訪れたのは昨年の12/28。
毎年親戚が恒例の墓参りのついでに野菜を届けてくれていたが「野菜を自分で取りに来てくれ」の一言からだった。
やはり収穫応援はその付箋だったようだ。
二回目ながら今も方向感覚は怪しく、早い話が道に迷い出会ったのが駒場の神明社だった。
やはり収穫応援はその付箋だったようだ。
二回目ながら今も方向感覚は怪しく、早い話が道に迷い出会ったのが駒場の神明社だった。
鎮座地のすぐ南を流れる逢妻男川の右岸に位置し、北に流れる逢妻女川と挟まれており、北から東にかけ見通しの効く長閑な田畑が広がる。
駒場集落の北外れにあり、町内は対面通行の狭い生活道が続き、馴染みのない者が運転するに気が抜けない。
社頭は南西向きにあり、北に長い社地を持つ。
社頭から一見すると間口はさほど広くはないが、奥で大きく広がりゆとりすら感じられる。
鳥居から眺める境内。
正面に拝殿、左側に複数の境内社祀られています。
鳥居右側の由緒。
「神明社
豊田市駒場町西埜中55番地鎮座。
祭神 天照大神
由緒 当社は延喜式外の旧社であって、大宝2年(702)10月持統天皇三河国を御巡幸の際勅使を得て氏神として鎮祭せられたという。
当部落は往古海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称した。
「神明社
豊田市駒場町西埜中55番地鎮座。
祭神 天照大神
由緒 当社は延喜式外の旧社であって、大宝2年(702)10月持統天皇三河国を御巡幸の際勅使を得て氏神として鎮祭せられたという。
当部落は往古海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称した。
いらい氏子の崇敬愈々篤く、常に祭祀を重んじ、社殿の修復に心掛ける等奉仕の真心を捧げた。
明治5年村社に列し、同40年10月26日神饌幣帛供進神社に指定された。
本神社例祭は古くは旧暦8月16日であったが農業事情の変化に依り改変あり現在10月に奉仕せらる。」
とある。
本神社例祭は古くは旧暦8月16日であったが農業事情の変化に依り改変あり現在10月に奉仕せらる。」
とある。
末社の稲荷社。
「稲荷社(1766)
棟札に明治3年再建の棟札がある。
祭神 倉稲魂命
由緒
不詳なるも元西埜中の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
入母屋瓦葺で千鳥破風の付くシックな拝殿です。
この日は丁度新年を迎える門松の準備で真っ最中だった。
本殿全景。
天照大神らしい陽射しで明るく照らされた本殿域。
参道を奥に進んだ本殿後方に四つの鳥居が並ぶ。
これらの境内社も周辺から遷座されたもの。
正面末社から手前に参拝して行きます。
末社 山神社 街道組(1756)
棟札に宝暦6年の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元下馬の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
唯一コンクリート造りで淡いクリーム色社殿で棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付く。
棟札に宝暦7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元南土用林の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
棟札に享和2年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元雲目の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
棟札に文政7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元鐘塚の林中に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
社名の下の西暦表記が創建なのか再建をさすものかよく分からなかったが、稲荷社以外の末社は再建時期を西暦表示したものと思われます。
棟札に宝暦6年の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元下馬の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
唯一コンクリート造りで淡いクリーム色社殿で棟には4本の鰹木、内削ぎの千木が付く。
棟札に宝暦7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元南土用林の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
棟札に享和2年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元雲目の地に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
棟札に文政7年再建の棟札がある。
祭神 大山祇神
由緒 元鐘塚の林中に鎮座、明治6年神明社境内に遷座」
社名の下の西暦表記が創建なのか再建をさすものかよく分からなかったが、稲荷社以外の末社は再建時期を西暦表示したものと思われます。
周辺の地区で祀られていた社の氏子たちはここ神明社に集う。
いずれも創建は分からないにしても、再建時期の棟札が残り、元の鎮座地まで遡れる記録がある。
我家のあたりも嘗ては田んぼが広がり小さな集落が点在し、それぞれ小さな社があったのですが、遷座ではなく廃社の道を辿って行き、田舎臭い町名も耳当たりの良いものに変っていきました。