉出世の泉や瓢箪の絵馬掛けなどがあります。

中洲は墨俣一夜城址公園として整備され、公園東側に写真の一夜城址の石標が立てられています。

歴史資料や古文書に基づき作成された一夜城の概略図。
信長の美濃斎藤氏攻略の足掛かりとして、墨俣に拠点を置きたかったが、斎藤氏の支配下での拠点造りは何度となく失敗に終わっていた。
その後を継いだ秀吉が拠点を築くことに成功し「墨俣一夜城」の伝承が残されますが、この古文書からみても、城とは程遠い実に簡素なもので、一夜にして現れたものでもなく、戦をしながら築城を進めていたのが伺えます。

城の北側に天王川を引き込み堀が作られ、馬柵が設けられたようです。
 この場所に、築城犠牲者の墓が纏められています。

その先が白髭神社境内となります。
 入口には明神鳥居と右に「村社 白髭神社」の社号標が建てられています。 

手水舎全景。
 左の社標は境内社豊国神社のもの。

白髭神社拝殿と豊国神社本殿(右)。
 入母屋瓦葺の平入拝殿で大棟に鯱が飾られています。

拝殿前の狛犬。

 白髭神社の由緒は史料によって表記の揺れや変遷が見られます。
岐阜県神社庁の白髭神社解説は以下のようなもの。
 □『創立年紀不詳。延喜式内社安八郡荒方神社の説あり。
天保の頃迄社人今村氏奉祀。
 然るに此の家故あって今絶す。
明治十二年六月村社に加列す。
 犀川開鑿の為移転を命ぜられ、昭和十三年七月五日移転を了す。
文化二年濃陽村々明細記墨俣村の條に左の記録あり。一、白髭大明神 社二尺五寸二尺五寸 境内御除地。』
 西町 八幡神社と並び荒方神社の論社とされる。

墨俣町史(1956)では以下のように記されていた。
 □『もと白髭大明神と言い、社家今村氏が代々つとめたと云う。
寛文七年天和二年の文書に大明神とあって、明治七年七月白髭社として届け、更に明治九年荒方神社と届出たが、信徒がない神社式内神社の社名を公称すべきではないとして許されず、明治十三年に白髭神社として神社明細帳に記した。
 しかるに明治十四年明細帳に荒方神社と書く、後白髭社と改む。
しかし、この城の越の地一夜城の旧地で、その先き室町時代には寺院があった所である。
 この廃寺(寺号不詳なるも或は白髭大明神の別当寺か又は白髭大明神は廃寺の鎮守か)跡に五輪石塔多く在り、土地の人 戦乱の時の戦死者の墓であると言う。
連続五輪に「 善徳 」と刻するのがあり、又連続五輪地の部残存には「〇隠梵清上座 明応二年十二月十一日 」とあって、梵清はこの廃寺の住職であることを知る。
 明治十二年村社に加列し、明治十三年氏子二十八戸と報告した。
社殿造営等の史料存せず、境内付近一円は墨俣の公園とし。この地一夜城の史跡である。』

室町時代より荒方の地に鎮座する白髭神社、荒方神社と称したかった思いは認められなかったようです。
 境内で見かけた築城犠牲者の墓もここに記されていました。
犀川北側の堤外に鎮座していた白髭神社は、昭和13年(1938)に犀川改修工事のため現在地に遷されたようです。

拝殿前の現地解説。

□『白髭神社
 祭神 猿田彦命。
もとは白髭大明神と言い、代々今村氏が社家を務めていたという。
 寛文七年(1667)と天和二年(1682)の文書に、大明神とあって、明治七年(1874)に白髭社として届け、 明治十二年(1879)に村社となった。
続いて明治一三年(1880) には白髭神社と して神社明細帳に記された。
 白髭神社は舟運の無事を祈って建てられた神社であって、長良川沿いには多い。』

本殿は神明造で本殿右側に社名不明の境内社が祀られていました。

豊国神社。
 現在の歴史資料館建設に伴い、大阪城公園の豊国神社から平成四年(1992)に分祀されたもの。

本殿前を守護する狛犬。

豊国神社現地解説。
 □『豊国神社は、豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る神社である。
秀吉の生涯に縁のある各地に鎮座する。
 各地の事情により、合祀されている諸神や摂社の諸神に特徴がある。
豊国神社は、出世開運の神様として知られる大阪の豊国神社より分社し、豊臣秀吉公を祀っている。
 大阪の豊国神社は、豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、 豊臣秀長公を奉している。』

流造の本殿は豊臣秀吉を祀る。

藤吉郎の馬柵。
 社殿後方は天王川が流れ下り、ここで分流され城を巻くようにして犀川と合流します。
右手の堤の先は長良川で、15kmほど上流の稲葉山の頂には、斎藤氏の居城 稲葉山城(岐阜城)も視界に入ってくる。

大垣市墨俣町 『白髭神社・豊国神社』
創建 / 不明
祭神 / 猿田彦大神
境内社 / 豊国神社
祭例 / 不明
所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1735-1
神明神社から白髭神社所要時間 / 犀川堤を墨俣城まで、​​約350m・徒歩5分​​。
参拝日 / 2026/03/12
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墨俣一夜城に春の苦味を求めて
・大垣市墨俣町 『八幡神社』
・岐阜県瑞穂市 『神明神社』

岐阜県瑞穂市 『神明神社』

前回掲載した墨俣の八幡神社。
 鎮座地は大垣市の墨俣輪中の北側にあたり、堤の先の犀川堤外地から眺める対岸は瑞穂市になります。

犀川堤外地から対岸を眺めると、堤の先に見える神社が今回掲載する神明神社になります。
 鎮座地の瑞穂市は2003年に穂積町と巣南町が合併して誕生した新しい市。
地名のアップデートが進まない自分には本巣郡の方が馴染み深い。

上は明治時代と現在の比較で、安八郡式内社 荒方神社の論社とされる八幡神社と白鬚神社の二社と神社の位置を示しています。
 左側の明治時代の地図では五六川と犀川の二つの河川が曲がりくねりながら長良川へ注いでいました。
地図では現在の新犀川橋付近に鳥居が記されていますが、赤丸部分の鎮座地には鳥居の印は見られません。
 当時の川筋は現在では直線的なものとなり、堤防道路も整備されており、地図から神明神社の創建時期を推測できません。

犀川左岸堤防道路から眺める神明神社境内の全景。
 綺麗に舗装された堤防道路沿いに、白く輝く玉垣や鳥居と綺麗な社殿が連なる。
地図から消えた鳥居に拘るのは、この神明神社ではないかと勝手に推測します。

主な建物は手前の拝殿と後方の神明造りの本殿で、道路側に境内社の鳥居があります。

本殿後方の堤防道路から社頭の眺め。

白い鳥居から拝殿に続く参道脇の常夜灯も白く輝いています、手水舎は参道右側にあります。
 鳥居は昭和2年建立のもので、常夜灯は平成になって建立されたものでした。
この地にあって近代に創建されたとはとても思えない。
 消えた鳥居や新しい寄進物の疑問は拝殿前の由緒碑で払拭されます。

拝殿左の由緒碑になります。
 石目が邪魔をしてよく読み取れず、読み取れた一部を以下に抜粋。
■由緒碑文。
 「祭神天照大御神で伊勢神宮の御分霊を祀る、相殿に八幡大神と春日大神を祀る。
・・・・土地の名により荒方神社とも称し、延喜式神名帳に記載された名社である。
 この神社は祖父江中島の氏神で、治水・舟運・諸産業の守護神で遠近各地からも崇敬されている。
社宝 元和五年(1619)九月二十八日創祀・・・・その他古札多数。
 犀川大改修により新地に移転を余儀なくされた。・・・・平成二年吉日」
確実に読めたのはここまでです。

■岐阜県神社の記述を現代語訳にしたものは以下となります。
 「当村の字「堤外」の土地は斎川の北側に位置し、南側には墨俣城の城の腰の地があり、川を挟んで白髭神社の鎮座地と向かい合っている。
そのため、この堤外の地も昔は「荒方(あらがた)」と呼ばれており、当時このあたりに住んでいた祖父江村の民家は、古くは白鬚神社の氏子であったという。
 祖父江村の棟札も、昔は白髭神社の境内にあったと、村の古老の語り伝えに残っている。
昔、斎川は墨俣村の西南へ流れており、この荒方の地には達していなかった。
 ところが元和元年ごろ、斎川の流れが東の長良川方面へ付け替えられる工事が行われ、その結果、荒方の地は斎川によって南北に分断されることになった。
南側は安八郡墨俣村の城腰、北側は本巣郡祖父江村の堤外となり、祖父江村の堤外に住む民家は、川を隔てて白髭神社を氏神とする形になった。
 そこで元和五年九月、祖父江村堤外に新たに神明宮を勧請し、氏神として崇敬するようになった。
これが現在の神明神社である。
宝暦年間以降、社殿の造営や葺き替えがたびたび行われた。」というもの。

これらから犀川の付け替えで分断された堤外の中島に、元和五年(1619)に天照大御神、八幡大神、春日大神を祀ったことが神明神社のはじまりのようです。
 水との鬩ぎあいから生まれた輪中や複雑に流れ下る川の付け替えの歴史は、堤外に祀られていた周辺の神社の遷座の歴史でもあるようです。

切妻瓦葺の拝殿正面全景。 

拝殿右側から眺める神明造の本殿。
 棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施され、傷みもなく綺麗なものです。

本殿前には白い狛犬が祀られています。

本殿左の境内社は秋葉神社。
 鳥居の建立年度は見忘れました。

境内から社頭の眺め、この先の堤の下は一本に纏められた犀川が墨俣城の前を流れ下り長良川に注がれます。

岐阜県瑞穂市 『神明神社』
創建 / 元和五年(1619)
祭神 / 天照大神、八幡大神、春日大神
境内社 / 秋葉神社
祭例 / 不明
所在地 / 岐阜県瑞穂市祖父江1098-2
西町 八幡神社から神明神社所要時間 / 犀川堤から新犀川橋を超え、対岸の堤を上流へ、​距離約1km、約10分​​。
参拝日 / 2026/03/12
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墨俣一夜城に春の苦味を求めて
・大垣市墨俣町 『八幡神社』

大垣市墨俣町 『八幡神社』

墨俣一夜城で知られる岐阜県大垣市墨俣町。
 町内の北側を犀川が流れ、東に長良川、木曽川、西に揖斐川の木曽三川が流れ、分流される以前は網の目のように洲が自然形成された地域で、古くから水害に悩まされ、江戸時代から集落全体を堤で囲う輪中が作られてきた。

西町 八幡神社の鎮座地は墨俣町の北端で、犀川右岸の墨俣歴史資料館を望む、さい川さくら公園駐車場から南側の堤を降りた美濃路墨俣宿入口に鳥居を構えます
 美濃国安八郡式内社 荒方神社の論社の一つとされる小栗判官ゆかりの神社です。

社頭の前を美濃路が横切り、鳥居からの眺めは、右手に八幡神社社標が立っており、鳥居の先は常夜灯、太鼓橋、唐破風が印象的な拝殿の姿があります。

鳥居の額は「正八幡宮」。

境内にある「小栗判官伝説ゆかりの宮」解説。
『小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物で、これを主人公として中世以降に伝承されてきた物語。
 物語は常陸(ひたち)の国(現茨城県)の小栗判官小次郎助重は、相模(さがみ)の横山郡代の娘照手(てるて)に恋をし、結ぶも横山一族に殺される。
地獄に落ちた小栗は、閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥(がきあみ)の姿となるも、藤沢の上人の力により助けられ、土車に乗せ美濃青墓へ。
 その時、青墓の宿(萬屋)に売られていた照手がそれを見かね大津の関寺まで引き、その後も多くの人々の手で、熊野本宮へ向かい、湯の峰の薬湯につかると元の姿になって、京都で両親と対面し、美濃国青墓の照手ともめでたく再会。
 その後、都に上り、天皇より死からの帰還は稀であるとたたえられ、常陸、駿河、美濃の国を賜ることになる。
大垣市をはじめ、各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており、説経節、浄瑠璃、歌舞伎にも取りあげられている。
 小栗の死後、現人神としてこの八幡神社に祀られ、照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
なお、神社本殿の南北の壁面には、馬と龍が一体化して彫られた不思議な彫刻が据えられている。
 馬は男性を龍は女性を象徴したものと伝えられている。』 


掲示の内容は、各地に伝わる小栗判官と照手姫の物語の広がりを伝えるものであり、「ゆかり」という言葉の捉え方についても様々に考えさせられます。
 物語の舞台として伝わる美濃青墓の地とはやや距離があるものの、美濃路沿いに西へ三十分ほど歩いた先には照手姫を祀る結神社も鎮座しており、地域の中で両者の名が結び付けられてきた様子もうかがえます。

太鼓橋から拝殿の眺め。
 開け放たれた扉の先に本殿の姿が見えます。
太鼓橋から右手に回り込み拝殿に向かいます。

右手には写真の手水舎と複数の境内社が祀られています。

見上げるような犀川堤の下に鎮座することもあり、水には恵まれているようです。

手水舎の後方の小さな泉の畔には七福神像、左の石標は道標だろうか、「こゝよしと石」?「こゝより右」?違うなぁ、わかりません。 

美濃路が続く堤を背にして建つ秋葉神社。

津島社。

産神、五輪塔のようにも見え、梵字らしき文字が刻まれているが読めないところが悲しい。

堤側から眺める拝殿、入母屋瓦葺の平入唐破風付きの木造で、手前に一対の狛犬が安置されています。

年季を感じさせる風貌が漂う狛犬。

拝殿唐破風周りの意匠と正八幡宮の額。

西町 八幡神社の由緒は以下。
 創建の年代は不詳である。
往古の鎮座地は、犀川右岸上流の本巣郡と安八郡の境の河川敷に鎮座していたとされます。
 「延喜式神名帳」に記載された安八郡四座の一つである荒方神社であり、また『美濃国神名帳』に記載された安八郡十九座のうちの一つ、従一位荒方明神にあてられる著名な古社であるとされる。
社号は荒方八幡宮とも称した。
 当社に伝わる古い額面には「八幡宮」とあり、その肩書に「荒方神社」と記され、鎌倉時代の古物であると鑑定されている。
天保三年四月および同五年の棟札には「荒方八幡神社」と記され、さらに神祇伯が当社神主・大江豊前時房に宛てた継目相続許可書(安政二年二月二十一日)や、神葬祭式次第授与書、安政四年二月の宗門改免除書、嘉永二年の西町出火記など、いずれの史料にも「荒方神社八幡宮神主」と記され、式内社の荒方神社とは当社のことであるとされる。
当社には安政二年、天明七年、天保十年、嘉永四年の旧記が現存する。
 天明七年五月二十五日には、松平土佐守家老・泰○髴○が初穂料を奉献し、代参して祈願を行った。
嘉永四年には高須藩主が毎月二度、五穀豊穣の祈願を行っている。
 天明五年八月十五日および同七年八月十五日には、岐阜町奉行・黒田六一郎、同役人の勝田定兵衛、伊藤丈右衛門らが祭礼に際して当社を参拝し、山車芸の検分を行った。
明治二十四年十一月十日には、小松宮彰仁親王殿下が参拝され、本殿階下に自ら松をお植えになり、その松は今も青々と繁っている。
また、『墨俣町史(1956)』にも以下のように記されています。
 『もと式内社荒方神社であったが、八幡神社と改称した。
八幡神社神額(鏡倉末期より室町時代初期頃迄のもの)あり、その額右上部に荒方明神とあって、中央部に正八幡宮とあり、これ荒方明神を八幡宮と改称の史実を物語るものである。
 社殿の造営並修繕の記録として、元和七年八月、享保十一年十一月、宝暦十二年八月、文化元年七月、寛保二年十二月、弘化三年三月の棟札が現存する』とも記されていた。

延喜式神名帳(927)の荒方明神の論社として、墨俣歴史資料館敷地内の白髭神社もそのひとつだが、いずれにせよ歴史はかなり古そうだ。

拝殿から望む本殿域。
 拝殿内には年度不明の奉納額が掛けられていましたが、手振れが酷く掲載を見送ります。

本殿域の全景。
 高く積まれた基壇の上に築かれた本殿域に、一対の狛犬と唐破風のついた流造の本殿が建てられています。
祭神は応神天皇を祀ります。

本殿左にも3社の境内社が祀られています。

手前左は南宮神社。

奥の二社は左が御鍬神社で朱の鳥居は古渡稲荷。

境内の太鼓橋から美濃路が横切る社頭の眺め。

大垣市墨俣町 『八幡神社』
創建 / 不詳
祭神 / 応神天皇
境内社 / 津島社、秋葉神社、その他
祭例 / 10月10日
所在地 / 岐阜県​​大垣市墨俣町墨俣1
名古屋から所要時間 / 県道128号、県道23号線経由、​約40km・80分​。
参拝日 / 2026/03/12
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愛知県 知多四国巡礼 第13回: 二十九番札所 大悲山 正法寺

第十三回 歩いて巡拝 知多四国も次の二十九番札所 正法寺が最後の目的地となります。
大井集落から県道281号線を西に向かい、大井西交差点で右折し、県道7号線沿いに北上し馬道交差点を目指します。
大井集落から馬道交差点までの約2kmは地味な登りが続きます。

馬道交差点から右に進み、すぐ先を左に折れて直進を続けます。
 周囲は見渡す限り畑の広がる、開放感のある一帯を歩きます。
2つ目の交差点を左に折れて、10分ほど下れば正法寺の山門に至ります。

知多四国 二十九番札所 大悲山 正法寺門前の眺め。
 門前左に「知多四国廿九番札所」、右に「開運毘沙門天王 正法寺」の寺標が立っています。
門前から眺める正法寺の第一印象は左に見える多宝塔だろう。

薬医門をくぐって、境内から伽藍の眺め。
 象徴的な多宝塔は正法寺本堂、それと共に境内中央に安置される高さ6mを越える厄除観音が巡礼者を出迎えてくれる。
伽藍は左からコンクリート造の本堂、入母屋妻入りの弘法堂、入母屋平入りの客殿と右手の庫裏が主なものでいずれの建物も新しいものです。

正法寺由緒。
 正法寺は、平安時代の源義朝の家臣の鎌田兵衛正清の居城跡に建てられた天台宗の寺院です。
正清(正家)は野間で舅の長田忠致の謀略により義朝と共に殺されました。

天副元年(1233)、正清の供養のため、比叡山の徹円阿闍梨が護摩堂を建て、正清の念持仏の毘沙門天を奉安したのが西法寺のはじまりです。
 昭和五十年には御本尊の毘沙門天を祀る本堂が多宝塔造りで再建されたが、平成九年十二月二十四日、不審火により鉄筋の本堂を残し、弘法堂、客殿、庫裏を全焼、火災は翌朝になりようやく消し止められ、灰燼の中から黒焦げの大師像だけが発見された。
その後、平成十三年に弘法堂が再建され、翌年三月に開眼。客殿も『三味堂』として再建された。
 お祀りされていた仏像など、火災前の姿を取り戻す努力が今も続けられています。
西法寺では千枚通しと呼ばれる護符が頂けます。
 「南無阿弥陀仏 法忍」と書かれた薄い和紙でできた護符を呑むもので、病気の平癒や安産にも霊験があります。

本堂の多宝塔前に立てられている文化財大般若経の解説。
 永徳二年(1382)から応永十一年(1404)にかけ、六人の僧侶により写経された大般若経200巻を所蔵する。

本尊の秘仏毘沙門天は、毘沙門天と吉祥天の夫婦霊像で行基菩薩の作とされ、寅年にお開帳されます。

弘法堂。

堂内の眺め。

中央に安置されるのは弘法大師。

堂内右にお祀りされている弘法像。
 火災による熱で金属の仏具は溶け落ち、黒焦げの像は顔と手を補修し今の姿を留めている。

堂内左の不空羂索観音、正法寺は南知多観音霊場9番札所でもあります。

客殿の眩いばかりに輝く阿弥陀如来像。

まよはずに ただしきのりのみちゆかば やまだにのこすびしゃもんのとく

今回の梵字カード配布は正法寺、頂いたカードはいつものように二枚一纏めにして家で開封。
 ゴールドカードが出るかどうかは帰ってからのお楽しみです。
正法寺の巡拝を終え、コースは1.2km先の鯛祭り広場に集まり、スタートの名鉄知多新線「内海駅」まで臨時有料バスに乗り一気に移動しゴールとなります。

写真は内海駅からの眺め、あんな近くに神社があったとは知らなかった。

愛知県 知多四国巡礼 第13回: 二十九番札所 大悲山 正法寺
宗派 / 天台宗
本尊 / 毘沙門天
創建 / 天副元年(1233)
開基 / 徹円阿闍梨
開山 / 徹円阿闍梨
札所 / 知多四国 二十九番札所・南知多観音霊場9番札所
所在地 / 知多郡南知多町豊丘本郷7
参拝日 / 2026/02/28
性慶院から正法寺 / 性慶院から西に向かい県道7号線大井西交差点を右折直進、馬道交差点で右折しその先を左折。​距離2.7km・約40分​​​​。
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過去記事
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帰ってからのお楽しみ、一纏めにした二人の梵字カードを開封すると一枚がゴールドカード。
 どちらが引き当てたか分からないので、当てた・外れただの言い争いになることもない。

新しくなった瑞穂スタジアム フィールド見学会

2026年春、名古屋に新しいスポーツの舞台が誕生した。
4月21日、新たに完成したパロマ瑞穂スタジアムのフィールド見学会に参加した。

新スタジアムの本格稼働に合わせて設けられた一般向けの見学会で、会場入口には「順路」を示す案内板が立てられ、スタジアム内部へと誘導されていく。

写真は121・122ブロックから客席とフィールド眺め。
通路から一気に視界が開け、緑のフィールドが広がる瞬間は、何かを予感させるスタジアム特有の高揚感を生む。
 
バンテリンドームをホームにする我らがドラゴンズ、今年も独走体制にあり、心なしかプレーにも精彩がない。
新しい瑞穂スタジアムで躍動するグランパスに乗り換えるか。誘惑に駆られる。
 
新しい瑞穂スタジアムは外観や内部の一部に、コンクリートの硬さを和らげるためか、木材を使った意匠が施されている。
パッと見はIGアリーナと同じ設計者の手が入っているのかと疑いたくなるが、どうやら違うらしい。
個人的に堅牢なコンクリートの外装に、装飾として耐用年数の短い木材を防腐処理もせず貼り付ける手法は、維持管理に税金が使われる公共施設として合理性に欠ける。
木を使うこと自体否定するつもりはないが、そこまで木を使いたいのであれば、木造建築として成立させるべきだと思う。
木造建築には、腐食しにくい構造や、腐った部材を交換しやすくする仕組みなど、長い歴史の中で培われた知恵が組み込まれている。
しかし彼のデザインからは、そうした知恵や構造的配慮が感じられず、そこに否定的な印象を抱いてしまう。自然素材を使えばエコという発想にも同意しがたい。
 
新しいスタジアムも外部に鳥の巣のように木が組まれているが、その上には大屋根があるので、まだ考えられているのかなと思う。
ただ、通路の天井に吊られた格子状の木のモチーフとチープな吊り照明は確かにアクセントだが、いざ大きな揺れが来たら不安を覚える造りだ。
一方で通路のイスやテーブル、ロッカー室などの木の使い方は落ち着きがあっていい雰囲気を出していた。

見学会ではフィールドレベルまで降りることができ、スタンドの傾斜や屋根の張り出しを下から見上げると、観客席が競技に近く感じられる構造になっているのがよく分かる。
大型ビジョンも稼働しており、スタジアム全体がすでに実戦仕様の雰囲気をまとっていた。
今年はアジア大会も開催され、新しい瑞穂スタジアムはIGアリーナとともに存在感を示している。
その舞台を体験できたことは、記憶に残るものになった。

パロマ瑞穂スタジアム
所在地 / ​名古屋市瑞穂区山下通5-1

愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十四番札所 宝珠山 性慶院

三十三番札所北室院の仁王門から、築地塀沿いに25mほど西に向かった先の路地を入ると大井五ヵ寺最後となる三十四番札所 宝珠山 性慶院の山門が見えてきます。

東向きに薬医門を構え、参道正面に本堂が鎮座します。

門前から境内の眺め、主な建物は、正面の本堂と左に朱の鳥居を連ねた福寿稲荷大明神です。

境内の手水鉢に「安政五年(1858)」の年号があり、ペリーの再来航や安政の大獄が起きた激動の年に寄進されたものです。

右手の方形屋根の建物が本堂、左側の入母屋造の建物が福寿稲荷大明神です。

 知多郡誌、南知多町誌などから抜粋した性慶院由緒は以下。
『行基菩薩(668~749)によって、医王寺十二坊のひとつ「円蔵坊」として開創され、弘仁五年(814)に弘法大師(774~ 835)により一山が再興されました。
 建暦二年(1212)に医王寺とともに現在地に移転。
いつの頃からか性慶院と名を改めて今に至っている。
 医王寺ともに、関ヶ原の戦いで功を挙げた高木氏が後にこの地の地頭になり、当院も外護を受けてきました。
当院境内には、高木氏嫡男十一代の墓石が安置されている。』

上は江戸時代の知多郡大井村絵図、上ノ山の東側にオレンジ色の除地区画が見えます。
 ここが医王寺を中核とした大井五ヵ寺に当たり、右下が聖崎になります。
五ヵ寺の区域を東西に横切る道は見当たりません、昭和三十年代に入り、医王寺ほか四院の敷地を県道281号線(大井豊浜線)が通ることになり、性慶院と三十三番札所宝室院は、医王寺および三十一番札所利生院、三十二番札所宝乗院と道を隔てる形になりました。
 県道沿いの各寺院に巡らされた長い塀は色が統一され、一山の形式を今に伝えています。

写真は本堂内部を捉えたもの。
 中央に本尊と左右に像が安置されています。

中央は本尊の青面金剛。

左に地蔵菩薩。

右が弘法大師で、左手に握る結縁紐を介して大師に触れることができます。

本堂左手の福寿稲荷大明神。
 堂前に三対の狛狐が安置されていますが、この狐の一部を持ち帰ると賭け事にご利益があるという迷信が伝わっており、そのため像は見るに忍びない姿をしている。
今の時代それは流石に許されない行為だろう。

堂内の眺め、豊漁を祈願して多くの白狐が寄進されています。

効率よく大井五ヵ寺の参拝を終え、この日最後の29番札所正法寺に向かうため県道281号線を西に進みます。
 正法寺までは約3km、長い登りの続く40分の道のりになります。
 

きてみれば せうけいいんにははなざかり ばたいのたねをむすぶうれしさ
(来てみれば 性慶院に花盛り 菩提の種を結ぶうれしさ)

愛知県 知多四国巡礼 第13回:三十四番札所 宝珠山 性慶院
宗派 / 真言宗豊山派
本尊 / 青面金剛
創建 / 神亀二年(725)
開基 / 行基菩薩
開山 / 弘法大師
札所 / 知多四国 三十四番札所
所在地 / 知多郡南知多町大井丘ノ下1
参拝日 / 2026/02/28
北室院から性慶院 / 北室院から県道281号線を右に、​25m先の路地を右に​​。
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